地球規模の医療で命を守る

インドネシア慈済病院にインドネシア初の骨髄移植センターが設立され、医療スタッフは花蓮慈済病院での研修を終えた。(撮影・アナンド・ヤヒヤ)

「貧困は病に起因し、病は貧困から生じる」状況を見るに忍ばず、慈済は一九七二年、花蓮市仁愛街に「慈済貧困者向け施療所」を開設した。

今では全台湾の八カ所に慈済病院、そして嘉義市に慈済の診療所がある。病院建設の初心をしっかりと守っている他、社会援助、人材育成、研究開発といった医療の使命も果たしている。半世紀にわたって築いてきた模範的医療は、地球規模で慈済医療が発展する上での基本となっている。

インドネシア初の小児骨髄移植

人口が二億七千万のインドネシアは、世界で四番目に多い国だが、千人あたりの病床数は 一・三六床と、世界平均の三・六床よりもはるかに少ない。 二〇〇二年に設立されたインドネシア慈済人医会(TIMA)は、二十一年来、百四十回余りの大規模な施療活動と五百八十回の小規模の施療が行われ、恩恵を受けた人の数は二十九万人余りに上った。そして、慈済インドネシア支部が首都ジャカルタに建設した病院は、慈済が海外で運用を始めた初の大規模な総合病院である。二〇二一年に先ず、防疫センターの運用を開始し、外来診察と入院業務を提供した。そして、運用開始から二周年を迎えた二〇二三年六月十四日に、コロナ禍により延期されていた開業式が行われ、インドネシアのジョコ・ウィドド大統領が招かれた。

二〇二三年十一月二十日、インドネシア慈済病院は、海の向こうから来た花蓮慈済病院チームの支援を受けながら、インドネシア初の小児骨髄移植を成し遂げた。重度のサラセミアを患った少女アッシファは、幸運にも弟のアルファティの白血球抗原(HLA)が一致した。父親がアルファティに付き添って、機器による幹細胞の収集完了を待っていた(写真撮影・メッタ・ウランダリ) 。

アッシファが移植手術を終えると、隔離病室の外から看護士と家族が声援を送った(写真撮影・陳俐媛) 。十二月十二日、移植は無事に成功し、無菌室から出ることができた。

慈済骨髄幹細胞センター設立三十周年

三十年間、慈済骨髄幹細胞センターは六千五百世帯余りに命の再生チャンスを提供した。造血幹細胞の活性化はドナーの年齢に伴って低下するため、ボランティアたちは血液検査の登録活動を続けることで、データベースを最新の状態に保つと同時に、ドナーへの付き添いや経済的に恵まれない患者家庭の支援を行っている。

一九九三年に設立。三十年の間に、三十一の国と地域に骨髄を提供。

二〇二三年十一月三十日の統計によると、六千五百八十二件の移植が完了し、その半数が台湾の患者である。

台湾国内の三十七カ所、海外の一千百四十九カ所の病院に継続してマッチングデータを提供。

ドナー登録者は四十七万三千百七十人に対し、マッチングを求めた患者数は六万八千九百六十八人。

二〇二三年三月、台北市大安区のボランティアが街頭宣伝を行った(上の写真撮影・蔡正勲)。七年ほど前、ベトナム籍のレ・ヴァン・イムさん(下の写真、右)は、仕事で台湾にやって来たが、急性白血病を患った。幸いマッチングに成功した彼は、ボランティアから日常生活の支援を受けながら、移植手術を終えることができた。十月七日、骨髄バンク設立三十周年記念の会場で、彼はドナーと対面して感激のあまり抱擁した(下の写真・花蓮慈済病院提供)。

評価された医療人文の模範

二〇二三年十一月、慈済医療法人は衛生福利部(厚労省相当)の「医療財団法人社会研究卓越賞」を獲得し、林俊龍(リン・ジュンロン)執行長が代表で賞を受け取った(上の写真・花蓮慈済病院提供)。これは慈済病院が長年にわたってへき地の医療に尽くし、社会的弱者を助け、国際支援をして来たことを、審査委員会が評価したものである。

慈済医療志業は、林執行長をはじめ、「台湾における救急医療の父」と呼ばれる花蓮慈済病院顧問の胡聖川(フー・スンツアン)医師らを含む数多くの医師が、厚生基金会主催の「医療貢献賞」を受賞した。そのうち、毎年一名にだけ与えられ、医学界における「終身功績賞」ともいえる「特別貢献賞」の二〇二三年の受賞者は、台中慈済病院の簡守信(ジエン・スォウシン)院長で、慈済医療志業で初の受賞者でもある。

三十五年にわたって慈済病院で奉仕して来た簡院長は、二〇〇一年から大愛テレビ番組「大愛医生館」のMCを務め、難しい医学知識を分かりやすく説明して日常生活と結びつけている。これまで二十年以上にわたって、六千回余りを収録した。また、ケア世帯への往診や海外での施療活動なども、簡院長にとって日常の一環となっている(撮影・荘慧貞)。

・八つの慈済病院における医療費の補助や免除対象者:延べ百四十八万四千九百五十一人。病院内に配置され、患者やその家族をサポートする医療ボランティア:延べ五万八千九百三十人。

・地域健康講座に投入した人数:千四百二十六回で延べ九千八百九十人、参加者‥延べ七万千四百四十五人。台湾全土に、認知症サービス拠点を十九カ所、記憶維持クラスを十一カ所開設し、三千九百十五人の年長者に寄り添った。

病院での治療に行けないへき地の人のために、慈済人医会(TIMA)が拠点を設けて百九回の施療を実施し、延べ四千三百四人に医療サービスを提供した。また、再診困難な人や、辺境の弱者延べ千二十六人に訪問治療を行った。(二〇二二年統計))

二〇二三年の統計データによると、慈済は世界五十八の国と地域で施療活動を行った。

インドネシア慈済病院にインドネシア初の骨髄移植センターが設立され、医療スタッフは花蓮慈済病院での研修を終えた。(撮影・アナンド・ヤヒヤ)

「貧困は病に起因し、病は貧困から生じる」状況を見るに忍ばず、慈済は一九七二年、花蓮市仁愛街に「慈済貧困者向け施療所」を開設した。

今では全台湾の八カ所に慈済病院、そして嘉義市に慈済の診療所がある。病院建設の初心をしっかりと守っている他、社会援助、人材育成、研究開発といった医療の使命も果たしている。半世紀にわたって築いてきた模範的医療は、地球規模で慈済医療が発展する上での基本となっている。

インドネシア初の小児骨髄移植

人口が二億七千万のインドネシアは、世界で四番目に多い国だが、千人あたりの病床数は 一・三六床と、世界平均の三・六床よりもはるかに少ない。 二〇〇二年に設立されたインドネシア慈済人医会(TIMA)は、二十一年来、百四十回余りの大規模な施療活動と五百八十回の小規模の施療が行われ、恩恵を受けた人の数は二十九万人余りに上った。そして、慈済インドネシア支部が首都ジャカルタに建設した病院は、慈済が海外で運用を始めた初の大規模な総合病院である。二〇二一年に先ず、防疫センターの運用を開始し、外来診察と入院業務を提供した。そして、運用開始から二周年を迎えた二〇二三年六月十四日に、コロナ禍により延期されていた開業式が行われ、インドネシアのジョコ・ウィドド大統領が招かれた。

二〇二三年十一月二十日、インドネシア慈済病院は、海の向こうから来た花蓮慈済病院チームの支援を受けながら、インドネシア初の小児骨髄移植を成し遂げた。重度のサラセミアを患った少女アッシファは、幸運にも弟のアルファティの白血球抗原(HLA)が一致した。父親がアルファティに付き添って、機器による幹細胞の収集完了を待っていた(写真撮影・メッタ・ウランダリ) 。

アッシファが移植手術を終えると、隔離病室の外から看護士と家族が声援を送った(写真撮影・陳俐媛) 。十二月十二日、移植は無事に成功し、無菌室から出ることができた。

慈済骨髄幹細胞センター設立三十周年

三十年間、慈済骨髄幹細胞センターは六千五百世帯余りに命の再生チャンスを提供した。造血幹細胞の活性化はドナーの年齢に伴って低下するため、ボランティアたちは血液検査の登録活動を続けることで、データベースを最新の状態に保つと同時に、ドナーへの付き添いや経済的に恵まれない患者家庭の支援を行っている。

一九九三年に設立。三十年の間に、三十一の国と地域に骨髄を提供。

二〇二三年十一月三十日の統計によると、六千五百八十二件の移植が完了し、その半数が台湾の患者である。

台湾国内の三十七カ所、海外の一千百四十九カ所の病院に継続してマッチングデータを提供。

ドナー登録者は四十七万三千百七十人に対し、マッチングを求めた患者数は六万八千九百六十八人。

二〇二三年三月、台北市大安区のボランティアが街頭宣伝を行った(上の写真撮影・蔡正勲)。七年ほど前、ベトナム籍のレ・ヴァン・イムさん(下の写真、右)は、仕事で台湾にやって来たが、急性白血病を患った。幸いマッチングに成功した彼は、ボランティアから日常生活の支援を受けながら、移植手術を終えることができた。十月七日、骨髄バンク設立三十周年記念の会場で、彼はドナーと対面して感激のあまり抱擁した(下の写真・花蓮慈済病院提供)。

評価された医療人文の模範

二〇二三年十一月、慈済医療法人は衛生福利部(厚労省相当)の「医療財団法人社会研究卓越賞」を獲得し、林俊龍(リン・ジュンロン)執行長が代表で賞を受け取った(上の写真・花蓮慈済病院提供)。これは慈済病院が長年にわたってへき地の医療に尽くし、社会的弱者を助け、国際支援をして来たことを、審査委員会が評価したものである。

慈済医療志業は、林執行長をはじめ、「台湾における救急医療の父」と呼ばれる花蓮慈済病院顧問の胡聖川(フー・スンツアン)医師らを含む数多くの医師が、厚生基金会主催の「医療貢献賞」を受賞した。そのうち、毎年一名にだけ与えられ、医学界における「終身功績賞」ともいえる「特別貢献賞」の二〇二三年の受賞者は、台中慈済病院の簡守信(ジエン・スォウシン)院長で、慈済医療志業で初の受賞者でもある。

三十五年にわたって慈済病院で奉仕して来た簡院長は、二〇〇一年から大愛テレビ番組「大愛医生館」のMCを務め、難しい医学知識を分かりやすく説明して日常生活と結びつけている。これまで二十年以上にわたって、六千回余りを収録した。また、ケア世帯への往診や海外での施療活動なども、簡院長にとって日常の一環となっている(撮影・荘慧貞)。

・八つの慈済病院における医療費の補助や免除対象者:延べ百四十八万四千九百五十一人。病院内に配置され、患者やその家族をサポートする医療ボランティア:延べ五万八千九百三十人。

・地域健康講座に投入した人数:千四百二十六回で延べ九千八百九十人、参加者‥延べ七万千四百四十五人。台湾全土に、認知症サービス拠点を十九カ所、記憶維持クラスを十一カ所開設し、三千九百十五人の年長者に寄り添った。

病院での治療に行けないへき地の人のために、慈済人医会(TIMA)が拠点を設けて百九回の施療を実施し、延べ四千三百四人に医療サービスを提供した。また、再診困難な人や、辺境の弱者延べ千二十六人に訪問治療を行った。(二〇二二年統計))

二〇二三年の統計データによると、慈済は世界五十八の国と地域で施療活動を行った。

關鍵字

高齢化する台湾・慈善の寄り添い

台南東山区にあるこの家で、隣人同士が世間話をしていた。辺鄙な地域では若者の就職が困難なため、年長者が人口の多くを占める。(撮影・黄筱哲)

二〇二三年一月から十一月までに各方面から慈済に連絡があったケアケースは、一万二千件以上に上った。ボランティアが毎月家庭訪問して長期的に援助しているケア世帯は延べ十一万世帯、在宅ケア世帯は延べ十八万世帯を数える。

慈済の慈善活動は既に五十八年の経験があり、台湾社会の少子高齢化の傾向とニーズに応じて、更に「予防」の概念を重視するようになった。即ち、転倒や障害予防、老化と社会への依存を遅らせる上で、台湾の長期介護社会福祉資源ネットワークにおいて、なくてはならない民間の力なのである。

手を差し伸べて高齢者の生活を安全なものにする

台湾は、二〇二五年には六十五歳以上の人口が総人口の二十%を超え、「超高齢化社会」に突入すると推測されている。慈済は二〇二〇年から台湾全土の町や村で、障害者や一人暮らしの高齢者に合わせた「安全な住まいと優しいコミュニティ」プロジェクトを展開しているが、その中の「住まいの安全性向上」項目では、滑り止めや転倒防止を主体に行い、事故防止に繋がっている。

事前の家庭訪問による調査を経て、二〇二三年二月、ボランティアは台南市東山区の高齢者の家を訪れ、手すりを取り付けた。取り付け工事を見ていたこの高齢者は、完成後に試しに使ってみた。(撮影・黄筱哲)

・対象:六十五歳以上の独居高齢者、高齢夫婦世帯、心身障害者。

・項目:
安全手すり、照明の調整、和式トイレから洋式への改造、滑り止め措置、浴槽の撤去、バリアフリースロープ等の環境改善、及び部屋の中の移動経路における潜在的な危険要因の調査と改善。 

・プロセス:村長や里長の連絡 → ボランティアによる家庭訪問調査 → 修繕工事 → 必要に応じた再訪問とケアの手配。

・統計:二〇二〇年から開始され、二〇二一年には二千世帯以上が恩恵を受けた。二〇二三年一月から十月までで延べ八千七百五十一人のボランティアが動員され、合計二千百三十九世帯で修繕を終えた。

・レベルアップ:各行政区にある慈済の長期ケア拠点とエコ福祉用具プラットフォームが連携することで、住み慣れたコミュニティで老後を送れるように取り計らう。

エコ福祉用具プラットフォームが一臂の力を貸す

現在、台湾の離島の一つである連江県を除き、慈済は台湾全土の各行政区にエコ福祉用具プラットフォームを設置している。ボランティアは福祉用具を回収し、整備した後、それを必要としている家庭に配送することで、介護者の負担を軽減している。

離島や辺鄙な地域では人口の高齢化が深刻で、福祉用具のニーズが潜在化している。金門の古民家前で、ボランティアはトラックから様々な福祉用具を下ろし、配送の準備をしていた。(撮影・蕭耀華)

新竹県尖石郷。いつも杖をついている女性の生活範囲が広がるようにとボランティアはシニアカーの操作方法を教えていた。(撮影・蕭耀華)

・プロセス:福祉用具の回収 → 消毒、整備、洗浄 → 在庫分類 → 申請の受け付け → 衛生点検 → 利用者へ提供。

エコ福祉用具プラットフォームは、二〇一七年三月に設立され、二〇二二年には全ての県や市で提供できるようになった。二〇二三年十一月末の統計によると、過去六年間で七万五百二十九件が発送され、四万六千九十一世帯を支援した。

・社会的投資収益率(SROI):このプロジェクトを換算すると、大衆は四億台湾元以上を節約したことになり、数量化指数は八十一・一八になる。即ち、一台湾元の投資に対して八十一・一八元の社会的影響力を生み出しているわけである。しかも、慈済ボランティアと電気工事専門ボランティアによる奉仕は、これらの数字に含まれていない。

