(絵・林順雄)
今日一日、社会に対してどれだけの時間をさいて尽くしたか、歩いてきた生涯の道は一歩一歩が穏健着実だったか、と反省してみましょう。 人生の棚卸しをすると、足跡のある人生はとても価値があります。
ハリケーン・アイダが八月下旬、アメリカ南部と東海岸を襲いました。どんなに高度な技術で建てられた大都会の建物といえど、暴風と大雨には耐えられず、滝のような雨が壁を突き破り、家々を破壊しました。ボランティアたちがお互いに無事を確かめ合うと、被害調査と配付活動を始めました。東海岸だけでなく、西海岸のカリフォルニア州の森林火災は延焼を続け、周辺の州にまで燃え広がり、ボランティアは休む間もなく関心を寄せています。
大自然の気候不順によって、水害や火災が多く発生しています。《法華経》に「三車火宅喩」という話があります。長らく修繕していない古い家が火事になり、中には愚かな子供たちが遊びに夢中で、逃げることを知らず、楽しそうにしていました。長者が家の外から逃げるよう叫び続けると同時に、玩具を一杯載せた羊車、鹿車、牛車で誘い出し、やっと子供たちを危険から脱出させることができました。
遊びに夢中になっていた子供たちは慈父の声も聞こえず、ただ迷い、火遊びに夢中になっているのが、現在の人類の様子です。欲するがままに放任していると、無明は燃え盛る火のように、或は全てを覆いつくす洪水のように、人口の増加に伴って地球の破壊は加速し、災害は益々強度を増しているのです。しかし人々はこの火宅の中で自分を見失い、環境がすでに危機に瀕していることに気がついていません。
世の中でこれほど多く発生している地、水、火、風による災害で明らかです。人々はどういう生活をして、長期にわたって汚染し続けて来たか。それで大自然が逆襲に出ていることに想いを至らせるべきです。大いに目覚め、覚悟して、日常生活の中で用心しなければなりません。悪念が起きて、間違った行動をすれば、悪業は増えます。直ちに果てしない欲の門を閉ざし、善の扉を開け放し、時間と争ってこの世を利し、愛の力でもって奉仕することです。一人ひとりの善が集まって積もれば、最も平安で幸せな世になります。
八月十四日、ハイチで発生した強い地震は、台湾の九二一大地震に近い規模で、二千二百人余りが亡くなり、一万人以上が負傷し、被災地は目も当てられない程、家々が損壊しました。現地社会は不穏でなす術を知らず、慈済人は支援に到着したものの、人力支援も物資の支援も今までにないほどの困難に直面しました。
アメリカ慈済は人員を動員して緊急支援を行うと決めたのですが、世界中がコロナ禍でロックダウンや国境封鎖で感染拡大を抑えており、ボランティアが国を越えて配付活動をするのはとても困難でした。数人のアメリカのボランティアが二回のワクチン接種を終えてから支援に向かい、現地人ボランティアと合流して活動を行いました。その中の一人、陳健(チェン・ジェン)さんはハイチを七十九回も往復し、十数年にわたって現地人ボランティアを募って来ました。彼は七十歳を越え、アメリカで快適な暮らしができるのですが、ハイチで困難を排して長期間、現地を護って来ました。
数多くの物資を百キロ先の被災地に運ぼうとしても、動乱で危機に満ちているため、今日のボランティアは明日のことは知れず、次の一瞬がどうなるかも分かりません。心は焦っていましたが、そこで配付活動を完遂させることを心に決めていました。衆生が苦から逃れ、誰もが心身ともに平安自在であることを願うのが菩薩の任務なのです。菩薩は人間(じんかん)に幸せをもたらすだけでなく、それ相応の智慧と才能があって初めて人々と縁を結ぶことができ、煩悩無明に染まらぬよう自分を鍛えて、力を発揮できるのです。
ハイチ人は長年の困窮と今回の災害が重なり、慈済人は災害支援をするだけでなく、現地ボランティアを養成して、現地の人に多く参加してもらい、愛のエネルギーを育まなければなりません。現地人菩薩が速やかに苦難の人たちに手を差し伸べ、社会に善人が多くなってこそ、未来に希望が持てるようになるのです。
人生をぼんやり過ごすのが凡夫です。心して「学び」、「目覚め」、「道理が見える」子供になるべきで、火宅の中で遊び呆けている子供になってはいけません。目を大きく見開いて道理を見つめること、即ち、「明心見性(目覚めた心で自分の本性を徹見すること)」です。人には皆仏性が備わっており、ブッダが如何にして、衆生に接して来たかを学ぶのです。つまり、世間の苦や煩悩無明の多いことを目の当たりにし、自ずとして憐憫の心が起り、「私が正しく、彼が間違っている」という考え方から脱し、人生であってはならない煩悩を二度と作らないことを決めたのです。
娑婆の世界は菩薩を必要としており、菩薩になるために、皆が八識田を聞いて、第九識に至り、清浄無垢な仏性を持った慈悲心を啓発し、喜んで世の苦難に喘ぐ衆生に尽くし、「喜んでやります」と言えるようになるよう、絶えず、法師は呼びかけて来ました。
慈善の仕事は配慮が行き届いていなければならず、実に大変な苦労です。しかし、皆は苦労と言わず、幸せだ、と言います。なぜなら幸福な人生だからこそ世の中で苦しんでいる人たちに奉仕することができ、心をこめて参加できると共に、素晴らしい体験を自分の人生に書き留めることができるからです。これほど多くの苦難を目にし、生命には決まった長さがなく、呼吸の合間にあるという道理を悟っているのです。今日は世の中のためにどれだけの事をしたかを反省すべきです。この生涯が穏健なもので、一歩一歩地に足を着けて歩んできたでしょうか?もし過ちがあれば、直ちに改めるべきで、懺悔すれば清らかになれます。日々自分の人生の棚卸しをして、一分一秒を把握して、価値のある人生になるようにするのです。
(慈済月刊六五九期より)