穏やかに人生を終える権利

長年にわたる医療ボランティアの経験からして、終末期では、患者と家族は理解すればするほど、積極的な治療を望まないようです。

近年、教室や施設で緩和ケア及び「患者の自主権利法」について紹介していますが、「死について語るのはタブー」という昔ながらの考えが薄くなったことを発見しました。授業後、約三分の二の若者が「人生の最後について」積極的に家族と話し合っています。しかし、中年の人は三分の一から二分の一の割合で、配偶者や子供と「人生の最期について」話し合うことを望んでいますが、彼らの両親と話し合うことを恐れます。

一方、医療側を見ると、ホスピス緩和ケア専門医以外では九十%以上の医師が、患者の病状と穏やかに人生を終える権利について、家族に説明することを望んでいないようです。

十一月の初めに、友人の九十八歳になるお祖母さんが誤嚥性肺炎で集中治療室(ICU)に入院しました。ICUを出る直前にお祖母さんは寝返りした時、喉に痰を詰まらせて呼吸困難に陥ってしまいました。医師は、「お祖母さんの他の臓器は正常で、問題は呼吸だけです。少し頑張って、早期治療した方が希望はあります」と言いました。家族が挿管に同意した後、何度も寝返りを打って、私に電話をかけてきました。

友人に挿管後直面するかもしれない困難な選択について話すと、医師はなぜ、そんなことになるのかを教えてくれなかったのだろうと彼女はいぶかりました。そこで私は友人に、家族会議を開いて医師と慎重に話し合うよう勧めました。家族はお祖母さんの病状とリスクを認識してから医師に尋ねました。「これがあなたのお祖母さんだったら、挿管をしますか?」。「いいえ」、という医師の返答に、家族は自分たちの間違った選択にいっそう自責の念をかられました。

私はご家族の方に、お祖母さんの人工呼吸器を外せる可能性があるのなら、緩和ケア病棟に移した方がいいのでは、と提案しました。しかし、医療チームは、お祖母さんは末期患者であっても、癌でも「癌以外の八大疾患」でもないため、国民健康保険の緩和ケア医療の条件を満たしていないと言いました。

それは実に変な話で、腹が立ちました。規定に合致していないというだけで、人生の終末の権利を剝奪されるのです。私は心の中で、これは生命を尊重する「公平と正義」という原則に則っているのか?と叫びました。また、医師として奉じる生命倫理の「善行」と「傷つけない」という原則はどこに行ってしまったのか?

二週間後、お祖母さんの苦痛を和らげるために家族は管を抜く決定をしました。管を抜いた翌日、医療チームは相変わらず、お祖母さんは緩和ケア医療の条件を満たしていないと主張しました。お婆さんは三日目に亡くなりましたが、家族は愛する人の息苦しそうな様子や、癲癇を起こした時の鎮静剤やモルヒネを注射する場面を目撃する度に、憐れな思いで心が痛みました。

長年の医療ボランティアの経験から、終末期では、患者と家族は理解すればするほど、要求する治療が少なくなることが分かりました。しかし、患者とその家族が病状を良く理解していなくて、医学的知識もない場合、どのようにすれば正しい選択ができるのでしょう?

医療価値の創造は「患者の視点」から始まり、さらに重要なのは、患者が穏やかに人生を終える権利を大切にすることではないかと思わずにはいられませんでした。


(慈済月刊六三八期より)

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