リサイクルステーションは地域のケア拠点

台湾各地のコミュニティにあるリサイクルステーションは、高齢者たちの身近な社交場となっており、資源の分別で体を動かす以外に、ボランティアと交流でき、一部のステーションでは食事も提供している。慈済長期介護促進センターは、慈善と医療が融合する介護拠点を大部分のステーションに設置している。

桃園県蘆竹区長栄環境保全教育センターもコミュニティのケア拠点であり、ボランティアがお年寄りたちと脳トレゲームをしていた。(撮影・楊明忠)

台中市太平区にある長安リサイクルステーションで、ボランティアの許金蘭さんが回収された物質を整理していた(撮影・黄筱哲)。

台湾全土には合計七千百六十四のリサイクルステーションとコミュニティの拠点があり、九万千五百二十六人のリサイクルボランティアがいる(二○二二年の統計)。

台湾全土の十七の県と市には、長期介護Cの拠点が十一カ所あり、十三の県と市にはコミュニティケア拠点が八十八カ所ある。一部の拠点はリサイクルセンターと足並みを揃えている(二○二二年の統計)。

環境保全志業全体の社会的投資収益率(SROI)は、六・三で、一台湾元の投資で六・三元の社会的影響力を生み出している。ボランティアの無償奉仕も計算に入れると、百五十二・七元に達する。この効果は二○二三年四月にイギリスの社会的価値法の認証を得た。

台南東山区にあるこの家で、隣人同士が世間話をしていた。辺鄙な地域では若者の就職が困難なため、年長者が人口の多くを占める。(撮影・黄筱哲)

二〇二三年一月から十一月までに各方面から慈済に連絡があったケアケースは、一万二千件以上に上った。ボランティアが毎月家庭訪問して長期的に援助しているケア世帯は延べ十一万世帯、在宅ケア世帯は延べ十八万世帯を数える。

慈済の慈善活動は既に五十八年の経験があり、台湾社会の少子高齢化の傾向とニーズに応じて、更に「予防」の概念を重視するようになった。即ち、転倒や障害予防、老化と社会への依存を遅らせる上で、台湾の長期介護社会福祉資源ネットワークにおいて、なくてはならない民間の力なのである。

手を差し伸べて高齢者の生活を安全なものにする

台湾は、二〇二五年には六十五歳以上の人口が総人口の二十%を超え、「超高齢化社会」に突入すると推測されている。慈済は二〇二〇年から台湾全土の町や村で、障害者や一人暮らしの高齢者に合わせた「安全な住まいと優しいコミュニティ」プロジェクトを展開しているが、その中の「住まいの安全性向上」項目では、滑り止めや転倒防止を主体に行い、事故防止に繋がっている。

事前の家庭訪問による調査を経て、二〇二三年二月、ボランティアは台南市東山区の高齢者の家を訪れ、手すりを取り付けた。取り付け工事を見ていたこの高齢者は、完成後に試しに使ってみた。(撮影・黄筱哲)

・対象:六十五歳以上の独居高齢者、高齢夫婦世帯、心身障害者。

・項目:
安全手すり、照明の調整、和式トイレから洋式への改造、滑り止め措置、浴槽の撤去、バリアフリースロープ等の環境改善、及び部屋の中の移動経路における潜在的な危険要因の調査と改善。 

・プロセス:村長や里長の連絡 → ボランティアによる家庭訪問調査 → 修繕工事 → 必要に応じた再訪問とケアの手配。

・統計:二〇二〇年から開始され、二〇二一年には二千世帯以上が恩恵を受けた。二〇二三年一月から十月までで延べ八千七百五十一人のボランティアが動員され、合計二千百三十九世帯で修繕を終えた。

・レベルアップ:各行政区にある慈済の長期ケア拠点とエコ福祉用具プラットフォームが連携することで、住み慣れたコミュニティで老後を送れるように取り計らう。

エコ福祉用具プラットフォームが一臂の力を貸す

現在、台湾の離島の一つである連江県を除き、慈済は台湾全土の各行政区にエコ福祉用具プラットフォームを設置している。ボランティアは福祉用具を回収し、整備した後、それを必要としている家庭に配送することで、介護者の負担を軽減している。

離島や辺鄙な地域では人口の高齢化が深刻で、福祉用具のニーズが潜在化している。金門の古民家前で、ボランティアはトラックから様々な福祉用具を下ろし、配送の準備をしていた。(撮影・蕭耀華)

新竹県尖石郷。いつも杖をついている女性の生活範囲が広がるようにとボランティアはシニアカーの操作方法を教えていた。(撮影・蕭耀華)

・プロセス:福祉用具の回収 → 消毒、整備、洗浄 → 在庫分類 → 申請の受け付け → 衛生点検 → 利用者へ提供。

エコ福祉用具プラットフォームは、二〇一七年三月に設立され、二〇二二年には全ての県や市で提供できるようになった。二〇二三年十一月末の統計によると、過去六年間で七万五百二十九件が発送され、四万六千九十一世帯を支援した。

・社会的投資収益率(SROI):このプロジェクトを換算すると、大衆は四億台湾元以上を節約したことになり、数量化指数は八十一・一八になる。即ち、一台湾元の投資に対して八十一・一八元の社会的影響力を生み出しているわけである。しかも、慈済ボランティアと電気工事専門ボランティアによる奉仕は、これらの数字に含まれていない。

リサイクルステーションは地域のケア拠点

台湾各地のコミュニティにあるリサイクルステーションは、高齢者たちの身近な社交場となっており、資源の分別で体を動かす以外に、ボランティアと交流でき、一部のステーションでは食事も提供している。慈済長期介護促進センターは、慈善と医療が融合する介護拠点を大部分のステーションに設置している。

桃園県蘆竹区長栄環境保全教育センターもコミュニティのケア拠点であり、ボランティアがお年寄りたちと脳トレゲームをしていた。(撮影・楊明忠)

台中市太平区にある長安リサイクルステーションで、ボランティアの許金蘭さんが回収された物質を整理していた(撮影・黄筱哲)。

台湾全土には合計七千百六十四のリサイクルステーションとコミュニティの拠点があり、九万千五百二十六人のリサイクルボランティアがいる(二○二二年の統計)。

台湾全土の十七の県と市には、長期介護Cの拠点が十一カ所あり、十三の県と市にはコミュニティケア拠点が八十八カ所ある。一部の拠点はリサイクルセンターと足並みを揃えている(二○二二年の統計)。

環境保全志業全体の社会的投資収益率(SROI)は、六・三で、一台湾元の投資で六・三元の社会的影響力を生み出している。ボランティアの無償奉仕も計算に入れると、百五十二・七元に達する。この効果は二○二三年四月にイギリスの社会的価値法の認証を得た。

關鍵字

2023慈済大愛の足跡─共に善を行えば平和が訪れる

貧困と欠乏、高齢と病苦と孤独、天災と戦禍……

慈済慈善志業の足跡は、二〇二三年末の時点で世界百三十三の国と地域に及んだ。

苦しみの声を聞いて駆けつけるのは慈済人の本分であり、一歩踏み込んで貧困と病苦を予防し、教育を改善し、弱勢を反転させている。

また、様々な宗教団体と国際的な協力関係を築いて相互に助け合い、大愛を速やかに、より遠くまで届けている。

貧困と欠乏、高齢と病苦と孤独、天災と戦禍……

慈済慈善志業の足跡は、二〇二三年末の時点で世界百三十三の国と地域に及んだ。

苦しみの声を聞いて駆けつけるのは慈済人の本分であり、一歩踏み込んで貧困と病苦を予防し、教育を改善し、弱勢を反転させている。

また、様々な宗教団体と国際的な協力関係を築いて相互に助け合い、大愛を速やかに、より遠くまで届けている。

關鍵字

世の在家信者に感謝しよう

編集者の言葉

二〇二三年十二月十五日の早朝、法師は歳末祝福会の行脚に出発した。出かける前のボランティア朝の会の席上では、世界中の慈済人に向けて、気候の変化が激しく、寒暖の差が大きいため、服装に注意して自分の健康を守るようにと促した。台北で海外の養成委員と慈誠(男性ボランティア)の認証式が行われた日は、大陸から寒波が南下して気温が摂氏十度まで下がった。しかし、新店静思堂内は至る所が心温かく感じられた。その中で、法師の応接室には大勢のボランティアが集い、それぞれの慈善体験を報告した。人間(じんかん)には、苦はあるが、愛もあるのだ。

長年旱魃に見舞われているジンバブエでは、二月に発生したコレラが、十一月末にピークに達したそうだ。その主な原因は、水源の汚染と人畜共用から来ているという。ジンバブエの慈済ボランティアは不眠不休で井戸を修繕し、二〇二三年には三百五十三カ所の井戸を新たに掘ったり、修復したりして、使えるようにした。

モザンビークでは、八千人余りの地元ボランティアが慈善活動に投入し、延べ六十万人余りが恩恵を受け、静思語教育の対象者は、延べ三十五万人余りに達した。サイクロン・イダイ被害に対する建築支援も、すでに三つの学校で行われている。村では、夜になると慈済の支援する学校の照明が唯一の明かりなので、生徒は放課後も電灯のある教室に残って補習に参加し、勉強に集中することができる。

今、世界中の注目を集めているのは、イスラエルとハマスの衝突だ。十月七日から年末までで、既に双方合わせて二万人以上の犠牲者が出ている。トルコの慈済ボランティアは、十二月初めにイスタンブールにたどり着いたパレスチナ難民に、初めて生活必需品が買える買い物カードを提供した。

認証式に出席するためにトルコから来た三人のシリア人ボランティアは、シリアの小学生が描いた絵を台湾に持ち帰った。そこには両手でエコ毛布を持っている様子が描かれてあった。

「その絵は慈済環境保全志業の三十年以上にわたる歩みを物語っています。その毛布は世界中で無数の人に温かさを届けて来ました」。

法師は、なんとしても歳末祝福会に出席し、皆に自分の心意を表さなければならないと言った。

「この一年間、非常に多くの人が日々心を一つにし、愛を結集して世に奉仕していました。私も日々感謝の気持ちがつのるばかりです。この感謝の声を皆さんに伝え、世に愛を奉仕している人のために、愛を受け取った人に代って、感謝したいのです」。

時は二〇二四年になり、月刊誌「慈済」の新年度第一期では、二〇二三年に行われた何項目かの志業を振り返っている。五十八年目を迎えた慈済は、慈善、医療、教育、人文の各志業が、互いに補い合う慈善ネットワークを縦横無尽に織りなしている。このネットワークは、台湾の地域社会から国際社会へと踏み出して人々の愛の心を啓発し、世の中を補っている。

台湾の大衆が選んだ二〇二三年を代表する漢字は、「欠」だった。新しい二〇二四年を展望する時、人間(じんかん)の争いが早く終わり、人々が心身共に健康で平安に暮らすことができるようにと願わずにはいられない。皆で努力して、円満な年にしたいものである。

(慈済月刊六八六期より)

編集者の言葉

二〇二三年十二月十五日の早朝、法師は歳末祝福会の行脚に出発した。出かける前のボランティア朝の会の席上では、世界中の慈済人に向けて、気候の変化が激しく、寒暖の差が大きいため、服装に注意して自分の健康を守るようにと促した。台北で海外の養成委員と慈誠(男性ボランティア)の認証式が行われた日は、大陸から寒波が南下して気温が摂氏十度まで下がった。しかし、新店静思堂内は至る所が心温かく感じられた。その中で、法師の応接室には大勢のボランティアが集い、それぞれの慈善体験を報告した。人間(じんかん)には、苦はあるが、愛もあるのだ。

長年旱魃に見舞われているジンバブエでは、二月に発生したコレラが、十一月末にピークに達したそうだ。その主な原因は、水源の汚染と人畜共用から来ているという。ジンバブエの慈済ボランティアは不眠不休で井戸を修繕し、二〇二三年には三百五十三カ所の井戸を新たに掘ったり、修復したりして、使えるようにした。

モザンビークでは、八千人余りの地元ボランティアが慈善活動に投入し、延べ六十万人余りが恩恵を受け、静思語教育の対象者は、延べ三十五万人余りに達した。サイクロン・イダイ被害に対する建築支援も、すでに三つの学校で行われている。村では、夜になると慈済の支援する学校の照明が唯一の明かりなので、生徒は放課後も電灯のある教室に残って補習に参加し、勉強に集中することができる。

今、世界中の注目を集めているのは、イスラエルとハマスの衝突だ。十月七日から年末までで、既に双方合わせて二万人以上の犠牲者が出ている。トルコの慈済ボランティアは、十二月初めにイスタンブールにたどり着いたパレスチナ難民に、初めて生活必需品が買える買い物カードを提供した。

認証式に出席するためにトルコから来た三人のシリア人ボランティアは、シリアの小学生が描いた絵を台湾に持ち帰った。そこには両手でエコ毛布を持っている様子が描かれてあった。

「その絵は慈済環境保全志業の三十年以上にわたる歩みを物語っています。その毛布は世界中で無数の人に温かさを届けて来ました」。

法師は、なんとしても歳末祝福会に出席し、皆に自分の心意を表さなければならないと言った。

「この一年間、非常に多くの人が日々心を一つにし、愛を結集して世に奉仕していました。私も日々感謝の気持ちがつのるばかりです。この感謝の声を皆さんに伝え、世に愛を奉仕している人のために、愛を受け取った人に代って、感謝したいのです」。

時は二〇二四年になり、月刊誌「慈済」の新年度第一期では、二〇二三年に行われた何項目かの志業を振り返っている。五十八年目を迎えた慈済は、慈善、医療、教育、人文の各志業が、互いに補い合う慈善ネットワークを縦横無尽に織りなしている。このネットワークは、台湾の地域社会から国際社会へと踏み出して人々の愛の心を啓発し、世の中を補っている。

台湾の大衆が選んだ二〇二三年を代表する漢字は、「欠」だった。新しい二〇二四年を展望する時、人間(じんかん)の争いが早く終わり、人々が心身共に健康で平安に暮らすことができるようにと願わずにはいられない。皆で努力して、円満な年にしたいものである。

(慈済月刊六八六期より)

關鍵字

日本能登半島地震─大雪に見舞われた半野外の仮設厨房

新年を迎えた最初の日に、石川県能登半島で地震が発生した。雪の降る季節でもあり、穴水町では、住民の生活が一層困難になった。

それを知って、現地で十七日間、夜明けと共に、最も貴重な飲料水と野菜、豆腐などを携え、大雪に見舞われながらも住民の為に炊き出しを続けたグループがいた。

穴水町さわやか交流館プルートに設置された仮設厨房のブルーシートを、風雪が吹き上げた。 (撮影・呉惠珍)

本来なら正月の光景と言えば、「初詣」の人で賑わうお寺や神社、大勢の人が都会から帰郷して親や親戚と過ごす団欒である。しかし、令和六年の第一日目は、午後四時十分に石川県能登半島で、地表から十キロという浅い所で地震が発生し、地上を大きく揺らした。

マグニチュード七・六という強い地震だったので、遠く離れた私たち東京の慈済人たちも震度三の揺れを感じた。続いて大津波警報が発令され、皆益々心配になった。その時、海の向こうから「ボランティアや会員の皆さんは無事でしょうか」という慈悲深い證厳法師の声が届いた。

日本海に面した風光明媚な能登半島は、海産物や漆器で有名な観光地だが、慈済ボランティアにとっては見知らぬ土地である。一回目の炊き出しは、一月十三日に穴水町のさわやか交流館プルートで始まった。避難所には外壁沿いにブルーシートで囲った仮設厨房が設けられていて、既に他の団体が来て使っていたが、昼食の前後は慈済人のために空けてくれた。それでやっと、その団体も一息つけたそうだ。というのは、彼らは二人だけで毎日千人分の朝食と夕食を作っていたのだ。

