終の住処に・新たな原住民集落となった再建

慈済が建設支援を行った、台中市山間部の花東新村と自強新村で入居開始

市政府と慈済の協力により再建された台中市太平区の自強新村。921大地震後の仮設住宅が斬新な住宅街に変わった。

九二一地震の後、台中に二つの原住民集落が現れた─霧峰区吉峰村の花東新村と太平区頭汴坑渓河畔の自強新村である。

当時、拾い集めた廃材で作った急ごしらえの家屋は、二十二年間に及ぶ各界の努力により丈夫な建物に生まれ変わり、何代にもわたって暮らしを守っていく。

初春の三月、変わりやすい天気が続く中、お日様が顔を出した時に、引っ越しする住民たちは好天を逃すまいと作業を加速させた。少し暑さを感じさせる太陽の下、台中市太平区の自強新村の住民、楊志豪(ヤン・ツーハオ)さんは、奥さんと慎重にベッドフレームを軽トラックから卸し、暫時、新居の玄関横に置いた。一人のお年寄りがプラスチック椅子に座って、彼らの出入りを静かに泰然として、のんびりした様子で見守っていた。

「こちらは母方の祖父で、九十一歳です。おじと一緒に住んでいます」。一家では若い世代になる楊さんは、自強新村に住んでいる一家の様子を大まかに説明した。

一部の地域では戦争による脅威が弱まった。ポーランドの東南部やウクライナとの国境に接するメディカでは、ウクライナ人女性が子どもたちを連れて国境の検問所を越えて、故郷へ戻る長い旅路についていた。

四十五歳の彼は一家の大黒柱で、三人の子どものうち、長女は既に社会人である。九二一大地震発生時、僅か二十歳余りだった夫婦が、経験したことのない危険や恐怖をどのように乗り越え、生後たった二カ月の彼女を守ったのか、今となっては想像しがたい。二十二年の月日が過ぎ、幸いにも難を逃れた女の子は、母の背丈を超えた大人になった。次女と長男はそれぞれ大学一年生と高校一年生である。

「ここは元々広場で、周りは全て住宅でした」。楊家の長女が、旧自強新村取り壊し前の状況を簡単に説明してくれた。兄弟三人が覚えているのは、一列に並んだトタンと板でできた仮設住宅、それに収穫祭と子どもたちの遊び場となっていた広場である。二〇一七年十一月に取り壊され、一家は賃貸住宅に引っ越し、その後、再び元の場所に建てられた新しい家に入居した。粗末だが子ども時代の笑いに満ち溢れたあの場所は、今は記憶をたどるほかない。

「四部屋に分けて、各部屋にベッドを一つ置きました。寝起きできれば充分です」。慈済の支援で再建された自強新村に入居する楊さんは、三世代六人と身を寄せている甥が住めるように、配分された二階建て二十八坪の家を四つの寝室に分けた。実のところ屋内は少々狭いが、九二一地震後に取り急ぎ建てた前の建物に比べれば、雲泥の差である。大雨による雨漏りや台風の来襲を心配せずに済むだけでなく、一生住み続けられる上、次の世代に残せることが一番だ。

住民は入居後、自ら土地の賃借料、固定資産税、コミュニティーの管理費などを負担する必要はあるが、それでも一般の賃貸住宅に比べれば、かなり経済的な上、契約満了を心配することもない。

二十二年来の悲願

三月六日の入居式当日、真新しい自強新村に入ると、目の前に広がっていた住宅は、十四坪の平屋であっても、多めの人数が入居可能な二十八坪の二階建て住宅でも、素朴ながらも堅固な作りで、コミュニティーの横には憩いの場である公園があり、消防分署も近くにある。

九二一地震を経験して、二十数年過ごしてきた何人ものお年寄りは、この美しくて快適な居住空間を目の当たりにして感激し、引き渡し完了後に鍵を受け取った時、手を震わせ、眼には涙を浮かべていた。

「ちょっと信じられなくて、私も一時は『本当だろうか?』と疑っていました。ここまでの道のりは本当に大変でした」。高雄から来たブヌン族の趙秀珍(ツァオ・シュウツン)さんは、実家はモラコット台風の被害で土石流に埋まった小林村にあり、若い頃に中部に嫁いで来て、夫と長年頑張ってやっと手に入れた家が、九二一大地震でもろくも倒壊してしまった、と言った。

大災害の後は生きていくのがやっとで、夫婦二人に住宅再建の力はなく、子どもを連れて頭汴坑渓河畔の自強新村に仮住まいするしかなかった。アミ族が大多数を占めるこの臨時の集落で、家族でご近所と打ち解け、エスニシティ問題も起こらず、皆で一緒に料理を作って食べ、更には倒壊指定の建物に入って「資源回収」さえした。

