富山県富山市にある「デイサービスこのゆびとーまれ」に来る人は、高齢者も子供も身障者もいる。
このように入所者を分けずにケアする方式は、後に政府から「地域共生」の模範とみなされるようになった。
超高齢化社会に直面して、益々多くの国民が、将来は政府に頼るだけでは生活できないので、各自が貢献して助け合う地域社会を作ることで、自分のためにも大衆のためにも帰属感を見つけなければならないと感じている。
先ず民間で「地域共生社会」を推し進める
三年間のコロナ禍で、介護施設はどこも大きな局面を迎えた。廃業したところもあったが、惣万さんは今でも、「人口一万人の地域につき、一軒の富山型デイサービスがあれば、日本はもっと住み易くなる」と信じている。そして、それ以外に、実は一般の介護施設も存在して初めて、大衆に選択肢が増えるのだという。充実した講座に通って優雅に日々を過ごしたい人もいれば、にぎやかに人々と交流したい人、一人で静かに過ごしたい人もいるので、人それぞれ自分に合った過ごし方を選ぶことができるのである。
富山型デイサービスをもっと普及させるために、惣万さんは「富山ケアネットワーク」を立ち上げた。それによって、経営者たちが経験や専門テクニックを分かち合うと共に、創業育成講座を開いたりして、富山型デイサービスの養成基地となっている。
しかし、その先駆者たちは率直に、制度に取り入れられると、「経営」目的で立ち上げる人が出てきている、と言う。例えば、富山型デイサービスをうたいながら、逆に政府補助が多くもらえる高齢者だけを受け入れたり、異なった部類の人たちを別々のスペースでケアしたりして、本来、惣万佳代子さんの「あらゆる人を受け入れる」という初心からはかけ離れたものになっている所もあるそうだ。
富山型デイサービスは、三人の介護士が困難を伴って歩んで来たが、後に大衆の支持を得るようになって、地方と中央政府の硬直化した制度を変え、今では全国に開花するまでになっている。もし、これら一切が二十九年前、民間によって改革がもたらされたのでなければ、恐らく「共生ケア」または「地域共生社会」の実現はもっと長い時間を要していただろう。
台湾は二○二五年に、六十五歳以上の人口が二割を超え、五人に一人が六十五歳以上という超高齢化社会に突入する。しかし、日本は二○○七年という早い時期に超高齢化社会に入っており、二○二五年には三割を超えて、十人中三人が六十五歳以上になると予測されている。
親子館はどう見ても子供に活力を発散させる場所にしか見えないが、実はコミュニティスペース「だれでもハウス“めぐみ”」は、じっくり相談することで、育児に悩む親のストレスを和らげる手伝いをする場所だ。
日本は一九九○年から長期介護サービスが始まり、二○一二年に「地域包括ケアシステム」を推し進めた。医療や介護だけでなく、住居や生活面でも支援と予防を対象に取り入れ、高齢者に「地元で老いる」ことができる環境を整えられることに期待している。台湾の長期介護2・0プロジェクトは日本を手本にしたものである。
しかし、これまで述べて来た対象は高齢者に限ったものだが、実務的には二重ケアや身障者ケア、引きこもり、登校拒否、育児問題などに関わっており、異なった支援体制とサービスの間を有効的に穴埋めできないと、ギャップが生まれ易くなるのである。
それに加えて、政府は将来の財源と人材不足を見据えて、二○一六年に「地域共生社会」という目標を掲げた。元からあった「ケアされる側」と「ケアする側」の境界線を打ち破る構想によって、個人の地域社会での役割を喚起し、地域の連携を強めようとしている。
しかし、政府が共生を目標に掲げる前から、富山県では政府に頼るだけではいけないと気づき、自主的に「誰もが安心して暮らせる環境」を作り、自分のためにも大衆のためにも帰属感を探し出そうとしていた人たちがいた。
コミュニティスペース「ひとのま」には、よく登校拒否の子供が母親に連れられて「登校」して来る。
登校拒否の子供が来る「シェルター」
生活感に溢れた二十平米余りのスペースに、十数人の子供と大人がにぎやかに話をしていた。高岡市の「コミュニティーハウスひとのま」は形容が難しいスペースである。住宅のようだが、誰もそこに住んでいるわけではなく、コミュニティーの交流の場のようで、特に決まった活動があるわけでもない。また、社会福祉機構のようにも見えるが、ソーシャルワーカーや心理療法士を見かけたことはない。NHKが一年がかりで撮影して番組を制作する魅力があるのは、一体どういう場所なのか?