厨房は仮設だったため、風や雨、雪の降る寒い日には耐え忍ぶしかなかった。交流館に避難していた住民は大半が高齢者だったので、ボランティアは慎重に調理した。繊維を多く含んだ野菜を食べてもらえるように小さく切って柔らかめに炊いたり、タンパク質の豊富な豆腐料理にしたり、ご飯は少なめにしてもおかずの量は減らさないようにしたりと配慮した。有田さんという女性の話では、どういう訳か私たちの作った食事を食べたら、口内炎が治ってしまったそうだ。ボランティアはそれを聞いてとても嬉しくなった。これこそ菜食のパワーなのだろう。

一日目の炊き出しを振り返ると、住民の感謝と称賛の声の中で、細心の注意を払いながら任務を完了することができたが、その後は「炊き出し」がボランティアにとって悪夢となってしまった。二日目は雪が降り、これほどの寒さを経験したことがないボランティアは、プロパンガスが凍ってしまうなど考えもしなかったので、ご飯が炊き上がらなかったのだ。

その半煮えのご飯を見て、災害支援の炊き出し経験が豊富なボランティアたちは、ひどく挫折感を味わった。幸いにも現地のボランティアがうどんを提供してくれたので、二日目の食事は解決した。しかし、三日目に同じ問題が起きたので、別の炊き出し拠点である穴水病院から支援してもらい、また、避難所が提供してくれた電気釜を使うようにして、その後もご飯の問題を解決することができた。

しかし、第三グループが被災地を訪れた時、電気釜が故障してしまった。現地のボランティア団体が私たちに、直接ガスで炊飯するよう教えてくれたので、日頃から電子炊飯器で少人数分のご飯を炊いている私たちにとっては、それが新たな挑戦となった。だが、困難を乗り越えた後は、誰もが悦びに浸った。というのも、ご飯炊きの達人になれたからだ。

被災地は交通と宿泊地の制限があるので、第一グループは人数を十四人に制限した。もし、一カ所で炊き出しするのであれば、人数はそれで充分である。しかし、石川県台湾交流促進協会理事長の陳文筆(チェン・ウェンビー)医師の要請でさわやか交流館プルートを訪ねた際に、穴水総合病院の島中公志院長から病院スタッフと避難してきた患者の家族、町役場に避難している住民、そして県外から来た救助隊員たちにも炊き出しをしてもらえないか、という要請があった。彼らは地震が発生してから今まで、即席ラーメンとおむすびが主食で、温かい食事を摂っていなかったのだ。私たちは一も二もなく、引き受けた。

島中院長は慈済人の支援を非常に歓迎してくれて、毎日ほぼ三回挨拶に来られた。朗らかでユーモアに富む人で、男性ボランティアを見かけると必ず抱擁して感謝の言葉を掛け、女性たちに対しても親切に話しかけてくれた。食事を受け取りに来るのは若くて仕事に体力を必要としている人たちだが、炊き出しの一日目は、後に続く人の分が足りなくなることを恐れて、ご飯の量を多めにして欲しいと言えず、遠慮していたそうだ。二日目からはボランティアの誠意に負けて、小声で「多めに」と言うようになった。男性だけでなく、女性たちも勇気を出して、小声で「大盛り」と言ってくれた。

ボランティアは、2組に分かれて交流館と穴水病院で炊き出しを行った。上の写真は、数人のボランティアが交流館に設置された仮設厨房で、毎食数百人分の食事を作る様子。(写真1撮影・周利貞)。夜間は零度まで冷え込み、プロパンガスのボンベに毛布を被せても、ガスは凍ってしまった(写真2撮影・高晙喆)。

炊き出しの列を縫ってお茶を提供

少人数で、しかも二カ所で炊き出しを行うことになり、ボランティアたちは挑戦を重ねた。二つの地点は車で五分の距離だが、前夜に物資や食材をきちんと分けて混乱が起きないようにした。二カ所での支援が軌道に乗ると、交代してやって来た女性ボランティアらが本領を発揮して温かいウーロン茶を提供した。飲んだ後で眠れなくなってはいけないので少し薄めに、香ばしい香りはそのままに淹れた。張好(ヅァンハオ)師姐(スージエ)はわざわざ東京から大きめのディスペンサーを持って来て、交流会館でお茶を提供し、住民に大変喜ばれた。

また張師姐は、夜なべして買って来たガーゼを縫って茶こし袋を作り、この急ごしらえの方法で、穴水病院でもお茶を提供した。お茶の香りは人々の心を和ませた。食事を受け取る列に並んでいた人たちに真心を込めてお茶を提供したことで話が弾み、自分の感情を控えめにするという日本人の心の壁を取り除くことができた。数日前から絶えず感謝を言葉に表してくれていたが、人々はやはり緊張した雰囲気の中にいた。それが一杯のお茶のおかげで、遠慮がちな顔に笑顔を浮かべるようになり、「もう一杯頂いてもよろしいでしょうか」という言葉も聞かれるようになった。こんなに美味しくて、温かくて、香ばしくて、喉越しの良いウーロン茶を飲んだのは初めてだという人もいた。ボランティアは、このジンスーウーロン茶は有機栽培で、慈済は環境を大切にしていることを紹介した。人々はより深く私たちの団体に興味を持つようになってくれた。

真っ赤な「平安」の文字のストラップも住民たちの注目を集めた。日本の「御守り」のような物ですか、と尋ねられたので、ボランティアは、これは祝福を意味していて、皆さんが一日も早く元の生活に戻れるようにという願いを込めて差し上げるのです、と答えた。彼らは皆、それを友人にあげたいと言い、ユーモア溢れる院長先生は、両方の耳にそれを掛け、慈済の宣伝をするのだ、と言った。

1月22日、公立穴水総合病院で麻婆豆腐を提供したところ、多くの人が列を作った。

不思議な縁に感謝したい

日本政府はその頃、国外からの支援はおろか、県外からのボランティア団体も受け入れていなかった。私たちがいち早く動員できたのは、各方面からの恩人の協力と長年の炊き出し経験、そして、證厳法師の指導があったからである。法師は、被災者の助けを得られない苦しみを見て忍びなく思い、早く栄養のある温かい食事を作ってあげたい、出来立てを食べてもらいたいと思う気持ちを募らせていた。NHKや朝日テレビ、北陸、北国、産経新聞などメディアは皆、この台湾の慈善団体は、なぜやって来たのかを知りたがったが、それは、そういう単純な思いからでしかなかったのだ。

昨年、大阪で開かれた医師会の集いに、関西連絡所のリーダーの一人である陳静慧(チェン・ジンフェイ)師姐が出席したが、その時に短い時間を使って、證厳法師の『行願して半世紀』のストーリーをシェアした。陳文筆医師夫妻は石川県に在住しているが、縁があってその集いに参加していたので、静慧師姐のシェアを聞いて法師の考えを大方理解し、慈済が大愛を携えた団体であることを分かってくれた。

陳医師は患者にはまるで家族のように接している人で、自宅前に名前の書いていない、患者からの贈り物を見つけることがよくあるそうだ。地震発生後、彼は石川県台湾交流促進協会の理事と一緒に、二十一回も援助物資を被災地に運んだ。

一月五日、北陸新幹線が運行していることを確認してから、台湾から来た陳金発(チェン・ジンファ)師兄は、陳思道師兄、盧建安(ルー・ジエンアン)師兄、池田浩一師兄らを伴って石川県に行き、七尾病院で陳医師と面会し、夫人の案内で穴水町を訪れた。

七尾市から穴水町までの道路はひび割れ、自治体は大至急補修して開通させたが、救助と物資補給の車を優先にしていたため、普通車の所要時間は普段の三倍近くかかった。寒い中で苦しんでいる住民のことを思い、思道師兄と井田龍成師兄は一月十一日、再び被災地を訪れ、炊き出しを行う場所について調整した。

慈済日本支部は長年、日本ボランティア・プラットフォームと交流があり、今回支援を申し出たことで良縁が結ばれ、穴水町さわやか交流館プルートの避難所で炊き出しをすることが決まった。

十二日、炊き出しを始める前夜だが、ボランティアは宿泊先がまだ見つかっていなかった。その時、静慧師姐のご主人が陳医師から中能登町の町長に聞いてもらうことを提案した。すると、十分足らずで古民家の宿泊先を見つけてくれたのだった。陳医師は一日目の炊き出しに同行していた時も、私たちを北国新聞の編集長に引き会わせてくれた。そして、慈済の善行はもっと多くの人に知ってもらうべきだ、と紹介してくれた。

古民家が調理場になった

中能登町にある百年余り前に建てられた古民家に宿泊することになったボランティアたちは、東京で偶に降る雪には慣れていたが、北陸の寒さは全く経験したことがなかった。夜は暖房が入っていても温まるまでには至らず、二晩の間、大半の人は寝袋に入っても寒さで眠れなかった。三日目に町長が人を派遣して、一人につき毛布二枚と断熱ベッドパッドなどの緊急災害用防寒物資を持って来てくれた。その後のグループで人数が増えると、皆で分けあって使った。寝る時にダウンジャケットを着ながら寝ると、やっと寒い夜でも眠ることができた、と経験をシェアする人もいた。

中能登町は穴水町から五十キロも離れていたが、炊き出しに使う水不足の問題は、解決することができた。ボランティアは毎日、夜のうちに袋に水をいっぱいまで入れ、野菜は洗って切って置き、翌日に持って行った。トントンと野菜を切る音は、翌日の炊き出しに使う五百人分のものだが、メニューによって異なり、時には深夜まで準備が続いた。翌日はまだ夜が明ける前の六時頃に出発しなければならなかった。このような災害支援は経験したことがなく、十三年前の東日本大震災で見舞金を配付した時でさえ、これほど疲れたことはない、とシニアボランティアが苦笑したほどだ。体の凝りや筋肉痛には何カ所も湿布を貼ったが、顔には頑張った後の喜びが現れていた。

毎晩八時半には災害支援のオンライン会議が開かれるため、野菜を切る時間と競争しなければならなかったので、ボランティアは野菜が切り終わらないことを心配した。そこで、ある人はごぼうの皮を削りながら、他にもジャガイモを切ったり、キャベツの葉を剥いたりしながら、会議に参加することになった。会議では当日の心温まる出来事や緊張した場面をシェアするため、笑い声が絶えず、それが一日の疲労を癒し、何が起きるか分からない翌日に備える勇気をもたらしてくれた。

被災地では1月下旬、連日の風雪が強く立ち込め、早朝、ボランティアは出発の準備に、食材を車にいっぱい詰め込んで、足元に注意して歩き、転倒防止に努めた。

二カ所で炊き出しを行う場合、八人が厨房に入る必要があった。日本支部は二〇〇五年の新潟中越地震で初めて炊き出しをした後も、熊本地震、西日本豪雨、長野と倉敷でも炊き出しの支援を行ったことがあり、ホームレスへの炊き出しと大愛食堂での弁当の提供も毎月恒例の行事だ。炊き出しは、すでに日本支部の重要支援項目なのだ。普段は女性たちが厨房に入っているが、休日になると、コックをしている男性ボランティアたちが来てくれる。今回の能登半島地震支援でも、三人のプロのコックが休暇を取って応援に来てくれた。

プロにはそれなりの迫力と味があるが、女性ボランティアたちのパワーも引けを取らない。大阪から来た人も、東京で普段から調理ボランティアをしている人も、皆、家庭の主婦であり、これほど多くの人に炊き出しをするのは、初めての挑戦である。厨房を取り仕切って欲しいと言われて、緊張の余り何日も眠れなかった人もいたが、それを乗り越えた時の喜びは言葉にならなかった。

宿泊地から炊き出し拠点までは車で片道約二時間かかるため、運転できるボランティアを優先的に採用した。しかし、普段は自家用の小型車を運転しているだけなので、八人乗りのバンの運転に挑戦する必要があった。

去年の経蔵劇が終わった時、慈済青年ボランティアの先輩たちは皆、「やっと仕事に専念できる!」と言った。しかし、今年の一日目に、続けてもっと大きな任務に就くことになるとは、思ってもいなかっただろう。彼らは真っ先に駆けつけ、他のボランティアが交代しても、引き続き邁進することになった。

井田龍成さんは日本で育ち、慈済ボランティアの両親を持ち、語学力と調整力を活かして様々な団体と交渉し、新聞社やメディアとも交流をしている。

盧建安さんは会社を経営しているが、被害状況の視察から支援の終了まで、バンを運転して東京と石川県の被災地を往復しただけでなく、情報収集を手伝ったり、夜遅くまで報告を書いたり、ビデオ画像の編集をしたり、と数多くの能力を発揮してくれた。

鍾佳玲(ヅォン・ジアリン)さんは、日本支部で育ったと言える女性で、性格が良くて物分かりも早く、心細やかで責任を全うしてくれている。普段は支部の事務をしているが、さまざまな活動の時は、良き助っ人でもある。東日本大地震を支援した経験から、災害が発生すると直ちに、自発的に多方面から情報を集めるようになった。事務と調整の仕事以外に、報告を書き、夜中になってもパソコンで資料を整理しており、明け方の四時に寝て、五時に起床して他の人と一緒に活動したこともある。

宿泊所から炊き出しの場所まで約50キロあり、道沿いの田畑に積もった雪は溶け始めたが、道路が損傷していて片側通行しかできず、救急車両も頻繁に行き来するため、毎朝交通渋滞に直面した。(撮影・周利貞)

雪国で頑張る

何度も支援ボランティアが入れ替わって往復するのを見ながら、被災地に行くことができないボランティアは、支部の留守番役として恒例のホームレスへの炊き出しや大愛食堂への弁当の提供、ケア世帯への寄り添いをいつも通りに行っていた。また、石巻や新宿、大阪、群馬などで、同時に愛を募る街頭募金を行った。そのおかげで、毎年の一大行事である「祝福感謝会」は、予定通り円満に行われた。

寒い雪国で苦しんでいる人々を助けるボランティアと、支部に残るボランティア。互いに協力して物事を成し遂げ、和気藹々と助け合う。これこそが慈済という大家族の最も美しい姿ではないだろうか。

第一回目の支援は一月十三日から二十九日まで行われたが、風光明媚な能登半島での炊き出しの六日目、稀に見る赤い朝日が日本海から昇って、「けあらし」と呼ばれる霧が立ち込めた。それはあたかもボランティアへのご褒美のようだった。数日前の大雪の後は、あとどのくらいその硬くて冷たい雪を踏まなければならないかわからないが、これからも多くの人が私たちの温かい手を待っているのだから、強くなろうと自分に言い聞かせたものだ。

ボランティアチームは中能登町の歴史ある古民家に宿泊していた。毎晩、翌日の食材の準備や報告の作成に忙しかったが、それでも一堂に集まって、翌日の予定を話し合った。(撮影・周利貞)

二月十六日、私たちは再び穴水病院に戻って、慈済が日本で初めて行う「仕事に就いて復興に参加する」活動を展開し、失業した四人の被災者を招いて炊き出しの手伝いをしてもらった。午後十二時きっかりに食事の提供を始めたが、その時には既に長い行列ができ、それぞれの診療科の代表者が大きなお盆を持って並んでいた。「また慈済人に会えて、本当に嬉しいです!」と口々に言った。一方、病院側は、私たちがお茶を入れるために、使われていなかったコーヒーラウンジを提供してくれた。診察待ちの患者や病院スタッフは皆、「心に沁みるウーロン茶と皆さんの笑顔は、この世の美しさを表しています」と言った。「熱々の美味しいお昼ごはんを頂いた上に、今日はホットココアまで出してくれました。ありがとうございました」。

法師が一月の行脚の間も、私たちとオンラインで連絡に応えて下さり、私は何度も注意されたことを思い出した。

「遠くまで支援に出かけるために、近くの人を疎かにしてはいけません。政府の規定には従わなければなりませんが、縁があれば、それを大切にして直ちに行動しなさい」と私たちに念を押したのだ。法師の心のこもった指導があったからこそ、雪国のどんな寒い中でも、私たちの心の灯は消えることなく、絶えず法師の言葉を胸に携えて進むことができた。私たちは風雪に負けず、進み続けるのだ!

