無常の中のとこしえ

編集者の言葉

慈済五十七周年記念行事の前日、静思精舎の応接室は「帰って来てよかった」、「久しぶりですね」という喜びの声に溢れていた。二十九の国と地域の慈済人がオンラインで座談会に参加したが、画面にはシニアボランティアたちの顔や髪に歳月が刻まれていたのが映っていた。人心、人情、人事は時空の移り変わりの中で無常を感じるとはいえ、いつまでも変わらないのは、自分の人生を豊かにしてくれている慈済に感謝する声だった。

慶祝の中にも感傷がある。一週間前、台北のシニアボランティアの林勝勝(リン・スンスン)師姐(スージェ)が亡くなった。彼女に導かれて慈済に入った数人のシニアボランティアは、彼女の代わりに静思精舎に帰って、法師の下で祝賀会に参加すると同時に、心から彼女の模範的な姿を偲んだ。

「勝勝師姐は法縁者を愛おしみ、いつも法師の法を皆と分かち合って、私たちを励ましてくれました。彼女のお陰で、私たちの人生は価値があるように思えます。彼女を誇りに思っており、期待を裏切らないよう努力します」。

「彼女は私に、『腐敗すると虫が湧くように、志が後退すれば業に纏わりつかれる』と言いました。 いずれにしても志は守らなければなりません。人を導く人は、必ず誤解される時がありますが、その苦しみをぐっと我慢し、楽になろうとして、それを表に出してはいけません。挫折しても気にせず、それを乗り越え、相手と縁を結ぶべきで、業を伴ってはいけません。もし縁も業も共にすれば、また一つ縺れが増えることになります」。

「濃厚な師弟の情や法縁者との縁は、誰もが誠意でもって心を一つにすることで出来上がったもので、それこそ師父が最も望んでいるものです」、また法師は、「一人では何事も成し遂げるのは難しく、皆が両手を差し伸べてこそ力が出るのです」と念を押した。「三十数年前に環境保全を呼びかけましたが、あなたが捨てれば、私が拾うというようなことではなく、環境保全をする人生を歩み、人生の環境保全をすべきです。普遍的に人心を浄化してこそ汚染を減らすことができ、災難を無くしたいのなら、人間(じんかん)でもっと福を作るのです」。

慈済が五十八年目に向かって歩みだした五月、月刊誌のカメラマンが精舍での荘厳な「朝山」参拝活動を撮影した。また、三十数人の北部のボランティアは、「中正紀念堂仏誕節灌仏及び親孝行感謝祝福会」の写真の中から秀作を選び出し、それらの一瞬を永遠のものにした。今月号の特別報道の中には、林勝勝師姐を偲んだ記事と日常生活でよく見かける「フラットシートプラスチック」についての追跡調査の記事が載っている。

このタイプのプラスチックはよく、卵や海苔など破損しやすい食物や食品を入れる容器として使用されている。素材の特性により、リサイクルして再生することが難しいため、リサイクル業者は処理を嫌い、多くのコミュニティやマンションでは受け入れ拒否まで表明している。慈済のリサイクルボランティアは、七種類のフラットシートプラスチックを仕分けているが、実は行き場がないのだ。記者は、この種のプラスチックが本当に必要悪なのかどうかを読者にもっと知ってもらいたいと思い、リサイクルボランティア、公共部門、民間環境保全団体及び量り売り商店の経営者にインタビューした。

川や海にはマイクロプラスチックが溢れ、魚や鳥の胃袋の中はプラスチックごみがいっぱい詰まり、環境危機は目の前に差し迫っている。人々の生活は、もはや「利便性」だけに頼ってはならないのだ。

(慈済月刊六七九期より)

編集者の言葉

慈済五十七周年記念行事の前日、静思精舎の応接室は「帰って来てよかった」、「久しぶりですね」という喜びの声に溢れていた。二十九の国と地域の慈済人がオンラインで座談会に参加したが、画面にはシニアボランティアたちの顔や髪に歳月が刻まれていたのが映っていた。人心、人情、人事は時空の移り変わりの中で無常を感じるとはいえ、いつまでも変わらないのは、自分の人生を豊かにしてくれている慈済に感謝する声だった。

慶祝の中にも感傷がある。一週間前、台北のシニアボランティアの林勝勝(リン・スンスン)師姐(スージェ)が亡くなった。彼女に導かれて慈済に入った数人のシニアボランティアは、彼女の代わりに静思精舎に帰って、法師の下で祝賀会に参加すると同時に、心から彼女の模範的な姿を偲んだ。

「勝勝師姐は法縁者を愛おしみ、いつも法師の法を皆と分かち合って、私たちを励ましてくれました。彼女のお陰で、私たちの人生は価値があるように思えます。彼女を誇りに思っており、期待を裏切らないよう努力します」。

「彼女は私に、『腐敗すると虫が湧くように、志が後退すれば業に纏わりつかれる』と言いました。 いずれにしても志は守らなければなりません。人を導く人は、必ず誤解される時がありますが、その苦しみをぐっと我慢し、楽になろうとして、それを表に出してはいけません。挫折しても気にせず、それを乗り越え、相手と縁を結ぶべきで、業を伴ってはいけません。もし縁も業も共にすれば、また一つ縺れが増えることになります」。

「濃厚な師弟の情や法縁者との縁は、誰もが誠意でもって心を一つにすることで出来上がったもので、それこそ師父が最も望んでいるものです」、また法師は、「一人では何事も成し遂げるのは難しく、皆が両手を差し伸べてこそ力が出るのです」と念を押した。「三十数年前に環境保全を呼びかけましたが、あなたが捨てれば、私が拾うというようなことではなく、環境保全をする人生を歩み、人生の環境保全をすべきです。普遍的に人心を浄化してこそ汚染を減らすことができ、災難を無くしたいのなら、人間(じんかん)でもっと福を作るのです」。

慈済が五十八年目に向かって歩みだした五月、月刊誌のカメラマンが精舍での荘厳な「朝山」参拝活動を撮影した。また、三十数人の北部のボランティアは、「中正紀念堂仏誕節灌仏及び親孝行感謝祝福会」の写真の中から秀作を選び出し、それらの一瞬を永遠のものにした。今月号の特別報道の中には、林勝勝師姐を偲んだ記事と日常生活でよく見かける「フラットシートプラスチック」についての追跡調査の記事が載っている。

このタイプのプラスチックはよく、卵や海苔など破損しやすい食物や食品を入れる容器として使用されている。素材の特性により、リサイクルして再生することが難しいため、リサイクル業者は処理を嫌い、多くのコミュニティやマンションでは受け入れ拒否まで表明している。慈済のリサイクルボランティアは、七種類のフラットシートプラスチックを仕分けているが、実は行き場がないのだ。記者は、この種のプラスチックが本当に必要悪なのかどうかを読者にもっと知ってもらいたいと思い、リサイクルボランティア、公共部門、民間環境保全団体及び量り売り商店の経営者にインタビューした。

川や海にはマイクロプラスチックが溢れ、魚や鳥の胃袋の中はプラスチックごみがいっぱい詰まり、環境危機は目の前に差し迫っている。人々の生活は、もはや「利便性」だけに頼ってはならないのだ。

(慈済月刊六七九期より)

關鍵字

心の養生

(撮影・黃筱哲)

愛の心を育み、心の福地を培い、
善の種子を蒔いて、法水で沃土を灌漑しましょう。
心の福田を耕せば、あらゆる善根を培うことができ、
福と慧を修めて、縁を大切にして法を聞けば、
一から無量が生まれ、連綿と連なる菩提の林になります。

愛の心を育み、心の福地を培い、善の種子を蒔いて、法水で沃土を灌漑しましょう。

心の福田を耕せば、あらゆる善根を培うことができ、福と慧を修めて、縁を大切にして法を聞けば、一から無量が生まれ、連綿と連なる菩提の林になります。

(撮影・黃筱哲)

愛の心を育み、心の福地を培い、
善の種子を蒔いて、法水で沃土を灌漑しましょう。
心の福田を耕せば、あらゆる善根を培うことができ、
福と慧を修めて、縁を大切にして法を聞けば、
一から無量が生まれ、連綿と連なる菩提の林になります。

愛の心を育み、心の福地を培い、善の種子を蒔いて、法水で沃土を灌漑しましょう。

心の福田を耕せば、あらゆる善根を培うことができ、福と慧を修めて、縁を大切にして法を聞けば、一から無量が生まれ、連綿と連なる菩提の林になります。

關鍵字

プラトレーの代償は安くない

回収業者の工場には、プラトレー製品がブロック状にプレスされ、置かれてあった。

プラトレーが日常生活の中に溢れている。

卵パック、飲料カップ、カットフルーツの容器、医療品カプセルの包装等だ。しかし、素材は様々で分別が難しく、リサイクル業者は買取り意欲が低い。

その殆どは廃棄されるか焼却されており、地球環境にとっては耐え難い負担となっている。

多くの研究報告や環境教育上の警告によると、プラスチックは地球の隅々にまで溢れ、北極や南極の雪や淡水河の水など、至る所でマイクロプラスチックが見つかっている。海洋動物が、海に漂流しているプラスチックゴミを誤って食べて傷ついたり、死亡したりしているニュースはすでに珍しくなく、国境を越えた危機となっている。

台湾では、二十数年前からすでに「脱プラスチック政策」を推進してきた。レジ袋の使用を制限し、近年は更にプラトレーへの規制を強めている。二〇二二年末、環境保護署は「事業者が物やその包装容器及び回収、処理する責任を負う業者の範囲」規定を改定すると発表した。今年五月にプラスチック製の各種トレーやブリスターパックを回収項目に含めることを公布し、環境保護署が関連メーカー、輸入業者及び回収業者を指導して、来年五月から全面的に回収することになった。

分けずに廃棄すると、
回収率が低くなる

環境保護署の新規制によれば、プラトレーやブリスターパックは、すでに飲み物のカップの蓋、ミニトマトの容器、使い捨て食器類などと共に回収すべきプラスチック製平型容器に含まれており、「平型包装資材」と総称される。

中でもプラトレーは食品に直接触れる部分に使われ、食品の口当たりや柔らかさを衝撃や圧迫から防ぐために使用されている。例えば婚礼用お菓子のギフトボックスに使われる丸いPET製トレーやエッグロール用の長方形のPP製容器などがある。

ブリスターパックは、小型の電子製品、玩具、金属製品、衛生用品などの包装資材としてよく使われている。例えば、メモリーカード、USB、マウスなどの包装に使われている透明なプラスチックケースによる包装は、ある程度の強度でもって製品を保護しているだけでなく、内容を識別するのにも便利である。市販の歯ブラシなどの衛生用品も同様のパッケージで、衛生面の安全も確保している。

プラスチック製平型容器やプラトレー、ブリスターパックなどの専門用語は、一見して理解しにくいが、早い時期からすでに日常生活の中で広く使われており、しかもその数量は膨大である。

「台湾では、プラスチック製平型容器は年間約二万千トン使用され、そのうちプラトレーとブリスターパックは年間で約三万四千トン使用されています。つまりプラスチック製平型包装資材の量は、両者合わせると約五万五千トンになり、回収プラ容器全体の四分の一を占めています」と環境保護署回収基金管理会の連氏が言った。以前はプラトレーとブリスターパックは回収項目に入っておらず、メーカーや輸入業者は政府に回収処置費用を収める必要がなかった。また、回収業者も再生業者も補助手当を受けられなかったため、この種のプラスチックを回収する意欲を持った業者は非常に少なかった。

しかし、大衆にはこの三種類の区別がつかないため、後続の仕分け作業が難度を増していた。一部の業者は回収する意欲がないので、ゴミ収集車に放り込んで焼却炉で燃やすようにと、はっきりと大衆に伝えた。分別の混乱問題は、大衆、回収業者、ゴミ収集チームの全てに混乱をもたらしたため、プラスチック製平型容器の回収効果も低下した。

「プラスチック製の平型容器とトレー、そしてブリスターパックは、年間約五万五千トン使われており、台湾の資源回収業者にとっては膨大な量ですが、多くの業者はすでに取り組む準備を整えています」と連氏が言った。新しい基準が施行された時、多くの業者が参入すると見込まれており、解決できなかった難題も大幅に緩和されるだろう。大衆は一般ゴミ、生ごみ、資源回収物に分けるだけで済むようになるのだ。

大衆の利便性を配慮して、政府の殆どの政策は、人々が実行する時の手順を簡素化しようとしているが、全てのマンションやビルに回収物の置き場があるわけではなく、誰もが細かく回収できる資源を分別できるわけでもない。

「良い引き取り価格にするために、回収業者は分別を細かく設定するでしょう。市民には当然、予め洗浄して生ごみが混入していないようにしておいて欲しいです。そうすれば、回収効率が上がります」と連氏は説明を補った。

🔎 Zoom in picture)

プラトレーは受け入れ難いが、
我慢して回収する

慈済のリサイクルボランティアは、たとえ回収できない品目が混入していても、「ゴミを金に変える」一念で、全力を尽くして、回収したものを細かく分別している。

しかし、殆どの慈済環境保全教育センターやリサイクルステーションは、プラトレーを受け取らない。「氾濫していて多すぎるのです。この新荘区中港環境保全教育センターでは、受け取らないと表明していますが、それでも混入されているものが多いです」。ベテランボランティアの許長林(シュー・チャンリン)さんの推定では、ボランティアは一日に少なくとも大きな袋で2、3個分、時には5、6個分のプラトレーを分別している。一袋の重さはわずか4、5キロだが、プレスする前は大人の背の半分ほどの高さになり、その数は膨大で、種類も多岐にわたり、非常に手間がかかるのだ。

苗栗県竹南鎮国泰環境保全教育センターでは、異なる年齢層のボランティアが協力し合って、プラトレーを細かく分別している。

プラトレーやブリスターパックは、まだ政府の補助金の対象になっていないため、誰も手を出そうとしないが、ボランティアは依然、丁寧に分別している。「業者が回収できる部分については、出来る限り協力しています。現在協力している業者は、主にPPプラスチックを受け取っています。集まる数量も多く、分別し易いため、PPだけ別に分別しているのです」と許長林さんが言った。そこで回収しているプラトレーの中には、PETとPPの占める割合が最も多く、PP製のものは電子レンジ用の食器で、果物や食品の容器の多くはPET製である。

プラトレーの種類は非常に多く、ボランティアたちは初め、リサイクル表示の番号で仕分けしたり、解体したりした後に、切り口の色や形で分別していた。慣れて来ると手で触るだけで、大体判別できるようになった。

「このカップのように、ブランドを見て、材質を触れば、七号のPLA製であることが分かります。以前の卵パックはPLA製が多かったのですが、今はPET製もあります」。許長林さんは有名なコーヒーショップのテイクアウト用のプラスチック容器を手にして説明した。現在、新荘区中港環境保全教育センターのボランティアたちは、ビニール袋やラップフィルムの回収に対してかなり熟練しており、自分の経験を他の人に教えるほどになっているが、絶え間なく送られて来るプラスチック廃棄物に対して、最善を尽くすしかないのだ。

「多くのプラトレーにはシールが貼られていますが、切り取る時間がありません」。許長林さんは、量が多すぎるため、あるだけの人手で尽力するしかない、と率直に言った。

環境保護署が来年五月に、プラトレーとブリスターパックを回収項目に入れると聞いて、慈済基金会の環境保全推進チームの張涵鈞主任は楽観的な見方をしたが、「業者に回収意欲があって、ボランティアの人力を確保してこそ、やっていけるのです」とも強調した。

スーパーでは、生鮮青果物の鮮度を保ち、ラベルを貼りやすくするために、プラスチック包装が一般的になっているが、大量の廃棄物を発生させている。そこで近年では環境保護団体が店に対して、個別包装無しの量り売りでの提供を積極的に要請している。

プラスチックの制限と削減で
地球を救おう

イギリスの科学者パークス(Parkes)が、一八五〇年に第一号セイルロイド(celluloid)を合成して以来、人類のプラスチック使用は百七十年を超えた。最初の硬質セイルロイド、ベークライト(bakelite)から、一九六〇年代からは使い捨てのビニール袋やプラトレーが大量に使用されるようになった。人々のプラスチックの乱用は、パンドラの箱を開けたように、コントロールが効かなくなっている。

二十一世紀に入って、関連の科学研究が次々と発表され、人々はやっと、地球全体が「プラスチック化された」状況が予想以上なのに気がついた。アメリカの学術機構の研究によると、二〇一七年の世界のプラスチック廃棄物の総量が八十三億トンに達した。今の世界の人口を八十億人で計算すると、平均して一人当たり一トン以上になるのだ。

膨大な量のプラスチックゴミに対して、現在、各国の政府、企業、NGOないし個人が対応している行動は微々たるものでしかない。しかし、持続可能にする人類と地球のためには、脱プラや減プラへの推進に着実な努力をしなければならない。

焼却炉に入れられようとしている各種プラスチックをどのように回収して、使用可能な資材に再生できるか。プラスチック製品の製造と使用を源から減らすにはどうすればよいのか。これは現在、重視すべき環境課題であり、慈済ボランティアをはじめ、多くの有識者も参入しているが、より多くの関心を持った有識者の参加を期待している。

(慈済月刊六七九期より)

回収業者の工場には、プラトレー製品がブロック状にプレスされ、置かれてあった。

プラトレーが日常生活の中に溢れている。

卵パック、飲料カップ、カットフルーツの容器、医療品カプセルの包装等だ。しかし、素材は様々で分別が難しく、リサイクル業者は買取り意欲が低い。

その殆どは廃棄されるか焼却されており、地球環境にとっては耐え難い負担となっている。

多くの研究報告や環境教育上の警告によると、プラスチックは地球の隅々にまで溢れ、北極や南極の雪や淡水河の水など、至る所でマイクロプラスチックが見つかっている。海洋動物が、海に漂流しているプラスチックゴミを誤って食べて傷ついたり、死亡したりしているニュースはすでに珍しくなく、国境を越えた危機となっている。

