戦火は逃れても、重病と医者にかかれない問題に遭遇した。
同じように故郷を離れたシリア人医師たちは、次世代が異国で死の淵に立たされていることを忍びなく思い、慈済ボランティアと手を取り合って、彼らのために尽くす。
二〇一四年年末、国連難民高等弁務官事務所より難民キャンプでの手術補助が打ち切られたので、難民たちは相次いで、一時的な助けを慈済に求めた。二〇一五年、シリア人医師を主な対象とした会議が、アンマン市のアクイラ病院で開かれた。
会議の中で、耳鼻咽喉科のハキム医師は、彼を会議に招待した陳秋華(チェン・チュウフワ)さんを不審な眼差しで見ていた。丁度シリアからヨルダンに避難して約一年が経ち、病院で働き口を見つけはしたが、騙されて一カ月分の給料を支払ってもらえないという不本意なことに遭遇していたからでもあった。長い間、異国に居候し、妻子を守らなければならないため、警戒心が強くなり、遠く台湾から来た慈善団体がシリア人を助けるなど、とても信じられなかったのだ。
陳さんは、長年ヨルダンで慈済を代表して深く人道支援をしてきた経緯を話し、今、シリア難民が困難に陥って貧困と病に見舞われている時に、シリア人医師たちが協力してくれるならどんなにいいだろう、と思って声をかけたことを説明した。
陳さんの善意と思いやりは、シリア人医師たちの心を動かしたが、多少の猜疑心は依然として残っていた。同じく会議に出席していた心臓外科のアフマド医師は、慈済の施療活動に参加し始め、毎月「慈心の家」でのケアに赴いていた。彼は長い間、陳さんの傍にいたので、観察するうちに心を打たれたのだそうだ。同胞を助けるため、彼はいつも、慈済と協力しているアルバヤデール病院と交渉して医療費の特別優遇を引き出すこともある。
シリア難民のヨルダンでの医療費は自費なので、病院の提示価格に従うしかない。ある時アフマド医師は、心臓のステント治療が必要だと診断されたケースを担当した。ステントを一カ所設置する費用は二千五百ヨルダン・ディナール(約四十八万円)なのだが、手術が終ると陳さんにこう言ったのだ。
慈済がヨルダンのフーウェイジャ村で行った施療活動で、シリア人医師のハキム氏は、ザータリ難民キャンプから来た子供を診察した。(撮影・賴花秀)
「手術中にステントを入れる必要がないことに気づいたのです。バルーン血管形成術で十分だったので、四百ディナール(約七万五千円)で済みました」。
陳さんはそれを聞いて驚いた。四十年以上ヨルダンに住んでいて、多くの医師と関わってきたが、お金を稼ぐチャンスがあれば、絶対に逃さない人がいることを知っていたからだ。「私はアフマド医師の慈悲に心から感じ入り、本当に感動しました」。
アフマド医師は自分の診察室でも自発的に治療費を下げ、余計な費用を取らずにできるだけ同胞の経済的負担を減らし、慈済が彼に補助している費用も削減することで、ボランティアがより多くの治療を必要とする人を支援できるようにしている。
難民の医療ケースは四方八方からやってくる。施療時にさらに踏み込んだ治療が必要なケース、ヘルニアの子供、入れ歯が必要な年配者など、様々である。それまでは協力関係にある病院に紹介していたが、最近になって方法を調整した。長期的に交流しているシリア人医師に、勤務先の病院の手術室を借りて手術を行ってもらい、慈済が直接シリア人医師に関連の費用を支払うことで、彼らの収入も保障するようにしたのだ。
現在、慈済には心強いシリア人医師チームができており、様々な専科の医師が協力し合っている。七年前、陳さんに疑いの目を向けていたハキム医師も、今では慈済の施療と配付活動に参加する常連である。「誠・正・信・実」という理念の下に物事に取り組む慈済ボランティアの態度が、彼の心を動かしたのだ。慈済がどんなに心を尽くしてもあらゆるシリア難民を助けることはできないが、教育補助、物資の配付、施療などで誠意を尽くしたことで、多くの家庭の未来が変わったと言える。「シリア人の子供に今、最も不足しているのは、教育、食糧、医療です。私たちはシリアのために失われた次世代を取り戻したいのです」。
ユセフ・サマーラ
年齢:16歳
病名:左腕尺骨骨折
治療:筋骨再建手術
成果:左手の機能が九割回復
(撮影・アシマ)
二〇二一年十一月、慈済はフーウェイジャ村で定例の施療を行っていた時、整形外科のハマザウィ医師が、ユセフ君の左腕の肘筋が異常に萎縮し、指を動かすこともできないことを発見した。
ユセフ君はザータリ難民キャンプで暮らしているが、二〇二〇年、不注意で転んだ時に左腕を骨折した。難民キャンプには医療設備が完備されておらず、風邪を診るぐらいの小さな診療所しかない。もし難民キャンプを出て医者にかかろうとすれば、決められた一日五百枚の通行証を手に入れるために、行列に並ぶ必要があった。二〇二一年一月、ユセフ君はやっと難民キャンプを出ることを許可され、レントゲン写真と手術が必要だという診断を得た。