1月20日、東京の支部で留守番をしていたボランティアが、愛を募る、街頭募金活動の箱とポスターを準備していた。(撮影・林真子)

一億回悩めば良くなる

◎公立穴水総合病院、島中公志院長のお話

島中院長(左から四人目)は調理室でボランティアと記念撮影をした。(撮影・周利貞)

元日の朝でしたが、私は病院で仕事をしていました。あと一時間で帰宅しようと思ったその時、午後四時十分に、地震が発生して建物が揺れました。それから休む間もなく働き続け、地震発生後の四日間で眠ったのは、二時間ぐらいだったと思います。

私たちの病院は、断水で患者さんのケアが難しくなり、食事も提供できなくなったので、退院できる人には早めに退院してもらい、退院が困難で治療を続けなければならない患者さんには、金沢市に転院してもらいました。困難を極めたのは、人工透析の患者さんです。最も遠いケースでは、片道六時間もかけて小松市まで送り届けました。転院を告げた時、多くの患者さんはこの町に残って治療を続けたいと涙していました。

わたしたち医療スタッフも殆どの人が被災し、住む家を失った人もいました。約半数の職員は輪島に住んでおり、そのうちの五分の一は、職場に戻ることができていません。日本各地から医師の派遣が始まったのは、被災から四日目でした。

これほど大きな災害を経験すると、誰でも気持ちが落ち込んでしまうものです。応援に来られた精神科医に、職員や避難している住民の心のケアを依頼しました。悩みは誰にでもありますが、もし一億回悩めば元気になるのなら、一億回悩めばいいのです。

慈済の皆さんが来られて炊き出しが始まると、連日食事を受け取る長い行列ができました。みんなとても楽しみにして、出来立ての食事を頂き、予想通り、食事の前よりも心が晴れやかになっていました。避難生活に辛さを感じていた人も、笑顔を取り戻すことができました。

食事を配る間、慈済の皆さんはいつも笑顔で親切に接してくれました。被災地というと、気分的に暗くなるものですが、皆さん方が明るい雰囲気を持って来てくれたのです。本当に有り難いと思いました。日本にはこんな諺があります。「笑う門には福来る」。笑顔を取り戻して、いつの日か、それが何年後であろうと、もう一度笑顔で皆さんと再会したいと願っています。(整理・編集部 資料の提供・大愛テレビ局)

(慈済月刊六八八期より)

新年を迎えた最初の日に、石川県能登半島で地震が発生した。雪の降る季節でもあり、穴水町では、住民の生活が一層困難になった。

それを知って、現地で十七日間、夜明けと共に、最も貴重な飲料水と野菜、豆腐などを携え、大雪に見舞われながらも住民の為に炊き出しを続けたグループがいた。

穴水町さわやか交流館プルートに設置された仮設厨房のブルーシートを、風雪が吹き上げた。 (撮影・呉惠珍)

本来なら正月の光景と言えば、「初詣」の人で賑わうお寺や神社、大勢の人が都会から帰郷して親や親戚と過ごす団欒である。しかし、令和六年の第一日目は、午後四時十分に石川県能登半島で、地表から十キロという浅い所で地震が発生し、地上を大きく揺らした。

マグニチュード七・六という強い地震だったので、遠く離れた私たち東京の慈済人たちも震度三の揺れを感じた。続いて大津波警報が発令され、皆益々心配になった。その時、海の向こうから「ボランティアや会員の皆さんは無事でしょうか」という慈悲深い證厳法師の声が届いた。

日本海に面した風光明媚な能登半島は、海産物や漆器で有名な観光地だが、慈済ボランティアにとっては見知らぬ土地である。一回目の炊き出しは、一月十三日に穴水町のさわやか交流館プルートで始まった。避難所には外壁沿いにブルーシートで囲った仮設厨房が設けられていて、既に他の団体が来て使っていたが、昼食の前後は慈済人のために空けてくれた。それでやっと、その団体も一息つけたそうだ。というのは、彼らは二人だけで毎日千人分の朝食と夕食を作っていたのだ。

厨房は仮設だったため、風や雨、雪の降る寒い日には耐え忍ぶしかなかった。交流館に避難していた住民は大半が高齢者だったので、ボランティアは慎重に調理した。繊維を多く含んだ野菜を食べてもらえるように小さく切って柔らかめに炊いたり、タンパク質の豊富な豆腐料理にしたり、ご飯は少なめにしてもおかずの量は減らさないようにしたりと配慮した。有田さんという女性の話では、どういう訳か私たちの作った食事を食べたら、口内炎が治ってしまったそうだ。ボランティアはそれを聞いてとても嬉しくなった。これこそ菜食のパワーなのだろう。

一日目の炊き出しを振り返ると、住民の感謝と称賛の声の中で、細心の注意を払いながら任務を完了することができたが、その後は「炊き出し」がボランティアにとって悪夢となってしまった。二日目は雪が降り、これほどの寒さを経験したことがないボランティアは、プロパンガスが凍ってしまうなど考えもしなかったので、ご飯が炊き上がらなかったのだ。

その半煮えのご飯を見て、災害支援の炊き出し経験が豊富なボランティアたちは、ひどく挫折感を味わった。幸いにも現地のボランティアがうどんを提供してくれたので、二日目の食事は解決した。しかし、三日目に同じ問題が起きたので、別の炊き出し拠点である穴水病院から支援してもらい、また、避難所が提供してくれた電気釜を使うようにして、その後もご飯の問題を解決することができた。

しかし、第三グループが被災地を訪れた時、電気釜が故障してしまった。現地のボランティア団体が私たちに、直接ガスで炊飯するよう教えてくれたので、日頃から電子炊飯器で少人数分のご飯を炊いている私たちにとっては、それが新たな挑戦となった。だが、困難を乗り越えた後は、誰もが悦びに浸った。というのも、ご飯炊きの達人になれたからだ。

被災地は交通と宿泊地の制限があるので、第一グループは人数を十四人に制限した。もし、一カ所で炊き出しするのであれば、人数はそれで充分である。しかし、石川県台湾交流促進協会理事長の陳文筆(チェン・ウェンビー)医師の要請でさわやか交流館プルートを訪ねた際に、穴水総合病院の島中公志院長から病院スタッフと避難してきた患者の家族、町役場に避難している住民、そして県外から来た救助隊員たちにも炊き出しをしてもらえないか、という要請があった。彼らは地震が発生してから今まで、即席ラーメンとおむすびが主食で、温かい食事を摂っていなかったのだ。私たちは一も二もなく、引き受けた。

島中院長は慈済人の支援を非常に歓迎してくれて、毎日ほぼ三回挨拶に来られた。朗らかでユーモアに富む人で、男性ボランティアを見かけると必ず抱擁して感謝の言葉を掛け、女性たちに対しても親切に話しかけてくれた。食事を受け取りに来るのは若くて仕事に体力を必要としている人たちだが、炊き出しの一日目は、後に続く人の分が足りなくなることを恐れて、ご飯の量を多めにして欲しいと言えず、遠慮していたそうだ。二日目からはボランティアの誠意に負けて、小声で「多めに」と言うようになった。男性だけでなく、女性たちも勇気を出して、小声で「大盛り」と言ってくれた。

ボランティアは、2組に分かれて交流館と穴水病院で炊き出しを行った。上の写真は、数人のボランティアが交流館に設置された仮設厨房で、毎食数百人分の食事を作る様子。(写真1撮影・周利貞)。夜間は零度まで冷え込み、プロパンガスのボンベに毛布を被せても、ガスは凍ってしまった(写真2撮影・高晙喆)。

炊き出しの列を縫ってお茶を提供

少人数で、しかも二カ所で炊き出しを行うことになり、ボランティアたちは挑戦を重ねた。二つの地点は車で五分の距離だが、前夜に物資や食材をきちんと分けて混乱が起きないようにした。二カ所での支援が軌道に乗ると、交代してやって来た女性ボランティアらが本領を発揮して温かいウーロン茶を提供した。飲んだ後で眠れなくなってはいけないので少し薄めに、香ばしい香りはそのままに淹れた。張好(ヅァンハオ)師姐(スージエ)はわざわざ東京から大きめのディスペンサーを持って来て、交流会館でお茶を提供し、住民に大変喜ばれた。

また張師姐は、夜なべして買って来たガーゼを縫って茶こし袋を作り、この急ごしらえの方法で、穴水病院でもお茶を提供した。お茶の香りは人々の心を和ませた。食事を受け取る列に並んでいた人たちに真心を込めてお茶を提供したことで話が弾み、自分の感情を控えめにするという日本人の心の壁を取り除くことができた。数日前から絶えず感謝を言葉に表してくれていたが、人々はやはり緊張した雰囲気の中にいた。それが一杯のお茶のおかげで、遠慮がちな顔に笑顔を浮かべるようになり、「もう一杯頂いてもよろしいでしょうか」という言葉も聞かれるようになった。こんなに美味しくて、温かくて、香ばしくて、喉越しの良いウーロン茶を飲んだのは初めてだという人もいた。ボランティアは、このジンスーウーロン茶は有機栽培で、慈済は環境を大切にしていることを紹介した。人々はより深く私たちの団体に興味を持つようになってくれた。

真っ赤な「平安」の文字のストラップも住民たちの注目を集めた。日本の「御守り」のような物ですか、と尋ねられたので、ボランティアは、これは祝福を意味していて、皆さんが一日も早く元の生活に戻れるようにという願いを込めて差し上げるのです、と答えた。彼らは皆、それを友人にあげたいと言い、ユーモア溢れる院長先生は、両方の耳にそれを掛け、慈済の宣伝をするのだ、と言った。

1月22日、公立穴水総合病院で麻婆豆腐を提供したところ、多くの人が列を作った。

不思議な縁に感謝したい

日本政府はその頃、国外からの支援はおろか、県外からのボランティア団体も受け入れていなかった。私たちがいち早く動員できたのは、各方面からの恩人の協力と長年の炊き出し経験、そして、證厳法師の指導があったからである。法師は、被災者の助けを得られない苦しみを見て忍びなく思い、早く栄養のある温かい食事を作ってあげたい、出来立てを食べてもらいたいと思う気持ちを募らせていた。NHKや朝日テレビ、北陸、北国、産経新聞などメディアは皆、この台湾の慈善団体は、なぜやって来たのかを知りたがったが、それは、そういう単純な思いからでしかなかったのだ。

昨年、大阪で開かれた医師会の集いに、関西連絡所のリーダーの一人である陳静慧(チェン・ジンフェイ)師姐が出席したが、その時に短い時間を使って、證厳法師の『行願して半世紀』のストーリーをシェアした。陳文筆医師夫妻は石川県に在住しているが、縁があってその集いに参加していたので、静慧師姐のシェアを聞いて法師の考えを大方理解し、慈済が大愛を携えた団体であることを分かってくれた。

陳医師は患者にはまるで家族のように接している人で、自宅前に名前の書いていない、患者からの贈り物を見つけることがよくあるそうだ。地震発生後、彼は石川県台湾交流促進協会の理事と一緒に、二十一回も援助物資を被災地に運んだ。

一月五日、北陸新幹線が運行していることを確認してから、台湾から来た陳金発(チェン・ジンファ)師兄は、陳思道師兄、盧建安(ルー・ジエンアン)師兄、池田浩一師兄らを伴って石川県に行き、七尾病院で陳医師と面会し、夫人の案内で穴水町を訪れた。

七尾市から穴水町までの道路はひび割れ、自治体は大至急補修して開通させたが、救助と物資補給の車を優先にしていたため、普通車の所要時間は普段の三倍近くかかった。寒い中で苦しんでいる住民のことを思い、思道師兄と井田龍成師兄は一月十一日、再び被災地を訪れ、炊き出しを行う場所について調整した。

慈済日本支部は長年、日本ボランティア・プラットフォームと交流があり、今回支援を申し出たことで良縁が結ばれ、穴水町さわやか交流館プルートの避難所で炊き出しをすることが決まった。

十二日、炊き出しを始める前夜だが、ボランティアは宿泊先がまだ見つかっていなかった。その時、静慧師姐のご主人が陳医師から中能登町の町長に聞いてもらうことを提案した。すると、十分足らずで古民家の宿泊先を見つけてくれたのだった。陳医師は一日目の炊き出しに同行していた時も、私たちを北国新聞の編集長に引き会わせてくれた。そして、慈済の善行はもっと多くの人に知ってもらうべきだ、と紹介してくれた。

古民家が調理場になった

中能登町にある百年余り前に建てられた古民家に宿泊することになったボランティアたちは、東京で偶に降る雪には慣れていたが、北陸の寒さは全く経験したことがなかった。夜は暖房が入っていても温まるまでには至らず、二晩の間、大半の人は寝袋に入っても寒さで眠れなかった。三日目に町長が人を派遣して、一人につき毛布二枚と断熱ベッドパッドなどの緊急災害用防寒物資を持って来てくれた。その後のグループで人数が増えると、皆で分けあって使った。寝る時にダウンジャケットを着ながら寝ると、やっと寒い夜でも眠ることができた、と経験をシェアする人もいた。

中能登町は穴水町から五十キロも離れていたが、炊き出しに使う水不足の問題は、解決することができた。ボランティアは毎日、夜のうちに袋に水をいっぱいまで入れ、野菜は洗って切って置き、翌日に持って行った。トントンと野菜を切る音は、翌日の炊き出しに使う五百人分のものだが、メニューによって異なり、時には深夜まで準備が続いた。翌日はまだ夜が明ける前の六時頃に出発しなければならなかった。このような災害支援は経験したことがなく、十三年前の東日本大震災で見舞金を配付した時でさえ、これほど疲れたことはない、とシニアボランティアが苦笑したほどだ。体の凝りや筋肉痛には何カ所も湿布を貼ったが、顔には頑張った後の喜びが現れていた。

毎晩八時半には災害支援のオンライン会議が開かれるため、野菜を切る時間と競争しなければならなかったので、ボランティアは野菜が切り終わらないことを心配した。そこで、ある人はごぼうの皮を削りながら、他にもジャガイモを切ったり、キャベツの葉を剥いたりしながら、会議に参加することになった。会議では当日の心温まる出来事や緊張した場面をシェアするため、笑い声が絶えず、それが一日の疲労を癒し、何が起きるか分からない翌日に備える勇気をもたらしてくれた。