台湾では、二十数年前からすでに「脱プラスチック政策」を推進してきた。レジ袋の使用を制限し、近年は更にプラトレーへの規制を強めている。二〇二二年末、環境保護署は「事業者が物やその包装容器及び回収、処理する責任を負う業者の範囲」規定を改定すると発表した。今年五月にプラスチック製の各種トレーやブリスターパックを回収項目に含めることを公布し、環境保護署が関連メーカー、輸入業者及び回収業者を指導して、来年五月から全面的に回収することになった。

分けずに廃棄すると、
回収率が低くなる

環境保護署の新規制によれば、プラトレーやブリスターパックは、すでに飲み物のカップの蓋、ミニトマトの容器、使い捨て食器類などと共に回収すべきプラスチック製平型容器に含まれており、「平型包装資材」と総称される。

中でもプラトレーは食品に直接触れる部分に使われ、食品の口当たりや柔らかさを衝撃や圧迫から防ぐために使用されている。例えば婚礼用お菓子のギフトボックスに使われる丸いPET製トレーやエッグロール用の長方形のPP製容器などがある。

ブリスターパックは、小型の電子製品、玩具、金属製品、衛生用品などの包装資材としてよく使われている。例えば、メモリーカード、USB、マウスなどの包装に使われている透明なプラスチックケースによる包装は、ある程度の強度でもって製品を保護しているだけでなく、内容を識別するのにも便利である。市販の歯ブラシなどの衛生用品も同様のパッケージで、衛生面の安全も確保している。

プラスチック製平型容器やプラトレー、ブリスターパックなどの専門用語は、一見して理解しにくいが、早い時期からすでに日常生活の中で広く使われており、しかもその数量は膨大である。

「台湾では、プラスチック製平型容器は年間約二万千トン使用され、そのうちプラトレーとブリスターパックは年間で約三万四千トン使用されています。つまりプラスチック製平型包装資材の量は、両者合わせると約五万五千トンになり、回収プラ容器全体の四分の一を占めています」と環境保護署回収基金管理会の連氏が言った。以前はプラトレーとブリスターパックは回収項目に入っておらず、メーカーや輸入業者は政府に回収処置費用を収める必要がなかった。また、回収業者も再生業者も補助手当を受けられなかったため、この種のプラスチックを回収する意欲を持った業者は非常に少なかった。

しかし、大衆にはこの三種類の区別がつかないため、後続の仕分け作業が難度を増していた。一部の業者は回収する意欲がないので、ゴミ収集車に放り込んで焼却炉で燃やすようにと、はっきりと大衆に伝えた。分別の混乱問題は、大衆、回収業者、ゴミ収集チームの全てに混乱をもたらしたため、プラスチック製平型容器の回収効果も低下した。

「プラスチック製の平型容器とトレー、そしてブリスターパックは、年間約五万五千トン使われており、台湾の資源回収業者にとっては膨大な量ですが、多くの業者はすでに取り組む準備を整えています」と連氏が言った。新しい基準が施行された時、多くの業者が参入すると見込まれており、解決できなかった難題も大幅に緩和されるだろう。大衆は一般ゴミ、生ごみ、資源回収物に分けるだけで済むようになるのだ。

大衆の利便性を配慮して、政府の殆どの政策は、人々が実行する時の手順を簡素化しようとしているが、全てのマンションやビルに回収物の置き場があるわけではなく、誰もが細かく回収できる資源を分別できるわけでもない。

「良い引き取り価格にするために、回収業者は分別を細かく設定するでしょう。市民には当然、予め洗浄して生ごみが混入していないようにしておいて欲しいです。そうすれば、回収効率が上がります」と連氏は説明を補った。

🔎 Zoom in picture)

プラトレーは受け入れ難いが、
我慢して回収する

慈済のリサイクルボランティアは、たとえ回収できない品目が混入していても、「ゴミを金に変える」一念で、全力を尽くして、回収したものを細かく分別している。

しかし、殆どの慈済環境保全教育センターやリサイクルステーションは、プラトレーを受け取らない。「氾濫していて多すぎるのです。この新荘区中港環境保全教育センターでは、受け取らないと表明していますが、それでも混入されているものが多いです」。ベテランボランティアの許長林(シュー・チャンリン)さんの推定では、ボランティアは一日に少なくとも大きな袋で2、3個分、時には5、6個分のプラトレーを分別している。一袋の重さはわずか4、5キロだが、プレスする前は大人の背の半分ほどの高さになり、その数は膨大で、種類も多岐にわたり、非常に手間がかかるのだ。

苗栗県竹南鎮国泰環境保全教育センターでは、異なる年齢層のボランティアが協力し合って、プラトレーを細かく分別している。

プラトレーやブリスターパックは、まだ政府の補助金の対象になっていないため、誰も手を出そうとしないが、ボランティアは依然、丁寧に分別している。「業者が回収できる部分については、出来る限り協力しています。現在協力している業者は、主にPPプラスチックを受け取っています。集まる数量も多く、分別し易いため、PPだけ別に分別しているのです」と許長林さんが言った。そこで回収しているプラトレーの中には、PETとPPの占める割合が最も多く、PP製のものは電子レンジ用の食器で、果物や食品の容器の多くはPET製である。

プラトレーの種類は非常に多く、ボランティアたちは初め、リサイクル表示の番号で仕分けしたり、解体したりした後に、切り口の色や形で分別していた。慣れて来ると手で触るだけで、大体判別できるようになった。

「このカップのように、ブランドを見て、材質を触れば、七号のPLA製であることが分かります。以前の卵パックはPLA製が多かったのですが、今はPET製もあります」。許長林さんは有名なコーヒーショップのテイクアウト用のプラスチック容器を手にして説明した。現在、新荘区中港環境保全教育センターのボランティアたちは、ビニール袋やラップフィルムの回収に対してかなり熟練しており、自分の経験を他の人に教えるほどになっているが、絶え間なく送られて来るプラスチック廃棄物に対して、最善を尽くすしかないのだ。

「多くのプラトレーにはシールが貼られていますが、切り取る時間がありません」。許長林さんは、量が多すぎるため、あるだけの人手で尽力するしかない、と率直に言った。

環境保護署が来年五月に、プラトレーとブリスターパックを回収項目に入れると聞いて、慈済基金会の環境保全推進チームの張涵鈞主任は楽観的な見方をしたが、「業者に回収意欲があって、ボランティアの人力を確保してこそ、やっていけるのです」とも強調した。

スーパーでは、生鮮青果物の鮮度を保ち、ラベルを貼りやすくするために、プラスチック包装が一般的になっているが、大量の廃棄物を発生させている。そこで近年では環境保護団体が店に対して、個別包装無しの量り売りでの提供を積極的に要請している。

プラスチックの制限と削減で
地球を救おう

イギリスの科学者パークス(Parkes)が、一八五〇年に第一号セイルロイド(celluloid)を合成して以来、人類のプラスチック使用は百七十年を超えた。最初の硬質セイルロイド、ベークライト(bakelite)から、一九六〇年代からは使い捨てのビニール袋やプラトレーが大量に使用されるようになった。人々のプラスチックの乱用は、パンドラの箱を開けたように、コントロールが効かなくなっている。

二十一世紀に入って、関連の科学研究が次々と発表され、人々はやっと、地球全体が「プラスチック化された」状況が予想以上なのに気がついた。アメリカの学術機構の研究によると、二〇一七年の世界のプラスチック廃棄物の総量が八十三億トンに達した。今の世界の人口を八十億人で計算すると、平均して一人当たり一トン以上になるのだ。

膨大な量のプラスチックゴミに対して、現在、各国の政府、企業、NGOないし個人が対応している行動は微々たるものでしかない。しかし、持続可能にする人類と地球のためには、脱プラや減プラへの推進に着実な努力をしなければならない。

焼却炉に入れられようとしている各種プラスチックをどのように回収して、使用可能な資材に再生できるか。プラスチック製品の製造と使用を源から減らすにはどうすればよいのか。これは現在、重視すべき環境課題であり、慈済ボランティアをはじめ、多くの有識者も参入しているが、より多くの関心を持った有識者の参加を期待している。

(慈済月刊六七九期より)

關鍵字

使い捨てプラスチックの命を救う─プラスチック製品の使用量トップは食品用容器・包装

世界のプラスチック製品は、その40% 以上が容器・包装に使用されており、食品用の占める割合が最も高い。

台湾の小売業界は、毎年少なくとも三十六億個のプラスチック廃棄物を生み出している。

源から消費を経て回収されるまで、全ての段階で少しでも変化させることができれば、プラスチック汚染を減らすことができ、地球の存続に役立つ。

「両端の人はもう少し中央に寄ってください!」 カメラマンの指示に従い、大人から子供まで数十人が、集めた海洋ゴミの前で、休日に行ったビーチ清掃活動の最高の思い出を残した。

企業は従業員とその家族に対し、休日にはビーチや山の清掃、或いは慈済のリサイクルステーションで資源回収などの活動へ参加するよう奨励することで、その社会的責任を果たす基本的な取り組みの一つを実践している。しかし、世界では、日増しにESG(環境、社会、ガバナンス)に基づく持続可能な発展の実践が重視される風潮の中で、企業の環境保護における取り組みには、その実践をはるかに超えた期待がかけられている。特に源からのプラスチック削減を果たすためには、生産、販売、流通の各段階におけるプラスチック製容器・包装の使用削減に努める必要がある。

「私たちはプラスチックの使用をできる限り削減するよう、業者を指導しています。例えば、マウスの包装にはブリスターパックを使用せず、代わりに再生紙で作られた折りたたみ式の箱を使用することで使用量を減らすのです。新しい材料を100%使用する場合に比べ、80%まで削減するのが目標です」、と環境保護署リサイクル基金管理協会主任の連奕偉(リエン・イーウェイ)氏が、例を挙げた。

プラトレーやブリスターパックが回収品目に含まれるならば、生産者は処理費を払わなければならない。プラスチック容器包装が厚くなり、使用量が多ければ多いほど、支払う金額は増加し、コストが上昇すれば、業者は考え直さなければならなくなる。「コストが上れば、彼らは方法を考えて調整します。政府は政策を使って、業者が使用するプラスチックの量を削減するのです」、と連主任は補足した。

マイ容器を持参し、量り売りを選ぶ

国際環境NGO「グリーンピース」などの団体は、台湾でモニタリングを行い、小売業におけるプラスチックの削減を後押ししている。

「以前、私は台中に住んでいましたが、毎週土曜日の朝、よく母と一緒に慈済のリサイクルステーションに行って、資源の回収作業をしていました。それからというもの、プラスチックの問題は本当に深刻だと感じています」。台湾グリーンピース台北事務所プラスチックプロジェクト主任の張凱婷(チャン・カイティン)さんは、いくつかの驚くべき数値を教えてくれた。世界のプラスチック産業の規模が、過去五十年間で二十倍に成長した主な原因は、人々の使い捨てプラスチック製容器・包装への依存にあったのである。

二〇二一年、世界のプラスチック生産量は三・五億トンを超え、そのうちの四十%がプラスチック製容器・包装であり、食品業界のそれを占める割合が最も高い。また、台湾のコンビニエンスストア、スーパーマーケット、量販店は少なくとも年間三十六億個のプラスチック廃棄物を作り出している!

スーパーマーケットや量販店に入ると、ほぼ全ての果物、野菜、食品がプラスチックで「覆われ」ている。ビニール袋に詰められた物やフルーツネットで覆われた物もあり、その上に透明のプラトレーで包装されている物もある。消費者は、店で果物や野菜を数個買うだけかもしれないが、そこに使われているビニール袋やプラトレーの包装は十幾つにもなるだろう。

国際環境NGOグリーンピースは、コンビニエンスストアチェーンや有名スーパーマーケット、量販店など規模の大きい業者に、「プラスチックの削減」を呼びかけている。

張さんが、改善呼びかけの成果を語ってくれた。「昨年、彼らとのコミュニケーションを強化し、包装されていない野菜や果物の『量り売り』を始めるよう提案しました。昨年末から台湾全土の店舗が、量り売りの売り場を設けるようになりました。少なくとも第一歩を踏み出したのです」。そのチェーンストアに入ると、大部分の野菜や果物には未だにプラスチック製容器・包装が成されているが、量り売りコーナーには、オレンジ、レモン、リンゴなど数種類の硬めの果物や野菜が置いてあった。消費者はマイバッグを持参するだけで「プラスチックフリー」の買い物ができるのだ。

住宅街にある個別包装無しの店。顧客に自前の容器や買い物袋の持参を呼びかける他、「必要な分だけ買う」という理念も分かち合っている。

必要な分だけ買う

ベジタリアン及び環境保護のコンセプトパビリオンである「植境」は、台鉄松山駅とMRT松山駅に隣接している慈済台北東区支部の地下一階にある。若い慈済職員と熱心な店主が共同で作り上げた持続可能な生活空間であり、静思書軒、料理教室、キュレーション展示スペース、ベジタリアンレストランとスーパーマーケットがある。中でも、スーパーマーケットに設置された量り売りコーナーでは、乾物類や豆類、各種ショートパスタ、液体天然洗剤などが販売されている。「量り売りコーナー設置は、彼ら自身が決めたことです」。「植境」の管理職である湯逸凡(ヤン・イーファン)さんは、スーパーマーケット運営担当者の配慮と創意工夫を称賛した。

消費者は物を買う時、繰り返し使うビニール袋を開けて、食品の入った容器のファンネル状の口に持っていき、軽くハンドルを引くと、購入したいドライフーズが落ちて来るので、買いたい量だけ入れて、レジに持っていけばいいのだ。または、事前に容器の重さを測り、レジで容器の重量を差し引けばよい。液体クリーナーを購入する時も同じようにマイ容器を持参するが、漏れを防ぐために容器が良好な状態であることを確認しておく必要がある。

台北MRT北投駅脇にある別の個別包装無しの店は、マンション一階の一角にあって、隠れた感じだが、コミュニティに隣接している関係で、住民に密着している。

「私たちの消費者は学生から家庭主婦、年配の方までいますが、女性がメインです。年配の方は、私たちの店は新しいのに、彼らの子供時代とも通じていると言っています」。経営者の蔡旻杰(ツァイ・ミンジエ)さんによると、彼の奥さんが大学時代に交換留学生としてフランスとドイツに滞在した時に、ヨーロッパでは個別包装無しの店が流行していて、そのコンセプトがとてもいいと感じたそうだ。そこで、結婚してから、住んでいる北投エリアにそういう店を出してみたのだった。

資金に限度があったため、夫婦が借りた店は七坪の広さしかなかった。蔡さんは自らそれを整理、改装し、簡潔で爽やかな北欧風の店に仕上げた。穀物、茶葉、香辛料、キャンディー、コーヒー豆などが、整然と中小の透明の容器に入れてある。

なぜドイツやフランスの店を真似て、大きい容器に入れないのか?台湾の気候はヨーロッパよりはるかに湿度が高く、食品やドライフーズが湿気で変質しやすいため、小さい容器に入れて、少量で並べる方法を採用した。大量に長期間置かないようにすることで、食品の安全性を確保している。顧客は、スペースが狭くても、自在に買い物をしている。

「売れて欲しいと思っていますが、一度に買いすぎて欲しくはありません。私たちのセールスコンセプトは、必要な分だけ買えるように、なのです」。普通の量販店なら、安い値段で大量を一つに包装するという策略で消費者を引きつける。価格上小さな包装よりは少し安くなるが、無駄にもなりやすい。「三分の一食べ残したら、三割高くなったことと同じです。でも、食べ飽きた時に無駄にしないためにと無理やり食べるのも、よくありません。個人のニーズに立ち戻り、必要な分だけ買うのがいいでしょう」。蔡さんが言った。

路地の中にある蔡さんの個別包装無しの店は小さすぎて、人々はその存在に気付かないほどである。しかし、苦労して三年間経営してきた今、やっと一握りのリピーターができた。エコのために、常連客は自前の容器を用意して来るが、保証金を払って容器をレンタルし、次回店に来た時に容器を返して、保証金を返してもらうこともできる。

「プラスチック製品は以前から存在しており、繰り返し使用することで、新たに生産するのを減らすことができます」。蔡さんは「プラスチックの削減」を経営における重要ポイントの一つに掲げ、自分の店が、エコという観点からプラスチックを削減する実験的なプラットフォームになることを望んでいる。消費者にこの店を使って、環境に優しいエシカル消費の習慣を身につける練習をして欲しいと思っている。「私たちは、個別包装をしないだけでなく、この理念をより多くの人に理解してもらえるかどうかを重視しています」。

プラスチックの削減と小まめなリサイクル活動は、地球の負荷を減らすと同時に、人々の生活の質を向上させて、より素晴らしく且つ快適な生き方をもたらしてくれるだろう。

(慈済月刊六七九期より)

この店舗では台湾の湿気の多い環境に対応して、ほとんどの食品を小さい密封容器やファンネル状の取り出し口を備えた容器に入れて陳列、販売している。鮮度と安全性を確保するために、大量の食材を長期間陳列することは避けている。

世界のプラスチック製品は、その40% 以上が容器・包装に使用されており、食品用の占める割合が最も高い。

台湾の小売業界は、毎年少なくとも三十六億個のプラスチック廃棄物を生み出している。

源から消費を経て回収されるまで、全ての段階で少しでも変化させることができれば、プラスチック汚染を減らすことができ、地球の存続に役立つ。

「両端の人はもう少し中央に寄ってください!」 カメラマンの指示に従い、大人から子供まで数十人が、集めた海洋ゴミの前で、休日に行ったビーチ清掃活動の最高の思い出を残した。

企業は従業員とその家族に対し、休日にはビーチや山の清掃、或いは慈済のリサイクルステーションで資源回収などの活動へ参加するよう奨励することで、その社会的責任を果たす基本的な取り組みの一つを実践している。しかし、世界では、日増しにESG(環境、社会、ガバナンス)に基づく持続可能な発展の実践が重視される風潮の中で、企業の環境保護における取り組みには、その実践をはるかに超えた期待がかけられている。特に源からのプラスチック削減を果たすためには、生産、販売、流通の各段階におけるプラスチック製容器・包装の使用削減に努める必要がある。

「私たちはプラスチックの使用をできる限り削減するよう、業者を指導しています。例えば、マウスの包装にはブリスターパックを使用せず、代わりに再生紙で作られた折りたたみ式の箱を使用することで使用量を減らすのです。新しい材料を100%使用する場合に比べ、80%まで削減するのが目標です」、と環境保護署リサイクル基金管理協会主任の連奕偉(リエン・イーウェイ)氏が、例を挙げた。

プラトレーやブリスターパックが回収品目に含まれるならば、生産者は処理費を払わなければならない。プラスチック容器包装が厚くなり、使用量が多ければ多いほど、支払う金額は増加し、コストが上昇すれば、業者は考え直さなければならなくなる。「コストが上れば、彼らは方法を考えて調整します。政府は政策を使って、業者が使用するプラスチックの量を削減するのです」、と連主任は補足した。

マイ容器を持参し、量り売りを選ぶ

国際環境NGO「グリーンピース」などの団体は、台湾でモニタリングを行い、小売業におけるプラスチックの削減を後押ししている。

「以前、私は台中に住んでいましたが、毎週土曜日の朝、よく母と一緒に慈済のリサイクルステーションに行って、資源の回収作業をしていました。それからというもの、プラスチックの問題は本当に深刻だと感じています」。台湾グリーンピース台北事務所プラスチックプロジェクト主任の張凱婷(チャン・カイティン)さんは、いくつかの驚くべき数値を教えてくれた。世界のプラスチック産業の規模が、過去五十年間で二十倍に成長した主な原因は、人々の使い捨てプラスチック製容器・包装への依存にあったのである。

二〇二一年、世界のプラスチック生産量は三・五億トンを超え、そのうちの四十%がプラスチック製容器・包装であり、食品業界のそれを占める割合が最も高い。また、台湾のコンビニエンスストア、スーパーマーケット、量販店は少なくとも年間三十六億個のプラスチック廃棄物を作り出している!

