勝ち負けにこだわらず、読書しよう

劉玉秀さんは毎日《靜思法髓妙蓮華》を読み、オンライン勉強会にも参加している。(撮影・顔霖沼)

かつて夫と言い争っていたが、やがて夫が酔いから覚めるのを待って、優しく説得するようになった。息子は我慢できず、一緒に家を出ようと言ってくれたが、彼女は「大丈夫よ、我慢するから」と言った。今、夫は家を守り、彼女も初心を守って、人生という自分のお経を、最後まで読み続けようとしている。

劉玉秀(リュウ・ユーシユウ)さんは、「家を持つ」という息子の夢を叶えるために、礁渓温泉エリアにある売却相場の良い家を手放して、息子が三世代同居できる家を建てられるようにした。

その古い家は夫と苦労して建てたものだったが、知人は皆、彼女が一人で頑張ってここまで来たことを知っている。今、夫は酒もギャンブルも止め、朝から晩まで、玉秀さんと新築の家の野菜畑を見守っている。そして、「野菜がよく育っていますね!」と褒められるのが一番嬉しい。

玉秀さんが慈済の仕事に出かけると、彼は妻の帰宅を待って、仕切られた野菜畑の一つひとつについてくどくど話し始める。

彼女は自宅の広々としたリビングルームを提供して、ボランティアと共に《靜思法髓妙蓮華》の勉強会を開いている。七十歳を超えた彼女は、「孫は学校に行っていますが、私は家で勉強しています」と言った。もし慈済のボランティアしていなかったら、残りの人生はどうなっていただろうか。「そんなことは恐ろしくて考えられません」と彼女は言った。

息子と娘は、母親が苦労して家を守って来たことを知っているので、成長してからはとても親孝行になった。今の「家」には、温もりがいっぱいだ。

10数年前、劉玉秀さん(中央)はボランティアと共に施設で高齢者をケアした。(撮影・廖月鳳)

どんな人が幸せか

障害のある父親と病気の母親を持つ貧しい家に育った玉秀さんは、教育を受けるどころか、お腹を満たすことも適わず、五、六歳の時から二人の弟の世話をし始め、学校に行けなかった。そして、十歳過ぎから「力仕事」をしてお金を稼いだ。その後、父親の指示で結婚させられた。結婚すれば安定した生活ができるかと思いきや、いつまでも続く困難な日々が彼女の心を打ちのめした。

塗装の仕事をしていた夫は酒が好きで、博打をした。仕事が取れても玉秀さんに任せっきりで、彼女が一人で何とか乗り切ることがよくあった。彼女はひたすら塗りまくり、何軒の家を塗装したか分からない。そして、稼いだお金で家を買い、三人の子供を大学まで卒業させた。その全てを見ていた姑は、嫁が可哀想だとは思っていたが、どうしようもなかった。出来ることと言えば、孫の世話と食事の支度だった。

人生の大半をそのように過ごしていた頃、彼女が建設現場に着いて車から降りると、夫は直ぐ車を走らせて姿を消した。再び夫の姿が見えたのは翌日の早朝で、全身酒臭く、家に入るなり大声で叫び、女の愚痴を聞く耳も持たず、二人とも互いに譲り合うことなく、大喧嘩が始まった。挙句の果てに家族全員が起こされ、子どもたちは怯えながら布団の中で泣くか、そうでなければ母子が抱き合って泣いた。

どこからそんな肝っ玉が備わったのか、彼女は口喧嘩になったら、理屈を通して勝つまで譲らなかった。互いに大声で怒鳴り合うだけでなく、手に取れるものを投げ合ったりした。誰も怪我はしなかったが、家具や電気製品はよく買い直さなければならなかった。

玉秀さんはこう言った。「主人は酒癖が悪いだけで、酒を飲まない時は私を思いやってくれます。私が疲れていることを知ると、日本から輸入された薬用酒や栄養剤を買って労ってくれました。ただ、一日中どこに行ったのか姿が見当たらず、帰宅した時には酔いつぶれていると、私は耐えられなくなって、薬用酒や栄養剤を叩き割って見せました」。