ここによく出入りする「決まった人たち」とは、登校拒否の子供や引きこもりの青年たちが多く、時には近所の一人暮らしのお年寄りや帰る家のない人、ご飯を食べるお金のない人もやって来て、モバイルゲームを遊んだり、休憩や仕事探したり、食事の用意をするなど、自分のしたいことをして、お喋りをしている。この十一年間、人々は自然とそこを「シェルター」として利用し、新たな人生を出発する日を待っているのだ。
日本では登校拒否の子供が年々増加し、今年も記録的になっている。例を挙げると、女子高校生である小春もその一人で、小学生の時に母親に連れられて「ひとのま」にやって来た。ある日突然、「自分に問題はない」と感じ、再び学校に戻って行った。今年、「ひとのま」は丸田颯人さんを新規雇用した。彼は臆病で六年前から登校拒否を続けていたが、今は爽やかな青年に変身した。
「私はこの家を開け放っただけです」と三十九歳の責任者である宮田隼さんは簡単に言ってのけた。塾の先生をしている彼は、よく登校拒否や引きこもりの子供に出会う。そこで、この二階建ての家を借りて、皆で休息できるようにした。鍵を掛けることもなく、年中開けっ放しである。
時には、心配でたまらない母親が登校拒否の子供を連れ、宮田さんに「助けてくれ」と言って、「ひとのま」にやって来る。本人は何も語らず、皆も何も聞かない。ある日突然、宮田さんはその子が他の人とテレビゲームのことを話しているのを目にした。そこから無意識に、なぜ学校に行きたくないのかを話し始めたのだ。
「最も大事なのは『自然と』出てくるもので、その後は待つしかなく、本人が安心感を持てば、悩みを話すようになります」と宮田さんが言った。
自治体の社会福祉機構や警察でさえ、よく宮田さんに頼って来る。例えば、刑務所を出所したばかりで行く宛のない人やⅮVで家に帰れない母子など、この部類は行政の立場では解決することが難しい。かと言って知らない顔をすることもできない。しかし、ここでは解決方法が見つかるかもしれないのである。
「少なからぬ人は、私を『行政の隙間を埋める人』と言いますが、私はただ、手伝えるものは精一杯やっているだけです」。彼は次のような例を挙げた。「お腹が空けば、『ひとのま』には食べ物があります。住む所がなければ、二階に泊まればいい。仕事を探す時に電話番号が必要なら、私の番号を使ってもらっています。私に解決できないことは債務のようなことですが、解決できる人を探す手伝いをします」。
近年、宮田さんはよく表彰されるが、いつも「家を開け放っているだけです」と言う。彼が開け放っているのは家の玄関だけでなく、地域の人々の心も開け放ち、行政と専門の垣根を取り払っていることである。
心細さを繋げて助け合うネットワークにする
六十七歳の加藤愛理子さんは、より多くの人たちが交流できるように、と自宅の庭を開放した。彼女は両親と自分の老後を考えて、八年前に砺波市(となみし)に引っ越して来た。友人の水野薰さんと、庭に普通とはちょっと違う「みやの森カフェ」を開店した。初めの目標は介護者の息抜きと交流の場だったが、思いも寄らず、二人が学んだ特殊教育の背景から、特殊児童や登校拒否の子供をもつ家庭の親たちが相談に来るようになり、やがて子供連れで「登校」する人も出て来たのだ。その後、引きこもり族や求職が上手くいかない青年などの耳にも入り、地域の「ケアカフェ」から「多元的カフェ」になっていった。
「みやの森カフェ」は、地域内の相談所のようだ。かた苦しい場所ではなく、食事やアフタヌーンティーがとれて、リラックスして悩みを打ち明けることができる。往々にしてそういう方法で悩みは解消しやすくなる。「私たちは主に話を聞いて、それを整理して、誰それと会ってみるよう提案しています。問題の解決はやはり本人しかありません」。加藤さんと水野さんは惜しまず、自分たちの豊富な人脈を人にも紹介し、コミュニティーで助けを求める人たちを一人ひとり繋げて、力強く助け合うネットワークにしている。
「私たちは小さな拠点でしかなく、大したこともしていませんが、面白いことをいっぱい試してみることはできます」と加藤さんが言った。そうだからこそ、より多くの人を啓発して自分たちが幸福になると共に、皆にも幸福な空間をもたらしているのかもしれない。
例えば、「ささえるさんの家となみ」は、病院事務員だった鷲北裕子さんが三年前に自宅の古い家を改装した「臨床美術」教室で、地域の中高齢者に普通と違った療養する場所と時間を提供している。
「以前、私は美術がとても嫌いでした。しかし、臨床美術に出会ってから、自分を認めることを学んだだけでなく、あのような高揚感は私の癌細胞を少なからず殺してくれたのです!」乳癌を患っていた鷲北さんは、九十歳の母親と共に臨床美術の奥深さを心から体験したため、もっと多くの人にこの喜びを体験して欲しいと思った。