スーパーマーケットや量販店に入ると、ほぼ全ての果物、野菜、食品がプラスチックで「覆われ」ている。ビニール袋に詰められた物やフルーツネットで覆われた物もあり、その上に透明のプラトレーで包装されている物もある。消費者は、店で果物や野菜を数個買うだけかもしれないが、そこに使われているビニール袋やプラトレーの包装は十幾つにもなるだろう。

国際環境NGOグリーンピースは、コンビニエンスストアチェーンや有名スーパーマーケット、量販店など規模の大きい業者に、「プラスチックの削減」を呼びかけている。

張さんが、改善呼びかけの成果を語ってくれた。「昨年、彼らとのコミュニケーションを強化し、包装されていない野菜や果物の『量り売り』を始めるよう提案しました。昨年末から台湾全土の店舗が、量り売りの売り場を設けるようになりました。少なくとも第一歩を踏み出したのです」。そのチェーンストアに入ると、大部分の野菜や果物には未だにプラスチック製容器・包装が成されているが、量り売りコーナーには、オレンジ、レモン、リンゴなど数種類の硬めの果物や野菜が置いてあった。消費者はマイバッグを持参するだけで「プラスチックフリー」の買い物ができるのだ。

住宅街にある個別包装無しの店。顧客に自前の容器や買い物袋の持参を呼びかける他、「必要な分だけ買う」という理念も分かち合っている。

必要な分だけ買う

ベジタリアン及び環境保護のコンセプトパビリオンである「植境」は、台鉄松山駅とMRT松山駅に隣接している慈済台北東区支部の地下一階にある。若い慈済職員と熱心な店主が共同で作り上げた持続可能な生活空間であり、静思書軒、料理教室、キュレーション展示スペース、ベジタリアンレストランとスーパーマーケットがある。中でも、スーパーマーケットに設置された量り売りコーナーでは、乾物類や豆類、各種ショートパスタ、液体天然洗剤などが販売されている。「量り売りコーナー設置は、彼ら自身が決めたことです」。「植境」の管理職である湯逸凡(ヤン・イーファン)さんは、スーパーマーケット運営担当者の配慮と創意工夫を称賛した。

消費者は物を買う時、繰り返し使うビニール袋を開けて、食品の入った容器のファンネル状の口に持っていき、軽くハンドルを引くと、購入したいドライフーズが落ちて来るので、買いたい量だけ入れて、レジに持っていけばいいのだ。または、事前に容器の重さを測り、レジで容器の重量を差し引けばよい。液体クリーナーを購入する時も同じようにマイ容器を持参するが、漏れを防ぐために容器が良好な状態であることを確認しておく必要がある。

台北MRT北投駅脇にある別の個別包装無しの店は、マンション一階の一角にあって、隠れた感じだが、コミュニティに隣接している関係で、住民に密着している。

「私たちの消費者は学生から家庭主婦、年配の方までいますが、女性がメインです。年配の方は、私たちの店は新しいのに、彼らの子供時代とも通じていると言っています」。経営者の蔡旻杰(ツァイ・ミンジエ)さんによると、彼の奥さんが大学時代に交換留学生としてフランスとドイツに滞在した時に、ヨーロッパでは個別包装無しの店が流行していて、そのコンセプトがとてもいいと感じたそうだ。そこで、結婚してから、住んでいる北投エリアにそういう店を出してみたのだった。

資金に限度があったため、夫婦が借りた店は七坪の広さしかなかった。蔡さんは自らそれを整理、改装し、簡潔で爽やかな北欧風の店に仕上げた。穀物、茶葉、香辛料、キャンディー、コーヒー豆などが、整然と中小の透明の容器に入れてある。

なぜドイツやフランスの店を真似て、大きい容器に入れないのか?台湾の気候はヨーロッパよりはるかに湿度が高く、食品やドライフーズが湿気で変質しやすいため、小さい容器に入れて、少量で並べる方法を採用した。大量に長期間置かないようにすることで、食品の安全性を確保している。顧客は、スペースが狭くても、自在に買い物をしている。

「売れて欲しいと思っていますが、一度に買いすぎて欲しくはありません。私たちのセールスコンセプトは、必要な分だけ買えるように、なのです」。普通の量販店なら、安い値段で大量を一つに包装するという策略で消費者を引きつける。価格上小さな包装よりは少し安くなるが、無駄にもなりやすい。「三分の一食べ残したら、三割高くなったことと同じです。でも、食べ飽きた時に無駄にしないためにと無理やり食べるのも、よくありません。個人のニーズに立ち戻り、必要な分だけ買うのがいいでしょう」。蔡さんが言った。

路地の中にある蔡さんの個別包装無しの店は小さすぎて、人々はその存在に気付かないほどである。しかし、苦労して三年間経営してきた今、やっと一握りのリピーターができた。エコのために、常連客は自前の容器を用意して来るが、保証金を払って容器をレンタルし、次回店に来た時に容器を返して、保証金を返してもらうこともできる。

「プラスチック製品は以前から存在しており、繰り返し使用することで、新たに生産するのを減らすことができます」。蔡さんは「プラスチックの削減」を経営における重要ポイントの一つに掲げ、自分の店が、エコという観点からプラスチックを削減する実験的なプラットフォームになることを望んでいる。消費者にこの店を使って、環境に優しいエシカル消費の習慣を身につける練習をして欲しいと思っている。「私たちは、個別包装をしないだけでなく、この理念をより多くの人に理解してもらえるかどうかを重視しています」。

プラスチックの削減と小まめなリサイクル活動は、地球の負荷を減らすと同時に、人々の生活の質を向上させて、より素晴らしく且つ快適な生き方をもたらしてくれるだろう。

(慈済月刊六七九期より)

この店舗では台湾の湿気の多い環境に対応して、ほとんどの食品を小さい密封容器やファンネル状の取り出し口を備えた容器に入れて陳列、販売している。鮮度と安全性を確保するために、大量の食材を長期間陳列することは避けている。

關鍵字

筋力で護る─嘉義慈済クリニック・高齢者スポーツセンター

高齢者スポーツセンターでは、サルコペニアと生活機能喪失予防に取り組んでいる。コーチが筋力を鍛える器具の使い方を指導していた。

嘉義慈済クリニックは医療と運動を結び付けている。

患者は「専用の処方箋」を持って高齢者スポーツセンターを訪れ、生活機能維持と老化を遅らせるため、そして生活の質を向上させて思い通りの暮らしを実現するために、コーチによる一対一の筋力トレーニングを受けている。

近年、台湾ではフィットネスが流行っている。だが嘉義慈済クリニックに設けられた高齢者スポーツセンターは、若者のダイエットや体を鍛えるためのものであるという人々の固定観念を大きく覆した。

ある八十歳のお婆さんは骨粗鬆症になっていたが、高齢者スポーツセンターで筋力トレーニングを受けてから検査したところ、筋肉の増加だけでなく、脂肪の減少も同時に見られた。八十二歳の元医師は、初めて筋力トレーニングに出会ったが、今ではバーベルスクワットやフリーウエイト・トレーニングができるようになった。「筋力トレーニングで引退後の生活の質が向上しました。もっと早く始めていれば良かったと思います」と言った。

大林慈済病院は嘉義慈済クリニックと共同で、二〇二二年の四月に高齢者スポーツセンターを開設した。医療と運動を結び付け、クリニックの患者を対象に、コーチによる一対一の筋力トレーニング・コースを提供している。

台湾では、二〇二五年までに六十五歳以上の人口が二割を超え、「超高齢社会」を迎えると予想されている。高齢者スポーツセンター主任である周宜群(ヅォウ・イーチュン)医師によると、加齢がもたらす健康問題は、サルコペニアになるだけではなく、老化によって筋肉量が減るだけでもない。筋肉、骨、神経系統の三つの方向から同時に衰えるのである。一旦衰え始めると、生活機能が失われ始め、生活の質にも影響が出て来る。

ウオーキング、ジョギング、サイクリングなど長時間の有酸素運動で筋力はアップするが、その効果は限られている。「筋力アップは重量による刺激が必要です」と周医師は言う。筋力トレーニングは筋肉、骨格、神経系統に存分に刺激を与えるため、筋力アップの効果が出て来る。高齢者スポーツセンター最大の目標は、筋力トレーニングによって生活機能喪失を予防し、それぞれの疾患に合った運動を処方することで、人々が生活の質を取り戻すことにある。

林秀月さんはポリオを患い、右足の筋肉が萎縮しており、立っていることも難しく、転倒しやすい。彼女は高齢者スポーツセンターに来て、筋力トレーニングを受け(写真1)、安定して立てるよう鍛えた。今では、リサイクル物を簡単にトラックに投げ入れられるまでになった。(写真2)

手足は鍛えるほど強くなる

「人は自分の体を労わるべきで、注射や薬、または健康食品に依存するのではなく、正しい食生活とトレーニング習慣を身に付けなければなりません」と周医師は言う。今年四十歳の彼は、大林慈済医院の消化器内科の医師で、肝臓がん専門医である。子供の頃から体重が平均以上で、喘息、アレルギーなどを患い、薬漬けだった。中学から高校の頃に運動を始め、ランニング、バスケットボールをした。病院の当直医師になった時、それまで以上に体型を維持したくて、ネットを検索して独学でウエイトトレーニングを学んだ。

五年前からはジムに通い始め、プロのトレーナーについてトレーニングをしたことで、体型が変わったが、その時にネットの情報が実は正確ではないことに気付いた。痛風を患った時、ウエイトトレーニングによる体へのメリットについて研究を始め、同時に「全米エクササイズ委員会パーソナルトレーナー(ACEーCPT)」の資格も取得した。「今が最高の体調です」。

筋力トレーニングは、高齢者の姿勢とバランス能力を改善することができる。バランス能力は、高齢者に片足で立たせる練習では得られない、と周医師は言う。筋力トレーニングは、それ自体がバランス能力を鍛える仕組みになっており、その過程で高齢者は体のあらゆる筋肉を使い、お腹周りの深層筋である体幹筋肉群を使うことで、全身の重心を安定させることができるのである。
一部の高齢者は凹凸のある床や地面で転倒しやすくなるが、試されるのは瞬時に発揮できる筋力だ。「筋力トレーニングによって十分な筋力と反射神経を鍛え、直ちに重心を取り戻し、転倒しないようにするのです」。

六十八歳の林秀月(リン・シュウユエ)さんは、周医師の提案で、高齢者スポーツセンターで筋力トレーニングを受けた。彼女の右足はポリオで筋肉が萎縮し、右膝は退化して、人工関節に置換えできない状態にまでなっていた。長時間座ることが難しく、立ち上がる時も直ぐに立てず、気をつけないとすぐ転んでしまう。リサイクル活動をして三十年になる彼女は、ある時、バイクに回収資源を満載していたが、右足に力が入らないため、よろめいて車ごと転んでしまったことがある。

コーチは林さんの右足の訓練で、例えば、右側の筋肉の萎縮による骨盤の高低差から怪我するのを避けるため、右のお尻を高めにして椅子に座らせている。そして、右足を真っ直ぐに伸ばし、ストレッチチューブを踵にかけて、コーチが手を伸ばした所まで十回蹴り上げる練習も続けてさせている。彼女は以前、注射と飲み薬に依存してきたが、まだ右足に力が入るとは思っていなかった。今では明らかに手足に力が入っていることを感じるようになった。「今の自分を褒めてあげたい。トラックで資源を回収する時も、回収資源の袋を投げ入るのが楽にできるようになり、歳をとって益々盛んになることが理解できました。もっとリサイクル活動ができるように、これからもトレーニングを続けていきます」。

周宜群医師も筋力トレーニングの受益者で、医療専門分野の他、運動を取り入れることで、人々の生活の質を向上させている。

自分の力で立ち上がる

雲林と嘉義地域には高齢者が多く、嘉義慈済クリニックが行う医療の重要な対象の一つになっている。治療よりも予防に重きを置き、一般住民も「運動介入外来」を受診して相談することができる。「患者さんがクリニックに来られて、ニーズがあれば、皆トレーニングすることができます。実際、誰でもニーズはあるはずだと思います」と周医師が言った。

問診の後で患者さんの状況に合わせる場合、例えば、慢性病や人工関節に置き替えている患者さんには、コーチと相談して「専用の処方箋」を作成する。コーチも毎回の各クラスの状況に合わせてコースをアレンジしてくれる。周医師の説明では、人工股関節や人工膝関節に替えた患者さんの中には、手術後は十分な保護が必要で、体重による刺激があってはならず、関節周りの筋肉が大きく強くなって初めて、保護力が生まれるのだそうだ。「私はコーチに下半身を重点にトレーニングしてもらっています。例えば、スクワットの動作でも、角度の制限を設けず、フルスクワットやハーフスクワットに近い動作を求め、そこから少しずつ深く屈めていくようにしています」。

筋力トレーニングが合わない場合、例えば、近頃胸の痛みや胸の圧迫感、気を失うなどの症状があれば、先ず心臓の検査を勧める。少し歩くと息切れするようであれば、心不全の可能性に留意すべきで、足首の浮腫は、潜在的な腎臓または肝臓疾患の可能性がある。

六十五歳の戴一芳(ダイ・イーフォン)さんは、十数年前のある朝、右肩が突然こわばり、だるさと痛み、しびれを感じ、服のボタンを止めることも出来なかったが、その時は気にかけなかった。後に交通事故に遭い、骨粗鬆症が悪化し、症状が最も重かった時は、両足に力が入らなく、五、六分間歩いただけでも息切れがして、座ると座骨に針が刺すような痛みを感じ、体重も四十キロから三十キロに激減した。半年前、娘の勧めで、高齢者スポーツセンターに通い始めた。

「先ず椅子に座ってから立ち上がり、ゆっくり椅子の高さまで屈みます。太ももの力で体を支えます…」センターのコーチ・王皓譽(ワン・ハオユー)さんによると、戴さんの体は骨による支えが不十分なので、負荷をかけすぎないようにしている。そして、脊椎を左右にひねったり、前後に曲げたりする時は、「先ず筋肉を使っている感覚を掴み、筋肉で体を制御していることを理解してもらうことです」と言う。

クリニックではサルコペニアや腰痛の患者によく出会うが、九割近くは運動の習慣がなく、多くの患者には退化の傾向があり、歩行や日常の行動で以前よりも困難になっていると感じている、と王さんが言った。また、手術を終えた患者の中には医師に勧められて、トレーニングを受けることで筋力を鍛えている人もいる。コーチは患者の体調に合わせたコースを設計し、未経験者でも心配はない。「基礎から徐々にトレーニングしていきす」。

戴さんは、車椅子や杖をついて来ている人を見ると、自分はまだ歩けるから嬉しい。トレーニングする前はいつも自分を励ましている。「今は足に力があるので、一、二時間歩き続けられますし、立ちあがる時も手で支える必要がなくなりました。トレーニングを続けます。いつか山登りに行きたいからです」。

蕭愷翔(右)さんは交通事故で胸椎から下の機能を失い、病院で長期間リハビリをしているが、高齢者スポーツセンターでも王皓譽コーチ(左)の協力で、上半身を鍛えている。

九歳から九十九歳まで

今年二十八歳の蕭愷翔(ショウ・カイシャン)さんは八年前に交通事故で、胸椎高位を骨折し、胸椎から下の機能を完全に失って、移動は車椅子に頼らざるを得なくなった。長年病院でリハビリを続け、家でもダンベル、バーベルなどの挙上運動をしている。上肢の運動が更に強化できると思い、お母さんは彼を高齢者スポーツセンターに連れてきた。

