その土地に暮らしているのであれば、発願して社会の責任を担うべきです。
人材を養成することは、希望を培うこと
タイのチェンマイ慈済学校は、創立十七年を迎えようとしています。慈済の道徳教育と学校運営の成果はチェンマイ州から認められ、教育模範機構賞を獲得しました。七月十六日、殷文仙(イン・ウエンシェン)校長と教師及び職員たちはオンラインで、「コロナ禍の下で、学校は休校になっても、学びは止めない」ことに関して報告しました。それによって親も子供の側で学ぶことができ、特に慈済人文科目は小規模の「愛を広める活動」のようになり、親はより慈済を理解して関心を持つようになっています。
昨年のこの学校の進学実績はとても良く、全国で二番目に優秀な大学に合格したり、慈済大学や慈済科技大学に進学した学生もいました。チェンマイ慈済高校の卒業生は既に第八期生になりましたが、第四期生は既に大学を卒業して就職していて、母校に戻って教職に就いている人もいます。
艾順琴(アイ・シュンチン)さんはタイ北部の回賀慈済村出身で、父親の意志でチャンマイ慈済学校に入りました。最初の頃は、毎日泣いては家に帰りたがっていた彼女でしたが、今は中国語の教師になっています。高校と大学の時、数多くの人の世話と支援を受けましたが、父親が亡くなった時は葬式のために帰ることはできませんでした。しかし、慈済が彼女に愛を与えたことで、早い時期に立ち直ることができ、感謝の気持ちを携えて学校の教職に就いたのです。
上人はこう言いました。数多くの卒業生が学校に戻って職務を全うしている光景は、一粒一粒の種が大樹に成長したようなものであり、これからも現地の社会に幸福をもたらすことができるのです。ですから、人材を育成するということは、希望を培うことなのです。今、チェンマイ慈済学校は、小学校一年生から高校三年生まであり、更に一歩踏み込んで、技術短期大学や大学ができることを期待しています。台湾での教育志業が一貫教育になったように、整うことを願っています。
「大きく発心して立願し、自分に自信を持つことです。既にその土地で暮らしている以上、発願してそこで責任を果たすべきです。人材育成の責任を担うのであれば、慈済精神を継承し、恒久な大愛を広めて、現地に最も大きな希望をもたらさなければいけません」。
人材育成では感謝の心が最も重要
七月二十一日、教育志業の幹部職員が上人と座談しました。慈済大学のメンバーはAI(人工知能)を使った医療画像の自動判読システムの開発、及び慈済大学と南京中医大学がオンラインで夏季のセミナーを行ったことについて報告しました。また、慈済科技大学看護学部はコロナ禍の下での看護教育と業務の発展、原住民の学生の生活と教育ケアについて報告しました。
上人は、光陰矢の如しと言われるように、時間は放たれた矢のように素早く流れて行くため、真面目に時間を捉えて大切に使い、軽々しく怠けてはいけない、と開示しました。時間が過ぎ去り、時代の変化も速く、現代科学技術は発達し続けていますが、どんなに科学技術が発達しても、人心が善に向かう方向が逸れてはなりません。少しでも逸れれば、「毫釐の差は千里のあやまり」になってしまいます。
世界で起きている放火や暴力、略奪などの動乱を見ても、国が安定しなければ、人々の生活はとても苦しいものになってしまうことが分かります。多くの人は懸命に働いて貯めた長年の蓄積が放火によって何もかも失っています。元来は何もなかった状況下で、少しずつ積み重ねてきたものがまた、無に帰してしまい、再び努力しなければならなくなるのです。人生はいつも循環する中で、行ったり来たりするため、苦しいものですから、台湾の社会を振り返り、不安定な国と比べると、本当に感謝すべきです。
上人によれば、教育は先ず、学生に感謝の心を培うべきなのです。長年の教育を経ても、感謝の心が芽生えなければ、将来、社会により大きな不安要素をもたらすことになります。感謝の心がなければ、知識人となっても面倒を引き起こしかねず、様々な問題からこの世に禍をもたらしてしまいます。
「学生が教育を受け、愛の心を培って、常に感謝の心を持てば、自然と善業を造るようになります。人と人の間で心を静めて穏やかになり、互いに感謝し合うのが、この世で最も美しい境地なのです。この境地は教育から来るもので、誰もが事理明白になってできてこそ、生命を愛し、守ることができるのです」。
仏教は自然の道理を説きますが、慈済は仏法を実践して菩薩道を歩みます。慈済の大愛は百以上の国に及び、それによって慈済人は世の諸々の苦難を目にしてきました。上人は、子供たちが苦難を見て学ばなければ、自分たちが幸福であることを知ることはありません。世の中の苦難を知らなければ、足ることを知る心も生まれず、心に欠如した部分ができてしまいます。人生で外部に対して求めるだけであれば、心は虚しいものになり、安定感がありません。一歩ずつ着実に歩んでこそ、正しい道を進むことができます。時間は僅かでも留まってくれませんが、時間をかけることで美しい善が完成するのです。
(慈済月刊六五八期より)