ロシア・ウクライナ戦争から避難してきた高齢者 ワレニキクラブ運営中

「ポーランド人の家庭が私を受け入れて喜んでいるかどうか、また、迷惑をかけているのではないか、と心配しています……」。

晩年になって戦火を逃れ、居候の身となっている日々は落ち着かない。ロシア・ウクライナ戦争が終わるまで、ウクライナ餃子のワレニキを包もう!

一口一口がふるさとの味で、甘酸っぱく、暖かい……。

慈済がワルシャワで主催した「ワレニキクラブ」。被災者雇用制度で女性とお年寄りたちが異郷の生活に溶け込めるよう手助けしている。

ポーランド・ワルシャワ。ある住宅のキッチンでは、コンロの上に砂糖を加えた大粒のサワーチェリーが煮込まれ、綺麗な赤紫色のジャムに仕上がっていた。窓の外の日光が、ちょうど室内に舞い上がった小麦粉に反射して、空気中に煌めく金の砂のように見えた。笑い声と共に、部屋中に甘酸っぱい、温かみのある香りが広がった。

ロシア・ウクライナ戦争が勃発してからワルシャワへ逃れてきた十数人のウクライナ人高齢者たちが、慈済ワルシャワ連絡所の木製長テーブルを囲むようにして座り、シワだらけの手で、発酵させたパン生地を器用に小さく分割し、麺棒で丸く薄い皮に伸ばしていた。チェリージャムが冷めるのを待ちながら、各自がそれぞれ家伝のウクライナ餃子(ワレニキ)のレシピをシェアしていた。

「お年寄りたちはワレニキクラブに来ると、まるで幼稚園の子供のように、家伝のワレニキレシピで誰が一番かを比べるのです!このように、苦難を忘れてかくしゃくとなってくれるなど、私が最初にこの企画案を出した時には、想像もしていなかった収穫です」。ハンナ・マンクスさんを含むウクライナ籍慈済ボランティアは、高齢者たちと一緒に餡と故郷を想う心をワレニキの皮に包み、中身がいっぱい詰まった円形または半月形のワレニキを鍋に入れるのを待っていた。

ボランティアは、この高齢者たちの言葉には疑う余地のない誇りがあることを知っている。それは各地を四百日余りさまよった果てに心の拠り所を見つけた証しなのだ。ワレニキを包むと、戦争前に戻ったかのようだった。孫が甘えて来たらキッチンに入って全力投球し、主食系やスイーツ系のワレニキを作っていた頃と同じように、永遠に変わらない家庭の時間を思い出しているのだ。

「戦争が勃発すると、お年寄りの置かれる状況は往々にして最も困難なものになります。彼らには言葉の問題がありますが、よく病気に見舞われるからです」。ハンナさんは、高齢の体で異国に逃れなければならなかったおじいさんやおばあさんたちを思うと、とても心が痛んだ。「ウクライナでは医者にかかるのは簡単で、電話をかけて予約すれば、翌日には先生に診てもらえます。しかしここでは、半年から一年かけて順番を待ってから、やっと必要な科の医者に予約が取れて診てもらえるのです。また、彼らは医療スタッフとどうやってコミュニケーションを取れば良いのか分かりません。それに、事務作業もできず、体も丈夫ではありませんから、彼らを雇いたいと言う人もいません。バス停に書かれた文字が読めないことで出かける時に感じる不便さと言ったら、お年寄りはもちろんのこと、私でさえも、自分は火星から来たのではないかと感じるほどです……」。

ポーランドに長く留まる以外にはないが、全てがこのように馴染みなく、一から模索する必要があるため、お年寄りたちは次第に、ホームステイ先の部屋からも出られなくなってしまった。

「ポーランド人家庭が私を受け入れて喜んでいるのかどうか分かりませんし、迷惑をかけているのではないかと心配しています……」。ウクライナ人のお年寄り、ニナ・クラフチェンコさんは、「いつか彼らに出ていくよう言われる日がくるかもしれないと思うと、怖いのです……」と心配を打ち明けてくれた。