「横になって、胸を張り、体幹に力を入れて、両手にダンベルを持って真っ直ぐ伸ばし、ダンベルを四十五度の角度まで下げます…」。上半身は蕭さんが唯一動かせる部分であり、王さんは特に彼の胸、背中、腕を鍛えることで、体が安定することを目指した。

王さんによれば、スポーツトレーナーは理学療法士とは異なり、主に怪我予防の観点から始め、患者に正しい運動姿勢と観念を持ってもらい、けがの治療そのものや医療行為をすることはできない。理学療法士は、けがしてからのリハビリと治療に重点を置いている。それ故、急なけがや痛みがある場合は、先ず医師が診断してから、治療することを勧めている。

蕭さんの話では、トレーニングの時のコーチは説明がとても細かく丁寧で、しかも注意深く自分を守ってくれるそうだ。病院でのリハビリは、体の機能を退化させず維持できるが、筋力トレーニングをすれば更に進歩する。「交通事故で神経が傷ついて、以前は背中の筋肉に感覚がなかったのですが、今は背中の筋肉に力が入るのを感じます。また、以前は背もたれのある椅子が必要でしたが、今ではそれがなくても座れます」と言った。

「患者さんが、大分良くなりました、と言ってくれると、とても嬉しいです」。以前、一般のスポーツジムに勤めていた時は、体力があって、精力に溢れた若い人が多かったが、それに比べ、今は、高齢者、障碍者、病気の人など複雑な状況で、大変な任務だが、達成感を感じる。「彼らは辛い状態でここにやって来るので、楽な気持ちになって、気ままに楽しく、このスポーツセンターから出て行って欲しいのです」。

王さんによると、ある四十代の患者は小人症と早期発症型パーキンソン病を患っていたが、トレーニングを始めてから、精神状態が改善したと言う。その人は、誰かが付き添って運動したり、おしゃべりできるので、クラスに来る時間が一番楽しい、と言う。「患者からのフィードバックが、私に前進させる力を与えてくれます」と王さんは言った。

今の若者は電子機器が手放せず、屋外活動をしたがらない。まだ高齢者のようなサルコペニアではないが、「筋力低下」の傾向があるため、適度な筋力トレーニングを始めた方が良いと周医師は言う。「私のビジョンは、九歳から九十九歳までの人が、筋力トレーニングをすることです」。

筋力トレーニングをする考えは、あらゆる年齢層に広めるべきで、特に高齢者は自立した行動が維持でき、生活機能を失う時期を遅らせることができる、と周医師が言った。

「人生はただ生きているだけで良いのではなく、自分なりの生活の質と生き方を望むなら、筋力トレーニングが最も良い答えです」。「筋力トレーニングはゆっくりと改善できるので、少なくとも半年以上の時間をかけて、コーチの教える通りにやっていけば、きっと効果が見えるはずです」と彼は少し厳しく厳粛に呼びかけている。

(慈済月刊六七六期より)

高齢者スポーツセンターでは、サルコペニアと生活機能喪失予防に取り組んでいる。コーチが筋力を鍛える器具の使い方を指導していた。

嘉義慈済クリニックは医療と運動を結び付けている。

患者は「専用の処方箋」を持って高齢者スポーツセンターを訪れ、生活機能維持と老化を遅らせるため、そして生活の質を向上させて思い通りの暮らしを実現するために、コーチによる一対一の筋力トレーニングを受けている。

近年、台湾ではフィットネスが流行っている。だが嘉義慈済クリニックに設けられた高齢者スポーツセンターは、若者のダイエットや体を鍛えるためのものであるという人々の固定観念を大きく覆した。

ある八十歳のお婆さんは骨粗鬆症になっていたが、高齢者スポーツセンターで筋力トレーニングを受けてから検査したところ、筋肉の増加だけでなく、脂肪の減少も同時に見られた。八十二歳の元医師は、初めて筋力トレーニングに出会ったが、今ではバーベルスクワットやフリーウエイト・トレーニングができるようになった。「筋力トレーニングで引退後の生活の質が向上しました。もっと早く始めていれば良かったと思います」と言った。

大林慈済病院は嘉義慈済クリニックと共同で、二〇二二年の四月に高齢者スポーツセンターを開設した。医療と運動を結び付け、クリニックの患者を対象に、コーチによる一対一の筋力トレーニング・コースを提供している。

台湾では、二〇二五年までに六十五歳以上の人口が二割を超え、「超高齢社会」を迎えると予想されている。高齢者スポーツセンター主任である周宜群(ヅォウ・イーチュン)医師によると、加齢がもたらす健康問題は、サルコペニアになるだけではなく、老化によって筋肉量が減るだけでもない。筋肉、骨、神経系統の三つの方向から同時に衰えるのである。一旦衰え始めると、生活機能が失われ始め、生活の質にも影響が出て来る。

ウオーキング、ジョギング、サイクリングなど長時間の有酸素運動で筋力はアップするが、その効果は限られている。「筋力アップは重量による刺激が必要です」と周医師は言う。筋力トレーニングは筋肉、骨格、神経系統に存分に刺激を与えるため、筋力アップの効果が出て来る。高齢者スポーツセンター最大の目標は、筋力トレーニングによって生活機能喪失を予防し、それぞれの疾患に合った運動を処方することで、人々が生活の質を取り戻すことにある。

林秀月さんはポリオを患い、右足の筋肉が萎縮しており、立っていることも難しく、転倒しやすい。彼女は高齢者スポーツセンターに来て、筋力トレーニングを受け(写真1)、安定して立てるよう鍛えた。今では、リサイクル物を簡単にトラックに投げ入れられるまでになった。(写真2)

手足は鍛えるほど強くなる

「人は自分の体を労わるべきで、注射や薬、または健康食品に依存するのではなく、正しい食生活とトレーニング習慣を身に付けなければなりません」と周医師は言う。今年四十歳の彼は、大林慈済医院の消化器内科の医師で、肝臓がん専門医である。子供の頃から体重が平均以上で、喘息、アレルギーなどを患い、薬漬けだった。中学から高校の頃に運動を始め、ランニング、バスケットボールをした。病院の当直医師になった時、それまで以上に体型を維持したくて、ネットを検索して独学でウエイトトレーニングを学んだ。

五年前からはジムに通い始め、プロのトレーナーについてトレーニングをしたことで、体型が変わったが、その時にネットの情報が実は正確ではないことに気付いた。痛風を患った時、ウエイトトレーニングによる体へのメリットについて研究を始め、同時に「全米エクササイズ委員会パーソナルトレーナー(ACEーCPT)」の資格も取得した。「今が最高の体調です」。

筋力トレーニングは、高齢者の姿勢とバランス能力を改善することができる。バランス能力は、高齢者に片足で立たせる練習では得られない、と周医師は言う。筋力トレーニングは、それ自体がバランス能力を鍛える仕組みになっており、その過程で高齢者は体のあらゆる筋肉を使い、お腹周りの深層筋である体幹筋肉群を使うことで、全身の重心を安定させることができるのである。
一部の高齢者は凹凸のある床や地面で転倒しやすくなるが、試されるのは瞬時に発揮できる筋力だ。「筋力トレーニングによって十分な筋力と反射神経を鍛え、直ちに重心を取り戻し、転倒しないようにするのです」。

六十八歳の林秀月(リン・シュウユエ)さんは、周医師の提案で、高齢者スポーツセンターで筋力トレーニングを受けた。彼女の右足はポリオで筋肉が萎縮し、右膝は退化して、人工関節に置換えできない状態にまでなっていた。長時間座ることが難しく、立ち上がる時も直ぐに立てず、気をつけないとすぐ転んでしまう。リサイクル活動をして三十年になる彼女は、ある時、バイクに回収資源を満載していたが、右足に力が入らないため、よろめいて車ごと転んでしまったことがある。

コーチは林さんの右足の訓練で、例えば、右側の筋肉の萎縮による骨盤の高低差から怪我するのを避けるため、右のお尻を高めにして椅子に座らせている。そして、右足を真っ直ぐに伸ばし、ストレッチチューブを踵にかけて、コーチが手を伸ばした所まで十回蹴り上げる練習も続けてさせている。彼女は以前、注射と飲み薬に依存してきたが、まだ右足に力が入るとは思っていなかった。今では明らかに手足に力が入っていることを感じるようになった。「今の自分を褒めてあげたい。トラックで資源を回収する時も、回収資源の袋を投げ入るのが楽にできるようになり、歳をとって益々盛んになることが理解できました。もっとリサイクル活動ができるように、これからもトレーニングを続けていきます」。

周宜群医師も筋力トレーニングの受益者で、医療専門分野の他、運動を取り入れることで、人々の生活の質を向上させている。

自分の力で立ち上がる

雲林と嘉義地域には高齢者が多く、嘉義慈済クリニックが行う医療の重要な対象の一つになっている。治療よりも予防に重きを置き、一般住民も「運動介入外来」を受診して相談することができる。「患者さんがクリニックに来られて、ニーズがあれば、皆トレーニングすることができます。実際、誰でもニーズはあるはずだと思います」と周医師が言った。

問診の後で患者さんの状況に合わせる場合、例えば、慢性病や人工関節に置き替えている患者さんには、コーチと相談して「専用の処方箋」を作成する。コーチも毎回の各クラスの状況に合わせてコースをアレンジしてくれる。周医師の説明では、人工股関節や人工膝関節に替えた患者さんの中には、手術後は十分な保護が必要で、体重による刺激があってはならず、関節周りの筋肉が大きく強くなって初めて、保護力が生まれるのだそうだ。「私はコーチに下半身を重点にトレーニングしてもらっています。例えば、スクワットの動作でも、角度の制限を設けず、フルスクワットやハーフスクワットに近い動作を求め、そこから少しずつ深く屈めていくようにしています」。

筋力トレーニングが合わない場合、例えば、近頃胸の痛みや胸の圧迫感、気を失うなどの症状があれば、先ず心臓の検査を勧める。少し歩くと息切れするようであれば、心不全の可能性に留意すべきで、足首の浮腫は、潜在的な腎臓または肝臓疾患の可能性がある。

六十五歳の戴一芳(ダイ・イーフォン)さんは、十数年前のある朝、右肩が突然こわばり、だるさと痛み、しびれを感じ、服のボタンを止めることも出来なかったが、その時は気にかけなかった。後に交通事故に遭い、骨粗鬆症が悪化し、症状が最も重かった時は、両足に力が入らなく、五、六分間歩いただけでも息切れがして、座ると座骨に針が刺すような痛みを感じ、体重も四十キロから三十キロに激減した。半年前、娘の勧めで、高齢者スポーツセンターに通い始めた。

「先ず椅子に座ってから立ち上がり、ゆっくり椅子の高さまで屈みます。太ももの力で体を支えます…」センターのコーチ・王皓譽(ワン・ハオユー)さんによると、戴さんの体は骨による支えが不十分なので、負荷をかけすぎないようにしている。そして、脊椎を左右にひねったり、前後に曲げたりする時は、「先ず筋肉を使っている感覚を掴み、筋肉で体を制御していることを理解してもらうことです」と言う。

クリニックではサルコペニアや腰痛の患者によく出会うが、九割近くは運動の習慣がなく、多くの患者には退化の傾向があり、歩行や日常の行動で以前よりも困難になっていると感じている、と王さんが言った。また、手術を終えた患者の中には医師に勧められて、トレーニングを受けることで筋力を鍛えている人もいる。コーチは患者の体調に合わせたコースを設計し、未経験者でも心配はない。「基礎から徐々にトレーニングしていきす」。

戴さんは、車椅子や杖をついて来ている人を見ると、自分はまだ歩けるから嬉しい。トレーニングする前はいつも自分を励ましている。「今は足に力があるので、一、二時間歩き続けられますし、立ちあがる時も手で支える必要がなくなりました。トレーニングを続けます。いつか山登りに行きたいからです」。

蕭愷翔(右)さんは交通事故で胸椎から下の機能を失い、病院で長期間リハビリをしているが、高齢者スポーツセンターでも王皓譽コーチ(左)の協力で、上半身を鍛えている。

九歳から九十九歳まで

今年二十八歳の蕭愷翔(ショウ・カイシャン)さんは八年前に交通事故で、胸椎高位を骨折し、胸椎から下の機能を完全に失って、移動は車椅子に頼らざるを得なくなった。長年病院でリハビリを続け、家でもダンベル、バーベルなどの挙上運動をしている。上肢の運動が更に強化できると思い、お母さんは彼を高齢者スポーツセンターに連れてきた。

「横になって、胸を張り、体幹に力を入れて、両手にダンベルを持って真っ直ぐ伸ばし、ダンベルを四十五度の角度まで下げます…」。上半身は蕭さんが唯一動かせる部分であり、王さんは特に彼の胸、背中、腕を鍛えることで、体が安定することを目指した。

王さんによれば、スポーツトレーナーは理学療法士とは異なり、主に怪我予防の観点から始め、患者に正しい運動姿勢と観念を持ってもらい、けがの治療そのものや医療行為をすることはできない。理学療法士は、けがしてからのリハビリと治療に重点を置いている。それ故、急なけがや痛みがある場合は、先ず医師が診断してから、治療することを勧めている。

蕭さんの話では、トレーニングの時のコーチは説明がとても細かく丁寧で、しかも注意深く自分を守ってくれるそうだ。病院でのリハビリは、体の機能を退化させず維持できるが、筋力トレーニングをすれば更に進歩する。「交通事故で神経が傷ついて、以前は背中の筋肉に感覚がなかったのですが、今は背中の筋肉に力が入るのを感じます。また、以前は背もたれのある椅子が必要でしたが、今ではそれがなくても座れます」と言った。

「患者さんが、大分良くなりました、と言ってくれると、とても嬉しいです」。以前、一般のスポーツジムに勤めていた時は、体力があって、精力に溢れた若い人が多かったが、それに比べ、今は、高齢者、障碍者、病気の人など複雑な状況で、大変な任務だが、達成感を感じる。「彼らは辛い状態でここにやって来るので、楽な気持ちになって、気ままに楽しく、このスポーツセンターから出て行って欲しいのです」。

王さんによると、ある四十代の患者は小人症と早期発症型パーキンソン病を患っていたが、トレーニングを始めてから、精神状態が改善したと言う。その人は、誰かが付き添って運動したり、おしゃべりできるので、クラスに来る時間が一番楽しい、と言う。「患者からのフィードバックが、私に前進させる力を与えてくれます」と王さんは言った。

今の若者は電子機器が手放せず、屋外活動をしたがらない。まだ高齢者のようなサルコペニアではないが、「筋力低下」の傾向があるため、適度な筋力トレーニングを始めた方が良いと周医師は言う。「私のビジョンは、九歳から九十九歳までの人が、筋力トレーニングをすることです」。

筋力トレーニングをする考えは、あらゆる年齢層に広めるべきで、特に高齢者は自立した行動が維持でき、生活機能を失う時期を遅らせることができる、と周医師が言った。

「人生はただ生きているだけで良いのではなく、自分なりの生活の質と生き方を望むなら、筋力トレーニングが最も良い答えです」。「筋力トレーニングはゆっくりと改善できるので、少なくとも半年以上の時間をかけて、コーチの教える通りにやっていけば、きっと効果が見えるはずです」と彼は少し厳しく厳粛に呼びかけている。

(慈済月刊六七六期より)

關鍵字

美しいこの世を愛おしみ大切にしましょう

(絵・陳九熹)

この世に病、苦しみ、障害、疾病に見舞われないなどありえません。

しかし、人心が調和してこの世に愛が満ちれば、平穏で戦争のない世界にすることができ、あらゆる貧困で病苦にある人々を慰撫することができるのです。

恩師のことを思えば、六十年前、師は私に「仏教の為、衆生の為」という言葉を下さり、私が人生で出家人として、その正道を寸分違わず進むべき方向を示してくれました。真直ぐ進み、僅かな偏りもなく、寸歩も間違えず歩んで来ました。

仏陀も私の導師です。仏陀が入滅されてから数百年後に、高僧の賢達は仏法を一部ずつ編集しました。あらゆる経蔵は貴く、一字一句が教育であり、後世の人たちがどのようにして凡夫の習気(じっけ)と欲念を断ち切るべきかを学ぶことができるのです。私は生涯のうちに、《四十二章経》、《仏遺教経》、《八大人覚経》、《法華経》、《薬師経》など重要な経典を講釈して来ましたが、中でも《無量義経》は永遠に固守しています。

出家する前、私は台中の慈雲寺にいた時、或る信者が慌ただしく修道法師にこう話すのを聞きました。「隣の家が改築している時に、ベッドの下から《法華経》が出てきたそうです。何代前の物か分からないが、古物商に持っていくつもりだと言っていました」。《法華経》と聞いて、心に法喜が芽ばえ、直ぐ、それをいただいて来ました。

その後《法華経》を読み、《法華経》を書き写し、《法華経》を語るようになりました。私の生涯は、法華の道から離れることはありませんでした。七十年前に手に入れたその《法華経》は、近年ページがバラバラになっていました。今年六月、国立台湾図書館から細心に修復された《コーラン経》が送り返されて来ましたが、その細かい仕事ぶりには感嘆するばかりです。そのような縁に恵まれたことで、大きな自信を得て、とても感謝しています。そこで、あの《法華経》を彼らに託して修復してもらい、代々に引き継いでもらうことにしました。

私のところにある、あの《コーラン経》は手書きのもので、二〇二〇年にトルコの胡光中居士が私にくれたものです。五百年の歴史があり、紙には虫食いの跡があります。この貴重な経典を私は大切に保存するつもりです。また現代の技術による修復によってさらに百年千年と受け継がれることに、感謝の気持ちでいっぱいです。