3月に自強新村(圖1の写真提供・台中人文真善美ボランティア)及び花東新村の恒久住宅への入居が開始した。住民は18年住んだトタン葺きの住宅に別れを告げ(圖2の写真提供・陳玉蘭)、4年間の賃貸住宅住まいを経て、新居に戻ってきた。

「地震で損壊したアパートビルがあれば、ドアや窓を取り外しに行きました。私たちは、昼間は仕事があったので、夜や休日の日曜日に家を建てました」と趙さんが災害後の厳しい生活を語った。苦楽を共にしてきた近所の人たちも加わって話をしていた時、知らない間に昼の十二時になり、「そろそろ花東新村へ行く時間よ」と誰かが注意を促した。

午後から天気は前線と寒気団の影響を受け、晴れからどんよりした曇りに変わったが、花東と自強の二つの原住民集落の九十五世帯の住民は、いつもの太陽のような情熱で曇り空や低温を吹き飛ばした。にぎやかに行われた新居落成式には、お年寄りから母親に抱かれた赤ん坊までが伝統衣装で参列した。

自強新村の連棟式建築と違い、霧峰区草湖渓河畔の花東新村は敷地面積が小さかったため、一般的な集合住宅形式を採用した。村は集会所と広場を核としてデザインされ、左右両側に三階建ての住宅が一棟ずつ建てられている。会場の空間がかなり狭いため、式典に参加しようとやってきた自強新村の住民と、階下に降りて式典に参加する花東社区の住民で、会場は瞬く間に人で溢れかえった。

伝統衣装を着た数百人のアミ族と、「藍天白雲(藍のシャツに白のズボン)」の慈済ボランティアらにより、会場は喜びに満ちた人文のある美しい光景を成していた。この日まで慈済人は四年ほど、両村の原住民は台湾九二一大地震から足掛け二十二年待ち続け、ようやく「終の住処」の新居が完成した。

花東新村の恒久住宅は3階建ての集合住宅で、中にはエレベーターとバリアフリー設備が備わっており、お年寄りの移動にも配慮している。

異郷でもあり、故郷でもある

「これは台中市で最も長くかかった工事で、十年以上になります。その間、市長が三人と原住民主任委員が三人変わりました。二〇一一年から着手して…」。盧秀燕(ルー・シュウイェン)台中市長は、まず住民を代表して慈済と證厳法師に感謝の意を表した。

続いて、慈済基金会の林碧玉(リン・ビーユー)副総執行長が、法師の住民たちへの気遣いについて述べた。「法師は設計の段階で、建築士と二十回以上にわたって討論を重ねました。『これはただの住宅ではなく、住処を転々とする人たちに根を下ろしてもらう意義もあるのです。また今の世代に限らず、何代にもわたって、ここで生活を営んで欲しいのです』と言われました」。

花東と自強の両原住民コミュニティーの支援建設プロジェクトは、民間の団体と政府の協力事業であり、社会的に弱い立場の人々に幸福をもたらす代表的な事例である。慈済ボランティアの思いやり、建設チームの心配り、そして様々な公務員の苦労を厭わない努力にも功労がある。しかし、何よりも大事な点は、原住民たちの自立した、家庭と集落の再建へのこだわりにある。

両村には交流施設や広場などの公共空間が設けられており、村民の行事や幼児保育、青少年の補習、お年寄りの介護等のニーズに応えている。

再建に向けた各方面の調整

一九九九年の九二一地震から僅か一カ月後、村人の手で新しい村ができあがった。住居は当時、霧峰郷吉峰村水利局ビル脇にあった空き地に建てられた。村人の大部分は花蓮、台東出身のアミ族だったため、「花東新村」と命名された。

家屋は臨時にトタンや板材で建てられ、飲料水は買わなければならなかった。また電気は借りてきた発電機を使い、生活面で多くの不便や困難が伴った。しかしながら意外にも、原住民の文化、考え方に沿った生活環境が作り上げられた。近所の多くは同じ言葉、文化、生活体験を持つアミ族で、原住民が集っているため、重要な風習伝統も伝承することができた。

当時、花東新村ができて間もない頃、慈善団体も目に留めていた。慈済ボランティアは訪問後、村民にプレハブ住宅の再建支援を提案した。しかし、村民たちは将来も住み続けるかどうか、はっきりしていないことや、今の家は困難が伴うものの、せっかく心血を注いで建てたものを取り壊して再建する必要はないと考えた。そこで慈済はプレハブ式の交流施設の支援建設に変更した。