ワレニキクラブでは全て菜食を作っている。キャベツの塩味ワレニキに玉ねぎソースやヨーグルトをかけるのが本場の食べ方だ。

長い間、恐怖や不安、そして孤独な状況に置かれ、シニア難民とも言える彼らは、日増しに元気をなくしていった。二〇二二年九月末、ボランティアは「ワレニキクラブ」を立ち上げる案を出した。毎週金曜日にお年寄りたちを慈済ワルシャワ連絡所に招き、ワレニキを作ってもらうのだ。それはやがて、慈済が現地で推進する中長期ケアの一環となった。

「ウクライナ人は生まれつきワレニキが作れるのです!ただ、問題は、お年寄りたちが出て来て、参加してくれるかどうかでした。初め、他の人は無理だと思っていたようですが、私は深く考えることなく、ボランティアに呼びかけて食材の購入と準備をしてもらい、彼らを招待しました。最初は七人のお年寄りだけでしたが、今年六月までで三十回以上続けて行っており、十六人のお年寄りが決まって参加してくれています。彼らワレニキメンバーはダンプリングイストというニックネームで呼ばれ、毎週金曜日の集いを楽しみにしていて、だんだんと互いに誘い合って公園で話をしたり、散歩したりするようになりました」。

ふるさとの味のワレニキ作りは、お年寄りたちに、外部と接触する勇気と自信を与えた。できたワレニキの八割はチャリティーバザーに出品するが、慈済連絡所のポーランド人ボランティアが食材の購入とウェブサイトでの宣伝を受け持っている。「キャベツ味にチーズフライ、オニオン・マッシュルームフライまたはマッシュポテトなどのフィリングがあります。フルーツジャム味もあり、サワーチェリーはここにしかありません!ポーランド人も食べたことがなく、思わず息を呑むほど美味しかったので、いつも買いに来てくれるのです。チャリティーバザーで得たお金は、お年寄りたちに分け与えています。あまり多くはありませんが、おじいちゃん、おばあちゃんたちは自分の手でお金を稼いでいることに、とても達成感を感じているのです!」

そして、二割のワレニキは慈済の長期ケア世帯に寄付される。彼らは仕事ができないため、家計が厳しく、ふるさとの味のワレニキを一袋買うぜいたくさえ負担できないのだ。「ケア先の家庭に届ける時は、いつも写真を撮ります。戻って来るとワレニキメンバーに見せ、彼らが遭遇した状況を話して聞かせます。おじいちゃん、おばあちゃんたちは、自分たちの存在はまだまだ重要で、他人に幾らかでも喜びをもたらしていることを知って、とても喜んでいます」。

ハンナさんは今年二月初め、故郷のウクライナ・ザポリージャに帰った。街はガラガラで、建物の窓ガラスが無く、木の板が打ち付けられて塞がれていた。 (写真提供・ハンナ・マーカス)

百四十万人の避難民

「当時、私は息子を連れて汽車に乗りましたが、その車両には十八人が詰め込まれ、立っている人も座っている人もいました。途中、ロシア軍が今まさに爆撃している区域を通った時、空は真っ赤に染まりました。私たちは怖くて外に逃げ出したかったのですが、どこへ逃げれば良いのか分からず、頭を抱えて、無事を祈ることしかできませんでした」。以前、英語の教師であったハンナさんは、ウクライナ東部のザポリージャからパニック状態で避難した。ワルシャワに到着してからは、慈済が英語を話せるウクライナ人を通訳として探していると聞き、慈済の現地での被災者雇用制度のボランティアとなった。

この一年間、彼女は英語クラスの開設を手伝い、より多くの英語が話せるウクライナ人ボランティアが、慈済の中長期支援に加われるようにと養成の手伝いをしてきた。「最初、この戦争は数週間続くだけで、直ぐ家に帰れると思っていたのですが、そうではありませんでした。慈済の被災者雇用制度にはとても感謝しています。私にポーランドに住み続ける力をくれました!」。

もちろん、全ての人が仕事を見つけられるわけではないが、ポーランド政府の今年三月の統計によると、約百四十万人のウクライナ難民がポーランド国内に留まり続けると決心しているそうだ。またノルウェー難民理事会の調査で、七割以上の異国に放浪しているウクライナ人の多くは、子供を連れて避難した女性たちで、貧困ラインギリギリに陥り、最低の生活さえも維持するのが難しくなっていることが分かった。

