コロナ後の経営者の生き方

行動制限令の下、多くの中小企業が資金繰りの問題に直面し、一部行き詰まった会社は倒産に追い込まれ、空き店舗として貸し出されている。(撮影・覃平福)

新型コロナウイルスの感染拡大を断ち切る為、マレーシア政府は今年三月から行動制限令を発令した。五月初めには一部を緩和したが、今年の年末まである程度の制限は続くことになっている。制限の影響が及ばない少数のフリーターは非常にラッキーである。それは失業者数が三月の六十一萬人から五月の八十二萬人に激増したからだ。彼らはどのように自力で生活しているのだろう?

コロナ禍にあるマレーシアは、一九九七年のアジア通貨危機と二〇〇八年の大規模な経済衰退の時よりも深刻な状況に置かれている。ウイルスの感染拡大を断ち切る為、政府は三月十八日から行動制限令(MCO)を発令した。医療・物流・食品・銀行などの生活に必要な産業界を除き、他の業種は全て営業停止となった。

多くの会社は無給休暇制度を実施し、サラリーマンたちは収入を絶たれる問題に直面した。六月初めに発表された上半期の失業率は、昨年同期よりも四十二パーセント増加し、四十二パーセントの企業は正常な運営ができなくなったが、影響が最も深刻だったのはサービス業である。その後、条件付き活動制限令(RMCO)に変わり、各業種が徐々に営業を再開したことで下半期就業率は少し改善されるだろうが、人々は夜明け前の暗闇を如何に乗り切るかを真剣に考えなければならない。

王嘉苓(ワン・ジアリン)さんは、十年間旅行会社を経営してきたが、今年一月からコロナ禍の影響を受け、客先から旅行日程のキャンセルや変更が相次いだ。不安定な情勢を目の当たりにして、彼女は唯一の非正社員に暇を出した。三月に行動制限令が発令された当初、彼女は深く考えることなく、毎日のんびりと人気ドラマに夢中になって簡素な生活を送っていた。しかし、行動制限令が延長されると、彼女は慌てだした。オフィスの家賃は払い続けなければならない。コロナ禍がいつ収束するのか分からないし、収入が途絶えたら、半年後から払い始めるローンのお金は何処から工面すれば良いのか。

コロナ禍は旅行業界に深刻な影響をもたらし、王嘉苓さんは十年間、経営して来た会社を休業して、転職せざるを得なかった。(撮影・何維美)

転職すると、早起きしなければならない

早朝四時半、朝ご飯を食べる余裕もなく、その日に販売するジャワ麺を用意するため、王さんの忙しい一日が台所から始まる。鍋から湯気が立ち上り、彼女の額から汗が滲み出た。今日、五十食分の出前を二カ所に届けなければならないので、時間を無駄にできない。幸いなことに、最も頼りになるお母さんの陳淑季(チェン・シュージー)さんも起き出してきた。

「食材の下準備はできたの?」と尋ねながら、お母さんは三角巾をかぶって野菜餅を揚げる準備をした。間もなく妹さんも参加して、ジャガイモのスライス、レタスの千切り、ゆで卵の半切り、干し豆腐の薄切り、シークワーサーのヘタ取りなどを手伝った。朝日が台所に差し込み、八時半から盛り付けを開始した。レタスともやしを横に並べ、ゆで上げたラーメンを入れ、ジャガイモ・干し豆腐・野菜餅・卵・シークワーサーを乗せ、少量のラー油をかけた後、砕いたピーナッツをトッピングすると、様々な食材の色が映え、綺麗に出来上がった。

「スープは最後に作るのですよ。でないとお客様が手にした時、全体が冷めてしまっているから」と王さんは言いながら忙しく食材を並べていた。転職してから二カ月近くが経つと、彼女たちは秘訣を見出したため、調理する時間を短縮することができ、子供たちも台所の手伝いをしなくてもよくなったことを喜んだ。毎日午前十一時には一切の準備を終えた。週末はご主人が休みなので、彼女を載せて出前をして午後一時頃に販売を終了し、家路に就く。

ジャワ麺はインドネシアの伝統的なB級グルメで、マレーシア人にも喜ばれている美食の一つである。彼女はいい加減に食材の準備をすることはなく、出前の日は一層早起きする。「以前はこれほど早起きする必要がありませんでした」と笑いながら言った。

王嘉苓さん一家は早起きして、食材の下準備と出前の用意をする。収入を得るだけでなく、新たな菜食を開発して、菜食を勧めている。(撮影・覃平福)

良縁を結んで、菜食の推奨に尽力する

コロナ禍で王さんは旅行業界からの転職を余儀なくされたが、幸いにもご主人の仕事に影響はなく、家族の暮らしと私立高校で勉強している二人の子供の学費は心配ない。

何もしないと貯金を食いつぶす恐れがあるので、彼女は新聞の求職欄を閲覧したが、旅行業界で二十年余りの経験を積んでいても、異なった領域で仕事するのは大きなチャレンジであり、自信がなかった。旅行業界の知り合いから、フードコートで店を借りて食べ物を売ろうと誘われたが、あれこれ考えた結果、それを断った。「今振りかえって見ると、何を心配していたのでしょう?やったことがなかったので、どう始めていいのか分からなかったのです。でも行動に移さなければ、何の結果も得られないのです」と彼女が言った。

以前、自分の家でコーヒー・ショップを経営していたことを思い出し、母と妹に相談して、自分の家で調理して出前することを始め、SNSを利用して受注した結果、良い反響が得られた。そこそこの収入があるだけでなく、菜食を広めることもできるのだ。

