4月2日台湾鉄道タロコ408号列車事故─希望の光で真っ暗なトンネルを照らすよう祈る

タロコ号の脱線事故現場で、昼夜を分かたぬ復旧作業の結果、運行が再開された。引き起こされた極限の痛みに傷つき、あたかもまだ真っ暗なトンネルの中にいるかのような気がして、光が見えない。未だ苦しみから抜け出せない人たちに、愛の温もりを与え続け、寄り添う。暁の光が希望をもたらす日が来るまで。

四月二日は清明節四連休の一日目に当たっていた、台湾鉄道(以下台鉄と称す)の北回り特急列車タロコ408号が、午前九時二十八分、和仁駅から崇德駅の中間地点に差し掛かった時、崖から滑り落ちていた工事作業車に衝突した。百二十キロスピードの走行は急ブレーキをかける間もなく、三百トン余りの重い金属車体は瞬時に脱線し制御不能となり、数車輛が清水トンネル内の壁に衝突した。死者四十九人、負傷者二百十八人という台湾の鉄道史上で最悪の悲惨な事故となった。

事故発生の翌日、台鉄が大型クレーン車を出動させた。脱線したタロコ号の車両を吊り上げ、軌道の上に戻してから機関車に連結して現場を離れた。(攝影・蕭耀華)

花蓮、台東地方の住民達は家族や友人と共に墓参りするのを待っていた。しかし、訪れたのは永遠の別れという訃報だった。一方、事故の知らせを受けた北部に住んでいる家族は、鉄道は不通になっていると予想して車で花蓮に急いだが、渋滞が思いのほかひどく、焦る気持ちは強くなるばかりでも、ほとんど進むことができなかった。救急車や消防車、霊柩車が事故現場に向かって疾走するのを目にすると、とても耐えられなかった。

「事故の知らせがきてから、私は皆に制服を着て家で待機するようSNSで指示しました」花蓮の慈済ボランティア范壘(ファン・レイ)さんは、十一時頃、ボランティアチームを二手に分けて行動を開始した。一つのチームは車で事故現場に向かい、事故状況の把握と脱出した乗客への寄り添いに努めた。もう一つのチームは急いで静思堂にある物資を点検し、トラックでテントと福慧ベッド、間仕切りなどを清水トンネル事故現場と崇德駅、新城駅などのトリアージエリアに運び、奉仕拠点を設置した。

それと同時に、静思精舎の尼僧たちは第一線にいる救助隊員たちのための弁当を作り始めた。「十一時過ぎに指揮センターを立ち上げ、正午には先ず、五百個余りの弁当を届けました」と花蓮本部防災チームリーダーの呂学正(リュー・シュエジョン)さんが付け加えて報告した。

今までのように災害時のSOP(標準作業手順)に基づき、慈済チームは素早く行動を起こした。花蓮慈済病院では「レッド九号(重大事故発生による緊急処置)」を発し、千人に上る医療スタッフや事務関係者が直ちに投入された。慈済医療志業の林俊龍(リン・ジュンロン)執行長は、医療チームを率いて救急車で事故現場へ急行した。

台北慈済病院の陳美慧(チェン・メイフイ)看護師長はその列車に乗っていたが、座席は最後尾の一号車だったので、先頭の八、七、六号車のように致命的な衝撃を受けることはなかった。しかし、看護師という技能を持っていても、彼女にはなす術がなかった。「私たちの車両の乗客は全員無事でしたが、停電で扉が開かず車内に閉じ込められていたのです」。

その後、救助隊員の助けで外に出た後、彼女は直ちに救助チームに加わって乗客を誘導し、負傷者に寄り添った。その時、慈済の医療チームは主に負傷者のトリアージに取り組んでいた。「軽傷者はそのまま病院へ運び、重傷者は現場で応急処置をして、心肺機能を安定させていました」と。林執行長によると、慈済病院は既に重傷者が大人数になることを想定して受け入れ体制を整えていたが、実際に受け入れた患者はそれほど多くはなかった。「列車がトンネルの中で脱線して止まっていたので、狭い空間での救助が困難でした。軽傷者は自力で歩いて出てきましたが、腹部や胸部を負傷した人は動けず、現場で亡くなる人もいました」と林執行長が感慨深く話した。

