
この十四年間で、岩手県大船渡市は二度の災害に見舞われた。東日本大震災から復興を遂げたものの、今年は山林火災に襲われたのだ。慈済は再び現地に赴き、見舞金の配付を行った。
二〇二五年の春、桜が満開を迎える前に起きた山林火災が、岩手県大船渡市を襲った。空気中に焦土の匂いが漂い、人々の顔には、行き場のない不安が浮かんでいた。災害が影を落とす中、まるで温かい光が静かに降り注いだかのように、慈済ボランティアは再びこの地を訪れた。
二〇一一年三月十一日に発生した東日本大震災では、津波が東北沿岸の町々を襲い、山に囲まれて海に面した大船渡市も一瞬にして津波に飲み込まれた。そしてここが、東京の慈済ボランティアが被災地の視察を行う最初の場所となった。
その年には宮城県や岩手県などで、十回にわたって見舞金の配付活動が行われ、慈済は物資の提供だけでなく、被災した地元住民に対して実質的な経済的な支援を行った。中でも大船渡市では、三千三百五十五世帯に対し、総額一億七千万円余りの見舞金を配付した。家や家族を失った人々にとって、その現金は再出発の礎となった。
再建はすでに完了していたが、今年二月下旬の山林火災により、二度目の災害に見舞われた人々は少なくない。五百五十キロ離れた東京の慈済人は、それを知って再び支援の手を差し伸べることを決め、三月十五日に被災地を視察した。そして、四月五日と六日に、三陸公民館で六十五世帯に見舞金を贈呈した。

心に深く根ざした「絆」
清修士の陳思道(チェン・スーダオ)さんは、十四年前、被災地に赴いた際、至る所で「絆」という文字を目にし、人々が互いに助け合う関係を大切にしようと呼びかけていたことを思い出した。「絆」には「つながり」や「束縛」という意味もあるが、慈済ボランティアと地元住民の交流を表す場合は、長く続く親切で清らかな友情を意味する。それはまさに、證厳法師が言う「長い情と大愛」そのものである。
その年は配付活動を終えた後も、ボランティアは現地でお茶会を催し続けた。変わらず奉仕を続けた結果、ついに人々の心に眠る宝を掘り起こし、播かれた希望の種が芽を出し、地元ボランティアへと成長した。今回の山林火災被災者支援チームは六十七人で構成され、そのうち二十三人は東北の津波被災地からの参加者だった。
吉田充さんと吉田曈さん夫婦は、揃って現地での奉仕に参加した。東日本大震災当時、宮城県気仙沼市の市職員だった吉田さんたちは配付活動に協力したことで、慈済との縁を結んだ。曈さんは、あの災害で多くの大切な友人を失い、慈済が現金の見舞金を配付すると聞いて半信半疑だったが、実際にその様子を目の当たりにした時、再び立ち上がる力を見つけた。
今野芳彦さんは、当時は大船渡市役所の課長で、慈済の災害支援に協力した。今回の山林火災では、ボランティアに付き添って被災地を視察しただけでなく、二日間にわたって配付活動にも協力した。
片山月江さんは、十数年前に慈済の支援があったからこそ今の私がいると言う。当時の恩に報いるために、被災した地元住民のために力を尽くしたいと言った。平山睦子さんは炊き出しに協力してくれた人だが、持っていたすべてを津波で失ってしまったが、慈済のおかげで再び立ち上がることができたことに感謝した。
現地メディア『東海新報』は慈済の支援を今でも鮮明に覚えており、今回は自らボランティアに連絡を取って取材した。記者の佐藤壮さんは、ニュース記事として四件連続で掲載した。「十四年前、避難所で慈済と地元住民の交流の様子を目にしました。当時、被災者たちは支援に対して警戒心を抱き、付帯条件があるのではないかと心配していましたが、慈済は見返りを求めず支援してくれたので、皆喜んでいました」と書かれていた。
日本では、被災者に直接現金を渡すというやり方は珍しい。「慈済の皆さんの温かさと思いやりに触れ、心に沁みました。日本の人々の台湾に対する親しみが深まりました」。

袖野雄さんはボランティアに、必ずこの廃墟の地に再建を果たすと告げた。見舞金の金額は新しい家を建てるには到底足りないが、その温かさは新たな生活の第一歩を踏み出す支えとなるのだ。(撮影・朱家立)
