この瞬間の敬虔さを忘れないように

(絵・陳九熹)

手を合わせて心を一つにし、心願をかけるのです─
その瞬間の思いと敬虔さを忘れてはなりません。
日々、時時刻刻心掛けていれば、智慧は常に明瞭で汚れなく無垢のままで在ります。

二千五百年余り前に、仏陀は人間(じんかん)に生まれました。修行し、悟りを開き、世の中の衆生が真理を理解できるようにと説法しました。それ故に、私たちは仏陀のことを謹んで「大覚者」と呼んでいます。しかし、真理がどれほど良いものであっても、それを弘めなければ、そこに留まったままです。人が道理を弘めるのであり、道理が人を弘めるのではありません。仏法は弘めなければならず、仏陀の願いと智慧を弘めて、人間(じんかん)に善の道を切り開き、誰もが歩めるようにしなければなりません。そして、仏法を末長く、広く人間(じんかん)に伝承していくのです。

仏誕節と母の日と慈済デーの三節を合わせた灌仏会は、五月十二日の朝、花蓮の道侶広場を主会場に開催されました。世界十四の国と地域の三十七の地域道場とオンラインで結ばれ、同時参加が叶いました。花蓮静思堂の高い位置から俯瞰すると、チームの団結と整然としたその動きの美しさが分かります。これは誠実な心で行わなければ達成できないものです。同日の夕方、台北中正記念堂のメイン広場に二万人近い人が集まりました。五百二名の各宗派の法師たちが整然かつ荘重な様子で会場に入場すると、人々の心を動かすと同時に、世界に仏法の真、善、美を示すことができました。仏教を広めるために、灌仏会にご参加くださった大師たちに心から感謝申し上げます。

第一回の式典が終わる頃、雨が降ってきました。司会者が参加者たちに事前に用意したレインコートを着るようアナウンスすると、皆は素早く整然と行動しましたが、広場に描き出される図柄もそれに伴って変化しました。この美しい場面を世界中が同時に見ることができたのです。無数の人が敬虔に手を合わせ、同じ思いが諸仏に届くよう祈りました。この瞬間の敬虔さを覚えておいてください。日々、時時刻刻心掛けていれば、智慧は常に明瞭であり、清らかな水のように無垢のままで在ります。

一時間の灌仏会は、慈済人が数日間心と労力を費やし、このような荘厳な道場が出現して欲しい一心で、努力して成し遂げたものです。それこそが慈済精神であり、菩薩道から仏心に向かって歩み、より多くの衆生を済度することを願ったものです。

同じ時間に多くの国や地域で朝山と灌仏会が行われました。マレーシアでは、老若男女が長蛇の列を成して支部の周囲を巡り、「平穏無事で、世界の平和を願う」と祈る声が聞こえました。私も同じことを毎日祈っています。人心から無明が取り除かれ、誰もが発心立願し、愛の心で人々に交じれば、人間(じんかん)は平安になり、世の中に災害は無くなるのです。

㊟朝山・三歩毎に五体投地する礼拝。

仏陀は四十九年間説法をしました。四十二年目から霊鷲山で『法華経』を説き始めました。慈済は、『法華経』と共に歩み、困難も多かったのですが、今は五十九年目に入りました。一つ目の志業は人間(じんかん)に慈善を実践することであり、貧困のために病気になり、または病が原因で貧しくなる人々を見て、病院を設立しようと発心しました。そして、医療志業では教育が欠かせないため、看護師や医師を育み始めました。教育志業の次は、人文という清流で世界を包むことを考えました。世界各地の菩薩の皆さんが、心して愛を以て、四大志業をこの世に広く行き渡らせていることに感謝しています。歩んできた道を振り返ってみて、方向が正しく、道に迷ってなければ、今、軽やかな心でいることができ、自分に対して「価値のある人生だ!」と称賛することができます。

仏陀の時代で、霊山法会は永遠に終わることはないと言われたように、今、菩薩が地中から湧き出るのを目にします。この二年間余り、シンガポールとマレーシアのボランティアが仏陀の故郷に足を踏み入れ、現地で心を込めて多くの縁を結び、善行を行って来ました。五十八周年の慈済デー当日のボランティア朝会の時、オンラインで繋がりました。一心に精舎と歩調を合わせたいがために、インドの霊鷲山まで光ファイバーを引く作業で忙しかったそうです。花蓮と現地は三千七百キロ余り離れていて、時差は二時間半で、時間と空間に距離があっても、心さえあれば、つながることができるのです。これが即ち「神通」なのです。精神的なつながりは、「心が虚空を包み込むほど広く、数え切れない世界に達する」が如く、一秒で霊鷲山に到達することができるのです。

時間とは秒、分、時、日とあって、一分が六十秒、一日が二十四時間となっていて、一日で八万六千四百秒過ぎたと聞くと、とても多いように感じますが、あっという間に気配もないまま過ぎ去ってしまいます。生活に忙しく、どうしたものかと嘆いても、やはり警戒心を持たなければなりません。もし無意識のうちに自分のことだけを考え、思い通りにいかない、自分が得られない、或いは自分は人よりも多く仕事をしているなど、人と比べるのであれば、それは他人の無明を見ているだけであり、自分がどれだけの時間を無駄にしているか気づかずにいるのです。何事も比較して、計算高くなるのは、実に苦しい人生です。この苦しみの道理を悟らなければ、あなたは迷った凡夫なのです。

人は誰でも仏と同等の智慧を持っていますが、一念の迷いで、幾重もの煩悩を抱えて解くことができないのです。それが人生における最大の障害なのです。仏法は、志の有る人が深く探究するに値します。修行とは心を清めることで、心が明るく澄み切ったものにして、初めて歩むべき道筋が見えるのです。

仏陀がこの世に現れたのは、菩薩を教育し、菩薩法を伝承するためなのです。ですから私たちは、赤子のような清らかな心で学ばなければなりません。もし、中央にこの菩薩道がなければ、永遠に正道が「見」えず、そうなれば「悟る」ことはできません。気が付いた時は既に遅いため、心して分秒を善用して、「学」と「覚」の間にあるこの真直ぐな大道を進めば、生生世世行き交う時に迷うことはありません。

(慈済月刊六九一期より)

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