清水トンネルと花蓮市内をひっきりなしに行き来していた救急車は、負傷者の他に遺体も運んだ。今回は死者と負傷者が余りにも多かったため、台鉄は移動専用列車を北側から清水事故現場に手配し、負傷者と遺体を運んで再び北側にある操車場に戻り、別の線路に切り替えて南に下っていた。崇德駅と新城駅に到着してからは、負傷者を救急チームに任せ、遺体は遺体袋に納めた。その後、検察官の検視を経てから遺体を花蓮市立葬儀場に運び、遺族が身元確認を行った。

「午後三時頃、捜索隊が、車輛の中には生存者はいないと伝えてきました」。トンネル内にはまだ多くの人が閉じ込められていたが、生存者がいないと聞くと、范壘さんは気持ちが沈んだ。自分たちは幸運にも無事で、子供が助け出されるのを気丈に待ち続けている夫婦にどう接したらいいか分からなかった。「彼らの期待を裏切ることができず、残酷に『もう帰ってきません』とは言えませんでした」。

事故発生後、慈済ボランティアは葬儀場に急行して奉仕拠点を立ち上げ、静思精舎の尼僧たちと共に、昼夜を問わず犠牲者の遺族に寄り添った。

最も困難な任務

自力で列車を降りて特別列車や救急車に乗ってきた人も体中に傷があり、手足も骨折していたが、医師の診断で生命に危険がないと確認された。負傷者と死者の状況を見ていると、生死間には曖昧な時間という領域はなかったことが分かった。犠牲者の多くは事故直後、既にその場で人生を終えていたからだ。私たちはどうやってその遺族を慰めるかが「困難な任務」となったのだ。

慈済ボランティアは昼夜分かたず交替で葬儀場にいる遺族に付き添った。呂鳳瑛(リュー・フォンイン)さんは午後十一時から午前一時までの任務を引き受け、遺族を送り迎えするボランティアが戻って来るのを待っていた。「私たちは二台の車でホテルまで送り、それぞれの車に女性委員が一人付き添いました。翌日には亡くなった子供に着せる服を買いに行くのに付き添うことにしていました」と。

呂さんは慈済の奉仕窓口に用意している、家族や救助人員のためのパンやミネラルウォーターなどの数を記録していた。食欲がない時に体力を維持するバナナも用意したほか、事故現場や霊安室を行き来する家族のために、マスクも用意した。

「戻ってきましたよ!」四月三日の午前零時、犠牲者遺族の送迎を担当していたボランティアが葬儀場に戻ってきた。車を降りて来たのは、花蓮慈済病院の事務員である李思蓓(リー・スーペイ)さんと、同じ病院で勤務する夫の馮清榮(フォン・チンロン)さんだった。事故発生直後の緊急対応が始まってから当日の深夜まで、李さんは殆どの時間を負傷者の対応に努めていた。翌日には病院へ負傷者の見舞いに行かなければならなかったが、休息を取るのが惜しく、一分一秒たりとも時間を無駄にせずに、犠牲者の家族に付き添っていた。

夜になってからの身元確認作業は、犠牲者遺族が否応なしに、肉親がこの世を去った現実を突きつけられた。翌日の招魂の儀式は悲しみに溢れていた。遺族は四月三日の午後、六台のバスに分乗すると白い旗と位牌を携えて事故現場へ向かった。慈済ボランティアも組に分かれ、遺族一家族に一組が付き添った。

「帰って来なさい!」と犠牲者の魂に呼びかける一言一言が悲しみに包まれ、遺族たちは目を真っ赤に泣き腫らし、慈済人ももらい泣きしながら、遺族達の後ろに立って悲痛を強く支えていた。

