十七年来、アムさんにとっての身内は慈済のボランティアたちであった。
ボランティアが彼女の遺品を整理していた時、大事に保存していた一緒に撮った写真を見て、お互いにこの縁をどれほど大切にしていたかを感じた。
葬儀と火葬ではやはり慈済ボランティアが側にいて最後を見送った。
慈済ボランティアは、十七年前にアムさんと初めて出会った日のことを今でも覚えている。彼女は少女のように恥ずかしそうに片隅に座り、ボランティアとお兄さんの話を聞いていた。慈済が彼女たちに生活支援を初めて二カ月後、アムさんのお兄さんが亡くなった。彼女は家族を失い、途方に暮れたが、ボランティアは彼女に家族同様の愛で接した。毎回彼女を訪問した時、アムさんはいつもボランティアの頬にキスしたり、顔を撫でたりして、まるで帰って来る子どもたちを待っている母親のようだった。
マレー半島南部ジョホール州の丘陵にある町、クルアンで慈済がボランティア活動を始めてから、既に二十年以上になる。二〇〇四年、報告を受けて、ボランティアがミナチさんの家にやって来た。彼女は伝統的なインド系マレーシア人の女性で、内向的な性格の彼女は、人と接する機会も少なく、家族とだけで生活していた。慈済ボランティアたちは親しみを込めて、彼女をアムさんと呼ぶようになった。
末っ子だったアムさんは、父や母、兄に可愛がられて育った。両親が他界した後、独身だった彼女は、離婚して子どもがいなかったお兄さんと二人で支え合って生きてきた。お兄さんは安定した収入があったため、彼女は家事に専念するだけでよかった。しかし、二〇〇二年、お兄さんは脳卒中で倒れて、働くことができなくなった。五十五歳のアムさんは、それまで社会と離れた生活をしていたため、外に出て職に就くことは難しく、兄妹は政府からの補助金と兄の教職員救済金に頼って生活するほかなかった。しかし、倹約しても日々の生活は苦しく、見るに忍びなかった友人たちが慈済に助けを求め、ボランティアが二人の生活に関わるようになった。
アムさんは自分も困っている人を助け、社会に恩返ししたいと思い、毎月ボランティアが訪ねてくる日には必ず、財布から五リンギットを出して寄付し、慈済のリサイクル活動にも参加した。長年にわたって、慈済のチャリティーバザーや大規模イベントにはアムさんの姿があった。
アムさん(中央)は慈済クルアン事務所からの招待で歳末配付活動に参加し、ボランティアたちと「家族写真」の記念撮影をした。
二〇二〇年十月初め、ボランティアがいつも通りに彼女を訪ねると、近所の人からアムさんの様子がおかしいと言われた。急いで病院に連れて行き、検査すると、脳卒中だと診断された。既に会話や食事に影響が出て、自分で身の回りのことをするのが困難になっていた。一週間後に退院して家に帰ると、彼女はボランティアたちの名前も忘れがちになっていて、慈済ボランティアだということだけは分かっていたので、家に迎え入れた。
ボランティアたちが介護施設を探し、アムさんは介護が受けられるようになった。二〇二一年一月四日の夕方、ボランティアの覃盈瑩(タン・インイン)さんは、介護施設の院長からの電話で、アムさんが昏睡状態であることを告げられ、病院で治療するかどうかを聞かれたので、直ぐに救急車で病院に搬送してほしいと伝えた。約一時間後、再び電話が掛かって来て、搬送中にアムさんの呼吸が停止したという知らせが来た。
突然の訃報を受け、覃さんは悲しみにくれた。病院に向かう道中で生前のアムさんとの思い出や交わした言葉が次々と脳裏に浮かんだ。一年余り前、インドの重要なお祭りであるディパバリ前夜に彼女と一緒に墓参りに行き、お母さんやお兄さんに祈りを捧げたことを思い出した。また、つい最近、ボランティアが供え物を持って介護施設にいるアムさんを訪ね、一緒にディパバリを祝ったばかりだった。
ボランティアがアムさんの遺品を整理していた時、ここ数年間に参加した慈済の歳末配付活動でボランティアたちと撮った集合写真を大切に棚の上に飾ってあったのを見つけて、彼女がこの縁をとても大切にしていたことが分かった。
七十二歳のアムさんには肉親がいなかったため、ボランティアは警察に葬儀の申請をし、三週間後に許可が降りて、ようやく執行者として書類にサインし、アムさんの遺体を病院から火葬場へ運ぶことができた。インド系葬儀会社を経営するアルミー・ラージャさんは、肌の色の異なる団体が家族のようにアムさんの葬儀をしていたことに非常に感動し、一緒に善行したいと申し出て、無償でアムさんの葬儀を引き受けてくれた。
一月三十一の夕方、ボランティアたちはインドの風習に則って、アムさんの遺灰を抱えて川べりまで行くと、生け花と牛乳をふりかけて河に蒔いて無事葬儀を終えた。ボランティアたちは河の流れをじっと見つめ、合掌して彼女を祝福した。
(慈済月刊六五三期より)