小柄な彼女の姿は直ぐ目に付く。何故なら、立ちあがっても彼女の身長は僅か一メートル三十センチくらいで、二本の松葉杖で支えてはじめてゆっくりと前進することができるからだ。よく見ると、彼女の顔や両手の多くのところが変形している。にもかかわらず、彼女は自分の外見や動作を少しも気にすることなく、回収資源の分別に全力を尽くしている。
台中市長安リサイクルステーションのボランティアである呉貞葉(ウー・ツンイェ)さんは、台湾では俗に「ガラス人形」と呼ばれる、骨形成不全症を患っている。彼女の話によれば、九歳まで五体健全で、活発な子供だったそうだ。ある日、田んぼで楽しく遊んでいたところ、不注意で転んで、左の大腿骨を骨折した。その時、国術館整骨院に運ばれたが、一カ月が過ぎた頃になって接合した骨の歪みに気づいた。再び、整骨院へ行って、繋がっていた骨を強引に切って繋ぎ直された。その時の激しい痛みは彼女の人生において忘れ難いものになった。
側で聞いていても唖然となるような、でたらめな治療法が、あろうことか子どもの身に起きたのである。彼女は遺伝的に先天性の欠陥があるとは言うものの、一般の人よりもずっと「楽観的で朗らか」な性格をしている。そして、常に笑顔を絶やさず、自信を持って積極的に人と接している。彼女の骨がガラスのように脆くても、心はガラスのように透き通っていて、煌めく光明を放っているのだ。
今を逃さず、甘んじて行う
呉さんは、多くのリサイクルボランティアと同じように、地球を守るために、奉仕する機会を大切にして、全力で投入している。最初、彼女は三輪バイクで近所のなじみのある店を回って資源を回収し、載せられるだけ載せていた。リサイクル拠点が撤収された後、彼女も体力的に重いものを運べなくなったこともあり、ステーションで資源の分別をするようになった。
他人から見ると、リサイクルステーションの方が、「ガラス人形」にとってより危険な場所であり、常にぶつけられないよう注意していなければならない。しかし、彼女にとって、リサイクルステーションは大きな宝物殿に見えるので、自分の体の制限を忘れて、生まれ持った能力を最大限に生かして奉仕しているのだ。時にはビニール袋の材質を仕分けるエリアで手伝ったり、時にはペットボトルのキャップリングを取り除いたりしている姿が見られる。また、分別作業を終えると、ほうきをもって清掃を手伝うこともある。
体の様々な苦しみと試練に対して呉さんは、超然とした処世哲学を持っている。「前世の因を知りたければ、今生で受けている果を見れば分かり、来世の果を知りたければ、今生でそれを作る」ことを彼女は固く信じている。従って、眼前の機会を逃さず、甘んじで行えば、喜びが得られるのだ。
障害のある体で恩に報いる
呉さんは週に二日、長安リサイクルステーションへ資源の分別をしに行く。時間の都合さえつけば、八十四歳の母親を連れて行く。呉さんは身長が低く、身体や動きに制限が多いが、様々な困難を克服して、安全を確保しながら、三輪バイクで母親を送迎している。彼女は、細心の注意を払い、母親をバイクに乗せる手間を厭わない。
彼女は学生時代、健康が不安定な上に、骨折する確率が高く、怪我による治療や自宅療養をした日数は数え切れないほどだった。小学校を卒業しただけの母親は、紙の媒体やテレビなど生活の中で、様々な方法を使って娘に字を教え、自分で書き方や勉強の復習をさせることで、学習できなかった分を補った。呉さんは感謝の気持ちで、「母は私に対して一度も諦めたことはありません。彼女は私の人生で最高の先生です」と言った。彼女は体の欠陥を恨まないばかりか、親から授かった体をより大切にして、今世で役に立てている。母親が慈愛でもって娘に寄り添ってくれたことに、彼女は実践して親の恩に報いている。母と娘の互いへの思いやりが、愛の流れと循環になって見えただけでなく、智慧に溢れた温もりも感じられた。
普通の人と同じような生活を送る
呉さんと一緒に彼女の自宅に行くと初めて、彼女の普段の生活が一般の人とあまり変わらないことに気づいた。同じフロアの平面空間では、松葉杖の代わりに車輪付きの回転椅子を利用していた。手や足で軽く推せば簡単に移動できるのである。床の掃除やモップがけ、家具の拭き掃除、洗濯や料理など、ありとあらゆることが彼女を困らせることはない。また、呉さんは若い頃、手芸教室で裁縫技術を習得した。それから数年間にわたって他の所で仕事に就いていたが、結婚してから自宅に戻って、他人の服をお直しして家計の足しにした。
裁縫部屋に入ると、幸せそうな結婚写真が壁にかかっているのが目に入った。しかしそれは、幸せそうに見える背後に、彼女が言葉に言い表せないほどの苦難を経た後にやっと取り戻した笑顔だった。当時二十七歳だった彼女は夫と出会って間もなかったが、乳がんに罹り、再び大きなショックを受けた。幸いなことに、治療を受けて順調に健康が回復した。その後、二人は結婚し、二十九歳の時に娘を産んだ。呉さんは、幸運にも彼女を厭わない夫に出会ったことにとても感謝している。夫は結婚前からずっと付き添って世話をし、一緒に家庭を築いてくれている。一般の人と同じような生活が送れることは、最高の幸せだと思っている。
強靭なガラスの人生
集合写真の中の幼い頃の自分を指さして、呉さんは、「これは子どもの頃の私ですが、体はまだ変形していません。その時は怖い物なしで、どんな遊びもしていました」と言った。いま、五十七歳になった彼女は、頭から両手両足に至るまで変形し、数え切れないほど骨折した上に、腫瘍の増殖などの試練はまるで煉獄にいるような苛みと痛みを経験してきた。しかし、それは呉さんを打ちのめさなかったばかりか、それらを自分の運命として受け入れ、楽観的で勇敢かつ善良な本性を示すことで、人々を度するに相応しい、模範的な菩薩となったのである。
またある時、心が晴れない友人に付き添っていた時、何時間も話をした後、力いっぱい立ち上がったら、思いがけず不注意でまた骨折してしまった。いわゆる「三回腕を折れば、良医になれる」という諺のように、何度も骨折を経験してきた呉さんは、ジャケットをアームホルダーの代わりにして患部を固定した。子供を亡くして乗り越えられないでいたその友人は、呉さんの姿を見て涙が止まらなくなり、元気を出そうと心に決めたのだった。
呉さんは、自分の身に起こったことでもって多くの人を感化し、知らないうちに家族にも感動を与えてきた。今、娘が自主的にリサイクルステーションへ行って手伝っているのは、美と善の継承だと思う。彼女の歩んできた人生はいばらの道だったが、価値のあるものだったとつくづく感じる。なんと強靭なガラスのような人生なのだろう、と感服せずにはいられない!
(慈済月刊六八〇期より)