(絵・陳九熹)
穏やかな気候に恵まれた平穏な所で生活できる私たちは、自分に「とても幸せです」と、言いましょう。
世の中のこんなにも多くの善人と心を一つにして奉仕し、一緒に大愛を広めることができるのは、もっと幸せです!
元日の午後、石川県能登地方でマグニチュード七・六の強い地震が発生し、ニュースの画面には、非常に大きな揺れの中で驚愕して怯える人々の様子が映っていました。時を置かず、日本の慈済人がオンラインで、皆の無事を報告し、東京支部に集まって被災状況を把握し、物資の点検をしました。そして、たどり着いて支援ができる被災地を見つけてから、炊き出しの準備を始めました。凍てつく天気の中、現地の人に熱々の食事ができるよう尽力しました。大鍋で炊いた熱々のご飯に皆が喜び、感謝しました。菜食はこんなに美味しかったのだ、と。
素早い行動で、温かい食事と暖かいエコ毛布が用意され、慈済人はできる限り周到に支援しました。何処で災害があっても、慈済人は責任を担っており、世界中の慈済人がその後ろ盾となっているのです。そして、人々に呼びかけて、お金を集めることではなく、一番重要なのは人を募集し、一緒に菩薩心で善行することなのです。
慈済の歴史は間もなく六十年になりますが、無私の大愛の一念で第一歩が始まり、着実に歩みを進め、志を同じくした人たちによって、時間と共に志業は成就しました。一人の歩みを小さな一滴と軽んじるのではなく、道を切り拓いた最初の一歩を重視しなければなりません。「一粒の米に歳月が宿る」とよく言いますが、長い日々の苦労を表しています。種を蒔き、苗を育て、耕して苗を植え、草取りし、稲に成長するまでにどれほどの手間と時間が必要でしょうか。それに太陽と水分、どれ一つ縁が欠けてもいけません。ですから、誰もが因と縁を把握し、それらを結びつけ、人々と協力することで一切が成就するのです。
あらゆるものは時の中で成長し、時の中で絶えず消えていきます。私も、歳を重ねるうちに体力、生命力が衰えて来ています。これは必然的な道理ですから、どんな時も時間を無駄にしません。また常に、座っている時は姿勢を正して、「背中を丸めてはいけない。そうなれば、老いてしまうから」と、自分自身に注意を促しており、更に「顔を上げて、元気を出して、もっと皆さんの話を聞こう」と自分に言い聞かせています。
十二月に花蓮を出て、毎日、行く先々で心温まる話を聞きました。シニアボランティアの皆さんはいつも私が慈済を愛し、護るのを手伝ってくれます。感謝しています。人間(じんかん)で慈善、医療、教育、人文志業を完成させるために、自分が発心するだけでなく、慈済の菩薩法を広く伝え、リレー式に人々を招き入れてきました。五十八年間、関心を寄せる必要のある地域は絶えず拡大し続け、必要とする人力も増えています。
私が多くの人を愛しているように、皆さんも私に代わって多くの人を愛して下さい。私は皆さんに感謝しています。皆さんも私の代わりにお互いに感謝し合ってください。一人ひとりがこのように愛で睦まじく協力し合い、その愛が小さな所からどんどん広がっていく世の中こそが、菩薩の浄土なのです。
皆さんの分かち合いに、私は称賛を送りました。この年になってもまだ見聞が狭く、知らないことが多いのです。自分はこんなにも小さかったのかと感じます。社会は進歩していますから、学び切れない事はたくさんあり、自分は多くを知っていると思ってはいけません。しかし、心すれば、世の中のことが見えてきます。また、愛でもって私たちの周りにある、見たり、聴いたり、実践できることを大切にし、心力を尽くさなければいけません。
絶えずこの愛の心を培い、あらゆる人も物も愛するべきです。愛することは独占することではなく、心を大きく持って全てを包容することです。善に解釈すれば煩悩は無く、包容すれば是非はなくなります。他人から批判されたり誹謗されたりした時、いつも自ら過ちがあったのかどうか、自分の利益のために他人を不利益にしてはいないかを検討しているでしょうか。自ら見つめ直し、心に悔いが無く、誰かに借りも無ければ、煩悩をなくして、心軽やかに自在でいられます。
世のあらゆるものを惜しみ、身寄りのないお年寄りに関心を寄せる時、どれだけ支援してあげたかは問題ではありません。奉仕できるのは幸せな人であり、そこから私たちは生命の価値を高めている故、感謝の心をもって彼らを労わらなければなりません。食糧が豊富で、三度の食事に憂いが無い時、それができない人々のことを想いやらねばなりません。また、順調で平穏な国に生活している時、「私はとても幸せです」と自分に言い聞かせる必要があります。福があれば更に福を造り、日常生活の中で小さなものも累積し、皆で寄せ集めれば、大きな幸福になるのです。
毎日目覚める時、私は先ず感謝の気持ちが起こります。昨日の平安が安眠をもたらしてくれたことに感謝します。そして昨日の人や物事に満足し、穏やかに今日を迎えます。早朝に目を開けて耳を澄ますと、微かな音が聞こえるような気がします。心を鎮めると、静けさの中に微かな音が聞こえ、天地の間で大自然の音が聞こえます。心に雑念はなく、ただ感謝があるのみです。寧静な平安、平安なる寧静こそ、幸せな人のみが享受できるものです。
菩薩が広く衆生を済度し、愛の心でこの世を救うのは、私たちの本分なのです。この世でこんなにも多くの人と共に、心を一つにして奉仕できれば、福を造る喜びで、時間が過ぎるのが早く感じられ、心は会得したものでいっぱいになり、互いに法悦で満たされます。なんと幸せなことでしょう!
(慈済月刊六八七期より)