『戦火の下の光』|異国で初めての冬

気温1℃という低温の中で困難に陥っているウクライナ人家族のために、私たちは越冬用の物資を配付した。

愛があれば、どんなに寒くても温もりを感じ、また誰もが愛で助け合うことができれば、面識のない人であっても家族なのだ。私は八十日間ポーランドに滞在し、このことを身をもって体験した。

飛行機はイスタンブールを離陸し、夕方六時頃にポーランドの首都ワルシャワに到着した。空港を出るとすでに空は暗く、気温は摂氏一度しかなく、コートのジッパーを閉めても肌を刺すような寒さに襲われた。

あれから四カ月、季節は寒い年末を迎えていた。故郷を離れて異郷にいるウクライナの友人たちは無事だろうか?と心配しながら、二○二二年十一月二十三日、私は妻と再びポーランドを訪れた。今回はこの七カ月間で三度目の訪問になる。また同行した二人の仲間は、シリア人のIT技術者バジル・ハリルさんとハニ・アルディブさんである。

ロシアとウクライナの戦争は新たなピークに入ったが、気候は益々寒くなり、欧州連合は、新たな難民の波が押し寄せてくると推測した。今回の訪問は、ポーランドに滞在して困難な生活を送っているウクライナ人家族たちのために、越冬物資を補充するだけでなく、長期的支援プロジェックトを企画するためでもある。

戦火の下の光

作者:王慧萍、黃秀花
挿絵:凌阿板、高智能
出版社:慈済人文志業基金会
「慈済道侶檀施会」への入会や
出版資金援助を歓迎します。
振込口座:19905781
口座名:慈済伝播人文基金会
(「慈済道侶檀施会入会希望」と明記してください)
コールセンター: +886-28989000 内線 2145

美しいのは景色ではなく、心のあり方

夜になると気温はさらに下がり続け、早朝の三時に起きて窓の外を見ると、すでに雪が降っていた。まだ暗い空には星が瞬いているが、私たち五人は雪を踏んで出かけた。妻が身につけていた綿入ジャケットには慈済基金会のロゴが縫い付けてあったが、それは、一九九九年に初めて慈済のトルコ大地震災害支援に参加した時に着ていた制服だ。その後、私たちと共にボランティアの道を歩み、災害支援のために多くの国を訪れたが、あっという間に二十三年間が過ぎた。

早朝四時二十分のワルシャワ駅は、見慣れているようで、見知らぬ場所のようでもあった。半年あまり前には世界各国の慈善団体がここに集まり、旗を掲げ、ブースを設置して、逃れてきた難民に様々な支援を提供していた。宿泊施設や交通手段、テレホンカード、医療から各種生活必需品に至るまで網羅したありとあらゆる支援が行われ、街角の隅々まで温かい愛が押し寄せる人波に溢れていた。その当時、混雑して不安に満ちていた駅の大広間は、今は明るく広々としていて、あちこちに独創的なインスタレーションアートが飾られ、ゆったりとした旅行ができる雰囲気をかもし出していた。

ワルシャワからポズナン行きの始発列車は、夜明けに射してきた朝日を受けて定刻の五時九分に出発した。ワルシャワから三百十キロ離れたポズナンは、ポーランド中西部における歴史、経済、文化及びテクノロジーの要であり、学術の重鎮地でもある。私たちはポーランドに嫁いだ台湾人の張淑兒(ヅァン・スゥーアール)さんとその夫ルーカスさんを訪ねようとしていた。

ルーカスさんはモバイルゲーム会社の副社長で、張さんはIT業界でシニアデータアナリストとして活躍し、二人とも多忙な上級幹部だが、手のかかる幼い子供が三人いる。しかし、大勢のウクライナ人が逃れてきた三月初旬以来、彼らは慈済基金会の委託を受け入れ、ここでウクライナ人家族を支援している。そして、三月だけで、ポズナンで四回配付活動を行った。特に一回目の活動で配付された八百件の物資は、買い付けから運搬まで、全て夫婦二人だけで行ったそうだ。その後は姉と義兄も手伝うようになり、ロシア語が話せる義理の母まで配付時の通訳として参加してくれた。家族全員が親切で、喜んで人助けの手伝いをしてくれた。