クラン区の客は二食分、そして、他の地域なら四食分注文があれば、無料で配送する。「よその店の売値はもっと高いことは知っていますが、この仕事はお金を稼ぐだけでやっているのではありません。菜食を食べてくれる人がいれば、喜んで販売したいのです。皆が喜んで菜食を食べてくれれば、證厳法師に代わって菜食を広めていることになります」と彼女が言った。

彼女は率直に、出前商売は以前の収入の三分の一しかなく、しかも家族たちの助けがあって成り立っているのだと言う。しかし、家族たちは「社会から得て、社会に返す」という精神を持っているため、一食当たり六リンギット(約百五十円)の売値から、五十セント(約十三円)を慈済の慈善事業に寄付すると決めた。

十年前に慈済ボランティアになった陳さんは、「私たちは僅かでも収入があるので、人を助けることができます。善のさざ波が自分たちの身に返ってくると思っています」と娘を大いに応援している。

鄭智源さんは、善行で良縁が結ばれる故に人脈も広がると信じている。今までのドライバーの仕事も悪くなかったが、行動制限令で収入に影響が出た。しかし、慈善をするにはちょうど良いタイミングであると言う。(写真提供・鄭智源)

機会を求める 
山は動かないので方向転換する

七月、感染拡大がコントロールされ、学校が授業を再開すると、社会でも各業種が逐次再開となった。しかし、まだ入境制限は解除されていないので、旅行業界は依然として低迷状態を極め、彼女はオフィスの賃貸契約をキャンセルし、後の事は改めて考えることにした。

同じくコロナ禍の打撃を受けた中に娯楽業界がある。慈済ボランティアの何永康(コー・ヨンカン)さんは、長年カラオケ店を安定して経営してきたが、制限令の実施後、三軒が閉店に追い込まれた。半世紀を生きてきた彼は初めて先が見えないと感じたが、このまま意気消沈していてはいけないと自分に言い聞かせた。

七月から、何さんは奥さんと一緒にネット上でフラワーショップを開いた。商売をやりながら勉強を重ねることも厭わなかった。「これは神様から与えられた試練なのかもしれず、たとえ困難に出会ってもそれは成長の過程なのです。自分の考え方や方法を変えれば、道を進み続けることができます」と何さんが言った。

慈済人文真善美(記録部門)の撮影ボランティアをしている何さんは、この期間、以前と比べて取材に出かける機会が増えている。「毎日商売はどうなるかと考えていたら、眠れないでしょう。制限令が出ている間は解決方法がありませんから。どうせ何もできないのなら、慈済が難民や外国人労働者に配付しているところを撮影しようと思いました。彼ら難民や外国人労働者に比べたら、自分はとてもラッキーですよ」と言った。

難民や外国人労働者の収入は日給制なので、行動制限令で工場が止まっている間は直ちに食糧不足に陥ってしまう。家賃が払えなくなって、家主から追い出され、目を赤くしてボランティアに助けを求めて来た人を目の当たりにした何さんは、深く感じるところがあった。

難民への配付活動のために電話訪問をしているボランティアの謝小慧(シエ・シャオフイ)さんは、四月の時点では収入がなかったが、その後、幸いにも新しい仕事が見つかった。「給料は前より少ないですが、家で何もしないよりはいいと思います」。慈善の仕事で彼女は足ることを知った。貯金を取り崩して生活しているが、家族の一日三食を賄えるので生活が苦しいとまでは言わない。「本当に感謝しています」と彼女が言った。

この期間に慈済慈善配付活動に積極的に参加したのは、タクシードライバーの鄭智源(ジョン・ジーユエン)さんである。以前は主に空港への送迎をしていたが、コロナ禍で数カ月間収入がなくなってからは、政府からの生活補助金で家族の生活を賄っている。「このチャンスに、広く人と良縁を結び、身をもって子供の模範になるつもりです。どんな時でも、人助けに全力を尽くすべきです」と彼は言った。


(慈済月刊六四七期より二〇二〇年に翻訳)

互いに関心を持って助け合い、コロナ禍で困窮した人を支援する標題

ボランティアは7月中旬からMRTタマン・ムティアラ駅周辺でコロナ禍に関する救済計画を説明し、人々に善の心で共に布施することを呼びかけた。(撮影・林振勝)

◎資料整理・編輯部 訳・高雪白

新型コロナウイルスによる感染症が爆発的に広がってから、慈済マレーシアのセランゴール支部は、直ちに第一線の医療関係者と貧困者に支援の手を差し伸べた。病院やクリニック、警察、学校等二千を超える機関を含む、二万八千世帯余りに寄り添って支援を行った。

様々な業種は仕事を再開したが、多くの人は未だ困窮に陥ったままだ。支部では七月から「互いに関心を持って助け合い、困難を支援する」活動を繰り広げた。支援の申し込みは四千三百件以上に上った。一万人余りのボランティアを動員して家庭訪問を行い、生活困窮家庭三千世帯に連続三カ月にわたって生活補助金を支給した。

インターネットが使えなかったり情報が届かない家庭を考慮して、ボランティアたちは積極的にその支援プランを宣伝すると共に、クラン連絡所のボランティアは住宅街にサービスステーションを開設して申請の手助けをした。申請者の中には高齢や病気で仕事ができず生活に困っている人やコロナ禍で生活が困窮し、わずかな収入に頼って暮らしている人もいた。現実の危機に向き合う時、地域の人々が力を合わせてこそ困難を乗り越えることができる。ボランティアは竹筒貯金や菜食チャリティーバザー等で募金を呼びかけ、少しでも多くの人を助けようとしている。

(慈済月刊六四七期より二〇二〇年に翻訳)

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