難民は、キャンプにいる間は仕事に就くことができず、国連の難民高等弁務官事務所が配付する食料引換券で、一人毎月二十ディナール(約三千八百円)で生活をしている。母親は彼のことを心配しつつも、どうやって手術費を工面するか悩んでいた。
骨折してから一年ほどすると、ユセフの左腕の前腕が次第に動かなくなった。慈済の施療に参加していたボランティア医師のハマザウィさんが、ユセフ君の左腕の硬直と萎縮を見て、直ちに小児形成外科のフェラス医師に診てもらうように手配した。するとそこで、左腕の手首に近い尺骨が一カ所小さく折れていて、骨移植手術(ボーングラフト)が必要だと診断した。
ユセフ君は慈済の医療ケースとなり、フェラス医師が筋骨再建手術をすることになった。自身の骨盤の骨とふくらはぎの腱、腹部の皮膚を使った手術は、肘の機能が七割回復することを目標に、六時間に及んだ。二〇二二年三月、勇敢なユセフ君は慈済人の溢れる祝福を携えて、アンマンの病院を退院して難民キャンプに戻った。
手術後二週間が経ち、ユセフ君は再びアンマンにある「平安の家」病院の外来を訪れ、フェラス医師はギプスを外して、再度レントゲン撮影したところ、幸いに骨の回復は良好だった。ユセフ君は信じられないという顔で、「僕の指が動くようになった!」と言った。
フェラス医師は胸をなでおろし、「手術後の回復状況が予期していたよりもはるかに良いのです。あなたの手は九割の機能を取り戻せるかもしれません!」と言った。フェラス医師は再度ギプスで固定し、慈父のようにどのように左手のリハビリをするかを指導し、母親に一カ月後に再診に来るよう念を押した。
「過去二年間、私は学校に行くのが嫌でした。クラスメートが僕の手をからかうのです。だからいつも手を服の中に隠していました。これからは手を隠す必要はありません!ありがとう慈済!」。フェラス医師と台湾の慈済が彼の左手に自由を与えたことを、ユセフ君はきっといつまでも忘れないだろう。
ルジン・オマール・シャハダ
年齢:14歳
病名:成長ホルモン欠乏症
治療:成長ホルモンの注射
成果:ボランティアの初訪問時は8歳で、身長104センチ。2022年12月時点では身長143センチになっていた。
(撮影・陳秋華)
ヨルダン慈済の医療救済ケースで、手術や検査、医薬品を支援した延べ人数は、年間で千人に上る。その一部は、現地の医療資源に頼るだけでなく、海外の協力も得られてこそ治療が続けられるのである。
母親と兄弟姉妹と共に親戚を頼ってヨルダンへ逃れたルジンさんは、学齢期の六歳になっていたが、身長は百センチしかなく、同年齢の子供より著しく背が低かった。母親のマナールさんが検査のために病院へ連れて行ったところ、指定難病の「成長ホルモン欠乏症」だと分かった。
マナールさんはひどく心配した。というのも、この病気の治療に必要な成長ホルモン注射薬の費用が極めて高く、彼女には負担できなかったからだ。追い打ちをかけるように、その年、夫がシリアで亡くなった。悲しみに暮れていても、自分の故郷であるクウェートに戻れないだけでなく、夫を失ってシリアにも戻れず、こうしてヨルダンに留まっているのである。
ルジンさんの成長は遅く、六歳だというのに、骨格の上下両端にある成長板は二歳児の大きさしかなかった。体内の成長ホルモンが著しく不足しているので、成長期に治療をする必要があった。
「ある歯科医が私に、台湾から来た陳さんという人が、ルジンの体に関する問題を知りたいと言っている、と言いました。その後、本当にその人はやって来て、医師の検査報告を見て、彼は私たちを支援することを決めたのです」とマナールさんは言った。
二〇一七年、陳さんは報告を受けた後、家庭訪問に来た。丁度その年の十二月、台湾の慈済チームがヨルダンに来て施療活動を行い、台南慈済人医会の薬剤師・王智民(ワン・ヅーミン)さんも参加していた。王さんは先ずヨルダン支部で三本の成長ホルモンの現地購入をサポートした。台湾に戻ると成長ホルモン注射薬の製造工場を見つけ、価格はヨルダンで買うよりも安かったので、その後は一本五千元の成長ホルモンをルジンに投与することになった。
陳さんは台湾に帰国する時を利用して、三年続けてルジンさんのために注射薬をヨルダンに持ち帰った。注射薬は冷凍する必要があるので、一度に一年分の十二本しか持ち帰ることができなかった。四年目になってやっと、ヨルダン慈済人医会を通じてトルコでも同等価格で得ることができるようになり、今に至っている。
ルジンさんは、ボランティアの提案でテコンドーを習い始め、筋肉量を増やしている。数年前から目に見えて背が伸びていたが、二〇二二年になると、再び成長速度が遅くなったため、医師は薬を調整した。今、彼女の身長は百四十三センチである。
以前、家で絵を描く時ルジンさんはいつも、子供の脚を長く描いていた。母親が理由を尋ねると、「背が高くなりたいから」と答えた。この夢を叶える力は、このリトルレディが絵に描いた長い脚が現実のものになるようにという祈りを込めて、八千キロ離れた台湾からもたらされたのだ。
(慈済月刊六七五期より)