ポーランド政府と国民は善意をもって、数百万ものウクライナ人高齢者や女性、子どもを受け入れ、多くの支援をしていた。しかし、思いも寄らず、戦争は長引き、エネルギーと経済面で大きな影響が出始めた。その結果、多くのヨーロッパ諸国と同じく、深刻なインフレが起きた。この数カ月間に、水道代や電気代、物価が数倍に上がり、家賃も論外ではない。そこで政府は、財政の負荷が大きい難民家族への補助金の支給を停止した。それだけに、難民のために金銭面と人的支援を続けている張さんご夫婦は、実にありがたい存在であり、我々も敬服した。

私と妻はこれまで二回ポーランドを訪れ、合計六十七日間、滞在したが、主な活動範囲はワルシャワだった。調査や配付などでよそへ行くことはあっても、どこかの組織の施設や避難所を訪ねるにとどまり、各地の景色を見る暇などあまりなかった。今回、張さんご夫婦が手配した快適な車に乗り、大きな窓ガラス越しにポーランド中部の美しい景色を堪能することができた。しかし、リラックスした心地良い旅とはほど遠かった。何故なら、故郷を離れて異郷にいるウクライナ人にとって、最も美しいのは眼前の風景ではなく、夜中に夢で見る故郷だからだ。戦火で故郷の色は褪せ、残骸のグレーと黒色しか見えない。目の前にあるのは、生きるための生計をどう維持して行くか、または就学や就職に関わる多くの困難が横たわっている。

これらのことは、感慨深く、悲しい気持ちにさせるが、我々への警鐘でもあるのだ。平和に暮らしているからこそ、のんびりと風景を楽しめるし、平和な時だからこそ、景色が色鮮やかに見えるのである。

ポズナンに到着した私たちを出迎えてくれた張さん夫婦は、満面の笑顔でプラットホームに立っていた。彼女は、本職が弁護士、建築家、企業の上級幹部だったウクライナ人女性三人を紹介してくれた。今は、ポズナン慈済基金会の事務職員として働いている。

三人は、現地の二百世帯あまりのウクライナ人のケアを続けている。家賃を払えない若い母親たちは転々と住居を変え、子供たちの就学に影響が出ていた。張さん夫婦は、四方八方尋ねて難民たちが安住できる幾つかの場所を見つけたため、私たちにその審査を委ねた。

ポーランドに避難してきたウクライナ人の高齢者は、言葉の壁と就業の困難の中で、外出できないことが心身の健康に影響を及ぼしていた。そこで、慈済はワルシャワで「ワレニキクラブ」を立ち上げ、毎週のように彼らを招いてワレニキを作ってもらった。(写真提供・ウクライナ慈済ボランティア)

トルコの慈済ボランティアである胡光忠さんと周如意さん夫婦は、昨年12月にワレニキクラブを訪れ、台湾風餃子を振る舞って、皆に楽しんでもらった。(写真、提供者・周如意)

事態は好転すると信じよう

ポズナンでの三日間の滞在を終え、私たちは慣れ親しんだワルシャワに戻った。七月末に大規模な配付活動が終了した後も、慈済の奉仕が中断することはなかった。ワルシャワに事務所を設立して、七人のウクライナ人女性をプロジェクトスタッフとして雇用した。彼女たちは途絶えることなく、同胞の世話を続けている。

この数カ月間、彼女たちは、支援を必要とするウクライナ人の家庭を見つけるために、丁寧に慈善訪問を行った。慈済基金会の審査が通ると、経済的な支援と心理的サポートを続けて受けられるのである。また、それだけでなく、慈済基金会とカミロ修道会が協力して進めているプロジェクトでも、彼女たちは自分たちの本職を活かして、子どもたちのために人格教育(道徳の授業)を行ったり、高齢者たちのための「ワレニキクラブ」を立ち上げたりして、同胞のために全力で投入した。さらに私たちを安心させたのは、 彼女たちがすでに自分たちだけで責任を持って、ワルシャワでの初めての冬季配付活動を企画し、十一月二十八日にそれを行ったことである。

