花蓮市にある天王星ビルは4月3日の強い地震で傾き、捜索救助隊員が到着した。(撮影・羅明道)
地震の後、台湾全土で百棟以上の建物に赤(危険)や黄色(要注意)の紙が貼られた。
甚大被災地の花蓮では、慈済が公共機関と協力して第一線の救助人員のニーズに合わせて支援し、避難所の設置を効率よく行った。
そして、地震発生から二十四時間以内に一回目のお見舞金が届けられ、四月半ばまでに千四百世帯余りに配付を終えた。
続いて家屋の修繕に着手し、被災者の心身を落ち着かせた。
四月三日、清明節連休前日の早朝、マグニチュード七・二の強い地震が台湾全土を襲い、震源に近い花蓮県は大きな被害を受けた。県北部の秀林、新城、吉安の三つの町と花蓮市では、多くの家屋が損壊し、タロコ国立公園の遊歩道でがけ崩れや落石が発生した。政府は特捜隊を派遣し、全力で捜索と救助に当たった。
政府が「一級災害対応」を開始すると、慈済基金会は唯一の民間団体として、花蓮県消防局に設置された「花蓮県政府災害対策本部」に駐在した。そして、人的、物的資源を投入し、「前線部隊を援護する後方部隊の先鋒」となり、政府や他のNGOと協力して、全力で被災者を支え、最前線の救助活動を支援した。
花蓮慈済病院では、多数の負傷者を受け入れる体制を取った。医療スタッフが患者を支えてストレッチャーに乗せていた。(撮影・劉明繐)
孤立した山間部に空から物資を供給
震度六の激しい揺れにより、花蓮北部では、程度の差こそあれ、どの家でも家具が傾いたり倒れたりするなどの被害があった。また、避難中に転倒した人もいて、地震により台湾全土で千百人余りが負傷した。魏嘉彦(ウェイ・ジアイェン)花蓮市長もそのうちの一人だ。
「タンスが足の上に倒れてきたのです。幸い骨折までには至りませんでした」。
左足がタンスの下敷きになって怪我をした魏市長が松葉杖をつきながら避難所で陣頭指揮に当たっていた姿は、図らずも震災をまざまざと見せつけるものとなった。
花蓮慈済病院のボランティアをしている李思蓓(リー・スーペイ)さんは、二人の娘に、家の中の倒れた物を片付けたら入院している負傷者を見舞うよう念を押した。一回目に病院に運ばれた負傷者は八人だったと彼女は記憶している。そのうちの一人である陳さんという女性は、地震が起きた時、自分で栽培した野菜を友人に届けるために家を出ようとした矢先だった。ところが玄関で棚が倒れてきて、腰骨を折ってしまった。
「彼女は救急車を待てなかったので、タクシーで病院に行きました。立つことさえできなかったので、救急外来の医師が抱えて降ろしたそうです」と李さんが言った。
タロコ峡谷は、がけ崩れで道路が寸断され、数百人が山間部に取り残された。車両が通行できなかったため、人員や物資の輸送はヘリコプター頼みとなった。花蓮県警察局は内政部空中勤務総隊に救援を要請し、慈済にも支援物資の提供を求めた。
「ヘリコプターで支援物資を運んだのは初めてです」。
定年退職した元警察官で、花蓮慈警会の合心チームの幹事を務めるボランティアの許志賢(シユウ・ヅ―シエン)さんは、日頃から地域の警察や消防と連絡を取り合っており、連絡を受けるとすぐに手配を始めた。四月五日の朝六時には物資の準備が完了し、一行の立ち入りが許可された。警察官と共にパトカー三台とトラック一台に分乗して、立入規制区域のタロコヘリポートに向かい、待機した。
「一回目は、ヘリコプターで天祥のホテルに足止めされていたシンガポールや香港からの観光客九人を下山させました。徳勱(ドーマイ)師父がボランティアたちを伴って現地を訪れ、見舞ったので、彼らは感動のあまり涙を流していました」。