五濁悪世に身を置いていると、まるで真っ暗なトンネルの中にいるようですが、経典は私たちに道を切り開いてくれます。トンネルの先は光明です。宗教の名称は異なっても、含まれている道理は同じです。世のためにならなければ経にはならず、道理は世の中に伝えることができ、異なった根機の人の役に立つような宗教は弘める価値があります。「大愛」、「仁愛」、「博愛」のどれも互いに通じ合うものであり、この世に有益であれば、宗教に区別はなく、好いことは大いに弘めるべきで、道を広く平らにすることがこの世に幸せをもたらすことです。

天地万物による恵みが人類の生活を支え、四大元素の調和は士農工商の発展に繋がり、皆が和気藹々に助け合うようになります。天の気、水の気、地の気、人の気の調和が取れれば、人間(じんかん)に天国が現れ、天国の世の中になるのではないでしょうか?こんなにも良いこの世を、どうしてお互いに破壊する必要があるのでしょうか。

好い言葉を話し、好い行動をし、好い心を持てば、この世に幸せをもたらすことができるのです。逆に悪言を吐けば、人と人の間の感情を乱し、社会を攪乱し、ひいては国と国の争いを引き起こしてしまいます。人同士の心が和さなければ、気も和することはできません。

たった一念の心の調和がとれなかったことで、昨日は握手して抱擁した相手が、今日は反目する敵となり、戦火のために数知れない人々が家を失っています。この世から病と苦しみをなくすことは不可能ですが、平穏で戦争のない世にすることは可能なのです。

目に見えない心の欲念は、防ぎようのない業力を作り出します。現実の世の中では、心配事は多いものです。特に気候変動で風災や水害が引き起こされ、森林火災は、小さな火種が全てを焼き尽くす森林火災になるため、それを止めることは難しいのです。この世の災害は益々酷くなり、年々増加し、実に多くの人が被災して苦しんでいます。多くの人は「人の力は天に勝る」と思っていますが、本当に可能でしょうか?心から反省し、傲慢にならず、謙遜して、敬虔になければなりません。

では、どうやって敬虔さを表したらいいのでしょうか?日々一度祈るだけでなく、常に身口意を以て示すのです。心に欲念がなく、常に善い言葉を口にし、人と共に善行をし、互いに褒め合うのです。私は、人類が共に生活しているこの土地を愛しており、皆が一緒に愛おしむことを願っています。あなたの国に困難があれば、私の国が愛の心で以て支援します。人々は自由に行き来すれば、争いは起こりません。世のあらゆる貧困や苦しみ、病はすべて慰撫とケアを受けられるのです。

世界八十億もの人が同じ心を持つことは望めませんが、私たちはそれを自分に求めることはできます。慈済人一人ひとりが、縁のある人に感動を与えよう、と自分に求めることはできます。縁を造って、人に出会う度に慈済のことを話し、好い言葉を口にし、共に大きく立願して、善行することで、普くこの世から苦難をなくすのです。

私が一番気に掛かっているのは、世の中で助けを必要としている人がいても、接触することができず、助けてあげられないことです。彼らは災難に遭っても幸いに生き延びた人たちですが、本当に生き延びられるのでしょうか?彼らの苦しみを想い、大勢の苦難と飢餓に喘ぐ人々を想うと、毎日平和で自在でいられる私たちは、自分の幸せを知って大切にし、更に敬虔になって、多くの菩薩がこの世に幸福をもたらすよう呼びかけましょう。皆さん、心して精進してください。

(慈済月刊六八〇期より)

(絵・陳九熹)

この世に病、苦しみ、障害、疾病に見舞われないなどありえません。

しかし、人心が調和してこの世に愛が満ちれば、平穏で戦争のない世界にすることができ、あらゆる貧困で病苦にある人々を慰撫することができるのです。

恩師のことを思えば、六十年前、師は私に「仏教の為、衆生の為」という言葉を下さり、私が人生で出家人として、その正道を寸分違わず進むべき方向を示してくれました。真直ぐ進み、僅かな偏りもなく、寸歩も間違えず歩んで来ました。

仏陀も私の導師です。仏陀が入滅されてから数百年後に、高僧の賢達は仏法を一部ずつ編集しました。あらゆる経蔵は貴く、一字一句が教育であり、後世の人たちがどのようにして凡夫の習気(じっけ)と欲念を断ち切るべきかを学ぶことができるのです。私は生涯のうちに、《四十二章経》、《仏遺教経》、《八大人覚経》、《法華経》、《薬師経》など重要な経典を講釈して来ましたが、中でも《無量義経》は永遠に固守しています。

出家する前、私は台中の慈雲寺にいた時、或る信者が慌ただしく修道法師にこう話すのを聞きました。「隣の家が改築している時に、ベッドの下から《法華経》が出てきたそうです。何代前の物か分からないが、古物商に持っていくつもりだと言っていました」。《法華経》と聞いて、心に法喜が芽ばえ、直ぐ、それをいただいて来ました。

その後《法華経》を読み、《法華経》を書き写し、《法華経》を語るようになりました。私の生涯は、法華の道から離れることはありませんでした。七十年前に手に入れたその《法華経》は、近年ページがバラバラになっていました。今年六月、国立台湾図書館から細心に修復された《コーラン経》が送り返されて来ましたが、その細かい仕事ぶりには感嘆するばかりです。そのような縁に恵まれたことで、大きな自信を得て、とても感謝しています。そこで、あの《法華経》を彼らに託して修復してもらい、代々に引き継いでもらうことにしました。

私のところにある、あの《コーラン経》は手書きのもので、二〇二〇年にトルコの胡光中居士が私にくれたものです。五百年の歴史があり、紙には虫食いの跡があります。この貴重な経典を私は大切に保存するつもりです。また現代の技術による修復によってさらに百年千年と受け継がれることに、感謝の気持ちでいっぱいです。

五濁悪世に身を置いていると、まるで真っ暗なトンネルの中にいるようですが、経典は私たちに道を切り開いてくれます。トンネルの先は光明です。宗教の名称は異なっても、含まれている道理は同じです。世のためにならなければ経にはならず、道理は世の中に伝えることができ、異なった根機の人の役に立つような宗教は弘める価値があります。「大愛」、「仁愛」、「博愛」のどれも互いに通じ合うものであり、この世に有益であれば、宗教に区別はなく、好いことは大いに弘めるべきで、道を広く平らにすることがこの世に幸せをもたらすことです。

天地万物による恵みが人類の生活を支え、四大元素の調和は士農工商の発展に繋がり、皆が和気藹々に助け合うようになります。天の気、水の気、地の気、人の気の調和が取れれば、人間(じんかん)に天国が現れ、天国の世の中になるのではないでしょうか?こんなにも良いこの世を、どうしてお互いに破壊する必要があるのでしょうか。

好い言葉を話し、好い行動をし、好い心を持てば、この世に幸せをもたらすことができるのです。逆に悪言を吐けば、人と人の間の感情を乱し、社会を攪乱し、ひいては国と国の争いを引き起こしてしまいます。人同士の心が和さなければ、気も和することはできません。

たった一念の心の調和がとれなかったことで、昨日は握手して抱擁した相手が、今日は反目する敵となり、戦火のために数知れない人々が家を失っています。この世から病と苦しみをなくすことは不可能ですが、平穏で戦争のない世にすることは可能なのです。

目に見えない心の欲念は、防ぎようのない業力を作り出します。現実の世の中では、心配事は多いものです。特に気候変動で風災や水害が引き起こされ、森林火災は、小さな火種が全てを焼き尽くす森林火災になるため、それを止めることは難しいのです。この世の災害は益々酷くなり、年々増加し、実に多くの人が被災して苦しんでいます。多くの人は「人の力は天に勝る」と思っていますが、本当に可能でしょうか?心から反省し、傲慢にならず、謙遜して、敬虔になければなりません。

では、どうやって敬虔さを表したらいいのでしょうか?日々一度祈るだけでなく、常に身口意を以て示すのです。心に欲念がなく、常に善い言葉を口にし、人と共に善行をし、互いに褒め合うのです。私は、人類が共に生活しているこの土地を愛しており、皆が一緒に愛おしむことを願っています。あなたの国に困難があれば、私の国が愛の心で以て支援します。人々は自由に行き来すれば、争いは起こりません。世のあらゆる貧困や苦しみ、病はすべて慰撫とケアを受けられるのです。

世界八十億もの人が同じ心を持つことは望めませんが、私たちはそれを自分に求めることはできます。慈済人一人ひとりが、縁のある人に感動を与えよう、と自分に求めることはできます。縁を造って、人に出会う度に慈済のことを話し、好い言葉を口にし、共に大きく立願して、善行することで、普くこの世から苦難をなくすのです。

私が一番気に掛かっているのは、世の中で助けを必要としている人がいても、接触することができず、助けてあげられないことです。彼らは災難に遭っても幸いに生き延びた人たちですが、本当に生き延びられるのでしょうか?彼らの苦しみを想い、大勢の苦難と飢餓に喘ぐ人々を想うと、毎日平和で自在でいられる私たちは、自分の幸せを知って大切にし、更に敬虔になって、多くの菩薩がこの世に幸福をもたらすよう呼びかけましょう。皆さん、心して精進してください。

(慈済月刊六八〇期より)

關鍵字

一念の心は変わらず 私はまたバトンを受け継ぐ

「鏡の中の人に笑って欲しかったら、先ず自分から笑うこと」。林勝勝さんはいつもこの良い言葉でボランティアに顔色や声音の大切さを話していた。(撮影・杜偉晟)

台北のベテラン慈済委員、林勝勝(リン・スンスン)さんは、叡智に溢れ、朗らかで、ユーモアがあり、優しい性格であった故に、四十年間、慈済で多くの善縁を結んで来たのである。一九八九年、慈済看護専門学校の懿徳母姉会の第一期懿徳ママとなり、その時から三十年以上、慈済の学生に寄り添って来た。今年五月七日、彼女は円満にその生涯を閉じた。享年八十歳で再度帰校した。願い通り、慈済大学で遺体先生(献体)となったのである。

(本文は二〇二〇年から二〇二二年のインタビューの内容を編集したもので、林勝勝師姐の長女の陳麗勳(チェン・リーシュン)さんと北部人文真善美ボランティアが残した貴重な史料である。手本となる姿が永年に残ることに感謝している)。

私の名前は林勝勝(リン・スンスン)で、上人がくださった法号は静宥(ジンヨウ)です。幸いにも上人に付き従い、菩薩道を歩むことができたことは、私にとってこの一生が満足するものでした。

仏教寓話にこういう話があります。山火事が発生した時、一羽の小鳥が自分は逃げられたのに、他の動物が逃げられないのを見て忍びなく思い、羽に水をつけては羽ばたいて水滴を撒き、行ったり来たりして火を消そうとしました。それに感動した龍天護法の神は雨を降らせ、山火事を鎮めました。私は、上人こそがその小鳥で、絶えず衆生のために奔走していると感じました。

以前、花蓮から台北に帰る時いつも、上人自らが私たちを見送ってくれました。精舎本殿の花壇の前に立ち、片方の手を後に回し、もう一方の手を私たちに振っていました。当時は「同じ道を歩むものは各地にいる」とは言え、まだサポートの力は弱く、上人の孤独で華奢なお姿を見ると私たちは離れ難くなり、何度も振り返り、涙が溢れました。本当に名残惜しい思いをしました!

上人は私たちに泣かないで、とおっしゃいました。「涙は外に流してはいけません。風に吹かれて涸れてしまいますから。涙は内に呑み込み、それを昇華して力に変え、世の苦難にあえぐ蒼生を救うのです」。どれほど時間が過ぎても、その情景を思い出して心に刻んでいます。

ある人は私に、病気になったら、「慈済ボランティア」としての役目に影響がありますか?と聞きました。全く影響はありませんと答えました!なぜなら、全ては一念の心にあるのですから。上人がたとえ点滴をしながらでも、大衆のために開示しようとする姿が、最も良い手本です。

二〇二二年八月、私は尿路結石が原因で大量の血尿が出てしまい、台北慈済病院で手術治療をしました。身をもって苦を経験したことは、私にとって感慨深いものがありました。

私は横になって手術室に運ばれましたが、その時幾つものドアを通りました。一つ目のドアが開き、二つ目のドアも開き、三つ目のドアが開いた時、やっと本当の手術室が見えました。大きくて、広々としていたのにはびっくりしました。

右側に二列、左側にも二列とたくさんの人が手術を待っていたのです。そこにはたくさんの医療スタッフがいて、皆動きがとても早く、真剣に全ての命を救っていました。

私は「一念心」(一念の心)という三文字を見て、四十年前を思い出しました。上人は、一人ひとりが毎日五十銭を寄付して、病院を建てて人助けするのだと言いましたが、当時は皆「できるのだろうか?」と半信半疑でした。

上人は初期のお弟子さんにこう言ったそうです。「皆が『楽することを犠牲にすれば』、将来『犠牲を楽しむ』ことができるのです」。数十年の月日を経て、五十銭で本当にたくさんの人を救えることを身でもって体験しました。

仏法は無形ですが、慈済は無形を有形にしました。私は自ら患者になって慈済病院に行き、ハードウェアだけでなく、素晴らしいソフトウェア(慈済精神)も体験しました。彼らは真の大医王であり、白衣の天使なのです。私はその場で涙が出ました。

私の側には事務担当の看護師である宣霈(シュェンペイ)さんが付き添ってくれ、私は彼女の手を握りながら理解しました。「他人を救うだけでなく、自分も救える」ことを。五十銭を軽視してはいけません。今、上人はアフリカを変えるという大きな発願をなさっています。この「一念の心」は、アフリカを「オアシス」に変えることでしょう。

真心からの笑顔は誰からも好かれる

一九八四年、慈済に参加し、上人の大変な様子を目の当たりして、「私には人脈もなく、主人は公務員です。どうやって会員を募ればいいのでしょうか」と尋ねました。上人は、「先ず人々があなたを好きになることです。そうすればあなたが参加している団体、ひいてはその宗教を好きになるでしょう」と言いました。この理念は私に、慈済の道はどうやって歩むべきかを教えてくれました。人が道を弘めるのであって、道が人を弘めるのではないことを理解しました。人を変える唯一の方法は、先ず自分が変わることです。私は人に出会うと、笑顔で接し、心を込めて微笑むようになりました。

私は花蓮から帰ってくると、隣近所にどのようにして慈済を紹介するかを考えました。隣の人から「陳さんの奥さん、最近のあなたはとても楽しそうですね」と言われた時、「そうなんです。とても楽しいです!花蓮にとても立派な法師がいらっしゃって、お弟子さんたちと内職をして自力更生していますが、病院を建てて人助けをしたいと言われるのです。素晴らしいと思いませんか?一日十元節約すれば、私たちも病院を建てられます!毎月百元節約すれば、その病院はいつでも人助けができるのです!」と話しました。

その後、私は隣人を花蓮に連れて帰り、上人に紹介しました。私たちが住んでいる合江街百三十巷は皆、良い隣人で、今みんなが慈済の会員になっています。

「ではあなたたちのいる路地を慈済巷と呼びましょう!」。上人の言葉を私たちはしっかり聞き入れました。慈済巷であれば、もっと努力してください、と上人が言いました!

歩んできた道を振り返ると、最も役に立った上人の言葉は、「鏡の中の人に笑って欲しければ、先ず自分から笑うこと」です。この数十年間、私はこの良薬を携え、無数の人を慈済の大家族に迎え入れました。ですから、笑顔はお金がかからないが、とても価値のあるものだと思っています。また、会員を迎えるのに微笑みだけでなく、「誠」と「情」も必要です。「あなたに出会った人が嬉しくなるように」というのも上人が身をもって教えてくれました。

誠とは表裏が無いことです。表情も人に語りかけることができるため、「声のトーン」や顔色はとても大事です。私たちは皆、鏡の中の人であり、慈済ボランティアになるということは、人にあなたの真心を感じてもらうことなのです。例えば、私を慈済に導いてくれた陳錦花(チェン・ジンフワ)師姐の場合、慈悲は口で語るものではなく、形となって現れ、姿、表情、協力の度合いなどであり、それが慈悲である故に、多くの人を導いて来たのです。

慈済が枝葉を広げるには、皆の「誠」と「情」が必要です。実は、誰もがそうしたいと思っているのですが、まだ啓発されずにいて、心に触れていないだけなのです。普通の人は善門から入りますが、善行するだけでは足りません。身をもってそれらを経験し、自ら感じ取る必要があるのです!実際にケア世帯に連れて行くと、心に触れます。自分が一番可哀想な人間なのではなく、それほど苦しんでいないことに気づきます。

初期の無から有になりましたが、人々を四大志業の様々な方法で迎え入れ、迷いを智慧に変えたのです。慈済の法門は生き生きとしています。そうでなければ、皆どうすれば良いか理解できません。具体的なものを見せ、実践を通じて道理を示せば理解できるのです。人を救う人が菩薩であり、仏法を生活に取り入れるとはこういうことなのです。

林勝勝さん(前列右から2人目)は30年前、病院建設のために募金集めをした。住んでいた台北市合江街130巷は、百メートル以内の8割以上の住民が会員になり、愛に溢れていた。写真は慈済40周年の時にボランティアと記念に撮ったもの。(撮影・曽芳榮)

実践したことを話し、話したことを実践する

慈済に来たならば正思惟を学んでください。上人が話す言葉はどれも非常に前向きですから。以前、ある地区で厨房ボランティアが作った料理がとても塩辛く、食べられないというクレームが出ました。上人はその話を聞いて、私は彼らが調理したものが美味しいかどうかは知りませんが、作るのが大変なことだけは分かっています、と言いました。

また、海外のある責任者は大したことをしていないと言った人がいました。その時上人はどう答えたと思いますか?そのことはすでに知っています。本人も分かっていると思いますが、彼が慈済のために尽くしたいと思っている点で、私は彼に感謝しています、とおっしゃいました。上人の心はどれほど清らかか、お分かりでしょう!