被災地では1月下旬、連日の風雪が強く立ち込め、早朝、ボランティアは出発の準備に、食材を車にいっぱい詰め込んで、足元に注意して歩き、転倒防止に努めた。

二カ所で炊き出しを行う場合、八人が厨房に入る必要があった。日本支部は二〇〇五年の新潟中越地震で初めて炊き出しをした後も、熊本地震、西日本豪雨、長野と倉敷でも炊き出しの支援を行ったことがあり、ホームレスへの炊き出しと大愛食堂での弁当の提供も毎月恒例の行事だ。炊き出しは、すでに日本支部の重要支援項目なのだ。普段は女性たちが厨房に入っているが、休日になると、コックをしている男性ボランティアたちが来てくれる。今回の能登半島地震支援でも、三人のプロのコックが休暇を取って応援に来てくれた。

プロにはそれなりの迫力と味があるが、女性ボランティアたちのパワーも引けを取らない。大阪から来た人も、東京で普段から調理ボランティアをしている人も、皆、家庭の主婦であり、これほど多くの人に炊き出しをするのは、初めての挑戦である。厨房を取り仕切って欲しいと言われて、緊張の余り何日も眠れなかった人もいたが、それを乗り越えた時の喜びは言葉にならなかった。

宿泊地から炊き出し拠点までは車で片道約二時間かかるため、運転できるボランティアを優先的に採用した。しかし、普段は自家用の小型車を運転しているだけなので、八人乗りのバンの運転に挑戦する必要があった。

去年の経蔵劇が終わった時、慈済青年ボランティアの先輩たちは皆、「やっと仕事に専念できる!」と言った。しかし、今年の一日目に、続けてもっと大きな任務に就くことになるとは、思ってもいなかっただろう。彼らは真っ先に駆けつけ、他のボランティアが交代しても、引き続き邁進することになった。

井田龍成さんは日本で育ち、慈済ボランティアの両親を持ち、語学力と調整力を活かして様々な団体と交渉し、新聞社やメディアとも交流をしている。

盧建安さんは会社を経営しているが、被害状況の視察から支援の終了まで、バンを運転して東京と石川県の被災地を往復しただけでなく、情報収集を手伝ったり、夜遅くまで報告を書いたり、ビデオ画像の編集をしたり、と数多くの能力を発揮してくれた。

鍾佳玲(ヅォン・ジアリン)さんは、日本支部で育ったと言える女性で、性格が良くて物分かりも早く、心細やかで責任を全うしてくれている。普段は支部の事務をしているが、さまざまな活動の時は、良き助っ人でもある。東日本大地震を支援した経験から、災害が発生すると直ちに、自発的に多方面から情報を集めるようになった。事務と調整の仕事以外に、報告を書き、夜中になってもパソコンで資料を整理しており、明け方の四時に寝て、五時に起床して他の人と一緒に活動したこともある。

宿泊所から炊き出しの場所まで約50キロあり、道沿いの田畑に積もった雪は溶け始めたが、道路が損傷していて片側通行しかできず、救急車両も頻繁に行き来するため、毎朝交通渋滞に直面した。(撮影・周利貞)

雪国で頑張る

何度も支援ボランティアが入れ替わって往復するのを見ながら、被災地に行くことができないボランティアは、支部の留守番役として恒例のホームレスへの炊き出しや大愛食堂への弁当の提供、ケア世帯への寄り添いをいつも通りに行っていた。また、石巻や新宿、大阪、群馬などで、同時に愛を募る街頭募金を行った。そのおかげで、毎年の一大行事である「祝福感謝会」は、予定通り円満に行われた。

寒い雪国で苦しんでいる人々を助けるボランティアと、支部に残るボランティア。互いに協力して物事を成し遂げ、和気藹々と助け合う。これこそが慈済という大家族の最も美しい姿ではないだろうか。

第一回目の支援は一月十三日から二十九日まで行われたが、風光明媚な能登半島での炊き出しの六日目、稀に見る赤い朝日が日本海から昇って、「けあらし」と呼ばれる霧が立ち込めた。それはあたかもボランティアへのご褒美のようだった。数日前の大雪の後は、あとどのくらいその硬くて冷たい雪を踏まなければならないかわからないが、これからも多くの人が私たちの温かい手を待っているのだから、強くなろうと自分に言い聞かせたものだ。

ボランティアチームは中能登町の歴史ある古民家に宿泊していた。毎晩、翌日の食材の準備や報告の作成に忙しかったが、それでも一堂に集まって、翌日の予定を話し合った。(撮影・周利貞)

二月十六日、私たちは再び穴水病院に戻って、慈済が日本で初めて行う「仕事に就いて復興に参加する」活動を展開し、失業した四人の被災者を招いて炊き出しの手伝いをしてもらった。午後十二時きっかりに食事の提供を始めたが、その時には既に長い行列ができ、それぞれの診療科の代表者が大きなお盆を持って並んでいた。「また慈済人に会えて、本当に嬉しいです!」と口々に言った。一方、病院側は、私たちがお茶を入れるために、使われていなかったコーヒーラウンジを提供してくれた。診察待ちの患者や病院スタッフは皆、「心に沁みるウーロン茶と皆さんの笑顔は、この世の美しさを表しています」と言った。「熱々の美味しいお昼ごはんを頂いた上に、今日はホットココアまで出してくれました。ありがとうございました」。

法師が一月の行脚の間も、私たちとオンラインで連絡に応えて下さり、私は何度も注意されたことを思い出した。

「遠くまで支援に出かけるために、近くの人を疎かにしてはいけません。政府の規定には従わなければなりませんが、縁があれば、それを大切にして直ちに行動しなさい」と私たちに念を押したのだ。法師の心のこもった指導があったからこそ、雪国のどんな寒い中でも、私たちの心の灯は消えることなく、絶えず法師の言葉を胸に携えて進むことができた。私たちは風雪に負けず、進み続けるのだ!

1月20日、東京の支部で留守番をしていたボランティアが、愛を募る、街頭募金活動の箱とポスターを準備していた。(撮影・林真子)

一億回悩めば良くなる

◎公立穴水総合病院、島中公志院長のお話

島中院長(左から四人目)は調理室でボランティアと記念撮影をした。(撮影・周利貞)

元日の朝でしたが、私は病院で仕事をしていました。あと一時間で帰宅しようと思ったその時、午後四時十分に、地震が発生して建物が揺れました。それから休む間もなく働き続け、地震発生後の四日間で眠ったのは、二時間ぐらいだったと思います。

私たちの病院は、断水で患者さんのケアが難しくなり、食事も提供できなくなったので、退院できる人には早めに退院してもらい、退院が困難で治療を続けなければならない患者さんには、金沢市に転院してもらいました。困難を極めたのは、人工透析の患者さんです。最も遠いケースでは、片道六時間もかけて小松市まで送り届けました。転院を告げた時、多くの患者さんはこの町に残って治療を続けたいと涙していました。

わたしたち医療スタッフも殆どの人が被災し、住む家を失った人もいました。約半数の職員は輪島に住んでおり、そのうちの五分の一は、職場に戻ることができていません。日本各地から医師の派遣が始まったのは、被災から四日目でした。

これほど大きな災害を経験すると、誰でも気持ちが落ち込んでしまうものです。応援に来られた精神科医に、職員や避難している住民の心のケアを依頼しました。悩みは誰にでもありますが、もし一億回悩めば元気になるのなら、一億回悩めばいいのです。

慈済の皆さんが来られて炊き出しが始まると、連日食事を受け取る長い行列ができました。みんなとても楽しみにして、出来立ての食事を頂き、予想通り、食事の前よりも心が晴れやかになっていました。避難生活に辛さを感じていた人も、笑顔を取り戻すことができました。

食事を配る間、慈済の皆さんはいつも笑顔で親切に接してくれました。被災地というと、気分的に暗くなるものですが、皆さん方が明るい雰囲気を持って来てくれたのです。本当に有り難いと思いました。日本にはこんな諺があります。「笑う門には福来る」。笑顔を取り戻して、いつの日か、それが何年後であろうと、もう一度笑顔で皆さんと再会したいと願っています。(整理・編集部 資料の提供・大愛テレビ局)

(慈済月刊六八八期より)

關鍵字

弘法で衆生を利し、仏恩に報いる

経蔵劇「無量義 法髄頌」の舞台は、あたかも2500年余り前に戻ったかのように、古代インド・ラージャグリハの霊鷲山で、仏が法華経を説く前に《無量義経》を説き、十方から仏法を聞こうとする衆生が、敬虔な心で静かに待っていた。(撮影・黄筱哲)

慈済は既に五十八年目を迎え、仏陀の教えに基づいた菩薩精神が定着し、慈済人は六十七の国と地域に到達している。現代は科学技術が発達して、便利な交通機関があり、普く仏法を広めるのに役立っており、慈済人はこの時代を逃さず、人々に悟りの道を説いている。

経蔵劇「無量義 法髄頌」は、仏法を広める一つの形である。仏陀が導いてくれることに感謝し、この二年間、一歩一歩着実に仏陀の故郷に歩みを進め、インドとネパールで貧困に苦しむ人を救済して癒し、住民に善行と人助けすることを呼びかけている。

経蔵劇で世界に発信する

《無量義經》は《法華經》の精髄であるが、経蔵劇は、それを更に精煉した内容である。二〇二一年、花蓮での上演を皮切りに、修正とリハーサルを繰り返す中で、出演者たちは法髄の中に浸り、法益を受けて来た。

この経蔵劇は、二〇二二年十二月に高雄アリーナの公演が円満に終了してから二〇二三年七月の彰化県立体育館での公演、同年十二月の台北アリーナ公演まで合計二十三回、毎回三時間、仏陀の一生と慈済史実を演じてきた。

優人神鼓と唐美雲台湾オペラ歌劇団、台北愛楽合唱団等といった芸術文化団体が舞台上を受け持った。

慈済ボランティアは、慈済手話と動作、朗唱で呼応した 。中でも、台北アリーナでの十回の公演は、観客数が延べ十一万人に上り、八回のライブ配信の視聴者は延べ五十万人を超えた。(撮影・黄筱哲)

仏法を再び仏陀の故郷へ

二〇二二年四月から、シンガポールとマレーシアのボランティアは、仏心師志の心掛けを携えて仏陀生誕の地に入り、遊化(ゆけ)の足跡をたどって苦しむ人々を訪ね、貧困と病に支援の手を差し伸べた。同時に、安定した生活、学校の建設支援、職業訓練クラスの開設と共に、「竹筒歳月」の教えも広め、いつの日か、仏陀の正法をその故郷へ返したいと願っている。

ボランティアはネパール•ルンビニの或る家庭を訪れ、もうすぐ小学校に進学する小さい姉妹に学校の制服を届けた。姉妹二人は、ボランティアとしっかり勉強することを約束した(下の撮影・李麗心)。

インドブッダガヤのスジャータ村の学校で、ボランティアが静思語教育の授業を行った。教師と生徒は一緒に、「最も美しいのは笑顔」というポーズを取った( 下の写真 撮影・鄧亦絢)。

二〇二二年八月二十五日、ネパールの慈済ルンビニ連絡所が業務を開始し、二〇二三年七月にNGOの登録を完了した。

慈済のインドブッダガヤ連絡所は、二〇二二年にNGO登録が完了し、二〇二三年九月十三日より業務を開始した。

.慈善志業:ケア世帯支援、職業訓練講座(裁縫教室、手作り石けん教室)、ケア世帶への補助(思いやりキッチン、住宅修繕支援、仕事を与えて支援に代える)

.医療志業:健康診断、医療補助、衛生教育の推進。

.教育志業:静思語教育を学校に導入、教師懇親会の設立、中途退学者ゼロ計画の推進。

経蔵劇「無量義 法髄頌」の舞台は、あたかも2500年余り前に戻ったかのように、古代インド・ラージャグリハの霊鷲山で、仏が法華経を説く前に《無量義経》を説き、十方から仏法を聞こうとする衆生が、敬虔な心で静かに待っていた。(撮影・黄筱哲)

慈済は既に五十八年目を迎え、仏陀の教えに基づいた菩薩精神が定着し、慈済人は六十七の国と地域に到達している。現代は科学技術が発達して、便利な交通機関があり、普く仏法を広めるのに役立っており、慈済人はこの時代を逃さず、人々に悟りの道を説いている。

経蔵劇「無量義 法髄頌」は、仏法を広める一つの形である。仏陀が導いてくれることに感謝し、この二年間、一歩一歩着実に仏陀の故郷に歩みを進め、インドとネパールで貧困に苦しむ人を救済して癒し、住民に善行と人助けすることを呼びかけている。

経蔵劇で世界に発信する

《無量義經》は《法華經》の精髄であるが、経蔵劇は、それを更に精煉した内容である。二〇二一年、花蓮での上演を皮切りに、修正とリハーサルを繰り返す中で、出演者たちは法髄の中に浸り、法益を受けて来た。

この経蔵劇は、二〇二二年十二月に高雄アリーナの公演が円満に終了してから二〇二三年七月の彰化県立体育館での公演、同年十二月の台北アリーナ公演まで合計二十三回、毎回三時間、仏陀の一生と慈済史実を演じてきた。

優人神鼓と唐美雲台湾オペラ歌劇団、台北愛楽合唱団等といった芸術文化団体が舞台上を受け持った。

慈済ボランティアは、慈済手話と動作、朗唱で呼応した 。中でも、台北アリーナでの十回の公演は、観客数が延べ十一万人に上り、八回のライブ配信の視聴者は延べ五十万人を超えた。(撮影・黄筱哲)

仏法を再び仏陀の故郷へ

二〇二二年四月から、シンガポールとマレーシアのボランティアは、仏心師志の心掛けを携えて仏陀生誕の地に入り、遊化(ゆけ)の足跡をたどって苦しむ人々を訪ね、貧困と病に支援の手を差し伸べた。同時に、安定した生活、学校の建設支援、職業訓練クラスの開設と共に、「竹筒歳月」の教えも広め、いつの日か、仏陀の正法をその故郷へ返したいと願っている。

ボランティアはネパール•ルンビニの或る家庭を訪れ、もうすぐ小学校に進学する小さい姉妹に学校の制服を届けた。姉妹二人は、ボランティアとしっかり勉強することを約束した(下の撮影・李麗心)。

インドブッダガヤのスジャータ村の学校で、ボランティアが静思語教育の授業を行った。教師と生徒は一緒に、「最も美しいのは笑顔」というポーズを取った( 下の写真 撮影・鄧亦絢)。

二〇二二年八月二十五日、ネパールの慈済ルンビニ連絡所が業務を開始し、二〇二三年七月にNGOの登録を完了した。

慈済のインドブッダガヤ連絡所は、二〇二二年にNGO登録が完了し、二〇二三年九月十三日より業務を開始した。

.慈善志業:ケア世帯支援、職業訓練講座(裁縫教室、手作り石けん教室)、ケア世帶への補助(思いやりキッチン、住宅修繕支援、仕事を与えて支援に代える)

.医療志業:健康診断、医療補助、衛生教育の推進。

.教育志業:静思語教育を学校に導入、教師懇親会の設立、中途退学者ゼロ計画の推進。

關鍵字

感謝、尊重、愛

感謝があれば、福を造る機会ができますが、
それ以上にあらゆる人助けにおいて、
細やかな尊重と愛が示されなければなりません。

リサイクルボランティアは日々、福を拾い集めている

十一月十日午後の歳末祝福会は主に高雄区のリサイクルボランティアが参加し、上人が次のように語りました。「高雄岡山志業パークはエコ毛布製造の重要な拠点の一つで、師兄や師姐たちが心を込めて裁断し、縫製して作り上げています。既に多くの国と地域に送られ、慈済の慈善支援活動に伴って、数多くの被災者や貧しい人、病人など支援を得られない人たちの心身を温めて来ました」。

