親心と菩薩心

(絵・陳九熹)

「いたわり」とは、子供が転んだ時、親が抱き起して撫で慰めるようなことです。

いつまでもこの親心を保ち、菩薩心で以て地域コミュニティを愛護し、必要とされたなら、どこであろうと直ちに駆けつけるのです。

歳末までにはまだ一月余りありますが、年に一度の歳末祝福会と認証授与式はもう始まっています。私が例年より早めに出かけたのは、慈済人がとても精進していて、人間(じんかん)に善の種子を蒔いているからです。発心立願する人は非常に多く、慈済の善行は多岐にわたり、関心を寄せなければならない世の出来事も多くなっていますから、多くの時間を費やさなければなりません。

彰化から始まった経蔵劇の公演は、雲林、嘉義、台南、高雄、屏東へと続き、どの舞台もボランティアが雲集のように集り、荘厳で道気に満ちていました。皆さんは発心立願して少しずつ結集し、私に大きな確信と力を与えてくれました。認証を授かる前は、多くの人は会員になってから慈済に参加し始め、長い時間をかけて理解し、心から敬服してから、養成講座を受けようと決心するのです。そして、何年かしてから、慈済に対する信心が堅固なものとなり、認証を受けようと思うようになります。私は皆さんに大きな期待を持つと共に、最大限に祝福します。「仏教の為、衆生の為」は、自分に対して責任を持ち、家庭が円満になり、さらに隣人や地域社会の人々を導いてください。

どの会所でも、慈済青年ボランティアの卒業生たちに出会います。以前は学業や仕事で故郷を離れていても、その縁は残っており、それが成就し、養成講座を経て、認証を授かる時、私に「あなたの子が帰ってきました」と言います。これは私と彼らの合言葉です。本当に心が通い合っているのです。彼らは責任を担う準備ができており、人生の価値がまた一段と上がりました。

今回の行脚では感慨深いことが多々ありました。特に自分が老いて、過去を振り返ると、感謝の心が尽きません。どこに行っても、視線はいつも古参ボランティアに向いてしまいます。また、来ていない人の事を尋ねると、もう高齢で出かけるのが不自由になられましたという返事が返ってきます。もう会えない人もいます。全ては自然の法則ですが、記憶の中には彼らは永遠に存在しています。

私はただ一つ発願し、心を尽くしているだけで、本当に志業に投入して進行させてくれたのは、古参ボランティアたちなのです。私の法を心に聞き入れ、私の歩みに歩調を合わせてついて来てくれました。人が多く集まれば、大きな力となり、心強いばかりです。三、四十年を経て、彼らは年齢を重ねても、心はしっかりと私と共にありました。そして四大志業に参与し、全身全霊で見返りを求めず世に奉仕し、やり遂げた喜びを感じ、人生に価値を見出した故に、絶えず感謝の気持ちを持っているのです。

誰もが自分の健康に注意し、それ以上に、時を無駄に過ごさないことを願っています。以前に受けた恩と情を思い出し、または怨みに思うことがあったとしても、不愉快な煩悩は取り除かなければなりません。心を浄化し、改めて人情のある人間関係を立ち上げてください。記憶を眠らせず、すぐに自分を啓発して、堅い意志が立ち止まらないようにしましょう。さらに仏教を若い世代に合わせて伝えていくことも必要です。慈済が以前どのようにして進んで来たのかを知らない若者がいれば話して聞かせ、腰を低くして伝承し、身を以て担うのです。

毎日次から次へと菩薩の皆さんから、見たり聴いたりした話を聞かせてくれると、私は心から喜びを感じて満足します。仏法を人間(じんかん)や家庭に取り入れているからです。過去に間違いを犯した人や家庭が和やかでなかった人が、慈済に入ってからは心と力をもって奉仕し、法喜に満ちています。戒を護って正道を歩み、身も心も清らかにして自分を改め、現在は夫婦が心を一つに、家族全員で慈済人になっています。家庭の雰囲気が和やかであることは、誰もが求める幸せですが、皆が共に福を造り、社会が安定してこそ、事業も安定するのです。

屛東のボランティアから、九月に明揚国際科技公司の工場が爆発を起こした際の支援についてのお話を聴きました。巨大な爆発音とともに、舞い上がる濃煙を見た慈済人の脳裏に浮かんだのは、直ちに行動することでした。十八日間、現場で作業にあたった救助隊員を支援し、外から見守る家族に付き添いました。それは、まるで転んだ子供に思わず駆け寄って慰める親心のようなものだと言えます。いつまでもそのような親心と菩薩心で地域コミュニティを愛護し、必要があれば、たとえどこであっても駆けつけなければなりません。

歳末祝福会では必ず、慈済の大蔵経を放映し、年の始めから毎月、慈済がどんな活動をしてきたのかを報告しています。台湾を護る以外に、世界にも踏み出し、毎年、支援地域は増加の一途をたどり、今月の統計では既に百三十三の国と地域に及んでいます。慈済は僅か数人から始まり、今では長い隊列ができています。そして、初代から二代目、三代目へと引き継がれ、小さい子供でさえ、竹筒を持って人助けをしています。それは、祖父母や両親が育んだ慈悲心なのです。僅かだと軽んじてはなりません、私たちの力は「蛍」の淡い光であっても、群れを成せば明るくなり、この世を護ることができるのです。

皆さんは私との縁を大切にして、最後の一息まで志業を続けると発願してくれました。私も最後の一息まで説法し続けると発願します。今の体では力を込めて息を吸ったり行動しなければならず、一歩一歩注意深く歩んでいますが、願いは慈済菩薩道の心願が皆さんの心に固く焼き付いて、片時も忘れることなく「私には信心があり、願があり、力があります」と念じるようになる事です。貴い命のいつ如何なる時でも価値のあるものでありますように、皆さんの精進を願っております。

(慈済月刊六八五期より)

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