毎回慈済の話になると気持ちが高ぶり、私は演説家でもないのに、コンマも句点もなく話し続けてしまいます。私はしたことを話し、話したことを実践するだけです。若い頃の私の人生が、大愛劇場《生命圓舞曲》(命のワルツ)でドラマ化されましたが、その時、脚本家の方が私の娘にインタビューしました。

「お母さんは、慈済に入った後、何か変わりましたか?」私の長女は、お母さんは人生に生命力がほとばしるようになった、と言いました。そうなんです。たとえ転んでも、一握りの砂を掴んで上人に差し上げるぐらいの気持ちでいるのです。ではなぜ生命力がほとばしるのか?私は人生の方向と命の価値を見つけたからです。末っ子は、お母さんは体型だけは変わってないけど、その他は全て変わった、と言いました!

一体私のどこが変わったのか?それは考え方です。私たちは皆、自分が作り出した世界の中で生きており、ひどく独りよがりなため、知らない間に悪縁を結んでいるのです。ですから、上人は私たちに、是が非でも人の輪に入り、三人寄れば必ず師が現れ、事につけて心を鍛え、どこででも心を養い、良縁を結んで心を修めてください、と言いました。慈済に来て仏法を学ぶのだと言う自信はありませんが、人、事が円満になってこそ、理が円満になり、人格が仏のようになることが、成就したことなのです、という上人の言葉を実践するだけです。

慈済はとても大きな菩薩の団体を築き上げ、私たちは、心を大きく持てば、多くの良縁を結ぶことができることを学びました。常日頃から私は、天下の子供はみんな私たちの子供だと言っています。教育志業で看護専門学校第一期の懿徳ママとなってから二〇一九年慈済大学慈誠懿徳会でバトンを渡すまで、こんなに多くのご家庭のお子さんに寄り添うことができたことに心から感謝し、この一念の心で、今まで頑張り続けられたことにも感謝しています。

2010年の慈済大学慈誠懿徳日、林勝勝さん(右)たち懿徳ママと職員たちの集合写真。(撮影・葉素貞)

前の波と後ろの波が共に彼岸にたどり着く

近頃、皆、生命の価値を棚卸しするという話をしていますが、この一生で慈済に参加できたことは何と幸運なことでしょう。様々な人生に接し、自身の視野を広げることにつながりました。一介の人間にすぎないおばさんではあっても、慈善、医療、教育更には国際災害支援活動にまで参加できたのです!私は、上人は女性の社会的地位を向上させた成功例だと思っています!生涯、慈済で学び、尊厳と人生の価値を得て、自信も湧いてきました。自信が湧けば、疑心暗鬼にならず、実践して、経験を重ねることで、智慧を育んで来ました!

私はこの人生に悔いはありません。今、慈済は若者が足りません。私は早く逝って新しい体になって、再びバトンを引き継ぎたいと思っています。

私たちは犠牲を問わず、前に進むべきです。長江は、後ろの波が前の波を押し出せば、前の波は砂浜で消えず、後の波も海の上で消えないことに、前の波に感謝すべきだ、という例えがあります。つまり、前の波も後ろの波も互いに「愛の心」を作用させることで、共に彼岸にたどり着けるのです。私たちベテランボランティアは、歳はとっても、慈済を愛するこの心と精神は、永遠に老いてはいけないのです!(資料提供・陳麗勳、明含、郭宝瑛、許彩霞、林欣璇、許麗娟、廖凰束、柯麗華、江孟倩)

(慈済月刊六七九期より)

「鏡の中の人に笑って欲しかったら、先ず自分から笑うこと」。林勝勝さんはいつもこの良い言葉でボランティアに顔色や声音の大切さを話していた。(撮影・杜偉晟)

台北のベテラン慈済委員、林勝勝(リン・スンスン)さんは、叡智に溢れ、朗らかで、ユーモアがあり、優しい性格であった故に、四十年間、慈済で多くの善縁を結んで来たのである。一九八九年、慈済看護専門学校の懿徳母姉会の第一期懿徳ママとなり、その時から三十年以上、慈済の学生に寄り添って来た。今年五月七日、彼女は円満にその生涯を閉じた。享年八十歳で再度帰校した。願い通り、慈済大学で遺体先生(献体)となったのである。

(本文は二〇二〇年から二〇二二年のインタビューの内容を編集したもので、林勝勝師姐の長女の陳麗勳(チェン・リーシュン)さんと北部人文真善美ボランティアが残した貴重な史料である。手本となる姿が永年に残ることに感謝している)。

私の名前は林勝勝(リン・スンスン)で、上人がくださった法号は静宥(ジンヨウ)です。幸いにも上人に付き従い、菩薩道を歩むことができたことは、私にとってこの一生が満足するものでした。

仏教寓話にこういう話があります。山火事が発生した時、一羽の小鳥が自分は逃げられたのに、他の動物が逃げられないのを見て忍びなく思い、羽に水をつけては羽ばたいて水滴を撒き、行ったり来たりして火を消そうとしました。それに感動した龍天護法の神は雨を降らせ、山火事を鎮めました。私は、上人こそがその小鳥で、絶えず衆生のために奔走していると感じました。

以前、花蓮から台北に帰る時いつも、上人自らが私たちを見送ってくれました。精舎本殿の花壇の前に立ち、片方の手を後に回し、もう一方の手を私たちに振っていました。当時は「同じ道を歩むものは各地にいる」とは言え、まだサポートの力は弱く、上人の孤独で華奢なお姿を見ると私たちは離れ難くなり、何度も振り返り、涙が溢れました。本当に名残惜しい思いをしました!

上人は私たちに泣かないで、とおっしゃいました。「涙は外に流してはいけません。風に吹かれて涸れてしまいますから。涙は内に呑み込み、それを昇華して力に変え、世の苦難にあえぐ蒼生を救うのです」。どれほど時間が過ぎても、その情景を思い出して心に刻んでいます。

ある人は私に、病気になったら、「慈済ボランティア」としての役目に影響がありますか?と聞きました。全く影響はありませんと答えました!なぜなら、全ては一念の心にあるのですから。上人がたとえ点滴をしながらでも、大衆のために開示しようとする姿が、最も良い手本です。

二〇二二年八月、私は尿路結石が原因で大量の血尿が出てしまい、台北慈済病院で手術治療をしました。身をもって苦を経験したことは、私にとって感慨深いものがありました。

私は横になって手術室に運ばれましたが、その時幾つものドアを通りました。一つ目のドアが開き、二つ目のドアも開き、三つ目のドアが開いた時、やっと本当の手術室が見えました。大きくて、広々としていたのにはびっくりしました。

右側に二列、左側にも二列とたくさんの人が手術を待っていたのです。そこにはたくさんの医療スタッフがいて、皆動きがとても早く、真剣に全ての命を救っていました。

私は「一念心」(一念の心)という三文字を見て、四十年前を思い出しました。上人は、一人ひとりが毎日五十銭を寄付して、病院を建てて人助けするのだと言いましたが、当時は皆「できるのだろうか?」と半信半疑でした。

上人は初期のお弟子さんにこう言ったそうです。「皆が『楽することを犠牲にすれば』、将来『犠牲を楽しむ』ことができるのです」。数十年の月日を経て、五十銭で本当にたくさんの人を救えることを身でもって体験しました。

仏法は無形ですが、慈済は無形を有形にしました。私は自ら患者になって慈済病院に行き、ハードウェアだけでなく、素晴らしいソフトウェア(慈済精神)も体験しました。彼らは真の大医王であり、白衣の天使なのです。私はその場で涙が出ました。

私の側には事務担当の看護師である宣霈(シュェンペイ)さんが付き添ってくれ、私は彼女の手を握りながら理解しました。「他人を救うだけでなく、自分も救える」ことを。五十銭を軽視してはいけません。今、上人はアフリカを変えるという大きな発願をなさっています。この「一念の心」は、アフリカを「オアシス」に変えることでしょう。

真心からの笑顔は誰からも好かれる

一九八四年、慈済に参加し、上人の大変な様子を目の当たりして、「私には人脈もなく、主人は公務員です。どうやって会員を募ればいいのでしょうか」と尋ねました。上人は、「先ず人々があなたを好きになることです。そうすればあなたが参加している団体、ひいてはその宗教を好きになるでしょう」と言いました。この理念は私に、慈済の道はどうやって歩むべきかを教えてくれました。人が道を弘めるのであって、道が人を弘めるのではないことを理解しました。人を変える唯一の方法は、先ず自分が変わることです。私は人に出会うと、笑顔で接し、心を込めて微笑むようになりました。

私は花蓮から帰ってくると、隣近所にどのようにして慈済を紹介するかを考えました。隣の人から「陳さんの奥さん、最近のあなたはとても楽しそうですね」と言われた時、「そうなんです。とても楽しいです!花蓮にとても立派な法師がいらっしゃって、お弟子さんたちと内職をして自力更生していますが、病院を建てて人助けをしたいと言われるのです。素晴らしいと思いませんか?一日十元節約すれば、私たちも病院を建てられます!毎月百元節約すれば、その病院はいつでも人助けができるのです!」と話しました。

その後、私は隣人を花蓮に連れて帰り、上人に紹介しました。私たちが住んでいる合江街百三十巷は皆、良い隣人で、今みんなが慈済の会員になっています。

「ではあなたたちのいる路地を慈済巷と呼びましょう!」。上人の言葉を私たちはしっかり聞き入れました。慈済巷であれば、もっと努力してください、と上人が言いました!

歩んできた道を振り返ると、最も役に立った上人の言葉は、「鏡の中の人に笑って欲しければ、先ず自分から笑うこと」です。この数十年間、私はこの良薬を携え、無数の人を慈済の大家族に迎え入れました。ですから、笑顔はお金がかからないが、とても価値のあるものだと思っています。また、会員を迎えるのに微笑みだけでなく、「誠」と「情」も必要です。「あなたに出会った人が嬉しくなるように」というのも上人が身をもって教えてくれました。

誠とは表裏が無いことです。表情も人に語りかけることができるため、「声のトーン」や顔色はとても大事です。私たちは皆、鏡の中の人であり、慈済ボランティアになるということは、人にあなたの真心を感じてもらうことなのです。例えば、私を慈済に導いてくれた陳錦花(チェン・ジンフワ)師姐の場合、慈悲は口で語るものではなく、形となって現れ、姿、表情、協力の度合いなどであり、それが慈悲である故に、多くの人を導いて来たのです。

慈済が枝葉を広げるには、皆の「誠」と「情」が必要です。実は、誰もがそうしたいと思っているのですが、まだ啓発されずにいて、心に触れていないだけなのです。普通の人は善門から入りますが、善行するだけでは足りません。身をもってそれらを経験し、自ら感じ取る必要があるのです!実際にケア世帯に連れて行くと、心に触れます。自分が一番可哀想な人間なのではなく、それほど苦しんでいないことに気づきます。

初期の無から有になりましたが、人々を四大志業の様々な方法で迎え入れ、迷いを智慧に変えたのです。慈済の法門は生き生きとしています。そうでなければ、皆どうすれば良いか理解できません。具体的なものを見せ、実践を通じて道理を示せば理解できるのです。人を救う人が菩薩であり、仏法を生活に取り入れるとはこういうことなのです。

林勝勝さん(前列右から2人目)は30年前、病院建設のために募金集めをした。住んでいた台北市合江街130巷は、百メートル以内の8割以上の住民が会員になり、愛に溢れていた。写真は慈済40周年の時にボランティアと記念に撮ったもの。(撮影・曽芳榮)

実践したことを話し、話したことを実践する

慈済に来たならば正思惟を学んでください。上人が話す言葉はどれも非常に前向きですから。以前、ある地区で厨房ボランティアが作った料理がとても塩辛く、食べられないというクレームが出ました。上人はその話を聞いて、私は彼らが調理したものが美味しいかどうかは知りませんが、作るのが大変なことだけは分かっています、と言いました。

また、海外のある責任者は大したことをしていないと言った人がいました。その時上人はどう答えたと思いますか?そのことはすでに知っています。本人も分かっていると思いますが、彼が慈済のために尽くしたいと思っている点で、私は彼に感謝しています、とおっしゃいました。上人の心はどれほど清らかか、お分かりでしょう!

毎回慈済の話になると気持ちが高ぶり、私は演説家でもないのに、コンマも句点もなく話し続けてしまいます。私はしたことを話し、話したことを実践するだけです。若い頃の私の人生が、大愛劇場《生命圓舞曲》(命のワルツ)でドラマ化されましたが、その時、脚本家の方が私の娘にインタビューしました。

「お母さんは、慈済に入った後、何か変わりましたか?」私の長女は、お母さんは人生に生命力がほとばしるようになった、と言いました。そうなんです。たとえ転んでも、一握りの砂を掴んで上人に差し上げるぐらいの気持ちでいるのです。ではなぜ生命力がほとばしるのか?私は人生の方向と命の価値を見つけたからです。末っ子は、お母さんは体型だけは変わってないけど、その他は全て変わった、と言いました!

一体私のどこが変わったのか?それは考え方です。私たちは皆、自分が作り出した世界の中で生きており、ひどく独りよがりなため、知らない間に悪縁を結んでいるのです。ですから、上人は私たちに、是が非でも人の輪に入り、三人寄れば必ず師が現れ、事につけて心を鍛え、どこででも心を養い、良縁を結んで心を修めてください、と言いました。慈済に来て仏法を学ぶのだと言う自信はありませんが、人、事が円満になってこそ、理が円満になり、人格が仏のようになることが、成就したことなのです、という上人の言葉を実践するだけです。

慈済はとても大きな菩薩の団体を築き上げ、私たちは、心を大きく持てば、多くの良縁を結ぶことができることを学びました。常日頃から私は、天下の子供はみんな私たちの子供だと言っています。教育志業で看護専門学校第一期の懿徳ママとなってから二〇一九年慈済大学慈誠懿徳会でバトンを渡すまで、こんなに多くのご家庭のお子さんに寄り添うことができたことに心から感謝し、この一念の心で、今まで頑張り続けられたことにも感謝しています。

2010年の慈済大学慈誠懿徳日、林勝勝さん(右)たち懿徳ママと職員たちの集合写真。(撮影・葉素貞)

前の波と後ろの波が共に彼岸にたどり着く

近頃、皆、生命の価値を棚卸しするという話をしていますが、この一生で慈済に参加できたことは何と幸運なことでしょう。様々な人生に接し、自身の視野を広げることにつながりました。一介の人間にすぎないおばさんではあっても、慈善、医療、教育更には国際災害支援活動にまで参加できたのです!私は、上人は女性の社会的地位を向上させた成功例だと思っています!生涯、慈済で学び、尊厳と人生の価値を得て、自信も湧いてきました。自信が湧けば、疑心暗鬼にならず、実践して、経験を重ねることで、智慧を育んで来ました!

私はこの人生に悔いはありません。今、慈済は若者が足りません。私は早く逝って新しい体になって、再びバトンを引き継ぎたいと思っています。

私たちは犠牲を問わず、前に進むべきです。長江は、後ろの波が前の波を押し出せば、前の波は砂浜で消えず、後の波も海の上で消えないことに、前の波に感謝すべきだ、という例えがあります。つまり、前の波も後ろの波も互いに「愛の心」を作用させることで、共に彼岸にたどり着けるのです。私たちベテランボランティアは、歳はとっても、慈済を愛するこの心と精神は、永遠に老いてはいけないのです!(資料提供・陳麗勳、明含、郭宝瑛、許彩霞、林欣璇、許麗娟、廖凰束、柯麗華、江孟倩)

(慈済月刊六七九期より)

關鍵字

職人になりたい

問:

私は勉強が好きではありません。 高校を卒業したら大学には行かず、 直接就職して何か技術を身に付けたいのです。 どうやって両親に言えば、彼らは分かってくれるでしょうか?

答:台湾社会はとても進步していますが、思想面では依然として、「勉強のみが尊く、それ以外は全て卑しい」という考えが存在しています。ですから、親も子供も大学の卒業証書さえあれば、いい仕事が見付かると勘違いしています。そして、多くの子供や親が、進学の過程で、学歴と興味、能力のどれが重要かということを見落としているのです。

実は台湾経済の半分を支えているのは中小企業です。そのような会社の会長や社長が皆、大卒とは限りません。アメリカ大統領だったジョンソン氏はかつて、秀でたテーラーで、政治家たちの背広を仕立てていました。大切なことは、高校から大学に進学する時に、「勉強が好きな人間であるかどうか」ではなく、自分は何故大学に進学するのか、または進学しないのかをはっきりさせることです。

大学に進学せず、直接就職して技術を身につけるつもりだ、と両親に話すなら、先ず以下のことを理解しておきましょう:

自分の特質を見付ける

職業学校に進学するか、職場で一から学ぶなら、それが機械、土木、農業、飲食業のどれであっても、各領域には専門技術があり、その特質として、作業が中心なので将来はその専門技術でもって他人と競争することになります。高校で勉強するのは、読解力、分析力、記憶、情報の理解と処理能力を身につけるためです。ですから先ず、自分は作業が得意なのか、記憶型、情報処理型なのかを見極めるべきです。

私は高雄で中学生、高校生向けの学習塾を経営していますが、或る学生は模型を作るのがとても好きで、発泡スチロールでもボール紙でも、彼は生き生きとしたアイアンマンや自動車を作ります。こういう特質がある子供が技術職業学校に進学すれば、水を得た魚のように生き生きとするでしょう。

両親と一緒に職業を理解しよう

両親を誘って一緒に今の就職状況を理解し、関連情報を提供して、親に心の準備をしてもらうのです。

高校生の子供は外見上、既に大人ですが、メンタル的には未熟です。その上、台湾の教育方式では、子供に小さい頃から興味のあることを探索させて、自分の得意なことを見つける経験をさせていません。ですから子供は、高校に入って成績が思わしくないと気付いた時、きっと心の中で迷い、挫折することになるのです。その時、両親の寄り添いはとても大切です!