「これらの毛布は、私たちが環境保全活動で回収したPETボトルから作られたもので、品質がとても良く、暖かいです。今日、日本から来客があり、十二年前の東日本大震災の時、慈済が被災者を支援したことに感謝の気持ちを述べられました。その時に日本と台湾の慈済人が、被災地の避難所でその毛布をお年寄りに掛け、優しく抱擁し、彼らを慰めていたことをまだ覚えているそうです。たとえお互いに知り合いではなくても、成す術もなく慄いているお年寄りを目の前にすると、慈済人は直ちに愛の心を発揮しました。そのような愛は、とても誠意のあるものです」。

「ですから、この世には無用のものはありません。皆さんが普段回収しているボトルや缶類には、とても価値があるのです。心掛けさえあれば、この世に奉仕できない人はいません。進んで奉仕できるのです。誰もが心して愛でもって奉仕すれば、力が集まり、人間(じんかん)に幸福をもたらします」。上人は、付け加えました。「皆さんが地域でリサイクル活動に参加する時、環境をきれいにするだけでなく、現地の住民と交流しつつ、人心を浄化する機会を逃してはなりません。様々な年齢の人々がリサイクルセンターへ参観に訪れ、実際に分別を体験していますが、慈済人やリサイクルボランティアが人間(じんかん)に幸福をもたらしていることを目の当たりにすると、感謝と喜びの気持ちが起こり、投入していくのです。リサイクルセンターは即ち菩薩道場なのです」。

上人はリサイクルボランティアが心して回収し、細かく分別して、整理していることに感謝しました。たとえ、回収プラスチックの価格が低くても、皆さんがご存じのように、プラスチックを回収するのは地球を守るためなのです。リサイクルボランティアの毎日の回収作業は、物を惜しみ、福を集める行為であり、福を回収しているのです。またそれと同時に、大衆に環境問題を重視して自前の買い物袋の携帯を勧め、大量のプラスチックゴミを作ることで福を無くしてはならないと教育しています。慈悲喜捨の菩薩精神を発揮して絶えず大地を愛おしみ、衆生を愛し護ることで互いに睦まじくなり、大愛を結集してこの世に奉仕し、人間(じんかん)に幸福をもたらしましょう。

観世音菩薩の化身

上人は、こうして慈済に集まっている因縁を大切にするようにと語りかけました。「慈済があるから、私たちは大きく発心し、立願することができるのです。諸々の愛を結集し、世界中の貧しい人や苦しんでいる人に奉仕する慈済人は、苦しみを聞きつければ、どこであろうと愛を携えて助けに行きます」。

また、上人はこう言いました。「慈済の志業は、三十人の主婦が竹筒に貯金したことから始まりました。彼女たちは観世音菩薩の化身であり、市場や隣近所で口伝えに広めました。一日に五十銭貯金することが人助けになるなら自分にもできる、と誰もが感じ、その反響は益々広まり、『私も参加したい』と皆が言い始めました。五十数年前の、あの『私も』という善行への反響は、今日まで途切れることなく続き、益々多くの人が慈済の善行を目にして『私も』、『私にもできる』と言いながら、世に善と愛を促し、百三十を超える国と地域で慈悲の善行を行うまでに至っています」。

台湾であれ海外であれ、苦しんでいる人を支援する慈済人には、誠意が溢れています。配付する物資は全て丁寧に整理して梱包し、それらを自ら布施し、深々とお辞儀して、両手で差し出すと共に、受け取る人にお礼を言います。被害調査から配付まで、あらゆる段階で丁寧に尊重と愛を示しています。「感謝、尊重、愛」は、慈済人が永遠に伝承して行かなければならない精神と態度なのです。

「人助けする時は、相手から感謝されたいがためではなく、逆に相手が私たちに福を造る機会を与えてくれたのだと感謝しなければなりません。福の因を造り、福縁を結ぶことができれば、そこから福の果報をもたらすことができるのです」。慈済人は様々な土地で苦難にある人を支援すると同時に、善と福の種子を植えています。そして、人間(じんかん)菩薩を募って、あらゆる種が「一から無量」へ増えるようにと、丁寧に耕しています。人間(じんかん)に無数の菩薩がいれば、無量の福がもたらされるのです。

(慈済月刊六八六期より)

感謝があれば、福を造る機会ができますが、
それ以上にあらゆる人助けにおいて、
細やかな尊重と愛が示されなければなりません。

リサイクルボランティアは日々、福を拾い集めている

十一月十日午後の歳末祝福会は主に高雄区のリサイクルボランティアが参加し、上人が次のように語りました。「高雄岡山志業パークはエコ毛布製造の重要な拠点の一つで、師兄や師姐たちが心を込めて裁断し、縫製して作り上げています。既に多くの国と地域に送られ、慈済の慈善支援活動に伴って、数多くの被災者や貧しい人、病人など支援を得られない人たちの心身を温めて来ました」。

「これらの毛布は、私たちが環境保全活動で回収したPETボトルから作られたもので、品質がとても良く、暖かいです。今日、日本から来客があり、十二年前の東日本大震災の時、慈済が被災者を支援したことに感謝の気持ちを述べられました。その時に日本と台湾の慈済人が、被災地の避難所でその毛布をお年寄りに掛け、優しく抱擁し、彼らを慰めていたことをまだ覚えているそうです。たとえお互いに知り合いではなくても、成す術もなく慄いているお年寄りを目の前にすると、慈済人は直ちに愛の心を発揮しました。そのような愛は、とても誠意のあるものです」。

「ですから、この世には無用のものはありません。皆さんが普段回収しているボトルや缶類には、とても価値があるのです。心掛けさえあれば、この世に奉仕できない人はいません。進んで奉仕できるのです。誰もが心して愛でもって奉仕すれば、力が集まり、人間(じんかん)に幸福をもたらします」。上人は、付け加えました。「皆さんが地域でリサイクル活動に参加する時、環境をきれいにするだけでなく、現地の住民と交流しつつ、人心を浄化する機会を逃してはなりません。様々な年齢の人々がリサイクルセンターへ参観に訪れ、実際に分別を体験していますが、慈済人やリサイクルボランティアが人間(じんかん)に幸福をもたらしていることを目の当たりにすると、感謝と喜びの気持ちが起こり、投入していくのです。リサイクルセンターは即ち菩薩道場なのです」。

上人はリサイクルボランティアが心して回収し、細かく分別して、整理していることに感謝しました。たとえ、回収プラスチックの価格が低くても、皆さんがご存じのように、プラスチックを回収するのは地球を守るためなのです。リサイクルボランティアの毎日の回収作業は、物を惜しみ、福を集める行為であり、福を回収しているのです。またそれと同時に、大衆に環境問題を重視して自前の買い物袋の携帯を勧め、大量のプラスチックゴミを作ることで福を無くしてはならないと教育しています。慈悲喜捨の菩薩精神を発揮して絶えず大地を愛おしみ、衆生を愛し護ることで互いに睦まじくなり、大愛を結集してこの世に奉仕し、人間(じんかん)に幸福をもたらしましょう。

観世音菩薩の化身

上人は、こうして慈済に集まっている因縁を大切にするようにと語りかけました。「慈済があるから、私たちは大きく発心し、立願することができるのです。諸々の愛を結集し、世界中の貧しい人や苦しんでいる人に奉仕する慈済人は、苦しみを聞きつければ、どこであろうと愛を携えて助けに行きます」。

また、上人はこう言いました。「慈済の志業は、三十人の主婦が竹筒に貯金したことから始まりました。彼女たちは観世音菩薩の化身であり、市場や隣近所で口伝えに広めました。一日に五十銭貯金することが人助けになるなら自分にもできる、と誰もが感じ、その反響は益々広まり、『私も参加したい』と皆が言い始めました。五十数年前の、あの『私も』という善行への反響は、今日まで途切れることなく続き、益々多くの人が慈済の善行を目にして『私も』、『私にもできる』と言いながら、世に善と愛を促し、百三十を超える国と地域で慈悲の善行を行うまでに至っています」。

台湾であれ海外であれ、苦しんでいる人を支援する慈済人には、誠意が溢れています。配付する物資は全て丁寧に整理して梱包し、それらを自ら布施し、深々とお辞儀して、両手で差し出すと共に、受け取る人にお礼を言います。被害調査から配付まで、あらゆる段階で丁寧に尊重と愛を示しています。「感謝、尊重、愛」は、慈済人が永遠に伝承して行かなければならない精神と態度なのです。

「人助けする時は、相手から感謝されたいがためではなく、逆に相手が私たちに福を造る機会を与えてくれたのだと感謝しなければなりません。福の因を造り、福縁を結ぶことができれば、そこから福の果報をもたらすことができるのです」。慈済人は様々な土地で苦難にある人を支援すると同時に、善と福の種子を植えています。そして、人間(じんかん)菩薩を募って、あらゆる種が「一から無量」へ増えるようにと、丁寧に耕しています。人間(じんかん)に無数の菩薩がいれば、無量の福がもたらされるのです。

(慈済月刊六八六期より)

關鍵字

二月の出来事

02・02

慈済基金会仏国プロジェクトチームは、インド・ブッダガヤにあるティカビカ公立小学校で、64人の生徒が出席する中で、第一回静思語教育を行った。

02・03

アメリカ・ワシントンの慈済人文学校が新春祈福感謝会を催した。そして、その中の台湾華語文学習センター(Taiwan Center for Mandarin Learning)で除幕式を行うと共に、14人の生徒が出席して一回目の授業を行った。

02・04

慈済アメリカ総支部は2007年から内国歳入庁(IRS)(国税局)の認証を受け、ボランティア所得税援助(VITA)プログラムの後援或いは管理する団体である。本年度、エルモンテ連絡所など各支部で2月3日から順次、免税資格のある住民の所得税申告手続きを手伝っている。

02・05

◎フィリピン・ダバオ州で水害が発生し、80万人余りが影響を受けた。慈済ボランティアは5日、甚大な被害を被った被災地を視察し、愛を募る募金活動と支援物資の買い付けを始めた。7日にマグピシン町で、米とジンスー福慧多機能ベッド、毛布及び日用品を751世帯に配付した。

◎マレーシア・ペナン州にあるスリニボン環境保全教育センターは、廃墟となっていた飲食センターを改築したもので、2012年11月正式に運用が始まった。本日、ペナン州の2人の議員を招いて参観した後、センターの運用方法と近況を報告した。

02・06

政府の衛生福利部2023年度医学センターの審査結果が公表され、台北慈済病院が医学センターに昇格した。

02・11

アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ市にある放水路周辺の低い土地に住む住宅が1月末、連日の豪雨による洪水被害を受け、一部の住民は経済的な損失を被り、一部は避難を余儀なくされた。慈済サンディエゴ連絡所のボランティアは1月28日から31日まで要請を受けて、スプリングバレー被災者サービスセンターに駐在し、支援を求める人の登録を受け付けた。本日、連絡所で支援活動を行い、プリペイド式買い物カードとエコ毛布、衛生用品などを30世帯に配付した。

02・15

「2024年持続可能な開発に関するアジア太平洋フォーラム(APFSD)」における青年フォーラムが15日から17日まで、タイ・バンコクのスコーソンホテルで開かれた。慈済基金会執行長室グローバル協力及び青年発展室職員の杜嘉儀さん、マレーシアマラッカ支部職員の符家健さん、マレーシア慈済ボランティアの李威儀さん、タイ慈済ボランティアの甘佳鑫さんの4人が代表で参加し、各国の青年と貧困や飢餓の解消、気候変動に対応する行動などに関して交流を行った。

02・16

ヨルダン慈済人医会メンバーと慈済ボランティアは、マフラク市フェイジャ村で施療活動を行い、内科、外科、整形外科、耳鼻咽喉科、心臓内科、歯科などで延べ432人が診療を受けた。

02・17

15日、フィリピン・マニラ市アランケ地区の或るコミュニティーで火災が発生し、122戸が被災し、440人余りが住む家をなくした。慈済ボランティアは知らせを受けて、17日に災害現場を視察し、その翌日に米と衛生用品、毛布及び500ペソ(約1300円)の価値があるスーパーマーケットの商品券を支給して、困難な時期を乗り越えられるよう支援した。

02・20

国連のアジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)が20日から23日まで、タイ・バンコクにあるアジア本部で開催した「2024年第11回持続可能な開発に関するアジア太平洋フォーラム(APFSD)」に、慈済基金会執行長室グローバル協力及び青年発展室職員の杜嘉儀さんらが代表で出席した。また、22日にはオンラインでサイドミーティングを主催し、マレーシアのセランゴール連絡所蘇祈逢副執行長が、慈済がネパール・ルンビニとインド・ブッダガヤで、どのようにして「女性の自立・仏国の転換」を行っているかを報告した。

02・21

慈済科技大学の羅文瑞学長は、「逆流洗浄可能な携帯用浄水器」を開発し、その電力を使わない水を濾過する技術によって、2017年10月に特許を申請し、本日、創淨科技股份有限公司と特許使用に関する契約を交わした。

02・24

慈済基金会の熊士民副執行長とボランティアの尤慧文さんは、23日にマレーシアへ向かい、ベルジャヤ‧グループ創業者の陳志遠氏と、トップ・グローブ基金会創設者の林偉才氏夫妻ら多くの実業家を伴って、24日にインド・ブッダガヤへ飛んだ。25日にシロンガ村で支援建設の起工式と表敬訪問が行われ、27日にはマレーシアに戻った。

02・25

イギリス・ロンドンの慈済人文学校の「台湾華語文学習センター」で元宵節の活動が行われ、祈福儀式と京劇の水袖舞踊、太極拳などが披露された。

02・02

慈済基金会仏国プロジェクトチームは、インド・ブッダガヤにあるティカビカ公立小学校で、64人の生徒が出席する中で、第一回静思語教育を行った。

02・03

アメリカ・ワシントンの慈済人文学校が新春祈福感謝会を催した。そして、その中の台湾華語文学習センター(Taiwan Center for Mandarin Learning)で除幕式を行うと共に、14人の生徒が出席して一回目の授業を行った。

02・04

慈済アメリカ総支部は2007年から内国歳入庁(IRS)(国税局)の認証を受け、ボランティア所得税援助(VITA)プログラムの後援或いは管理する団体である。本年度、エルモンテ連絡所など各支部で2月3日から順次、免税資格のある住民の所得税申告手続きを手伝っている。

02・05

◎フィリピン・ダバオ州で水害が発生し、80万人余りが影響を受けた。慈済ボランティアは5日、甚大な被害を被った被災地を視察し、愛を募る募金活動と支援物資の買い付けを始めた。7日にマグピシン町で、米とジンスー福慧多機能ベッド、毛布及び日用品を751世帯に配付した。

◎マレーシア・ペナン州にあるスリニボン環境保全教育センターは、廃墟となっていた飲食センターを改築したもので、2012年11月正式に運用が始まった。本日、ペナン州の2人の議員を招いて参観した後、センターの運用方法と近況を報告した。

02・06

政府の衛生福利部2023年度医学センターの審査結果が公表され、台北慈済病院が医学センターに昇格した。

02・11

アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ市にある放水路周辺の低い土地に住む住宅が1月末、連日の豪雨による洪水被害を受け、一部の住民は経済的な損失を被り、一部は避難を余儀なくされた。慈済サンディエゴ連絡所のボランティアは1月28日から31日まで要請を受けて、スプリングバレー被災者サービスセンターに駐在し、支援を求める人の登録を受け付けた。本日、連絡所で支援活動を行い、プリペイド式買い物カードとエコ毛布、衛生用品などを30世帯に配付した。