「気を失った人がいます!…」一人の女性が悲しみの余り気を失い、立っていられなかったようだ。ボランティアの劉麗卿(リウ・リーチン)さんと張其富(チャン・チーフー)さん夫妻、そして、劉濟雨(リウ・チーユー)さんが女性を護送してその場を離れた。彼女を椅子に座らせたまま、三人のボランティアで持ち上げ、女性の体が倒れないようにしながら、砂埃だらけの斜面をよろめきながら移動した。その行動はとても大変だったが、真心からの思いやりに溢れていた。

慈済ボランティアは組に分かれ、事故現場に戻って招魂の儀式をする犠牲者遺族の一家族に一組が付き添って、彼らの最も辛い行程に同行した。

親身になって感じる痛み

「私は六号車の中ほどにある座席ナンバーが三十番の座席に座っていて、乗車すると直ぐに寝てしまいました。その後、お手洗いに行ってから、座席に戻って『靜思法髓妙蓮華』の小冊子を取り出して読んでいた時、車両が大きく揺れて、その途端に大勢の悲鳴が聞こえました…」。新北市に住んでいる林邱秀絨(リンキュウ・シウロン)さんは、今回の事故で怪我をした慈済人七人のうちの一人である。既に曽祖母になって八十三歳の彼女は語気に乱れもなく、静かに事故発生当時の様子を語った。

林さんは今回、静思精舎の厨房でボランティアをするつもりだったが、花蓮に着く前にこの事故に遭遇した。彼女が乗っていた六号車は大混乱に陥り、停電と同時に照明と空調が止まった。暗くて蒸し暑くなった車内のあちこちから数十人の乗客の泣き声が聞こえ、林さんも呼吸困難を覚えた。幸い勇敢な男性が怪我するリスクを冒して、力いっぱい二枚の窓ガラスを割って、切迫した状況は少し改善された。
間もなく救助隊が到着して器具を使って脱出経路を作り、半開したドアから乗客を誘導して脱出することができた。列車はトンネル内で重なり合っていたため、車内から地面までかなりの距離があり、救助隊員は大きなスーツケースを探して来て臨時の踏み台にした。林さんは注意深く救助隊員の手につかまって地面に降り、隊員の後ろについてトンネルの出口に向かった。

「初めは何とも感じていませんが、医師に診てもらうと、右側肋骨に激しい痛みを感じました」。その後、花蓮慈済病院でCTスキャンの検査を受けたところ、一本の肋骨にヒビが入っていることが分かり、漢方医と西洋医の治療を受け、一週間安静と診断された。

不幸中の幸いだった林さんは、總統府や新北市政府、台鉄、ライオンズクラブ、慈済などから贈られた見舞金を全部慈済に寄付し、さらに善行すると発願した。「この人生が続く限り、もっと真剣に善行します。既に八十歳を超え、力仕事はできませんが、厨房で野菜を洗ったり、切ったりするぐらいはまだ自信があります」と言う。

生死の境をさまよった経験談を淡々と話す様子には、人生の起伏に対して自分を戒める気持ちが表れていた。ボランティアは犠牲者の遺族に付き添い、悲しみを分かち合う中、あらゆるものを大切にし、善良な心をも大事にすることを学んだ。

静思精舎の尼僧とボランティアたちは、事故現場の上方にある大清水休憩エリアに集まり、招魂の儀式に駆けつける遺族に付き添うため待機していた。

「六台の観光バスが満員の遺族たちを乗せて、招魂の儀式ために事故現場に到着するのを見て、心が締め付けられ、彼らが声を絞り出して肉親の名前を呼んだ時、私の心は張り裂けんばかりに痛みました」と。ボランティアの鐘素真(ジョン・スージェン)さんは去年、両親を亡くしたばかりだったが、今回、また悲痛な雰囲気に包まれた。彼女は気持ちを切り替えて涙を呑み、心を痛めながらも悟りを得た。
「人は切羽詰まった時にしか、『本当に愛している』、『後悔している』と言えないのでしょうか?」。