許さんによると、山間部に足止めされていたのは、観光客とホテル従業員、住民の他、天祥派出所や保安警察など公的機関の職員で、合計六百人余りが食糧と水を必要としていた。慈済は花蓮県警察、内政部空中勤務総隊と協力して、二回ヘリでの輸送を行い、道路が通行できるようになるまでの間、足止めされていた人々を支えると共に、世界中の慈済人の思いやりを救援活動の最前線に届けた。
4月3日午後、證厳法師が花蓮市街地の傾斜したビル現場で、ボランティアと救助人員を見舞った。(写真提供・花蓮本部)
官民が協力し合って避難住民を支援
花蓮県政府の統計によると、地震により七十七棟の建物が傾くか損壊して危険な状態になり、千七百戸余りの住宅に影響が出たという。県、市、郷(町)の役所は、県立体育館、徳興野球場、中華小学校、化仁中学校など八カ所に避難所を設け、慈済も支援に加わった。
吉安郷では化仁中学校が主な避難所となり、グラウンドには赤十字社から提供された大きなテントが張られた。七年前に慈済の支援で建設された多機能体育館内には、青や灰色の「ジンスー福慧間仕切りテント」が設置された。中には福慧ベッドとエコ毛布が用意され、被災者のプライバシーを守ると同時に、快適に過ごせるようになっていた。
避難した人々の様々な不便に対応するため、公的部門や民間団体が避難所に人員を派遣して奉仕した。例えば、中華小学校の避難所では、健康保険署の職員が、着の身着のままで建物を飛び出して保険証を持っていない住民のために保険証を再発行し、通信業者は避難者が無料で市内電話をかけられるよう電話機を設置した。また、不動産業者は賃貸物件を仲介し、国軍はグラウンドの一角に野戦シャワーテントを設置した。操作担当の士官は、「一度に十二人がシャワーを使用することができ、毎日、使用時間帯を二分して、男女を入れ替えています」と言った。
各方面の人々の善意に支えられ、各避難所は物資が十分にあった。しかし、どれだけ完璧な支援も、元来の穏やかな家庭生活に代わるものではない。魏市長は当時の状況を振り返って、「『何もかもなくしてしまった……』と気落ちしていた高齢者を、うちの職員とソーシャルワーカーが励まし続けました」と言った。
市長は、東華大学の顧(グー)教授に心から感謝した。教授は、このような被災者の気が晴れるようにと、車で景色の美しいキャンパスに連れて行き、精神的な傷を癒そうとしたそうだ。
また、数多くの震災支援の経験から、慈済は被災者の苦しみや心の痛みをよく理解しているため、経験豊富なボランティアを避難所に派遣し、専門のソーシャルワーカーや衛生機関の特約カウンセラーと共に、被災者のケアに当たってもらった。
慈済基金会慈善志業発展処総合企画室防災チームの専属スタッフ、黄玉琪(フワォン・ユーチー)さんの話によると、避難所で心のケアに当たっているボランティアは、被災者が二次被害を受けないよう訓練を受けているため、一緒に働く専門のカウンセラーも喜んで協力しているという。
被災者に寄り添い、宗教の力で心のケア
台湾全土で倒壊する危険性のある建物は四十カ所余りあり、主要構造上の損壊ではない建物は七十カ所以上ある。慈済は家屋が損壊した避難世帯を見舞い、一日でも早く安心した生活ができるよう、北部と花蓮の千四百世帯余りを対象に、世帯人数と被災の程度に応じて、二万元から五万元の災害見舞金を手渡した。
花蓮慈済ボランティアは、災害見舞金と慰問品を手渡す時の会場の移動経路にも気を配った。台北から来たボランティアの王宣方(ワン・イーフォン)さんによると、住民は先ず一つ目の丸テーブルでボランティアやソーシャルワーカーの協力の下に、書類に記入してから、災害見舞金や結縁品(縁結びの品)を受け取る。それから、二つ目の丸テーブルで休憩してもらうが、この時はボランティアと精舎の師父が付き添う。「師父と話をすれば、心が落ち着くのです」と王さんが補足した。