介護や登校拒否だけでなく、近頃、育児の悩みがよく討論されるようになっている。「だれでもハウス~めぐみ」は正にこのような問題に対応する場所として誕生した。どう見ても「育児」に特化した親子館のように見えるが、実はママのストレスを和らげるのを手助けする空間なのだ。
かつて託児所の所長をしていた木下三貴子さんは、子供の問題の多くは家庭が原点であるため、問題を解決するなら、両親から手を付けなければならないことに気づいた。彼女は平日の朝、そこを親子に開放した。遊戯などでリラックスして、ついでに相談してもらっている。また、地域の高齢者ボランティアも一緒にそこで過ごしている。設立して何年にもなるが、利用代は清掃費の百円だけで、相談は無料である。
「もし、その時ここに来なかったら、私は子供を殺していたかもしれません」とある母親が木下さんに過去の苦痛を打ち明けたことがある。今その子は既に大学生である。彼女は十一年前にここを開設したことは正しかったのだ、と嬉しく思った。それにこの仕事は好きなことなのだ。
政府は、「地域共生社会」を推進することで、大衆がこれ以上政府の「公助」や社会保障制度の「共助」に頼らず、個人の「自助」を重視して推進し、地域の「助け合い」に発展させていきたいとしている。自分たちの居住区なのだから自分たちで努力することを受け入れる人もいるが、それは政府の責任回避だと考える人もいるそうだ。
長年、南砺市の地域共生を手伝ってきた前南砺市民病院の院長は、今は南砺市の市政顧問を務めているが、「政府が責任者であることに違いはありませんが、地域住民こそがそこに住んでいる関係者であり、より地元のことを理解しています」と言った。
富山県南砺市では、住民の自治と自治体の支援の下で、コミュニティーの組織が発展しており、心細い個人個人をつなげて助け合いネットワークを作り上げている。一人暮らしのお年寄りが支援を求めた時、周りも直ちに支援の手を差し伸べることができる。
「自治体は怠けているわけではなく、公助と共助の基盤を固めると同時に、住民の自助と助け合う精神を呼びかけることに務めています。しかし、横から見守っているとはいえ、必要な時には全力で支援します」と南砺市(なんとし)の田中幹夫市長が言った。
同じく地域共生を後押ししている富山大学付属病院総合診療科の山城清二名誉教授は、医療人材不足を感じ、二○○九年に「地元人材養成講座」を開設し、地域住民を主体に、これまで五百人を超えるシード部隊を培い、自治体と地域社会の掛け橋となってきた。最終的に投入した人は十分の一しかないとは言え、皆依然として橋渡しの手伝いをする仲間になっている。
八年前、「ほっこり南砺」というコミュニティースペースを作った中山あけみさんは、当時の講座に参加していた実践者の一人である。彼女が講座で学んだのは具体的な方法だけでなく、「未来に対する想像力」だった。また、コミュニティースペースの経営者として人助けする以外にも、自分の心を豊かにし、多くの人と交流できるというお金では買えない収穫もあるという。
「私は日本人だというのに、日本語は難しいと感じます。ましてや外国人は尚更そうでしょう」と熊本県から来た前田啓子さんが言った。富山県に来た当初は方言に苦しんでいたと同時に、フィリピン人の友人ができ、十二年前に思い立って、「にほんご広場なんと」を開設した。そこでは、外国人技能実習生と地域の高齢者が交流しながら日本語の勉強をしている。
外国人技能実習生にとって、普段は工場で働いているため、あまり日本語を話す機会がない。一方、高齢者は以前、顔つきの異なる外国人を見ると怖いと思っていた。しかし、地元の各種活動に参加した時に、語学が学べることを知ってから、お互いの距離が縮まった。「日本人であれ、ベトナム人またはインドネシア人であれ、この地域で生活している以上、相手をもっと知ることは良いことだと思います」と前田さんが言った。
「地域共生社会」や「助け合い」は政府の政策を宣伝する時のうたい文句のように聞こえるが、実際は一人残らず、皆が手と手を取り合うことではないだろうか。
ある日、「デイケアハウスにぎやか」で、昼食時に突然、激しく咳き込む音が聞こえた。実は、「ジャンちゃん」と呼ばれていた六十四歳の脳性麻痺の女性がむせたのだ。職員が駆けつける前に、合わせて百八十歳になる、側にいた二人のお婆さんが直ちに、子供を落ち着かせるように彼女の背中を軽く叩いた。彼女たちはお互い、血縁関係のある家族ではないが、共同生活をして、助け合っている家族なのである。
「時にはケアする人であり、時にはケアされる人になるのです。これが幸福ではないでしょうか」と九十三歳の菅お婆さんが淡々と言った。幸福とは簡単であると同時に、実に簡単ではないのだ。
(経典雑誌二九三期より)
高齢化、少子化、核家族化といった社会では、以前は支えとなっていたシステムも将来は通用しなくなる。助け合いのみが長く続く道なのである。