温かい食事とお茶の香りに
和む地元住民の心
見舞金の配付は午前十時からだった。朝早くから、ボランティアたちはお茶を淹れ、お菓子を用意した。公民館の二階にある厨房には、スーパーで買った新鮮な食材を使い、温かい食事を調理するボランティアたちの姿があった。慈済日本支部執行長の許麗香(シュー・リーシャン)さんは、「被災された方々に、温かい昼食とお茶菓子を召し上がっていただきたかったのです。これは私たちの誠意です」と優しく述べた。
初日に提供した温かい「中華丼」が、険しい表情を浮かべていた被災者の袖野さんの心をほぐし、「とても美味しいです!」と笑顔を見せた。二日目には麻婆豆腐を提供したが、温かくてピリ辛な味わいが、肌寒い季節にぴったりだった。前日に見舞金を受け取った地元住民が、仮設住宅の近隣住民を誘って食事に訪れた。二つ目の釜のご飯も瞬く間になくなった。
赤崎町外口地区に住む四十五歳の袖野雄さんは、十四年間で二度被災した。津波でマンションを失い、七年前に再建されたが、今回の火災で焼失した。大和民族らしく感情を表に出さず、見舞金を受け取りに来た朝も、悲しんでいるようには見えなかった。彼は、出されたお茶とお菓子を味わい、美味しいと答え、今度は母と妻、四人の子どもたちを連れて慈済が準備してくれる昼食を食べにくると言った。
火災が発生する前、子どもたちが成長するにつれ、それぞれの部屋を持てるように、家の横に増築した。しかし、避難指示が解除されて帰宅したら、約百坪の家は廃墟と化してしまっていた。その美しかった家は、海を見下ろす山の高台に位置していたのは、津波を避けるためだったが、まさか山火事で失うとは思ってもいなかった。
敷地内に畑を持つ袖野さんはボランティアの林真子(リン・ヅンヅー)さんに、この見舞金で農機具小屋を建てるつもりだと言った。慈済の温もりは、彼の新しい生活の第一歩に寄り添っていくだろう。「家が建ったら、必ず写真を送ります」と彼の母親は、ボランティアに安心してほしいと言った。
山下さんもまた、二度被災した人だ。津波の後、同じ場所に再建した家が今回の火災に遭ったが、「これだけ苦労に出会ったのだから、もう乗り越えられないことなんてないです」と明るく述べた。ボランティアの井田音心さんに、「すべてがゼロからのスタートで、生活は、まず箸一膳を買うことから始まります。お見舞金を受け取ったら、まず冷蔵庫を買いに行きます」と言った。
縁とは不思議なもので、毛布を受け取った時、袋に添えられていた静思語に「人生では様々な困難に遭遇しますが、心して向き合えば、どんな困難も小さなものに見えてきます」と書かれてあった。山下さんは「まさに私の人生にぴったりの言葉です。この静思語をバッグにしまい、肌身離さず持ち歩くことにします。きっと私の力になるでしょう」と言った。
ボランティアチームの革新的なリレー
政府は、今回の大規模な山林火災を「局地激甚災害」に指定し、被災者に対して再建補助と新たな植樹支援を提供した。慈済の支援物資配付の前日もなお、百九十人余りが避難生活を送っていた。罹災証明書と身分証明書を持参した住民が配付会場に到着し、世帯人数に応じて十万~二十万円の見舞金を受け取り、全員にエコ毛布が一枚ずつ配られた。さらに高齢者と障害者は、防寒用のショールを受け取った。
慈済日本支部の災害支援の主力は、以前から「スーパーウーマンのような」女性ボランティアたちであるが、今年は特に若者、中堅、シニア世代のボランティアがチームを組んだ。若者は事務面での企画に長け、ベテラン委員は奉仕の経験とこれまでの学びを活かしてお互いに補い合い、敬意をもって協力しあった。早稲田大学に通う慈青の李浩溶(リー・ハオロン)さんは、離れた場所にいる人々も、現在の呼び出し番号が分かるように、電子呼出システムを設計し、配付の流れを一層スムーズにした。
ボランティアたちは、過去の災害支援経験をもとに綿密に計画し、事前の訓練も行い、あらゆる点で地元住民のために考えた。この「感謝・尊重・愛」の精神が、これからも大船渡市の住民に温もりを届け、希望に満ちた明日を迎える力となる。
(慈済月刊七〇二期より)
