法を心に近づけ、正しい方向に導く

(絵・陳九熹)

毎日《無量義経》を開いて、一句一節を注意深く読み取ってください。
日々の暮らしの中で、その境地が出現した時、法の教えが思い出されれば、自分に善を行って悪を止めることを促すことで、平穏で自在になることができます。

中部地区の慈済人が集まって、心を入れて、経蔵劇「無量義 法髄偈頌」を八回公演してくれたことに感謝します。これは活動ではなく、素晴らしい因縁による大法要だと言えます。多くのボランティアを大動員して、長い間、準備し、稽古するだけでなく、彰化の第一体育館を荘厳な道場に仕上げ、そこに素晴らしい雰囲気を醸し出しました。足を踏み入れた途端、心は自然にその雰囲気に溶け込み、出入りする時は秩序を守り、話す時も小声になりました。三時間に及ぶ公演で、私には時間が過ぎた感じはなく、心は法悦に満たされました。皆の誠意ある心が善の美しさを完成させたのです。大成功の中、円満に幕を閉じました。

仏陀は大きな事を成し遂げる為に人間(じんかん)に来られ、衆生に菩薩法を行うよう教え導きました。菩薩法とは《法華経》のことであり、《法華経》の精髄は《無量義経》にあります。皆さんは練習を通して、経文のどの部分も朗々と諳んじることができます。目で見て耳で聞けば、口ずさむことができ、更に体は音律に合わせて動き、体と心と口と意識が敬虔に集中し、心にしっかり刻まれていたと言えるでしょう。身も心も法が刻まれたことは、心に善の種が蒔かれたようなものであり、それをしっかり育て、法水で潤して四季を通じて大きくし、その種子が「一から無量が生まれ、無量の糧が生まれる」ようにするのです。

どの動作も法であり、あらゆる文字が髄で、法髄が音律を伴って舞台で展開すれば、容易に人々の中に溶け込むことができます。中にはもっと多くの道理があり、皆さんは毎日、《無量義経》を開いて、一句一節を真心でもって読んで心に留めてください。日常生活の中で或る境地に向き合った時、その言葉が心に浮び、「諸悪をする莫れ、善行に奉ずるべし」と自分に警鐘を鳴らすでしょう。

読経の功徳は、人生を正しい方向に導き、法や規律のように、悪を止めて善を宣揚することにあるのです。心は寸分違わず正しくあるべきで、少しでも偏りがあれば、見た所大差がなくても、次第に偏りが大きくなって、「僅かな差は千里を失する」ことになります。人口が絶えず増加する中、心は益々複雑化しています。中でも現代科学が発達する中、もし、心をしっかり守らなければ、権力のある人の僅かな心の偏りによって、世の中を危険に晒してしまいます。

二千五百年余り前、仏陀の一念の悟りが、天下のこれほど多くの人に影響し、仏法に触れるようになりました。同じ道理で、愛の心は人を導き、それが少数から多数になって集まります。誰でも幸福をもたらすことができ、愛と善の念は社会に平安をもたらします。

よく「衆生の共業(ぐうごう)」に言及しますが、人心の乱れや気候変動は憂うべきことです。このような時に必要なのは「共に善行する」ことです。心ある人もいますが、私たちの呼びかけが足りません。どの人も軽々しく見てはいけません。もしかしたら、あなたか私が彼を菩薩道に導く因縁ができるかも知れないからです。世間には苦しんでいる人は多く、もしこの人たちに声をかけなかったら、私たちとの縁は結べず、助けることができません。「因縁」の因とは種であり、縁は大地を意味します。心の大地に善があれば、種が撒かれた時、喜んでこの世のことに関心を寄せるようになります。

菩薩とは「悟りを開いた情を持った人」のことであり、訳の分からない無明の凡夫のように、道理が分からず、心が狭く、今日得たものは自分の理想とは違うと感じるような情ではありません。完璧を求めれば、失望が待っています。

もし、それほど強く求めなければ、幸福な人生を送ることができます。私は毎日、自分のして来たことを振り返り、幸せだと感じています。私に幸せをもたらしてくれたのは、多くの志を一つにした人間菩薩(ボランティア)たちです。幸せですから、この生涯が辛いものだったとは言いませんが、それでも容易ではなかった事を思い出します。その時の思いがあるからこそ、人間(じんかん)で多くのことを為し得たのだと思います。事を為すには一人ではできませんが、多くの人を募るのも容易ではありません。そして、誰が誰を指導するのではなく、一人一人が主導者として、心を一つに協力する精神が、最も質が高くて力を発揮することができ、最も美しい姿なのです。

毎日のように菩薩と一緒にいられるので、とても満足しています。私たちのいる所を菩薩の集まる場所にして、何処かで災難が起きたら、直ちに人助けに行くのです。「諸々の善人の集まる所」は、皆が集まって率先して道を行き、灯りを灯してさらに明るくなるようにし、世の中が輝くようにするのです。

いわゆる「法を聞く」とは、世の真諦を体得して、心が常に闊達であることです。「心が虚空を包み込むほど広くなり、砂のように数え切れない世界に達する」と言われるように、心はあらゆるものを受け入れることができ、何事にも囚われなければ、障害は存在しません。法を心に近づければ近づけるほど、行動する方向は「善」なのです。皆さんが《無量義經》を慧命の種子とし、身をもって実践すれば、軽やかで自在になれるでしょう。皆さんが真に経蔵を理解し、智慧で満たされ、何事も順調にいき、福と慧の双方を修めることを祈っています。

(慈済月刊六八二期より)

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