「彼らが一口でも何か食べるのを見ると、とても安心します」と語ってくれた、四十年以上も慈善訪問ケアボランティアをして来た林慧美(リン・フイメイ)さんは、極度の悲しみで食べ物が喉を通らない犠牲者遺族に食事するよう励ましたが、人を助ける過程で自分も心に傷を負うとは思ってもいなかった。

「招魂の儀式から戻った後、『人生は苦しいもの』という思いが頭から離れられず、その夜は眠れませんでした。しかし、翌日、上人(證厳法師)の開示を聞いて、その苦労に思い至り、勇気を奮い立たせて葬儀場に向かいました」。睡眠不足で元気はなかったが、遺族の付き添いに行った。食欲もなかったが、無理に精舎の尼僧たちが作った弁当を食べ、人助けするために必要なエネルギーを補った。「それは本当に美味しい弁当でした。食後は元気が出ました。常住尼僧たちにお礼を言いたいです。とても感動しました」。

事故発生の翌朝、慈済ボランティアが静思精舎の尼僧たちが作った菜食弁当を運んで、作業人員やメディア記者たちに朝食として配った。

手を携えて心身の傷から抜け出す

犠牲者と負傷者が大量に出た大惨事では、第一線の救助専門隊員であれ、第二線で支援する民間のボランティアであれ、皆直接、死というものに直面すると、その悲痛で心に傷を負うかもしれない。如何に人助けの経験が豊富な慈済人であっても例外ではない。證厳法師との座談会で、事故で付き添いをしたボランティアたちは、現場の数々を報告するうちに感情が高ぶり、涙を流した。

精神衛生の災害支援における重要性を認識している故に、花蓮慈済病院は花蓮葬儀場に精神科医と漢方医の相談窓口と設置して、鍼灸、抜缶(漢方医治療の一つ)などの治療を行うことで、犠牲者遺族や慈済ボランティア及び作業員の心身ストレスを緩和した。

「災害の怪我はその場での衝撃以外に、長期的にわたることもあります。また、直接、衝撃を受けた人の他に、周りの家族や友人、または作業人員や救助隊員にまで同様なストレスを経験することもあるのです」。花蓮葬儀場の拠点に駐在した精神科医の李卓(リー・ジュオ)医師は、全てのボランティアに対して、自分たちの体と心をケアし、休息を取ってこそ他人のケアができる、と注意を促した。

精神衛生面の他に、タロコ列車事故は慈済の災害予防及び救助に関する教育訓練方面の歩調を促進した。特に今回の事故で、ある慈済ボランティアは幸運にも無事だったが、心肺蘇生術や負傷者への応急処置などを学んでいなかったために、怪我人を手当てすることもできず、自責と遺憾の念にかられた。

災害予防チームのリーダーである呂学正(リュー・シュエジョン)さんは、「もし、彼が防災訓練を受けていたら、その方法と勇気をもって人を助けることができたでしょう。私たちの防災士訓練ではそういう基本的な応急処置を教えており、被害者家族をケアする時も、彼らの心が二次的に傷つくことがないようにすることができるのです」と話した。

人々を震撼させ、心に痛みをもたらす無常を、慈済は「如常(常の如くに)」と対処している。台湾全土の人にとって永遠に忘れられない今回の事故では、慈済四大志業体の医療スタッフや教師、学生、職員、ボランティア及び静思精舎の尼僧たちまでが、災害に対する臨機応変な愛のリレーに投入していた。事故から一カ月が経ち、緊急支援から後続支援に移り、緊急の医療体制と慰問も一段落したが、犠牲者遺族へのケアは続いている。慈済慈善志業の顔博文(イエン・ボーウエン)執行長が證厳法師と全ての慈済ボランティアを代表して、辛い思いをしている人たちに向かってこう約束した。「後続の心身ケアと怪我の治療にはまだ時間がかかりますが、慈済は寄り添い続けます」。


(慈済月刊六五四期より)

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