近所に住んでいた劉雲娥(リュウ・ユンオー)さんは薬局を経営していたが、ある日、風邪薬を買いに行った時、誰かが雲娥さんにお金を渡しているのを見かけた。医者の奥さんと呼ばれていた雲娥さんはとても丁寧に、ノートに記入していた。玉秀さんは、「何をしていらっしゃるのですか」と聞いた。その三十数年前に好奇心から質問したことが、彼女の運命を変えるとは知る由もなかった。

雲娥さんは彼女に、「花蓮のある師父が自分も満足に食べられないのに、貧しい人たちのことばかり心配しているのです。このお金は、師父に貧しい人を助けるために使ってもらうのです」と言った。そういえば、工事現場で働いていた当時、あるラジオ番組の司会者が、「花蓮にはとても偉い師父がいます」と紹介していたのを思い出した。その師父に会いたいと思ったが、どこへ行けば会えるのか分からなかった。それで、雲娥さんが彼女を花蓮に誘った時、「もちろん、行きたいわ」と喜んで答えた。

一行が静思精舎に着いた時は正午を過ぎていたが、證厳法師が出てきて、「皆さん、お昼は済ませましたか」と優しく聞いたのだ。その言葉に玉秀さんはとても温かみを感じた。彼女が実家に帰った時、母親の言葉からも同じような感じがしていたのだ。

その日の午後、私たちと雑談していた時、法師が語ったある言葉が、彼女の胸に刻まれ、今も残っている。それは「健康な体を持ち、食べものがあり、住む場所もある私たちは、最も幸せな人です」というお諭しだった。

その言葉は、玉秀さんの人生観と価値観に大きな影響を与えた。「そうなんだ。私はこんなにも元気で、衣食住にも困らない。何を不満に思うことがあるだろう」と彼女は思った。

結婚25周年に撮影した家族写真。劉玉秀さん(前列左から一人目)は苦労の日々を乗り越え、温もりのある家庭を築き、護って来た。(写真提供・劉玉秀)

甘んじて行い、恨み事を言わない

ある時、皆一緒に山の上に住むケア世帯を訪ねた。その日は雨の日で、下山していた時、川の水が急増し、小型ショベルカーが急流にのまれそうな光景を目にし、状況が切羽詰まっていた。

その日は玉秀さんのご主人も同行していて、彼は急いでショベルカーを河岸から遠ざける手伝いをしようとした。しかし、思いもよらず、足がショベルカーのキャタピラーに轢かれて骨折し、破れた皮膚は泥だらけだった。突然のことにショックを受けた玉秀さんは、泥の中に跪いて泣きながら、神様に発願した、「神様、どうか主人の足が切断されずに済み、健康を害さないよう、お守りください。全ての仕事は私が甘んじて一人でやります。もう恨み言は言いません」。

大雨の中で起きた事故と仏法の導きを経て、夫のもたらす試練に対して、彼女はもう癇癪を起こすことはなくなった。夫が酒を飲んで帰宅した時は、取り合わないようにし、夫の酔いが覚めるのを待って、優しく説得した。「もう若くないのだから、飲まないほうがいいわよ。健康を害するから」。酒を飲んだ後の夫は依然として無茶を言ったが、彼女はただ微笑むだけで取り合わなかった。

法師の環境保全を奨励するという理念に応えて、一九九一年末、玉秀さんと雲娥さん、洪阿鳳(ホン・アフォン)さん、李秀玉(リー・シユウユー)さんの四人は相談した結果、街角で段ボール箱を回収することにした。そして、回収した段ボール箱を売って貯めたお金が百万元(約四百五十万円)になったら、皆でくじ引きをして、誰が先に栄誉董事になるか、を決めることにした。