㊟ワレニキは水餃子に似たウクライナの食べ物。

「ワレニキクラブ」は、私たちのウクライナ人スタッフが心を尽くした成果である。彼女たちは家庭訪問の際、ウクライナ人のお年寄りたちが言葉の壁や身体的・心理的な事情で、長期間にわたって狭い部屋に閉じこもっているのを見て、忍びない気持ちになった。そこで、考えた結果、彼らを慈済の事務所に連れて行き、そこでワレニキを作ってもらった。それは、ウクライナ人家族が集まる時によく食べる伝統的な美食で、お年寄りたちは殆ど皆、それを作ることができるのだ。できたワレニキは、連絡所のスタッフがネットを通じて販売した。売り上げは、二十%を支援を必要としている同胞のために充てた他は、お年寄りたちに還元された。それは、慈済基金会の理念の一つである、「腹八分目、残りの二分で人助け」の教えから来ている。お年寄りたちの歌声や笑顔から、困っている人のために奉仕することで、異国の地で人生の目標と価値を取り戻したことが分かり、とても嬉しく思った。

「今、どんな困難に直面しても、いつか事態は好転すると信じるのです。自分の目標を貫き通し、決して希望を捨ててはなりません。トルコにいる私たちは毎日、このような言葉で自分を励まし続けて来ました」。シリア籍のITエンジニアであるバースィルさんとハニさんは、自分たちの亡命の経験でもって、異国に放浪しているウクライナ人に、最後まで頑張り続ければ事態は必ず好転すると励ました。

バースィルさんとハニさんが再びポーランドにやって来て、皆さんを励ましていることに、心から感謝している。特にバースィルさんは、飛行機を降りた時になって連絡して来た。実は、彼は大の飛行機嫌いだったのだ。トルコからポーランドまでの二時間半、彼は落ち着かず、苦しい時間だったそうだ。前回の体験にもかかわらず、今回また来てくれたのだ。

ポーランドに避難しているウクライナ人ボランティアは、自分たちの本職を活かして同胞のために奉仕している。英語教師であるハンナさん(左から1人目)は、一羽のオウムを伴って、アシスタントとして、動物に優しく接する方法を子どもたちに教えていた。(写真提供‥ウクライナ慈済ボランティア)

帰郷できる日まで一緒に待つ

ロシア・ウクライナ戦争が起きてから十日目のことを思い返した。ポズナン在住の張さん夫婦は、慈済基金会初めての配付活動を行ったが、間髪を入れず、十二の国と地域から慈済ボランティアがポーランドを訪れ、支援活動に参加した。配付の主なものは、最初は購買カードだったが、ヨーロッパ全域で通用するデビットカードになり、エコ毛布、五穀パウダー、クッキーなども含まれていた。支援を受けた人数は延べ八万人を超え、二百日あまりにわたって、物資の提供だけでなく、寄り添いケアも続いた。

異国の地で放浪しているウクライナ人が冬を乗り越えられるように、私たちはワルシャワで八回、冬季配付をした。六百三十一枚のデビットカードを贈呈し、二百七十七世帯に寄り添い、八百四十一人が早めの感謝祭を過ごした。何も見返りを求めない私たちでも、涙ぐんでいる彼らにきつく抱きしめられた時は、やって来たことの全てに価値があることを深く感じた。私たちは世界中から寄せられた愛と祝福を彼らの手元に届けたのだ。

慈済基金会ワルシャワ事務所の七人のウクライナ人スタッフは、皆非常に勇気ある強い女性だ。彼女たちは自分たちの悲しみを横に置いて、同じく亡命して来た同胞の世話に全力を尽くしている。また慈済の理念を存分に理解した上で、指示を待ってから行動するのではなく、自発的に問題を見つけては解決していた。「ワレニキクラブ」という交流会に続いて、最近彼女たちは、子どもの登校について来た母親たちは、子どもの下校を待っている間に何か学ぶことができるのではないかと気付いた。そこで、ヨガや社交ダンスなどの講座を提案した。

ウクライナ人は故郷の歌「ああ、草原上の赤いガマズミよ」を歌う時、眼を輝かせ、力いっぱい両手を挙げて大声で歌う。「我々は曲がったガマズミを真っ直ぐに立たせる、ウクライナに栄光あれ、さあ、さあ、元気を出そう!」 情況がどんなに苦しくても、心して職責を全うしているスタッフたちは、ワルシャワに留まっている同胞たちのために最善を尽くし続けるだろう。そして彼女たちは互いに励まし合いながら、「帰郷できる」日を一緒に待ち続けている。

愛があれば、どんなに寒くても温もりが感じられ、また誰もが愛でもって助け合うことができれば、面識のない人であっても家族である。私は八十日間ポーランドに滞在して、このことを、身をもって体験した。(文章は『戦火の下の光』より引用)

(慈済月刊六七九期より)

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