02・15

「2024年持続可能な開発に関するアジア太平洋フォーラム(APFSD)」における青年フォーラムが15日から17日まで、タイ・バンコクのスコーソンホテルで開かれた。慈済基金会執行長室グローバル協力及び青年発展室職員の杜嘉儀さん、マレーシアマラッカ支部職員の符家健さん、マレーシア慈済ボランティアの李威儀さん、タイ慈済ボランティアの甘佳鑫さんの4人が代表で参加し、各国の青年と貧困や飢餓の解消、気候変動に対応する行動などに関して交流を行った。

02・16

ヨルダン慈済人医会メンバーと慈済ボランティアは、マフラク市フェイジャ村で施療活動を行い、内科、外科、整形外科、耳鼻咽喉科、心臓内科、歯科などで延べ432人が診療を受けた。

02・17

15日、フィリピン・マニラ市アランケ地区の或るコミュニティーで火災が発生し、122戸が被災し、440人余りが住む家をなくした。慈済ボランティアは知らせを受けて、17日に災害現場を視察し、その翌日に米と衛生用品、毛布及び500ペソ(約1300円)の価値があるスーパーマーケットの商品券を支給して、困難な時期を乗り越えられるよう支援した。

02・20

国連のアジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)が20日から23日まで、タイ・バンコクにあるアジア本部で開催した「2024年第11回持続可能な開発に関するアジア太平洋フォーラム(APFSD)」に、慈済基金会執行長室グローバル協力及び青年発展室職員の杜嘉儀さんらが代表で出席した。また、22日にはオンラインでサイドミーティングを主催し、マレーシアのセランゴール連絡所蘇祈逢副執行長が、慈済がネパール・ルンビニとインド・ブッダガヤで、どのようにして「女性の自立・仏国の転換」を行っているかを報告した。

02・21

慈済科技大学の羅文瑞学長は、「逆流洗浄可能な携帯用浄水器」を開発し、その電力を使わない水を濾過する技術によって、2017年10月に特許を申請し、本日、創淨科技股份有限公司と特許使用に関する契約を交わした。

02・24

慈済基金会の熊士民副執行長とボランティアの尤慧文さんは、23日にマレーシアへ向かい、ベルジャヤ‧グループ創業者の陳志遠氏と、トップ・グローブ基金会創設者の林偉才氏夫妻ら多くの実業家を伴って、24日にインド・ブッダガヤへ飛んだ。25日にシロンガ村で支援建設の起工式と表敬訪問が行われ、27日にはマレーシアに戻った。

02・25

イギリス・ロンドンの慈済人文学校の「台湾華語文学習センター」で元宵節の活動が行われ、祈福儀式と京劇の水袖舞踊、太極拳などが披露された。

關鍵字

ネパール─家の切り盛りをするスリジャナ

生活はとても大変だが、祖母は、いつも一握りの米を貯めて、より貧しい人を支援している。

祖父は、住居修繕の仕事を手伝いながら家族を養っている。以前、寒風の中で震えていたスリジャナは、もう涙を流すことはない。

小学生のスリジャナは、「静思語・良い言葉」の絵カードを持ち、その言葉を行動で表わした。「微笑む顏が一番美しい」。(撮影・王渝嬋)

白米を載せた車は、慈済ボランティアチームに従って、村の滑りやすい泥道を走った。沿道にある家は土壁やレンガ造りのものと、藁や割れた瓦を屋根に被せているだけの造りだった。時々、大雨で一部の壁がすでに崩れ落ちてしまっているものが見えた。

毎月第一土曜日は、慈済のルンビニでの慈善日である。七月初め、ボランティアは、幾つかのルートに分かれ、十八戸のケア世帯にレンズ豆、塩、食用油、砂糖及び二十五キロの白米などの物資を届けた。扉のない粗末な土壁の家に行くと軒がとても低く、身を屈めないと入ることができなかった。屋内にはベッドが二つあり、その一つの藁が敷かれた方は、べットでもテーブルでもあり、さらに客が座る場所でもあった。壁にはスリジャナのカバンが掛けられてあった。ボランティアが一枚のネパール語で書かれた静思語を送ると、十一歳のスリジャナの笑顔が輝いた。

部屋の片隅は火を焚いて炊事する場所で、二つのプラスチック製バケツが屋根から漏る雨を溜めていた。スリジャナは祖父母と一緒に住んでいるが、祖母は心配そうな顏で雨漏りのところを指すと、「雨季になって雨が降ると、炊事ができないのです」と言った。

家族全員が一カ月間の生活に必要な食糧を受け取ってから、ボランティアが次のケア世帯に向かうのを見た祖母は、急いで米貯金箱を取り出し、自分たちの気持ちを分かち合って欲しいと言って、ボランティアに渡した。こんなに困難な生活をしていても毎日一握りの米を貯めるという人助けの善行を続けており、ボランティアたちは心を打たれた。しかし、訪問ケアでこの家族のニーズが分かったので、彼らの住居を修繕することにした。

家事を切り盛りする女の子の日常

スリジャナ一家と知り合ったのは、去年十二月に、慈済がルンビニの二十八の学校で冬物衣類と文房具を配付した時である。シッダールタ小学校で、ボランティアは寒風が吹く中、まだ濡れている制服を着て、ぶるぶる震えていたスリジャナに気づき、急いで彼女を抱きしめて暖かくしてあげた。そして、一歩踏み込んで家庭訪問をすると、長期ケアを始めた。

来訪したボランティアに孫のことを話す祖母の言葉には、可哀想でならないという気持ちが溢れていた。スリジャナは幼い頃、両親が離婚し、各自再婚し、父親は他の地方に移って行った。七十歳の祖母は、もし自分が働けなくなったり、死んだりしたら、孫の世話を誰に見てもらったらいいのか、とても心配しているのだ。

家の収入は祖父のディヤルさんに頼っている。彼は四十坪余りの畑を耕しており、一年に収穫できる約二百キロの麦で生活を維持し、冬になると、カラシナを栽培する。スリジャナは良い子だが、恥ずかしがり屋で、放課後、遊びに出掛けることはない。家に帰ると、掃除や床拭きを始め、田んぼの雑草取りをして羊に餌を与えたり、野菜を採ったりした後、家に戻って、食事の支度を手伝っている。祖父母が畑仕事を終えて持ち帰った弁当箱を、スリジャナが糠で洗ってから、家族全員で一緒に食事をする。これが彼女の日常である。

家事を一手に引き受けるスリジャナは、夜の時間に授業の復習をするしかない。家が貧しいため電気がなく、ボランティアが訪問した時、彼女はベッドの上で懐中電灯をつけ、かすかな明かりで真面目に宿題を書いていた。それを見て、忍びなく思った。今年三月上旬、ボランティアはソーラーパネルを持参し、照明設備を取り付けた。スイッチをつけると、部屋は瞬時にして明るくなり、一家全員が歓喜の声をあげた。家に電気が通ったので、ボランティアは、学校の勉強に追いつくように宿題をしよう、とスリジャナに言って励ました。

「私は学校が好きです。毎日学校に通って、将来は教師になりたいのです」とスリジャナは、自分の望みを師姑と師伯に話した。

安心して住めるよう自宅も他人の家も修繕する

今年七月中旬、六人の慈済ボランティアが建築資材を持って訪れ、屋根の雨漏りを修繕した。一部の瓦と鉄板をトタンに取り替え、その下に断熱のための木の板を敷いた。そしてそれ以上に思いやりを込めて軒の高さを高くした。祖父のディヤルさんも工事を手伝ってくれた。皆が力を合わせて、一日で修繕工事を終えたので、夫婦はとても喜んだ。「慈済の支援に感謝しています!」。

七月から八月までは農閑期に当たり、ボランティアは、ディヤルさんがテキパキとしているのを見て、「仕事を与えて支援に代える」活動で、修繕チームに参加してもらい、プレハブ住宅の建材準備の手伝いを依頼したところ、ディヤルさんは即座に了承した。その翌日から工事を始め、ルンビニ慈済連絡所に来てもらって一緒にプレハブ住宅の建築資材を揃え、ラドヘイシャムさんという人の「家」を建てる準備をした。

ラドヘイシャムさんの家は、雨水に浸食されて今にも倒れそうになっていて、修繕を待っていた。ディヤルさんは、穴をあけたり、ペンキ塗りや建材の切断をしたりして手伝い、深く感銘を受けると共に、自分がまだ役にたつことに感謝した。「ボランティアが家の修繕をしてくれた後、彼らが私を必要としていたので、直ぐに駆けつけました。この仕事は素晴らしいです」。

ボランティアはルンビニで、既に十七世帯で修繕工事を終え、プレハブ住宅を完成させた。多くのケア世帯の男性は、「仕事を与えて支援に代える」活動で、修繕工事に参加した。自分の家を再建できる他、ほかの世帯の世話もできると同時に収入も得られ、家計の足しになった。マレーシアのボランティア張柏林(ヅァン・ボーリン)さんは、「彼らは殆ど毎日仕事にやって来ます。その心がけには心を動かされます」と言った。

スリジャナの家の屋根はもう雨漏りしないし、軒も高くなったので、炊事場も明るくて広くなった。修繕してから次の週、ボランティアは工事の品質を確かめに来た。屋内はやっと体を真っ直ぐにして立つことができ、もう腰を屈める必要はなくなった。祖母は、ボランティアと世間話をしながら、ディヤルさんが「仕事を与えて支援に代える」活動に参加してからはとても楽しそうにしていることに言及した。ボランティアは、「お祖父さんはとても真面目に慈済の仕事をしていますよ。本当に上手です」と返答した。

スリジャナと祖父母3人は、ぼろぼろで雨漏りする土壁の家に住んでいたが、ボランティアが協力して家を修繕し、軒を高くした。(撮影・ラジェ・クマー)

一握りの米、私も善行に参加する

毎月の物資の配付は、ケア世帯の生活の困窮状態を解決できるが、家庭訪問した時、彼らが仕事に就くチャンスを望んでいることがよく分かった。ある人は、最近慈済が行った手作り石けん教室に参加し、石けん作りと包装の仕方を学んだことで、新しい収入になるかもしれないと考えたそうだ。またある人は、修繕プロジェクトで恩恵を受けたが、今では工事メンバーの一人になり、人助けすることができると感じる気持ちがとても良いと自慢した。

持続的且つ誠意のある関心を寄せてこそ、言語の壁、文化と種族の違いを乗り越え、互いに信頼と愛の友情を育むことができるのである。例えば、スリジャナは毎月、ボランティアが来訪をすると、いつも笑顏を見せ、毎日米を貯めてきたプラスチック製のボトルを取り出して、ボランティアに渡している。炊事する前に一握りの米を貯める善行は、既に彼女の習慣になっている。

去年末から今まで寄り添って来てくれた慈済人に対して、スリジャナは心から感謝している。住まいの環境が改善されただけでなく、祖父は収入が増え、スリジャナは勉強に専念する時間が増えて、成績が上がったので、教師になる夢に近づいている。シンガポールとマレーシアの慈済ボランティアがネパールで深く愛を根付かせたので、仏佗の故郷に善の種が芽生え、すくすくと成長している。

(慈済月刊六八三期より)

生活はとても大変だが、祖母は、いつも一握りの米を貯めて、より貧しい人を支援している。

祖父は、住居修繕の仕事を手伝いながら家族を養っている。以前、寒風の中で震えていたスリジャナは、もう涙を流すことはない。

小学生のスリジャナは、「静思語・良い言葉」の絵カードを持ち、その言葉を行動で表わした。「微笑む顏が一番美しい」。(撮影・王渝嬋)

白米を載せた車は、慈済ボランティアチームに従って、村の滑りやすい泥道を走った。沿道にある家は土壁やレンガ造りのものと、藁や割れた瓦を屋根に被せているだけの造りだった。時々、大雨で一部の壁がすでに崩れ落ちてしまっているものが見えた。

毎月第一土曜日は、慈済のルンビニでの慈善日である。七月初め、ボランティアは、幾つかのルートに分かれ、十八戸のケア世帯にレンズ豆、塩、食用油、砂糖及び二十五キロの白米などの物資を届けた。扉のない粗末な土壁の家に行くと軒がとても低く、身を屈めないと入ることができなかった。屋内にはベッドが二つあり、その一つの藁が敷かれた方は、べットでもテーブルでもあり、さらに客が座る場所でもあった。壁にはスリジャナのカバンが掛けられてあった。ボランティアが一枚のネパール語で書かれた静思語を送ると、十一歳のスリジャナの笑顔が輝いた。

部屋の片隅は火を焚いて炊事する場所で、二つのプラスチック製バケツが屋根から漏る雨を溜めていた。スリジャナは祖父母と一緒に住んでいるが、祖母は心配そうな顏で雨漏りのところを指すと、「雨季になって雨が降ると、炊事ができないのです」と言った。

家族全員が一カ月間の生活に必要な食糧を受け取ってから、ボランティアが次のケア世帯に向かうのを見た祖母は、急いで米貯金箱を取り出し、自分たちの気持ちを分かち合って欲しいと言って、ボランティアに渡した。こんなに困難な生活をしていても毎日一握りの米を貯めるという人助けの善行を続けており、ボランティアたちは心を打たれた。しかし、訪問ケアでこの家族のニーズが分かったので、彼らの住居を修繕することにした。

家事を切り盛りする女の子の日常

スリジャナ一家と知り合ったのは、去年十二月に、慈済がルンビニの二十八の学校で冬物衣類と文房具を配付した時である。シッダールタ小学校で、ボランティアは寒風が吹く中、まだ濡れている制服を着て、ぶるぶる震えていたスリジャナに気づき、急いで彼女を抱きしめて暖かくしてあげた。そして、一歩踏み込んで家庭訪問をすると、長期ケアを始めた。

来訪したボランティアに孫のことを話す祖母の言葉には、可哀想でならないという気持ちが溢れていた。スリジャナは幼い頃、両親が離婚し、各自再婚し、父親は他の地方に移って行った。七十歳の祖母は、もし自分が働けなくなったり、死んだりしたら、孫の世話を誰に見てもらったらいいのか、とても心配しているのだ。

家の収入は祖父のディヤルさんに頼っている。彼は四十坪余りの畑を耕しており、一年に収穫できる約二百キロの麦で生活を維持し、冬になると、カラシナを栽培する。スリジャナは良い子だが、恥ずかしがり屋で、放課後、遊びに出掛けることはない。家に帰ると、掃除や床拭きを始め、田んぼの雑草取りをして羊に餌を与えたり、野菜を採ったりした後、家に戻って、食事の支度を手伝っている。祖父母が畑仕事を終えて持ち帰った弁当箱を、スリジャナが糠で洗ってから、家族全員で一緒に食事をする。これが彼女の日常である。

家事を一手に引き受けるスリジャナは、夜の時間に授業の復習をするしかない。家が貧しいため電気がなく、ボランティアが訪問した時、彼女はベッドの上で懐中電灯をつけ、かすかな明かりで真面目に宿題を書いていた。それを見て、忍びなく思った。今年三月上旬、ボランティアはソーラーパネルを持参し、照明設備を取り付けた。スイッチをつけると、部屋は瞬時にして明るくなり、一家全員が歓喜の声をあげた。家に電気が通ったので、ボランティアは、学校の勉強に追いつくように宿題をしよう、とスリジャナに言って励ました。

