無常を受け入れる私のことは心配いらない

下の息子が急死し、夫は彼女の世話を必要とし、長男は今年の五月に意識不明となった後、他界した。普通の人ならこのような運命に不満を言うかもしれないが、郭馨心(グオ・シンシン)さんは違う。心配しなくても私は大丈夫ですから、と私たちを慰めた。

夏至まであと十日という頃、気温はそれほど高くはなかったが、蒸し暑さが人々を煩わせた。

明け方の六時前、郭さんからメッセージが入った、「昨夜の夜中に大維が他界しました。菩薩様が彼をあの世に連れて行きました」。私はそれを読んだ瞬間、頭が真っ白になり、暫くしてから、「ご長男が夜中に逝ってしまったなんて、恐らく馨心さんと鄭さんは一睡もしてなかったでしょう」としか頭に浮かばなかった。

大維さんは郭さんとご主人の鄭成仁ヅン・ツンレン)さんの長男で、五月二十六日に内湖の自宅で意識不明になり、救急搬送された後、ずっと集中治療室に入っていて、生命維持装置で弱った命を繋いでいた。夫婦とお嫁さん、二人のお孫さん及び他の親族は皆、奇跡が起きるのを待っていた。しかし、昏睡状態になってから十六日後の六月十一日、彼は息を引き取った。

二人の息子さんを相次いで亡くした夫婦の事が心配になり、私は夕方に仕事を終えると、急いで鄭さん宅に駆けつけた。悲しみに暮れている彼女にどう向き合えばいいのか、どんな慰めの言葉を掛けたらいいか、と行く途中でずっと考えていた。

鄭家に着き、チャイムを鳴らす前に私は深く息を吸った。返事を聞いてドアを開けた時、意外にも少し疲れた様子が見えた以外、郭さんはいつもの笑顔と優しい声で出迎えてくれた。

夫婦二人は丁度、晩ご飯を食べていたので、私は側に腰掛けた。郭さんは食事をしながら、以前、学校で面倒を見ていた中学生の興味深い話や生活のよもやま話などを雑談してくれた。息子さんの往生に対しては軽く触れただけで、涙も流していなかったので、慰めの言葉は必要なかった。

生死の別れを通して、不屈な精神を身につけた郭馨心(左)は、仏法を深く学ぶうちに、物事の良し悪しは人の表情からは分からないが、全ては目の前を通り過ぎるものなのだ、ということを理解した。

無常は大きな試練を与え続けた

慈済に参加する前の郭さんは、外資系企業のマネージャーだった。数多くの子供たちが茫然とした人生を過ごしていた時期を乗り越えられるように、とその華やかな舞台を離れて、教育、特にカウンセリング分野に投入した。

「大愛ママ」の誕生に関して、郭さんは、人生の恩人である陳美羿(チェン・メイイー)先生を忘れたことはない。「一九九一年、美羿先生が十句の静思語と十人の慈済ボランティアの話を取り上げて、学校で先生と生徒に慈済の事を語ってくれました。『大愛ママ』はその時に始まり、学園で広まっていったのです」。

郭さんは、問題の多い生徒の行為を変えただけでなく、問題を抱えた多くの家庭まで救った。「私は他の人のやり方を聞いて、その通りにやっていたのですが、そのまま没頭していました。その時は疲れも感じず、頭の中は、どうすればもっとうまくやれるだろうかという考えでいっぱいでした」と彼女は謙虚に語った。無給の仕事だったが、彼女の努力は先生や生徒が感じただけでなく、校長先生も彼女の人柄と人付き合いの良さを褒め、学校業務を推進する補佐役のように思った。彼女は静思語教育を推進し、自愛や福を惜しむ、感謝などの言葉が溢れた学風が、段々と人伝えに賞賛されて行った。

私たちは語り続けた。彼女は話すことで心が解き放たれ、私は聞いていて嬉しくなった。「口の中に食べ物が残っているわよ。早く噛んでから呑み込んでね。いい子だから」と時折、認知症の鄭パパに注意するが、煩わしそうな表情は少しも見せなかった。

今年七十八歳になる郭さんは、八十二歳のご主人を八年間も介護している。年寄り同士で生活しているが、毎日、在宅介護ケアの人が家に来て、ご主人の入浴を手伝ってくれる。「肉体は因縁の一時的な結合ですから、成住壊空という現象が起きるのです。年を取れば、体は自然と役に立たなくなるので、介護される者もする者も素直に試練を受け入れれば、辛い生活にも心を開くことができるのです」。