小さい丸テーブルでは、ボランティアと精舎の師父が住民の話に耳を傾けていた。
「私は一人だから、せいぜい何日か友人の家をはしごすればいいのですが、お年寄りがいたり、子どもがいて学校に通っていたり、特殊な事情のある家庭はどうしたらいいのでしょう」。頼さんは住居が地震で損壊した上、働いていた店も仕事がほとんどないため、休業に追い込まれた。一時的に収入がなくなっても、家のローンは待ってくれない。それに、被災者が多いため、適当なアパートを借りられるかどうかも心配だという。配付を受け取った後で、彼女はそのような問題と不安を語った。
地震翌日の午前、ボランティアは天王星ビル近くの東浄寺で最初の災害見舞金配付を実施した。(撮影・劉秋伶)
校舎の支援建設で減災防災と災害支援
慈済大学と慈済科技大学の教師と学生、東部の慈済青年懇親会の若者たちも、地震の後、積極的にボランティアに応募した。慈済の支援計画に従い、慈済大学の学生三十人余りと引率の教師たちは、まず中華小学校、化仁中学校、徳興野球場へ支援に向かった。
「テントや福慧ベッドの設置、被災者に配付する物資の袋詰めなど、ボランティアとしてできることはたくさんありました。僕たちは力を合わせて無事に仕事をやり遂げました」。
こう話す慈済大学理学療法学科修士課程の楊景湧(ヤン・ジンヨン)さんは、インドネシア出身の留学生だ。故郷ではほとんど地震がないため、当初は激しい揺れにかなりショックを受けたが、その後、勇気を奮ってボランティアに参加した。それで清明節の連休は忙しく過ごした。
楊さんはある時、雨が降っていたため、駐車場に行く住民のために傘を差して付き添った。
「苦労して手に入れたマイホームが一瞬にして無くなってしまってね……」
被災者はため息交じりに言ったが、彼は心が痛んでならなかった。
「ありがとう。あなたたちがいなかったら、この先どうやって暮らして行けばいいか分かりませんでした」。被災者の言葉に、彼は強く胸を打たれた。
「あの時、一人の人間として、人の役に立っていると実感しました」と、彼はしみじみと語った。
慈済大学学士再入学中医学科の林世峰(リン・スーフォン)さんは、簡単な英語を使って、震災当日の心の変化を見事に表現して見せた。
「Taker(もらう人)からGiver(与える人)に、Victim(被災者)からVolunteer(ボランティア)になったのです。午前中は動揺していましたが、午後はボランティアになって人々が安心できるよう慰めたので、自分も落ち着きを取り戻しました」。
被害を最小限に抑えるには、日頃から訓練を繰り返して災害に備えることが必要だ。「災害を最小限に止めるには、源からリスクを最低限まで抑えることです。備えるということは、自然に逆らうのではなく、災害は必ずやってくると予想して、災害状況に合わせて訓練することで準備ができるのです」。呂学正(リュ・シュエヅン)さんは、防災マネジメントの四つの段階におけるサイクルについて大まかに説明した。「三番目は臨機応変な対応によって、実際に災害が発生した時、様々な支援活動をすることです。復興と再建は最後の段階です」。
二〇一八年の〇二〇六花蓮地震の後、防災支援の能力を強化するため、慈済基金会は、花蓮県政府と「共善協力覚書」を交わすと同時に、新城、秀林、吉安の三つの町及び花蓮市との間に 「防災・災害支援協力協定」を結んだ。関連業務に携わる多くの公務員は、慈済の避難所運営研修に参加したことがある。また、県消防局と慈済が共催した防災士養成研修にも参加し、内政部認定防災士の資格を取得した人もいる。