学校は時折、「生涯方向を探す」という講座を開いていますので、子供は両親を誘って一緒に理解したらいいでしょう。両親の付き添いと支持があれば、子供が就職方向を模索し、潜在能力を発展させようとする時、きっとより早く、的確に自分の特質を発見できるだろうと信じています。

好きな事は疲れを感じない

興味のあることを見付けるのはとても大事なことです。

自分の選択が誰からも強要されたものでなく、自ら志願したものである時、疲れを感じないばかりか、異なった人生を歩み出すことで、そこから手に職を付けて発展できるのです。

家の水道や電気に問題があると、私はよく、或る父子に頼んで修理に来てもらいます。彼らは主に高雄、台南、屏東地域で仕事をしており、温厚で話し好きなため、每日仕事のスケージュールがいっぱいです。ですから、彼らに修理を頼む時は予約しなければなりません。彼らは、趣味と專門を融合して事業を成功させている最もよい例です。

多くの例が証明するように、適性能力が発揮され、合っている職業に就けば、子供の潛在能力は開発されます。絶え間なく、專門と技術が蓄積されれば、キャリアの中で自分に合った領域が見付けられるでしょう。

私たちの企業界が技術者の專門性を重視し、それに見合った給料を出すことに期待しています。ドイツや日本のように、專門技術を持った職人を大切にして、尊重しています。そうしてこそ、「勉強のみが尊く、それ以外は全て卑しい」という思い込みを打破することができ、若い世代が楽しく、自信を持って生きていけるのです!

(慈済月刊六七七期より)

問:

私は勉強が好きではありません。 高校を卒業したら大学には行かず、 直接就職して何か技術を身に付けたいのです。 どうやって両親に言えば、彼らは分かってくれるでしょうか?

答:台湾社会はとても進步していますが、思想面では依然として、「勉強のみが尊く、それ以外は全て卑しい」という考えが存在しています。ですから、親も子供も大学の卒業証書さえあれば、いい仕事が見付かると勘違いしています。そして、多くの子供や親が、進学の過程で、学歴と興味、能力のどれが重要かということを見落としているのです。

実は台湾経済の半分を支えているのは中小企業です。そのような会社の会長や社長が皆、大卒とは限りません。アメリカ大統領だったジョンソン氏はかつて、秀でたテーラーで、政治家たちの背広を仕立てていました。大切なことは、高校から大学に進学する時に、「勉強が好きな人間であるかどうか」ではなく、自分は何故大学に進学するのか、または進学しないのかをはっきりさせることです。

大学に進学せず、直接就職して技術を身につけるつもりだ、と両親に話すなら、先ず以下のことを理解しておきましょう:

自分の特質を見付ける

職業学校に進学するか、職場で一から学ぶなら、それが機械、土木、農業、飲食業のどれであっても、各領域には専門技術があり、その特質として、作業が中心なので将来はその専門技術でもって他人と競争することになります。高校で勉強するのは、読解力、分析力、記憶、情報の理解と処理能力を身につけるためです。ですから先ず、自分は作業が得意なのか、記憶型、情報処理型なのかを見極めるべきです。

私は高雄で中学生、高校生向けの学習塾を経営していますが、或る学生は模型を作るのがとても好きで、発泡スチロールでもボール紙でも、彼は生き生きとしたアイアンマンや自動車を作ります。こういう特質がある子供が技術職業学校に進学すれば、水を得た魚のように生き生きとするでしょう。

両親と一緒に職業を理解しよう

両親を誘って一緒に今の就職状況を理解し、関連情報を提供して、親に心の準備をしてもらうのです。

高校生の子供は外見上、既に大人ですが、メンタル的には未熟です。その上、台湾の教育方式では、子供に小さい頃から興味のあることを探索させて、自分の得意なことを見つける経験をさせていません。ですから子供は、高校に入って成績が思わしくないと気付いた時、きっと心の中で迷い、挫折することになるのです。その時、両親の寄り添いはとても大切です!

学校は時折、「生涯方向を探す」という講座を開いていますので、子供は両親を誘って一緒に理解したらいいでしょう。両親の付き添いと支持があれば、子供が就職方向を模索し、潜在能力を発展させようとする時、きっとより早く、的確に自分の特質を発見できるだろうと信じています。

好きな事は疲れを感じない

興味のあることを見付けるのはとても大事なことです。

自分の選択が誰からも強要されたものでなく、自ら志願したものである時、疲れを感じないばかりか、異なった人生を歩み出すことで、そこから手に職を付けて発展できるのです。

家の水道や電気に問題があると、私はよく、或る父子に頼んで修理に来てもらいます。彼らは主に高雄、台南、屏東地域で仕事をしており、温厚で話し好きなため、每日仕事のスケージュールがいっぱいです。ですから、彼らに修理を頼む時は予約しなければなりません。彼らは、趣味と專門を融合して事業を成功させている最もよい例です。

多くの例が証明するように、適性能力が発揮され、合っている職業に就けば、子供の潛在能力は開発されます。絶え間なく、專門と技術が蓄積されれば、キャリアの中で自分に合った領域が見付けられるでしょう。

私たちの企業界が技術者の專門性を重視し、それに見合った給料を出すことに期待しています。ドイツや日本のように、專門技術を持った職人を大切にして、尊重しています。そうしてこそ、「勉強のみが尊く、それ以外は全て卑しい」という思い込みを打破することができ、若い世代が楽しく、自信を持って生きていけるのです!

(慈済月刊六七七期より)

關鍵字

生涯の農夫が福田を耕し続ける

  • 人の世話にならず、歩いたり動いたりすることができるのは幸福であり、家から出てボランティアに参加すべきだと思う。
  • 歳を取って、生涯の農耕経験をシェアすることができるのも、楽しいことである。
  • 息子夫婦と一緒に暮らし、七人の孫に敬われる祖父となって、とても満足している。

近年、高速鉄道とMRTの恩恵を受け、台中の烏日地区は発展が目覚ましい。中でも渓南地区は、農業から農工業と住宅が混合する地域へ転換しつつある。ここで生まれ育った林橙楽(リン・チョンロー)さんは、この土地に強い愛着を持っている。九十二歳になる彼は、日本統治時代の農耕生活を経て、商工業の繁栄も経験してきたが、社会が急速に進歩しても、幼い頃と同じように、貧乏であっても気楽な日々を送っている。

農家に生まれた林さんは、五歳の時から長兄について畑仕事を手伝った。大工だった父親は仕事で家をあけることも多かったが、暮らしはまずまずだった。物資が限られた時代だったが、勉強好きな林さんは裸足で砂利道を歩いて学校に通った。雨の日は竹の橋を渡らなければならないが、油断すると川に落ちてしまう。学業への道はこのように困難なものだったが、彼は弛まず続けた。

九歳の時、父親が病気で急死した。残った母と子らは頼る人もなく、生活が困窮した。林さんの就学は、日本語教育の三年生で終止符を打った。一家は借りた田んぼで米を栽培して、何とか生計を立てていたが、農耕の苦労に耐えられなくなった長兄は、志願して中国海南島の軍隊に入った。

窮地に陥った林さんは、同じ村の李仔洲(リー・ザイジョウ)さんの家に住み込みで働くようになり、そこで毎日大人とほぼ同じ仕事量をこなした。「三頭の牛を世話するほかに、肥やしを担いで野菜畑にかけたりする仕事もしなければなりませんでした」。一年後、報酬として二百斤の米をもらったことで、家族を養うことができた。四年もすると、まだ少年だったにもかかわらず、あたかも一人前の農夫のようになった。一九四五年、台湾の日本統治時代が終わり、実家に帰った彼は、軍隊から戻った兄と弟と一緒に、四番目の叔父の田んぼと山の上の畑を耕した。生計を立てるために、牛のように苦労して働いたので、一家が平穏に過ごしたこの頃の日々は、とても大切な時間となった。

林さんは二十二歳の時に、仲人を通じて同郷の洪雪嬌(ホン・シュエチァオ)さんと結婚した。彼女の実家は裕福な家庭だったが、林さんは、貧乏な生活をしていてもしっかりした志を持っていたので、実家からお金をもらわないようにと彼女に念を押した。そして結婚後、家族が安心して暮らせるよう、相変わらず休むこともなく、働き続けた。「その後、兄弟は分家しましたが、財産がもらえなかっただけでなく、巨額の債務を引き受けざるを得なくなりました。その時は一カ月間、眠れず、考え込みました。農業に携わっている身で、どうやってそんな借金を返済することができるというのでしょうか」。そのことを振り返ると、借金の返済は苦しいが、一路付き添ってくれた恩人がいてくれたお陰で、何度も難関を突破できたことに感謝している。

あまり読み書きができないことを、林橙樂さんは悔いていた。読書をとても大切にしているので、自宅の居間はまるで図書室のようだ。

愛する人を失った心の苦しみ

林さんは日本教育を三年間受けただけで、漢字が読めなかった。幸いに、金門で兵役に服した二年間、曹長から熱心に教わったことで、読むことができるようになっただけでなく、家に手紙が書けるようになった。自分が教育を受けられなかった悔しさを三人の息子には味わってほしくないからと、借金してでも高等教育を受けさせたいと思い、妻と二人で懸命に働いた。「長男は大学を卒業しましたが、次男と三男は勉強が嫌いだったので、高校を卒業すると進学しませんでした」と林さんが言った。

林さんはある日、ページ一面に證嚴法師の経歴と寄付した人のリストと金額が掲載されている新聞に目をとめた。彼は食い入るようにその記事を読み、若き法師が善良な人たちに呼びかけて苦難に喘ぐ人々を助け、精舎の師父たちが内職で自力更生しながら貧困家族を世話していると知って、感銘を受けた。人生の大半が苦労の連続だった彼は、貧しい生活の大変さを存分に理解していたし、経済的に落ち着いた今こそ、人助けをすべきだと思い、毎月定期的に慈済花蓮本部にお金を振り込むようになった。

二○○五年、妻を病気で亡くしたことは、林さんの人生に大きな打撃を与えた。一生懸命働いて借金の返済を終え、やっと肩の重荷が降りたと思ったら、最愛の妻を亡くしてしまったのだ。一緒に穏やかな日々を過ごせなくなったことが心残りとなった。「この『口』(食べる)のためだけに一生苦労してきたが、人生の最後には何も持っていけないのだ」と彼は思った。

悲しみに暮れていた時、彼は経典を読み始めた。そこから得たのは、社会に対して貢献のない人生なら、無駄な人生に過ぎない、という言葉だった。偶然の巡り合わせで、烏日地区の慈済ボランティアである盧翠環(ルー・ツイフホワン)さんと林炎煌(リン・イエンホアン)さん、賴雪滿(ライ・シュエマン)さんの三人が渓南地区を訪れて、慈済の話をした。林さんの家にも来たので、林さんはびっくりしたが、嬉しかった。そして、翌朝から慈済の資源回収車に乗って一緒に資源の回収を始めた。途中で、工場や成功嶺(軍隊キャンプ)など、大小さまざまな回収拠点を回り、積み重ねられた段ボール箱や金属類、プラスチックなどを次々とトラックに載せ、午後に回収を終えた。当時、林さんは七十三歳だったが、汗が背中を流れても疲れを感じることなく、その体力には、車を運転していた簡珠香(ジエン・ジューシアン)さんも敬服した。

人生の大半を畑に捧げてきた林さんは、その時から資源回収をする大地の農夫になり、亡くなった妻への悲しみが徐々に和らいだ。毎回、資源回収車と一緒に九德リサイクルステーションに戻ると、大量の回収資源をトラックから降ろしたが、外にまで溢れていたので、彼は無償で土地を提供した。烏日地区にまた一つ環境保全の道場ができた。

その土地は烏日環中路に位置する場所で、整地して地面にインターロッキングブロックを敷き、プレハブを建てるまでの費用百万元(約三九〇万円)は、彼が負担した。烏日地区のボランティアと力を合わせ、環中環境保全教育センターとして、二○○七年から運用が始まった。四百坪余りの広い敷地には、回収資源分類区域のほかに、草花や樹木、野菜、果物などを植えた場所があり、その美しい環境のおかげで、地域の人々が多く集まってリサイクル作業に投入するようになった。また、夜間の資源回収車チームを立ち上げ、多くの男性ボランティアが複数のルートに分かれて、街道や路地を回って資源を回収した。二○二一年、仏法が聞ける修行道場として、仏堂を増設した。

林橙樂さんは無償で土地を提供して環中環境保全教育センターを建てた。ボランティアたちにとっての模範である。次男の林勇成さん(左から2人目)は父親と一緒に善行する時間を大切にしている。

愛で息子を正しい道に戻す

元来林さんは、歳を取った時はリサイクルボランティアになるだけでいいと思っていたが、七十五歳になってから、慈誠隊員の養成講座に参加することを決意した。何故なら、次男にも彼と一緒に慈済の志業をすることで、社会に貢献できる人間になって欲しいと思ったからだ。

親が最も心配していた林勇成(リン・ヨンチョン)さんは、実は親孝行者で、父親の側にいるためにリサイクル活動をしているのだ。ボランティア養成講座に参加してからは、戒律を守り、殺生に関わる仕事を辞めた。二○○七年、父子ともに慈誠隊員の認証を受け、その後、委員の養成講座にも参加した。「父はよく、慈済ボランティアとなったことで、息子を取り戻したと言っていました」。迷いから悟りに転じた勇成さんは、親孝行に間に合ったことを喜ぶと共に、奉仕することで喜びを感じている。

身体が丈夫な林さんは、よく花蓮、大林、台中の慈済病院へ医療ボランティアに行き、飲み物や資料を届けたり、または患者の慰問をしたり、全てをこなした。ここ数年は、不整脈で数回救急搬送されたし、また、二回も交通事故に遭って頸椎を損傷したので、人生の方向を変え、自宅近くでリサイクル活動をしている。疲れた時は休憩する。

「長時間座るとつらくなりますし、しゃべりすぎると声が出なくなるのです。外出の時間を短めにしています」。

「以前していた農作業は運動のようなものでした。今はまだ人の世話になることはなく、歩いて動き回ることができるので、家から出てボランティアをしています。これこそが私の幸せだと思っています」。
二年前、勇成さんが精舎で短期修行に参加した時、花蓮県寿豊郷の鯉魚山の麓にある大愛農場で有機農業を志した、或るボランティアの話を聞いた。彼は、以前、両親との農耕作業は大変だったが、豊作だった時の達成感を味わったことを思い出した。大愛農場は大地に優しい有機栽培法を取り入れている。新鮮な空気を吸い、一面緑の田んぼで腰をかがめてヒエを取りながら上を見上げると、その海沿いの山脈の青さや視界の広がりに、まるで山水画の中に身を置いたような感覚を覚えた。他の誰よりも父親を知る息子の勇成さんは、父親がこの環境を気に入るに違いないと信じている。

それからというもの、林さんは毎回、台湾西部から農業ボランティアとしてこの農場にやって来ると、五日間か十日間、または半月も滞在する。

「歳を取るにつれ、自分の経験を語るのは、とても楽しいのです」。農耕技術の伝承ができることが、とても嬉しいのだそうだ。

田植えの準備を整える頃、林さんは大愛農場に十日間以上滞在する。毎日、幹線道路から水田の端まで歩いて水量を調べる。一時間以上かけて行き来することで彼は益々健康になっている。家では三人の息子と嫁たちと一緒に住み、七人の孫に慕われ、彼はとても満足している。心の中には不満や心配など何一つないが、唯一気になるのは大愛農場の稲の育ち具合だ。「例年より豊作になるだろうか」。一生を農業に捧げてきた彼は、自分の責任は終わっていないと感じており、福田を耕し続けなければならないと思っている。

(慈済月刊六七六期より)

  • 人の世話にならず、歩いたり動いたりすることができるのは幸福であり、家から出てボランティアに参加すべきだと思う。
  • 歳を取って、生涯の農耕経験をシェアすることができるのも、楽しいことである。
  • 息子夫婦と一緒に暮らし、七人の孫に敬われる祖父となって、とても満足している。

近年、高速鉄道とMRTの恩恵を受け、台中の烏日地区は発展が目覚ましい。中でも渓南地区は、農業から農工業と住宅が混合する地域へ転換しつつある。ここで生まれ育った林橙楽(リン・チョンロー)さんは、この土地に強い愛着を持っている。九十二歳になる彼は、日本統治時代の農耕生活を経て、商工業の繁栄も経験してきたが、社会が急速に進歩しても、幼い頃と同じように、貧乏であっても気楽な日々を送っている。

農家に生まれた林さんは、五歳の時から長兄について畑仕事を手伝った。大工だった父親は仕事で家をあけることも多かったが、暮らしはまずまずだった。物資が限られた時代だったが、勉強好きな林さんは裸足で砂利道を歩いて学校に通った。雨の日は竹の橋を渡らなければならないが、油断すると川に落ちてしまう。学業への道はこのように困難なものだったが、彼は弛まず続けた。

九歳の時、父親が病気で急死した。残った母と子らは頼る人もなく、生活が困窮した。林さんの就学は、日本語教育の三年生で終止符を打った。一家は借りた田んぼで米を栽培して、何とか生計を立てていたが、農耕の苦労に耐えられなくなった長兄は、志願して中国海南島の軍隊に入った。

窮地に陥った林さんは、同じ村の李仔洲(リー・ザイジョウ)さんの家に住み込みで働くようになり、そこで毎日大人とほぼ同じ仕事量をこなした。「三頭の牛を世話するほかに、肥やしを担いで野菜畑にかけたりする仕事もしなければなりませんでした」。一年後、報酬として二百斤の米をもらったことで、家族を養うことができた。四年もすると、まだ少年だったにもかかわらず、あたかも一人前の農夫のようになった。一九四五年、台湾の日本統治時代が終わり、実家に帰った彼は、軍隊から戻った兄と弟と一緒に、四番目の叔父の田んぼと山の上の畑を耕した。生計を立てるために、牛のように苦労して働いたので、一家が平穏に過ごしたこの頃の日々は、とても大切な時間となった。