長男が意識不明になって病院に運ばれた日、郭さんは在宅介護人に、家に残って夫の世話をしてくれるよう頼んでから、長男の病状を把握するために、一人で宜蘭から北部の病院へ駆け付けた。息子の安否を心配したが、介護人のサービス時間内に自宅に戻らないといけないので、病院に長く留まっていることができなかった。

途中で彼女はSNSグループにメッセージを送り、長男が無事に危機を乗り越えられるよう、皆の祝福をお願いした。宜蘭の法縁者が直ちに動き出し、祝福の心遣いが携帯の音と共に次々に届いた。北部の法縁者も同時にSNSに呼応して祝福した。

「大維にまた進歩がありました。昨日は自分で排尿し、腎臓透析装置を外すことができました。昇圧剤も最低限の量に留め、心拍、血圧、血中酸素濃度の全てが正常になり、肝機能も徐々に回復しています。あとは彼が意識で自分を励ますことしかありません」。郭さんは数日間続けてよいニュースを流した。

たくさんのメッセージを受け取って、どれほど励まされたことだろう。多くの法縁者の祝福が、郭さんの希望を支えた。もう少し長男に時間があれば、きっと目覚めただろうと彼女は思った。

一時間余りおしゃべりすると、郭さんは急に顔を下に向け、何かを考える様子で言った、「大維はとても親孝行でした。実際、入院初日から危篤状態でしたが、頑張って何日間も持ちこたえることで、私たちが、彼がこの世を去ることを受け入れるための十分な時間を与えてくれたのです」。

50歳過ぎの長男、鄭大維が突然意識不明になって病院に運ばれた。郭馨心は動転しつつも、突然の出来事を淡々と受けとめた。

やっぱり母親だから

仏法を修めるには、理解に行動が伴わなくてはならない。文字の上だけで仏法を追求していると、文字に込められた道理が見えず、結局、口ばかりになってしまう。人と人の間では、お互いの人生で仏法を証明する方が、万巻の経書を読むよりも透徹している。特に瞬時にやって来る無常に直面して、どうやって巨大な変化球を掴むことができるか。その時になって初めて、普段から修行した成果が分かるのだ。

郭さんと知り合ってから数十年、彼女が内外共に徳を積む様子を見てきた。普段は人に頼らず、言動には表裏がなく、口から出るのはポジティブな言葉ばかりである。宜蘭の法縁者は、「静かな時は乙女のように、人手の支援が必要な時は全力でサポートする人なのです」と彼女のことをこう表現した。

二十九年前、次男が軍隊で体調を崩して急に亡くなった後も、彼女はいつも通りに毎日忙しく慈済の仕事をして、自分の殻に閉じこもることはなかった。ある日、楽生療養所に行った時、金義禎お爺さんから、息子さんを無くしたことで悲観に暮れていないことを褒められたそうだ。
郭さんは、「一人の時はやはり泣きますよ」と金さんに言った。

「泣かなければ、母親ではありませんね」と金さんが返した。

二十九年後、今度は長男が他界した。普通の人なら、運命に翻弄されて恨みがましいことを言うかもしれないが、郭さんは違った。「私の事は心配しないでください。因縁は人によって異なるのです。大維と私たちの縁が尽きたのです。それでも手離せないなら、長年仏法を勉強して来た甲斐がありません」と私に言った。私は、彼女の感情の表し方や態度に心底感服した。

長男を亡くした後、郭さん夫婦の心境を心配して、北部の法縁者は宜蘭まで駆け付けて関心を寄せた他、近くにいる宜蘭の法縁者も絶えず足を運んだ。途切れない法縁者の愛に人々は感動した。

「慈済に長年参加して、母心で人のお子さんを愛して来ましたが、菩薩の智慧で自分の息子を慈済に導いて、広く良縁を結ばせることができませんでした。沢山の法縁者から祝福を頂きましたが、やはり彼が自ら結んだ良縁ではありません。食事は自ら摂ることでお腹が満たされるように、福田も自分で耕さなければ、福縁は得られないのです」と郭さんが感慨深げに言った。彼女の目には少し無念さが見えた。

夜が深まってから、大雨は止んだ。その家から出て階段を降りながら、私の心は徐々に平静さを取り戻した。世の常識は、仏法と切っても切れない縁にある。仏法の中からしか、この世の是生滅法(ぜしょうめっぽう)を体得する方法はなく、そうして初めて、生命に智慧と強靭さが現れるのである。

携帯に祝福のメッセージが入った。心からご冥福をお祈りいたします、とあった。

(慈済月刊六六九期より)

長年、自分で夫を介護して来たが、2人の楽観的な態度が、やがて訪れる一人暮らしに直面する大勢の人を励ました。

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