花蓮市社会・労働課の蕭子蔚(シャオ・ヅ―ウェイ)課長はこう話す。
「私たちは地域発展協会の会員研修も実施しました。昨年の中央政府の水害対策訓練で、全員、実際に操作して練習したので、今回は皆落ち着いて対応できました」。
花蓮北部の慈済減災希望プロジェクトで建設された六つの校舎は、今回の地震を想定通りに耐え、プロジェクトの狙いを見事に体現した。即ち、老朽化した校舎を建て替えたことが、防災、減災を図るだけでなく、災害時の避難所確保になったのである。これは防災マネジメントの四段階のうちの「減災」と「臨機応変な対応」の良いモデルともなった。
大規模な配付が5回行われ、精舎の師父やボランティアが被災者の声に耳を傾けた(撮影・邱俊誠)
地震が発生した当日の昼、慈済は政府が立ち上げた避難所を支援した。その晩、精舎の師父が訪れて被災者を見舞った。(撮影・陳榮欽)
真剣に対応し、災害を防ぐ
「一般に学校の体育館は、安全係数を校舎の一・二倍にしていますが、私たちはそれよりも高い一・七倍に設計しています」。慈済基金会営建処顧問の林敏朝(リン・ミンツァオ)さんは、かつて減災希望プロジェクトの責任者を務めていた。化仁中学校の多機能体育館を建設した時、採光をよくするためにガラス窓の面積を広くとる一方で、SRC構造にすることで、軽量の屋根と壁を採用することができ、高い耐震性を確保したという。
「学校の建築物に関しては、地震が来ても倒壊しないのが前提ですが、そればかりでなく、住民の避難所としての役割も果たせるよう設計しています」と林さんが補足した。
同じく減災希望プロジェクトで建設された国風中学校は、防災と臨機応変な対応を具体的な行動で示した。四月八日午前九時三十一分、花蓮県秀林郷でマグニチュード三・三の地震が発生したが、震源の深さは僅か六・二キロメートルで、学校との距離も近かったため、校内では激しい揺れを感じた。
地震警報が鳴るや否や、全校生徒千九百人余りは直ちにその場で身をかがめ、その後、速やかに校舎を離れてグラウンドに集合した。車椅子の身障者生徒も教師やクラスメートの手を借りてグラウンド脇に避難した。クラスごとに人数を数え、教師も生徒も全員無事だと確認した後、劉文彦(リュウ・ウェンイェン)校長が朝礼台に上がって再度、注意を促した。
「地震が起きる度に、初めてまたは新たな地震だと思うようにしてください。『狼が来た』という物語のように、どうせ何も起きないだろうと、高を括ってはいけません。地震が起きた時はいつも落ち着いて、冷静に行動してください」。
小さな地震だからと軽視したり、建物が丈夫だからといって安心したりしてはいけない。老朽化した国風中学校の校舎は、慈済によって耐震性の高い新校舎に建て替えられ、倒壊の心配はなくなったが、学校では今でも、いつ何時襲ってくるかわからない地震に対応する準備をしている。起こり得る災害に備えて真剣に考え、万全を期しておくことが、減災の唯一の方法なのである。慈済は、被災世帯への災害見舞金の配付、入院している負傷者への慰問、葬儀場での「助念」、支援物資の準備といった第一段階の緊急援助が終わると、第二段階の生活再建支援を始める。慈済は、四月中旬に花蓮県政府、TSMC慈善基金会と役割分担を話し合った結果、主に新城、秀林、吉安の三つの町で住居の修繕を受け持つことになり、低所得者、病人、身寄りのないお年寄り、幼い子どもなど、弱者世帯を優先した。台湾全土から参加した専門ボランティアは、四月十八日から被災状況の調査と施工を始めた。そして、世界中の慈済人は、被災者の生活再建を支援するために、愛を募る募金活動に取り組んでいる。
(慈済月刊六九〇期より)