玉秀さんと洪さんの二人は昼間働いているので、四人は夜の八時に集合することを約束した。そして、車の運転ができる雲娥さんが先導して、他の三人はスクーターでついて行き、大通りや路地に沿って「段ボール箱拾い」をした。次第に慈済の仕事が増えていくと、四人は栄誉董事になることを忘れてしまった。瞬く間に三十一年の歳月が過ぎたが、段ボール箱の回収によって栄誉董事になる夢を叶えた人は誰一人いなかった。

慈済に入った玉秀さんは、募金活動をする場合、読み書きができないことが最大の障壁だと気づいた。会費を集める時、詳細に書かなければならず、会員の名前を間違えでもしたら、大変なことになるからだ。そこで、姑の同意を得て、四十歳の時に、夜間学校に願書を出した。昼間は働いたが、夜は家事を姑にお願いし、学校に通い始めた。若くない歳で勉強するのは容易ではなく、手に持ったペンはペンキの刷毛よりも重く感じられた。

三年間の初級クラスに続いて中学校の夜間部に通った。その結果、日常生活に必要な基本的な読み書きはできるようになったが、会費を集めるにあたっては、やはり彼女の人並外れた記憶力が頼りだった。彼女には宜蘭県の田舎にも会員がいるが、三十数年間、その会員が毎月幾ら寄付したか、全部記憶しており、間違ったことはない。

強面が柔和になった

玉秀さんは、リサイクルボランティアになってから、夫もよく軽トラックを運転して、彼女と一緒に決った場所での資源の回収をするようになった。子どもたちが成長してからは、経済的に余裕ができ、苦労して塗装の仕事をしなくてもよくなった。そして、夫が自分の退職金で彼女を栄誉董事にすると言った時、玉秀さんはびっくりして言葉も出なかった。息子は、「寄付したらいいよ。さもないとまた賭博に使ってしまうからね」と言った。

小学校教師の息子が宜蘭に戻って学校に勤め出した時、父親が相変わらず酒に酔って暴れていたことに気づいた。腹を立てた彼は母親を連れて家を出ようと言ったが、玉秀さんは息子に、「それはだめ。お祖母さんはもう歳だから、私がこの家を出たら誰が彼女の世話をするの?大丈夫よ、我慢するから」と言った。その後、母親に頼れる息子がいたからなのか、妻の忍耐力が強かったからなのか分からないが、夫の行動は段々大人しくなった。

末の娘は二〇〇五年に慈済委員の認証を授かり、長女は塾で講師をしている時に、静思語授業をすることを提案した。また二人の孫は幼い頃から慈済児童クラスに入った。嫁も募金帳の整理を引き継ぎ、今では家族で話す時はいつも、慈済の話題になる。

この十年間、彼女は毎日、證厳法師が講釈する《法華経》を聞き、聞いた仏法はほとんど心に銘記していた。彼女は、知っている漢字は少なく、文章を読む時も一字ずつ考えながらでないと読めない、と謙虚に言うが、皆、彼女の感想や話を聞くのが好きだ。

かつて夫と家の物を投げ合った気性の荒い彼女はもういない。、今は話し方からして優しく穏やかになった。二〇二二年、ガンと診断された時、家族は、彼女がパニックになって怖がるのではないかと心配したが、電話の向こうの口調は相変わらず優しいものだった。「心配しないで。向こうからやって来るものは逃げられないから、割り切ってるのよ。平常心でいるわ」。

退院して数日後、グループのボランティア読書会の日、彼女は時間通りにオンラインで参加した。なぜゆっくり休まないのかと聞かれた彼女はこう言った。「無常は本当に怖いものです。たとえ無常が予測不可能だとしても、人生の方向はしっかり把握しなければなりません。無常に対応できるのは仏法だけです。体が病気に罹っても、心が病んではいけません。やはり仏法の勉強を急がなければなりませんね」。心を静め、無常に惑わされないよう、読書に励もう。

(慈済月刊六七七期より)

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