シリア難民を医療で救う─子供の顔から血と涙を拭う

「苦しんでいる人は喜びを感じることができません。

しかし今日、私は喜んでいます。そして、私たちに喜びをもたらした皆さんに感謝しています」―アディーバ・アドナン・ヒラル

(絵・アディーバ・アドナン・ヒラル)

アディーバはシリアのために、絵筆で赤い涙を描いた。

赤い心は、この十一年間続いている慈済ヨルダンの愛を表す。

その愛は、国内にいる千人以上のシリア難民の子供が医療を受けられるよう支援している。

ヨルダンは中東諸国と国境を接している。北はシリアと接し、国内に登録しているシリア難民だけでも約八十七万人近くを数え、未登録の難民を加えれば百三十万人を超えると推測される。国連がヨルダン政府と共同でザータリ、アズラック等の地区に設けた大型難民キャンプだけでなく、砂漠の中にあるテント集落や街の暗がりには更に多くの難民が散在している。

内戦から逃れようと、この百万人の難民は国境を越え、暗闇の中、家族を連れて逃亡し、砲火を避けながら逃げる道すがら、肉親が無残にも襲撃されたり、残忍な迫害を受けたりした記憶の断片は、一生かけても脳裏から消すことはできないのかもしれない。アラブ世界の生育に関する考え方は、子沢山で、人が多ければ多いほどよいため、どの家庭も子供が多い。次世代の為にと故郷を後にするが、子供が病気になれば、異国では生きようにも生きられない。

ヨルダンは、国土の大半が砂漠であるため、多くの物資を輸入に頼って調達しているので、一般人にとっても衣食住と移動に関する費用は決して安くない。難民にとってその負担が大きいのは尚更である。何か技術を持っている人でも、それに見合った収入のある仕事の機会を見つけるのは難しい。加えて生きていると病気はつきものであり、手術を必要とするような場合、その費用は天文学的な数字となる。

二〇一一年にシリアで内戦がぼっ発して以来、ヨルダンの慈済ボランティアはその年の冬から、シリア難民の支援に力を入れ始めた。「二〇一三年に万難を排し、初めての難民医療支援として、白内障の方一人に水晶体再建術を、角膜変位症の方一人に切除手術を行いました」。慈済ヨルダン支部の陳秋華(チェン・チュウフワ)代表がシリア難民医療支援の由来を説明した。

ヨルダン・ザータリ難民キャンプでは、今でも8万人のシリア難民が生活している。キャンプにはクリニックはあるが、手術ができる病院はなく、難民の医療を助ける経費もない。(撮影・林緑卿)

二〇一四年十一月からは、国連による難民キャンプでの手術関係の支援や補助が打ち切られたため、難民は慈善団体に頼らざるを得なくなり、多くの人は慈済に支援を求めた。慈済は四カ月の乳児、エラフちゃんのヘルニア手術を皮切りに、五十七人の子どものヘルニア手術を支援した。
シリア人医師のモハンナドさんの引率の下、陳さんはザータリ難民キャンプ内のAMR対策病院と協力して、これまで鎖肛や扁桃腺の炎症、ヘルニア等の病気を患った千人以上の子供の治療費の補助をしてきた。

当初、何人もの鎖肛の子供たちは排便ができないことで、腹部がパンパンに膨らんでいた。親たちは息も絶え絶えの子供を抱いて、あちこち医者の助けを求めたが、往々にして断られ、また、医療費が払えなかったために治療を中断せざるをえなかった。慈済はモハンナド医師と協力し、彼の診断に基づいて、これらの子供にキャンプ外の病院で手術を受けさせた。

「他の国際NGOは、部分的に僅かな医療費を補助するだけで、それも難民が自ら受け取りに行かなければなりません。慈済は全額を負担するだけでなく、難民の手元に届けています」。ここに天と地ほどの差があるのだと陳さんが指摘する。この十一年間、慈済は見返りを求めず奉仕して来たので、当初は慈済の着眼点と意図を疑っていたシリア難民も、今では全面的に信頼し、頼るようになってくれた。

難民キャンプ内に住んでいる難民にも、外でテント住まいをしている難民にも、慈済は物資を支給し、施療と医療補助を行っている。長期ケアにリストアップされた難民家庭は二百八十七世帯に上る。個別医療支援案件は、コロナ期間中でも中断したことはなく、この二年間に手術を受けた人は延べ四百人余りに上り、検査や医薬品の提供を含めると、延べ二千人を超える人々に支援が行き渡った。

医療問題を解決するだけでなく、教育環境も改善しなければならない。シリア国境に近い、ザータリ難民キャンプ近くのフウェイヤ村のテント区域において、二〇一八年より、慈済はこの区域の難民家庭に食糧の支給を始めると共に、キャッシュ・フォー・ワークの一環として難民を教師に雇い、村の子供たちに文字の読み書きを教えている。首都アンマン市近郊にある「慈心の家」は孤児と未亡人を収容する施設で、慈済はこの七年間、家賃と子供の学費援助を続けてきた。ボランティアは心を込めて寄り添い、コロナ禍でロックダウンした期間中も、あらゆる手段を見つけて物資を届けた。それらの支援は母親たちの心に響き、彼女たちもボランティアと一緒に配付活動に参加するようになった。

家があっても帰れない悲しみと医療資源の欠乏は改善されず、難民の悪夢と悲しみは続いている。慈済人はそこに留まり、諦めることなく、愛で暗闇を照らしている。なす術を知らない涙を祝福に変えたいと願い、砂漠の中で難民の子供たちに寄り添って成長を見守る。

(慈済月刊六七五期より)

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