「条件が良く、専門性があり、リソースがあれば、国際化した大都市や西ヨーロッパへ行って生計を立てることができます。それができない人は、多くがルブリンに留まっています。なぜなら、ルブリンは辺境にある二級都市なので、物価が比較的安いからです」。何度もルブリンに赴いて難民ケアをしているドイツ慈済ボランティアの陳樹微(チェン・スゥウェイ )さんは、多くのNPO団体が撤退していることと合わせ、今年は物資や水道、電気が値上がりし、ポーランド政府の力だけでは足りなくなっている、と説明した。

「戦争は軍事に関係のない庶民にとっては非常に残忍な仕打ちです。私たちがサポートに赴くのは、人々に憎悪心が芽生えないようになることを願い、戦争の残忍さだけに追われているのではなく、彼らに関心を寄せる人もいることを知って欲しいと伝えたいからなのです」。

慈済のワルシャワでの難民ケア活動の様子。ハンナさん(左2人目)は通訳として慈済ボランティアと肩を並べて同郷のウクライナ人をサポートしている。(写真提供・周如意)

故郷を離れてから四百日余りの想い

開戦から一年が経った時、ハンナさんはザポリージャに帰った。ロシア軍によって猛烈に爆撃されたマリウポリとドネツクからは遠くないため、住民がここに避難して来ていた。再び故郷の街道に足を踏み入れたと言うのに、ハンナさんは、思っていたほど心が高ぶらなかった。むしろ気持ちが混乱したそうだ。「全てに馴染みがなくなったのです。あらゆる建物は窓がなくなり、空気は戦争の匂いがしていました…昼間でしたが、街には歩いている人の姿はなく、子供たちも外で遊んでいませんでした。私が住んでいた家には他の都市から来た避難民が仮住まいし、家具の配置も変わっていました。もちろん、私は反対しませんでした」。

たった数日間滞在しただけで、ハンナさんはポーランドに戻った。彼女は、子供の安全と教育のために、ワルシャワに残ることを決めた。いつも笑顔の彼女だが、ウクライナの何が一番恋しいかと聞かれると、少し考えてやっと、そして真剣な面持ちで、「最も恋しいのは実は、毎朝起きてから冷蔵庫のところに行き、開けて中に何があるのかを見て、どんな朝食を作ろうかなあと考える時間です。本当のところ、自分の作る目玉焼きが、私はとても恋しいのです」。

ハンナさんとお子さんは今、慈済と協力しているカトリック教修道院で暮らしており、三食は修道院が提供している。彼女は施設が惜しみなく助けてくれることに感謝しているが、以前の自立した時間に想いを馳せずにはいられない。「もし私の同胞に何かを言うならば、この戦争は、みんなをより良くし、悪くなることはないのだと言いたいです」。

慈済がワルシャワでケアしている世帯とお年寄りたちは皆、ボランティアと一緒に慈善活動をしている。例えば、焼いたドライ・フルーツを物資が不足しているウクライナの戦地に届け、避難できない高齢者や女性、子供たちに提供している。「ウクライナの誰もが知っているアニメに、『あなたの船がどう航行するかは、この船をどう名付けるかで決まる』という言葉がありました」。ハンナさんは、「だから私は難民ではなく、ボランティアなのです」と言った。

お湯が沸き、鍋の中のワレニキも茹で上がり、ボランティアがすくい出すと、ウクライナ人のおばあちゃんたちが引き継いで、全てのワレニキにバターを塗ったり、カリカリに炒めた香ばしい玉ねぎを載せたり、ヨーグルトを用意したりした。本場のワレニキはこのようにして食べるのである。人々はポーランドに出現したこの一皿のワレニキという故郷の味を、楽しく味わおうとしていた。一人ひとりが思いに耽り、栄養をつけては頑張り続けていくことだろう。(「隔月刊誌「アメリカ慈済世界」より)

(慈済月刊六八一期より)

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