林さんは二十二歳の時に、仲人を通じて同郷の洪雪嬌(ホン・シュエチァオ)さんと結婚した。彼女の実家は裕福な家庭だったが、林さんは、貧乏な生活をしていてもしっかりした志を持っていたので、実家からお金をもらわないようにと彼女に念を押した。そして結婚後、家族が安心して暮らせるよう、相変わらず休むこともなく、働き続けた。「その後、兄弟は分家しましたが、財産がもらえなかっただけでなく、巨額の債務を引き受けざるを得なくなりました。その時は一カ月間、眠れず、考え込みました。農業に携わっている身で、どうやってそんな借金を返済することができるというのでしょうか」。そのことを振り返ると、借金の返済は苦しいが、一路付き添ってくれた恩人がいてくれたお陰で、何度も難関を突破できたことに感謝している。

あまり読み書きができないことを、林橙樂さんは悔いていた。読書をとても大切にしているので、自宅の居間はまるで図書室のようだ。

愛する人を失った心の苦しみ

林さんは日本教育を三年間受けただけで、漢字が読めなかった。幸いに、金門で兵役に服した二年間、曹長から熱心に教わったことで、読むことができるようになっただけでなく、家に手紙が書けるようになった。自分が教育を受けられなかった悔しさを三人の息子には味わってほしくないからと、借金してでも高等教育を受けさせたいと思い、妻と二人で懸命に働いた。「長男は大学を卒業しましたが、次男と三男は勉強が嫌いだったので、高校を卒業すると進学しませんでした」と林さんが言った。

林さんはある日、ページ一面に證嚴法師の経歴と寄付した人のリストと金額が掲載されている新聞に目をとめた。彼は食い入るようにその記事を読み、若き法師が善良な人たちに呼びかけて苦難に喘ぐ人々を助け、精舎の師父たちが内職で自力更生しながら貧困家族を世話していると知って、感銘を受けた。人生の大半が苦労の連続だった彼は、貧しい生活の大変さを存分に理解していたし、経済的に落ち着いた今こそ、人助けをすべきだと思い、毎月定期的に慈済花蓮本部にお金を振り込むようになった。

二○○五年、妻を病気で亡くしたことは、林さんの人生に大きな打撃を与えた。一生懸命働いて借金の返済を終え、やっと肩の重荷が降りたと思ったら、最愛の妻を亡くしてしまったのだ。一緒に穏やかな日々を過ごせなくなったことが心残りとなった。「この『口』(食べる)のためだけに一生苦労してきたが、人生の最後には何も持っていけないのだ」と彼は思った。

悲しみに暮れていた時、彼は経典を読み始めた。そこから得たのは、社会に対して貢献のない人生なら、無駄な人生に過ぎない、という言葉だった。偶然の巡り合わせで、烏日地区の慈済ボランティアである盧翠環(ルー・ツイフホワン)さんと林炎煌(リン・イエンホアン)さん、賴雪滿(ライ・シュエマン)さんの三人が渓南地区を訪れて、慈済の話をした。林さんの家にも来たので、林さんはびっくりしたが、嬉しかった。そして、翌朝から慈済の資源回収車に乗って一緒に資源の回収を始めた。途中で、工場や成功嶺(軍隊キャンプ)など、大小さまざまな回収拠点を回り、積み重ねられた段ボール箱や金属類、プラスチックなどを次々とトラックに載せ、午後に回収を終えた。当時、林さんは七十三歳だったが、汗が背中を流れても疲れを感じることなく、その体力には、車を運転していた簡珠香(ジエン・ジューシアン)さんも敬服した。

人生の大半を畑に捧げてきた林さんは、その時から資源回収をする大地の農夫になり、亡くなった妻への悲しみが徐々に和らいだ。毎回、資源回収車と一緒に九德リサイクルステーションに戻ると、大量の回収資源をトラックから降ろしたが、外にまで溢れていたので、彼は無償で土地を提供した。烏日地区にまた一つ環境保全の道場ができた。

その土地は烏日環中路に位置する場所で、整地して地面にインターロッキングブロックを敷き、プレハブを建てるまでの費用百万元(約三九〇万円)は、彼が負担した。烏日地区のボランティアと力を合わせ、環中環境保全教育センターとして、二○○七年から運用が始まった。四百坪余りの広い敷地には、回収資源分類区域のほかに、草花や樹木、野菜、果物などを植えた場所があり、その美しい環境のおかげで、地域の人々が多く集まってリサイクル作業に投入するようになった。また、夜間の資源回収車チームを立ち上げ、多くの男性ボランティアが複数のルートに分かれて、街道や路地を回って資源を回収した。二○二一年、仏法が聞ける修行道場として、仏堂を増設した。

林橙樂さんは無償で土地を提供して環中環境保全教育センターを建てた。ボランティアたちにとっての模範である。次男の林勇成さん(左から2人目)は父親と一緒に善行する時間を大切にしている。

愛で息子を正しい道に戻す

元来林さんは、歳を取った時はリサイクルボランティアになるだけでいいと思っていたが、七十五歳になってから、慈誠隊員の養成講座に参加することを決意した。何故なら、次男にも彼と一緒に慈済の志業をすることで、社会に貢献できる人間になって欲しいと思ったからだ。

親が最も心配していた林勇成(リン・ヨンチョン)さんは、実は親孝行者で、父親の側にいるためにリサイクル活動をしているのだ。ボランティア養成講座に参加してからは、戒律を守り、殺生に関わる仕事を辞めた。二○○七年、父子ともに慈誠隊員の認証を受け、その後、委員の養成講座にも参加した。「父はよく、慈済ボランティアとなったことで、息子を取り戻したと言っていました」。迷いから悟りに転じた勇成さんは、親孝行に間に合ったことを喜ぶと共に、奉仕することで喜びを感じている。

身体が丈夫な林さんは、よく花蓮、大林、台中の慈済病院へ医療ボランティアに行き、飲み物や資料を届けたり、または患者の慰問をしたり、全てをこなした。ここ数年は、不整脈で数回救急搬送されたし、また、二回も交通事故に遭って頸椎を損傷したので、人生の方向を変え、自宅近くでリサイクル活動をしている。疲れた時は休憩する。

「長時間座るとつらくなりますし、しゃべりすぎると声が出なくなるのです。外出の時間を短めにしています」。

「以前していた農作業は運動のようなものでした。今はまだ人の世話になることはなく、歩いて動き回ることができるので、家から出てボランティアをしています。これこそが私の幸せだと思っています」。
二年前、勇成さんが精舎で短期修行に参加した時、花蓮県寿豊郷の鯉魚山の麓にある大愛農場で有機農業を志した、或るボランティアの話を聞いた。彼は、以前、両親との農耕作業は大変だったが、豊作だった時の達成感を味わったことを思い出した。大愛農場は大地に優しい有機栽培法を取り入れている。新鮮な空気を吸い、一面緑の田んぼで腰をかがめてヒエを取りながら上を見上げると、その海沿いの山脈の青さや視界の広がりに、まるで山水画の中に身を置いたような感覚を覚えた。他の誰よりも父親を知る息子の勇成さんは、父親がこの環境を気に入るに違いないと信じている。

それからというもの、林さんは毎回、台湾西部から農業ボランティアとしてこの農場にやって来ると、五日間か十日間、または半月も滞在する。

「歳を取るにつれ、自分の経験を語るのは、とても楽しいのです」。農耕技術の伝承ができることが、とても嬉しいのだそうだ。

田植えの準備を整える頃、林さんは大愛農場に十日間以上滞在する。毎日、幹線道路から水田の端まで歩いて水量を調べる。一時間以上かけて行き来することで彼は益々健康になっている。家では三人の息子と嫁たちと一緒に住み、七人の孫に慕われ、彼はとても満足している。心の中には不満や心配など何一つないが、唯一気になるのは大愛農場の稲の育ち具合だ。「例年より豊作になるだろうか」。一生を農業に捧げてきた彼は、自分の責任は終わっていないと感じており、福田を耕し続けなければならないと思っている。

(慈済月刊六七六期より)

關鍵字

散らばった淡い光を集める

蛍の光は淡くても、集まれば暗闇の中で煌めきます。
善の念を啓発する人が増えるほど、人助けの力は大きくなるのです。

ネパールの「竹筒歳月」

マレーシアとシンガポールの慈済人は、この一年間交代でネパール・ルンビニを訪れ、現地で成すべきことを支援し、仏陀の故郷への恩返しを成し遂げようとしています。

慈済人と一緒に田舎を訪問した現地ボランティアは、側で慈済人の仕事と精神理念を観察したり、訪問ケアをしたりしたことで「苦を見て福を知る」ことを知ったため、自分自身が清貧な生活をしていても、他にまだもっと苦しい人がいることを知って慈悲心を啓発され、喜んで奉仕するようになりました。

そして、ミャンマーの慈済人が農村の貧しい住民を支援した時のように、「竹筒歳月」とその精神理念を彼らに話して聞かせました。農民はそれによって啓発され、毎日一握りの米を貯めるようになりました。それが村落の間に広まって、数多くの「米貯金」の会員が出現し、その力を結集してもっと貧しい家庭を助けるようになったのです。この出来事は人文志業で報道され、上人が何度も公の場で話したことがきっかけで、世界における慈済の模範となっていったのです。「米貯金」で善行する方法は既に数多くの国に広まり、ネパールのケア世帯でさえも喜んで呼応しています。また、慈済人と一緒に配付活動の縁で結ばれた学校では、子供たちが家族に日々、一握りの米で善行するよう導いているのです。

「その愛のエネルギーは呼びかけを通して、人々の心を啓発しています。それは蛍の淡い光が弱々しいものであっても、数が多くなればなるほど、その光は暗闇の中で煌めくことができるのです。ですから私たちは自分を軽く見てはいけません。

たとえ一匹の小さなアリや蛍であっても、発心立願しさえすれば、それらが結集して大きな力となるのです。一人ひとりが発心すれば、数多くの人を支援することができます。善行して人助けすると同時に、私たちは因縁を信じるべきで、善の因と縁があれば、善の果報が得られます。衆生は皆、善行することができ、この世は善の気に満たされ、和やかで目出度い雰囲気になり、それが地球を巡り巡って守ってくれるようになるのです」。

思い立ったら、直ちに行動する

日本の慈済ボランティアは、慈善志業及びNHKの特別番組「ありがとうを3・11に伝えよう委員会」の収録に参加したことを報告しました。その番組は始まって三年になりますが、慈済は海外の団体としては初めてそこに招かれ、東日本大震災で大きな被害を被った気仙沼市の小野寺女史が、慈済に対する長年の感謝の気持ちを語った他、収録の休憩時間には、慈済から「見舞金」を受け取ったことがある人が数人、感謝の言葉を述べました。

「ありがとうを3・11に伝えよう委員会」の副会長は見舞金の封筒を取り出し、涙を流しながら、それを使わずに保存して来たと言いました。何度かお金が必要な時があり、それを取り出してはまた、封筒に入れていました。それは、あの記憶が薄れることを恐れたのと、それを自分のお守りのように思ったからです。また、五人の宮城県議会議員は四月十八日に上人を訪ねてお礼を言いました。東映映画制作会社は慈済の三一一における支援と奉仕を、中学校の道徳教育ビデオに取り入れる予定です。

上人は日本支部のボランティアに、縁を大切にし、法縁者同士の出会いと、共に事を成す縁を大事にするよう念を押しました。ましてや慈済人ですから「無縁大慈、同体大悲」という菩薩心でもって、苦難や災害が起きた時、そこに行き着くことができるなら、支援しなければならないのです。一個人で達成することはできず、大勢の人が必要ですから、普段から各自が居住する国やコミュニティで人間(じんかん)菩薩を募り、愛と善の力を結集させるのです。

「あなたたちは慈済人です。縁があって一緒に日本で生活しています。あなたたちの力で慈済精神を日本に根付かせ、その菩提樹が毎年花を咲かせ、多くの種を作り、一粒ずつ『一』から無量が生まれるようにするのです」。日本の慈済人がもっと積極的に人間(じんかん)菩薩を募るよう、上人は励ましました。時間が過ぎるのは早く、良縁は知らぬ間に過ぎ去ってしまいます。事を成そうとするなら、その縁を把握して直ちに行動に移さなければなりません。

「生命の因縁を逃してはいけません。日本には人間(じんかん)菩薩が福田として耕せるとても大きな空間があります。特にこれからの世界は、貧富の差が益々大きくなり、苦難に喘ぐ人は一層苦しくなるでしょう。絶えず人間(じんかん)で迎え入れ、導いて、人々の善の念を啓発する人がとても必要なのです。衆生の習性はまちまちですが、善の念がいとも簡単に啓発される人でも、因縁がなければ、啓発するのは難しいのです。慈済と縁があれば、その人は幸福な人と言えます。あなたたちはしっかり『福を受け止め』、善の種を蒔かなければいけません」。

(慈済月刊六七九期より)

蛍の光は淡くても、集まれば暗闇の中で煌めきます。
善の念を啓発する人が増えるほど、人助けの力は大きくなるのです。

ネパールの「竹筒歳月」

マレーシアとシンガポールの慈済人は、この一年間交代でネパール・ルンビニを訪れ、現地で成すべきことを支援し、仏陀の故郷への恩返しを成し遂げようとしています。

慈済人と一緒に田舎を訪問した現地ボランティアは、側で慈済人の仕事と精神理念を観察したり、訪問ケアをしたりしたことで「苦を見て福を知る」ことを知ったため、自分自身が清貧な生活をしていても、他にまだもっと苦しい人がいることを知って慈悲心を啓発され、喜んで奉仕するようになりました。

そして、ミャンマーの慈済人が農村の貧しい住民を支援した時のように、「竹筒歳月」とその精神理念を彼らに話して聞かせました。農民はそれによって啓発され、毎日一握りの米を貯めるようになりました。それが村落の間に広まって、数多くの「米貯金」の会員が出現し、その力を結集してもっと貧しい家庭を助けるようになったのです。この出来事は人文志業で報道され、上人が何度も公の場で話したことがきっかけで、世界における慈済の模範となっていったのです。「米貯金」で善行する方法は既に数多くの国に広まり、ネパールのケア世帯でさえも喜んで呼応しています。また、慈済人と一緒に配付活動の縁で結ばれた学校では、子供たちが家族に日々、一握りの米で善行するよう導いているのです。

「その愛のエネルギーは呼びかけを通して、人々の心を啓発しています。それは蛍の淡い光が弱々しいものであっても、数が多くなればなるほど、その光は暗闇の中で煌めくことができるのです。ですから私たちは自分を軽く見てはいけません。

たとえ一匹の小さなアリや蛍であっても、発心立願しさえすれば、それらが結集して大きな力となるのです。一人ひとりが発心すれば、数多くの人を支援することができます。善行して人助けすると同時に、私たちは因縁を信じるべきで、善の因と縁があれば、善の果報が得られます。衆生は皆、善行することができ、この世は善の気に満たされ、和やかで目出度い雰囲気になり、それが地球を巡り巡って守ってくれるようになるのです」。

思い立ったら、直ちに行動する

日本の慈済ボランティアは、慈善志業及びNHKの特別番組「ありがとうを3・11に伝えよう委員会」の収録に参加したことを報告しました。その番組は始まって三年になりますが、慈済は海外の団体としては初めてそこに招かれ、東日本大震災で大きな被害を被った気仙沼市の小野寺女史が、慈済に対する長年の感謝の気持ちを語った他、収録の休憩時間には、慈済から「見舞金」を受け取ったことがある人が数人、感謝の言葉を述べました。

「ありがとうを3・11に伝えよう委員会」の副会長は見舞金の封筒を取り出し、涙を流しながら、それを使わずに保存して来たと言いました。何度かお金が必要な時があり、それを取り出してはまた、封筒に入れていました。それは、あの記憶が薄れることを恐れたのと、それを自分のお守りのように思ったからです。また、五人の宮城県議会議員は四月十八日に上人を訪ねてお礼を言いました。東映映画制作会社は慈済の三一一における支援と奉仕を、中学校の道徳教育ビデオに取り入れる予定です。

上人は日本支部のボランティアに、縁を大切にし、法縁者同士の出会いと、共に事を成す縁を大事にするよう念を押しました。ましてや慈済人ですから「無縁大慈、同体大悲」という菩薩心でもって、苦難や災害が起きた時、そこに行き着くことができるなら、支援しなければならないのです。一個人で達成することはできず、大勢の人が必要ですから、普段から各自が居住する国やコミュニティで人間(じんかん)菩薩を募り、愛と善の力を結集させるのです。

「あなたたちは慈済人です。縁があって一緒に日本で生活しています。あなたたちの力で慈済精神を日本に根付かせ、その菩提樹が毎年花を咲かせ、多くの種を作り、一粒ずつ『一』から無量が生まれるようにするのです」。日本の慈済人がもっと積極的に人間(じんかん)菩薩を募るよう、上人は励ましました。時間が過ぎるのは早く、良縁は知らぬ間に過ぎ去ってしまいます。事を成そうとするなら、その縁を把握して直ちに行動に移さなければなりません。

「生命の因縁を逃してはいけません。日本には人間(じんかん)菩薩が福田として耕せるとても大きな空間があります。特にこれからの世界は、貧富の差が益々大きくなり、苦難に喘ぐ人は一層苦しくなるでしょう。絶えず人間(じんかん)で迎え入れ、導いて、人々の善の念を啓発する人がとても必要なのです。衆生の習性はまちまちですが、善の念がいとも簡単に啓発される人でも、因縁がなければ、啓発するのは難しいのです。慈済と縁があれば、その人は幸福な人と言えます。あなたたちはしっかり『福を受け止め』、善の種を蒔かなければいけません」。

(慈済月刊六七九期より)

關鍵字