手袋に食器洗いスポンジを縫い付け、食堂テーブル用の布巾を色で分けて、「公私混同しない」方法を取っています。
他人の健康を守るという思いやりから考え出されましたが、同時に自分自身をも護ることができます。
「静思精舎の食器洗いスポンジはとてもユニークですよ!」と共用の食器洗いを手伝っているボランティアが褒め続けました。
五年余り前、私は自分の仕事以外に、交代で副執事としての仕事も務めるようになりました。担当範囲は、精舎で朝食の給仕や三食後に残ったおかずの回収、お皿の食べ残しの処理、テーブル拭き、炊飯器洗い、共用の大皿と個人の食器洗い及び紫外線によるエコ食器の消毒などです。初めて「手袋型」の食器洗いスポンジを見た時は、こんなものがあるのだと驚きましたが、毎日使っているととても使い勝手がよく、ごく当たり前のものとして使うようになりました。でも数日前にボランティアからこの「手袋型」の食器洗いスポンジの良さを聞くと、その根源を究明しようと思いつきました。
「とてもユニーク」ですが、その特徴はどこにあるでしょうか?形は手袋ですが、水を通す穴が開いた材質の布でできています。両手を長時間、洗剤に浸けずに済み、手のひらと親指のところに、食器洗い布を縫い付けてあるので、使いやすくて効率的なのです。
調べてみると、それができた背後には感動的ないきさつがあることが分かりました。
「数えてみると、既に二十三年経っているのです」。裁縫をしていた常住ボランティアの胡淑照(フゥ・スゥヅァオ)さんによると、当初共用の食器を洗うスポンジは、個人用の食器を洗うものと全く同じだったので、よく取り違えて使われ、仕舞にはどこかへ行ってしまうのです。精舎では食事の時に、取り分け専用の箸とスプーンを使っており、もし、食器を洗う時に、スポンジを混同して使えば、衛生上の問題が心配されます。そこで、「公衆衛生に配慮し、公私の区別をはっきりさせるためにと考えられたのが、このアイデアとデザインでした」。
静思精舎の食堂では、食事の後で共用の食器と私用の食器を分け、4つの手順で洗浄する。常住師父とボランティアは手袋型スポンジを使って共用の食器を洗う。思いやりのある設計により、洗浄がスムーズになりスピードアップした。(撮影・梁嫣親)
胡さんによると、「この食器洗い手袋は、元は楕円形の手のひらの形でしかなく、親指のところが単独に動かせるようになっていなかったため、素早く食器を洗うことができませんでした。精舎では毎日、延べ千五百人余りが食事をしますから、食器洗いの効率がとても重要でした。そこで親指の部分を独立させたデザインになったのです」。
当初は親指のところにスポンジ布は縫い付けてありませんでしたが、皿の縁がしっかり洗えていないことに気づき、それを補完したのです。一方、手のひら部分の布地が磨耗し易かったため、異なった材質の布にしました。発想から完成品ができるまで、師父たちに使い心地とアドバイスを伺い、何度も改良しました。今では共用の食器洗い専用のスポンジは一目で分かるようになっていると同時に、「とてもユニーク」、「使い勝手がよい」、「実にクリエーティブ」などとよく褒め称えられます。
コロナ禍の前、精舎の食堂のテーブルは全て、同じ色の布巾で拭かれていました。しかし、この三年間、常住師父たちは、目に見えず、触っても分からないウイルスに対処するために方法を考えました。そこで、異なる二色の布巾を使い分けて、ターンテーブルと個人の食器を置く箇所を分けて拭くようにしたのです。しかしそのために、仕事の時間が長引いてしまいました。
もちろん最初は慣れませんでしたが、皆でそれに慣れるように努力し、大変な時期を乗り越えると、今では「公私を分ける」ことで安心できる衛生習慣が身に付いたのです。そのことで、證厳法師が講釈した『法華経‧信解品』の中の、皆に念を押した言葉を思い出しました。「心に起きた一念や考えは、完全に善となっているでしょうか?衆生を利するものとなっているでしょうか?善の心、衆生を利する心はしっかり守らなければなりません」。
良い習慣を保ち続けることは、自分を守るだけでなく、精舎で食事するあらゆる人を守り、自利利他となるのです。善の考えが途絶えることがなければ、それが自分も人をも守る、最良の「お守り」になるのです。
(慈済月刊六八二期より)