仏法は心の惑いを解く

(絵・陳九熹)

悟りの智慧は、現代風に言えば、心理学であり、感情で理解できないことを解き明かします。
因縁の概念で以って自我を整え、悪縁をなくして、善縁を結びましょう。

近頃よく耳にするのは、慈済人の真心のこもった「喜んで!」と言う発願です。私は心を打たれ、一層確信が強まりました。慈済でこの一甲子(六十年)近く、一歩一歩と困難な道のりを一緒に歩んでくれた仲間に感謝しています。後に続く人の拠り所となり、前には道を切り開く人がいました。正に皆さんの支えによって、今その道はとても平坦に敷かれました。

シンガポールとマレーシアの慈済人が、長年精進して仏法を学び、私の「仏陀の故郷への恩返し」という心願も聴き入れてくれました。そして、この二年間、多くのチームがリレー式にネパールとインドに赴き、コミュニティーで志業を行い、家や学校を建設しました。中でもインド・ブッダガヤのシロンガ村では、三十六軒の大愛住宅が既に着工しています。間もなく、整然とした集落ができ、草ぶきのあばら家に住んでいた人たちは安心した生活ができるのです。私たちの真心と誠意はそこから始まり、そして現地の菩薩たちを啓発するでしょう。

世俗に言われている「恩返し」とは物質や金銭で恩情に報いることです。しかし、私たちの恩返しとは、仏陀の故郷で慧命を育むことです。もし二千五百年前に仏陀がこの世に生まれ、修行を決意して衆生に悟りを開くよう教えることがなかったら、もしかしたら私たちは未だに迷いと不覚の中にあったかもしれません。

二千五百年前、シッダールタ王子は王宮から出て、城外で人民が苦しんでいるのを目にしました。即ち、病に患っても治療も薬もない人や老いても帰る家がない人々でした。目にしたのは病、苦しみ、貧困で、たとえ将来、王位を継いで権力があっても、これらの人を助けることはできません。どうすれば、人に苦しみを知ってもらい、如何にして「苦しみから逃れる法」を教えたら良いのか。その真理を求めるために、家族を離れました。苦行を遍歴し、体と心の戦いの末、遂に宇宙万物の理を悟りました。

仏陀の時代は交通が不便で、歩いて行ける距離はそれほど遠くなく、現代のような設備がないため、音声が届く範囲も限られていました。仏典には、「仏陀の声音は、近くから遠くまで、十方に徹し至る」と書かれてありますが、可能でしょうか。これは仏陀が悟った真理の叙述であり、時間と空間に限りがなく、仏法を聴く者の心に届いたと言うことなのです。人は仏様と同等の智慧を有していますが、ただ愚かな凡夫であるだけで、清らかな本性は煩悩と無明に汚染されています。よく言われる「人心の浄化」とは、迷いを悟りに転じ、迷える無明の心が正知正見に至ることなのです。

仏陀の悟りの智慧は、現代で言えば、心理学であり、心の迷いを消すことができるのです。人生において、老、病、死は自然なことですが、それでも悩みは尽きません。情の悩みや自由が得られない悩み、深い愛が転じた憎しみ等々、煩悩によって自分の心を傷つけています。智慧のある人は、人間(じんかん)の苦しみや行き来する生と死を理解しており、いつでもありのままに因、縁、果、報があるのです。

無常を認識することは、最大の悟りです。誰もが「無常」という言葉を口にしますが、実際に無常の道理を体験していなければ、不本意な境遇に遭遇すると、「私は何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に遭わなくてはならないのか」、「なぜ私が?こんなにたくさん善行をしてきたのに」と嘆きます。そのような考えを持つ人は、物事の因果関係が分かってなく、仏法が心に入っていないのです。

自分で理解できない心の問題は仏法で解決するのです。「因縁」という概念で以って心を落ち着かせるのです。さもなければ、どれだけ多くの人が説得しに来ても、問題は解決せず、うまくいきません。心を開いて放下することによってこそ道は通じるのであって、決して苦しみの中に沈んだままではいけません。最も重要なのは、悪縁を解消し、善縁を結ぶことです。また、仏法で人を助け、煩悩を解きほぐさなければなりません。

私たちは今、仏陀が言った、「心を清らかにして、仏性を見出す」状態を享受しているのですから、仏法は仏陀の故郷から伝えられたものですが、ここから回向させるのです。慈済人は私たちの代で、二千五百年余り前の仏陀の心願を成就させなければなりません。慈済の菩薩道では既にとても多くの体験が積まれており、世の多くの苦難にある人々を支援してきました。そして今、このような方法と経験を仏陀の故郷に根付かせて、現地の苦難にある人々の人生をを反転させなければなりません。そして、この正法が永遠に存在し続けるようにするのです。

私たちに代わって、先に仏陀の故郷に足を踏み入れたシンガポールとマレーシアの菩薩たちに感謝します。私たちはもっと心して現地のことを皆と分かち合い、全力で支えなければなりません。「功徳無量」とよく言われますが、一人ひとりの思いと善の力を少しずつ結集すれば、大きな功徳を成し遂げることができるのです。

自然災害、人災、貧困、病に苦しんでいる人々がたくさん助けを待っています。一人で助けることはできず、少人数でも力が足りません。皆が結集する必要があります。見聞きできれば、愛は行きわたります。仏法を弘めることができれば、人間(じんかん)は浄化されるのです。

仏陀がこの世に出現したという「一大事」は、菩薩法を教えるためなのです。菩薩になるまでに長い時間をかけて修行する必要はありません。私たちは皆、今生で菩薩になる縁があるのです。法を聞き、法を受け入れ、法を伝えて、群衆に混じって仏法を実践することが即ち、弘法なのです。あらゆる人に福を作る機会を与えることが、衆生を利することです。「弘法利生」して、菩薩として現れるのです。皆さん、心して修行を続けてください!

(慈済月刊六八九期より)

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