「私は学校が好きです。毎日学校に通って、将来は教師になりたいのです」とスリジャナは、自分の望みを師姑と師伯に話した。

安心して住めるよう自宅も他人の家も修繕する

今年七月中旬、六人の慈済ボランティアが建築資材を持って訪れ、屋根の雨漏りを修繕した。一部の瓦と鉄板をトタンに取り替え、その下に断熱のための木の板を敷いた。そしてそれ以上に思いやりを込めて軒の高さを高くした。祖父のディヤルさんも工事を手伝ってくれた。皆が力を合わせて、一日で修繕工事を終えたので、夫婦はとても喜んだ。「慈済の支援に感謝しています!」。

七月から八月までは農閑期に当たり、ボランティアは、ディヤルさんがテキパキとしているのを見て、「仕事を与えて支援に代える」活動で、修繕チームに参加してもらい、プレハブ住宅の建材準備の手伝いを依頼したところ、ディヤルさんは即座に了承した。その翌日から工事を始め、ルンビニ慈済連絡所に来てもらって一緒にプレハブ住宅の建築資材を揃え、ラドヘイシャムさんという人の「家」を建てる準備をした。

ラドヘイシャムさんの家は、雨水に浸食されて今にも倒れそうになっていて、修繕を待っていた。ディヤルさんは、穴をあけたり、ペンキ塗りや建材の切断をしたりして手伝い、深く感銘を受けると共に、自分がまだ役にたつことに感謝した。「ボランティアが家の修繕をしてくれた後、彼らが私を必要としていたので、直ぐに駆けつけました。この仕事は素晴らしいです」。

ボランティアはルンビニで、既に十七世帯で修繕工事を終え、プレハブ住宅を完成させた。多くのケア世帯の男性は、「仕事を与えて支援に代える」活動で、修繕工事に参加した。自分の家を再建できる他、ほかの世帯の世話もできると同時に収入も得られ、家計の足しになった。マレーシアのボランティア張柏林(ヅァン・ボーリン)さんは、「彼らは殆ど毎日仕事にやって来ます。その心がけには心を動かされます」と言った。

スリジャナの家の屋根はもう雨漏りしないし、軒も高くなったので、炊事場も明るくて広くなった。修繕してから次の週、ボランティアは工事の品質を確かめに来た。屋内はやっと体を真っ直ぐにして立つことができ、もう腰を屈める必要はなくなった。祖母は、ボランティアと世間話をしながら、ディヤルさんが「仕事を与えて支援に代える」活動に参加してからはとても楽しそうにしていることに言及した。ボランティアは、「お祖父さんはとても真面目に慈済の仕事をしていますよ。本当に上手です」と返答した。

スリジャナと祖父母3人は、ぼろぼろで雨漏りする土壁の家に住んでいたが、ボランティアが協力して家を修繕し、軒を高くした。(撮影・ラジェ・クマー)

一握りの米、私も善行に参加する

毎月の物資の配付は、ケア世帯の生活の困窮状態を解決できるが、家庭訪問した時、彼らが仕事に就くチャンスを望んでいることがよく分かった。ある人は、最近慈済が行った手作り石けん教室に参加し、石けん作りと包装の仕方を学んだことで、新しい収入になるかもしれないと考えたそうだ。またある人は、修繕プロジェクトで恩恵を受けたが、今では工事メンバーの一人になり、人助けすることができると感じる気持ちがとても良いと自慢した。

持続的且つ誠意のある関心を寄せてこそ、言語の壁、文化と種族の違いを乗り越え、互いに信頼と愛の友情を育むことができるのである。例えば、スリジャナは毎月、ボランティアが来訪をすると、いつも笑顏を見せ、毎日米を貯めてきたプラスチック製のボトルを取り出して、ボランティアに渡している。炊事する前に一握りの米を貯める善行は、既に彼女の習慣になっている。

去年末から今まで寄り添って来てくれた慈済人に対して、スリジャナは心から感謝している。住まいの環境が改善されただけでなく、祖父は収入が増え、スリジャナは勉強に専念する時間が増えて、成績が上がったので、教師になる夢に近づいている。シンガポールとマレーシアの慈済ボランティアがネパールで深く愛を根付かせたので、仏佗の故郷に善の種が芽生え、すくすくと成長している。

(慈済月刊六八三期より)

關鍵字

世の中を広く見渡し、無量の幸せをもたらしましょう

(絵・陳九熹)

穏やかな気候に恵まれた平穏な所で生活できる私たちは、自分に「とても幸せです」と、言いましょう。

世の中のこんなにも多くの善人と心を一つにして奉仕し、一緒に大愛を広めることができるのは、もっと幸せです!

元日の午後、石川県能登地方でマグニチュード七・六の強い地震が発生し、ニュースの画面には、非常に大きな揺れの中で驚愕して怯える人々の様子が映っていました。時を置かず、日本の慈済人がオンラインで、皆の無事を報告し、東京支部に集まって被災状況を把握し、物資の点検をしました。そして、たどり着いて支援ができる被災地を見つけてから、炊き出しの準備を始めました。凍てつく天気の中、現地の人に熱々の食事ができるよう尽力しました。大鍋で炊いた熱々のご飯に皆が喜び、感謝しました。菜食はこんなに美味しかったのだ、と。

素早い行動で、温かい食事と暖かいエコ毛布が用意され、慈済人はできる限り周到に支援しました。何処で災害があっても、慈済人は責任を担っており、世界中の慈済人がその後ろ盾となっているのです。そして、人々に呼びかけて、お金を集めることではなく、一番重要なのは人を募集し、一緒に菩薩心で善行することなのです。

慈済の歴史は間もなく六十年になりますが、無私の大愛の一念で第一歩が始まり、着実に歩みを進め、志を同じくした人たちによって、時間と共に志業は成就しました。一人の歩みを小さな一滴と軽んじるのではなく、道を切り拓いた最初の一歩を重視しなければなりません。「一粒の米に歳月が宿る」とよく言いますが、長い日々の苦労を表しています。種を蒔き、苗を育て、耕して苗を植え、草取りし、稲に成長するまでにどれほどの手間と時間が必要でしょうか。それに太陽と水分、どれ一つ縁が欠けてもいけません。ですから、誰もが因と縁を把握し、それらを結びつけ、人々と協力することで一切が成就するのです。

あらゆるものは時の中で成長し、時の中で絶えず消えていきます。私も、歳を重ねるうちに体力、生命力が衰えて来ています。これは必然的な道理ですから、どんな時も時間を無駄にしません。また常に、座っている時は姿勢を正して、「背中を丸めてはいけない。そうなれば、老いてしまうから」と、自分自身に注意を促しており、更に「顔を上げて、元気を出して、もっと皆さんの話を聞こう」と自分に言い聞かせています。

十二月に花蓮を出て、毎日、行く先々で心温まる話を聞きました。シニアボランティアの皆さんはいつも私が慈済を愛し、護るのを手伝ってくれます。感謝しています。人間(じんかん)で慈善、医療、教育、人文志業を完成させるために、自分が発心するだけでなく、慈済の菩薩法を広く伝え、リレー式に人々を招き入れてきました。五十八年間、関心を寄せる必要のある地域は絶えず拡大し続け、必要とする人力も増えています。

私が多くの人を愛しているように、皆さんも私に代わって多くの人を愛して下さい。私は皆さんに感謝しています。皆さんも私の代わりにお互いに感謝し合ってください。一人ひとりがこのように愛で睦まじく協力し合い、その愛が小さな所からどんどん広がっていく世の中こそが、菩薩の浄土なのです。

皆さんの分かち合いに、私は称賛を送りました。この年になってもまだ見聞が狭く、知らないことが多いのです。自分はこんなにも小さかったのかと感じます。社会は進歩していますから、学び切れない事はたくさんあり、自分は多くを知っていると思ってはいけません。しかし、心すれば、世の中のことが見えてきます。また、愛でもって私たちの周りにある、見たり、聴いたり、実践できることを大切にし、心力を尽くさなければいけません。

絶えずこの愛の心を培い、あらゆる人も物も愛するべきです。愛することは独占することではなく、心を大きく持って全てを包容することです。善に解釈すれば煩悩は無く、包容すれば是非はなくなります。他人から批判されたり誹謗されたりした時、いつも自ら過ちがあったのかどうか、自分の利益のために他人を不利益にしてはいないかを検討しているでしょうか。自ら見つめ直し、心に悔いが無く、誰かに借りも無ければ、煩悩をなくして、心軽やかに自在でいられます。

世のあらゆるものを惜しみ、身寄りのないお年寄りに関心を寄せる時、どれだけ支援してあげたかは問題ではありません。奉仕できるのは幸せな人であり、そこから私たちは生命の価値を高めている故、感謝の心をもって彼らを労わらなければなりません。食糧が豊富で、三度の食事に憂いが無い時、それができない人々のことを想いやらねばなりません。また、順調で平穏な国に生活している時、「私はとても幸せです」と自分に言い聞かせる必要があります。福があれば更に福を造り、日常生活の中で小さなものも累積し、皆で寄せ集めれば、大きな幸福になるのです。

毎日目覚める時、私は先ず感謝の気持ちが起こります。昨日の平安が安眠をもたらしてくれたことに感謝します。そして昨日の人や物事に満足し、穏やかに今日を迎えます。早朝に目を開けて耳を澄ますと、微かな音が聞こえるような気がします。心を鎮めると、静けさの中に微かな音が聞こえ、天地の間で大自然の音が聞こえます。心に雑念はなく、ただ感謝があるのみです。寧静な平安、平安なる寧静こそ、幸せな人のみが享受できるものです。

菩薩が広く衆生を済度し、愛の心でこの世を救うのは、私たちの本分なのです。この世でこんなにも多くの人と共に、心を一つにして奉仕できれば、福を造る喜びで、時間が過ぎるのが早く感じられ、心は会得したものでいっぱいになり、互いに法悦で満たされます。なんと幸せなことでしょう!

(慈済月刊六八七期より)

(絵・陳九熹)

穏やかな気候に恵まれた平穏な所で生活できる私たちは、自分に「とても幸せです」と、言いましょう。

世の中のこんなにも多くの善人と心を一つにして奉仕し、一緒に大愛を広めることができるのは、もっと幸せです!

元日の午後、石川県能登地方でマグニチュード七・六の強い地震が発生し、ニュースの画面には、非常に大きな揺れの中で驚愕して怯える人々の様子が映っていました。時を置かず、日本の慈済人がオンラインで、皆の無事を報告し、東京支部に集まって被災状況を把握し、物資の点検をしました。そして、たどり着いて支援ができる被災地を見つけてから、炊き出しの準備を始めました。凍てつく天気の中、現地の人に熱々の食事ができるよう尽力しました。大鍋で炊いた熱々のご飯に皆が喜び、感謝しました。菜食はこんなに美味しかったのだ、と。

素早い行動で、温かい食事と暖かいエコ毛布が用意され、慈済人はできる限り周到に支援しました。何処で災害があっても、慈済人は責任を担っており、世界中の慈済人がその後ろ盾となっているのです。そして、人々に呼びかけて、お金を集めることではなく、一番重要なのは人を募集し、一緒に菩薩心で善行することなのです。

慈済の歴史は間もなく六十年になりますが、無私の大愛の一念で第一歩が始まり、着実に歩みを進め、志を同じくした人たちによって、時間と共に志業は成就しました。一人の歩みを小さな一滴と軽んじるのではなく、道を切り拓いた最初の一歩を重視しなければなりません。「一粒の米に歳月が宿る」とよく言いますが、長い日々の苦労を表しています。種を蒔き、苗を育て、耕して苗を植え、草取りし、稲に成長するまでにどれほどの手間と時間が必要でしょうか。それに太陽と水分、どれ一つ縁が欠けてもいけません。ですから、誰もが因と縁を把握し、それらを結びつけ、人々と協力することで一切が成就するのです。

あらゆるものは時の中で成長し、時の中で絶えず消えていきます。私も、歳を重ねるうちに体力、生命力が衰えて来ています。これは必然的な道理ですから、どんな時も時間を無駄にしません。また常に、座っている時は姿勢を正して、「背中を丸めてはいけない。そうなれば、老いてしまうから」と、自分自身に注意を促しており、更に「顔を上げて、元気を出して、もっと皆さんの話を聞こう」と自分に言い聞かせています。

十二月に花蓮を出て、毎日、行く先々で心温まる話を聞きました。シニアボランティアの皆さんはいつも私が慈済を愛し、護るのを手伝ってくれます。感謝しています。人間(じんかん)で慈善、医療、教育、人文志業を完成させるために、自分が発心するだけでなく、慈済の菩薩法を広く伝え、リレー式に人々を招き入れてきました。五十八年間、関心を寄せる必要のある地域は絶えず拡大し続け、必要とする人力も増えています。

私が多くの人を愛しているように、皆さんも私に代わって多くの人を愛して下さい。私は皆さんに感謝しています。皆さんも私の代わりにお互いに感謝し合ってください。一人ひとりがこのように愛で睦まじく協力し合い、その愛が小さな所からどんどん広がっていく世の中こそが、菩薩の浄土なのです。

皆さんの分かち合いに、私は称賛を送りました。この年になってもまだ見聞が狭く、知らないことが多いのです。自分はこんなにも小さかったのかと感じます。社会は進歩していますから、学び切れない事はたくさんあり、自分は多くを知っていると思ってはいけません。しかし、心すれば、世の中のことが見えてきます。また、愛でもって私たちの周りにある、見たり、聴いたり、実践できることを大切にし、心力を尽くさなければいけません。

絶えずこの愛の心を培い、あらゆる人も物も愛するべきです。愛することは独占することではなく、心を大きく持って全てを包容することです。善に解釈すれば煩悩は無く、包容すれば是非はなくなります。他人から批判されたり誹謗されたりした時、いつも自ら過ちがあったのかどうか、自分の利益のために他人を不利益にしてはいないかを検討しているでしょうか。自ら見つめ直し、心に悔いが無く、誰かに借りも無ければ、煩悩をなくして、心軽やかに自在でいられます。

世のあらゆるものを惜しみ、身寄りのないお年寄りに関心を寄せる時、どれだけ支援してあげたかは問題ではありません。奉仕できるのは幸せな人であり、そこから私たちは生命の価値を高めている故、感謝の心をもって彼らを労わらなければなりません。食糧が豊富で、三度の食事に憂いが無い時、それができない人々のことを想いやらねばなりません。また、順調で平穏な国に生活している時、「私はとても幸せです」と自分に言い聞かせる必要があります。福があれば更に福を造り、日常生活の中で小さなものも累積し、皆で寄せ集めれば、大きな幸福になるのです。

毎日目覚める時、私は先ず感謝の気持ちが起こります。昨日の平安が安眠をもたらしてくれたことに感謝します。そして昨日の人や物事に満足し、穏やかに今日を迎えます。早朝に目を開けて耳を澄ますと、微かな音が聞こえるような気がします。心を鎮めると、静けさの中に微かな音が聞こえ、天地の間で大自然の音が聞こえます。心に雑念はなく、ただ感謝があるのみです。寧静な平安、平安なる寧静こそ、幸せな人のみが享受できるものです。

菩薩が広く衆生を済度し、愛の心でこの世を救うのは、私たちの本分なのです。この世でこんなにも多くの人と共に、心を一つにして奉仕できれば、福を造る喜びで、時間が過ぎるのが早く感じられ、心は会得したものでいっぱいになり、互いに法悦で満たされます。なんと幸せなことでしょう!

(慈済月刊六八七期より)

關鍵字