この交流施設は村では新品の建材で建てられた唯一の建物で、村民に良好な公共空間を提供した。「幼児保育をはじめ、大学生による子どもたちへの補習、老人の介護サービスをここで行っています」。花東新村の住民で、アミ族の原住民語教師である陳玉蘭(チェン・ユーラン)さんが、深い感謝の意を表した。

長年台北で暮らしていた陳さんは、現代社会に軸足を置かなければならないと深く理解しており、肉体労働で生計を立てていた多くの原住民の境遇を変えるには、次世代の教育が極めて重要だと考えている。しかし、九二一地震後の状況に、彼女の心配は更につのった。「多くの親は子どもを幼稚園に通わせることができず、小さい子どもを連れて仕事場である工事現場に行くなどとても危険でした。また、多くの子どもは中学校を中退したり、中学を卒業すると直ぐに嫁いで行く女の子までいました…」。

教育の重要性を知っていたため、陳さんは娘を花東新村で初めて大学に行かせただけでなく、五人の甥や姪たちもそれぞれ成功しており、前の世代より良い生活を送っている。

落成式当日、花東新村のある住居では、「情人袋(アミ族の伝統的袋)」を肩にかけた父親(左)が家財整理に勤しみ、息子(右)は既に民族衣装を身に纏って、原住民語の先生に学んでいた。

しかしながら、トタンや板材を合わせただけの急ごしらえの住居は長く使うことはできず、情、道理、法律の各面から見て、管轄する政府機関、そして住民自身もその状況を放っておくわけにはいかなかった。

両村は国有財産署管轄の国有地内にあり、実際は違法にあたる。しかし、当時の九二一地震が突発的な大災難だったため、政府は寛容に対応し、後に両村に水道や電気を通して臨時に住居表示プレートを与えて、災害後の村民生活の復興に尽力したが、この特例を長く続けることはできなかった。

元々、面識のなかった村民同士が震災で出会い、大変な苦労をしながらも皆でゼロから新しい家を建て、ここを永遠の住処とし、家族同然に生活してきたのだ。しかし、急ごしらえの住居は長年住み続けるには堪えられず、台風が近づくと、村の若者たちは縄を張って屋根のトタン板を固定し、強風で飛ばされないよう予防した。「屋外は大雨、室内は小雨」というのが日常茶飯事で、子どもたちが成長して友達ができると、この粗末な環境を恥ずかしく思うようになった。

村民に合法で安全な住居を提供するため、元の場所に恒久住宅を建てるのが最も理想的な解決方法だったが、「言うは易く行うは難し」であった。

盧市長が当時を振り返った。二〇一一年に胡志強(フー・ツーチヤン)元市長がプロジェクトを始動した際、国有財産署は土地を無償で台中市政府に渡して使用することに難色を示したため、市政府は二〇一四年から、予算を編成して両村村民の代わりに賃借し、両村の土地は「不法占有」から「合法賃借」となった。今年の建設支援プロジェクトが完成し、引き渡し後に、村民が自ら賃貸料を払うことになり、土地の問題も解決したことで、再建が実現したのだ。

慈済の師姐が鍵を渡してくれた時、震える手で扉を開けました。そして、扉が開いた時はじめて、「本当に私の家なのだ」と確信しました。

九二一地震の後、私たちは住む場所ができたとはいえ、あちこちで材料を拾い集めて、少しずつ家の概形を作っていくより仕方ありませんでした。私の実家は高雄那瑪夏区にあって、両親はモラコット台風で亡くなりました。慈済がその時も原住民に恒久住宅を建ててくれたことは知っていました。今日、私は特別にブヌン族の民族衣装を着て、入居式典に参加しました。こんな美しい家に住めるとは、なんと幸せなのだろう、と思ったからです。 ─ 自強新村住民・趙秀珍

二十年前、私たちの家は外が雨なら中も雨という有様で、孫がたらいを持って雨漏りを受けていました。夜、風雨が強くなると寝ることもできず、とても疲れて、翌日の授業は半日しか受けられませんでした。先生に聞かれたので、事情を説明するしかありませんでした…。この数年は、他の場所で家を借りて、完成を待ちました。このように慈済が、私たち家族が安心して住めるよう支援してくれたことに心から感謝しています。子どもには家が建ったのだから、ちゃんと学校に行くようにと、また若者も真面目に仕事し、これ以上あれこれ考えるのではなく、いい家があるのだから、大切に使って欲しいと伝えました。 ─ 花東新村代表・王志雄

再建に向けた各方面の調整

一九九九年の九二一地震から僅か一カ月後、村人の手で新しい村ができあがった。住居は当時、霧峰郷吉峰村水利局ビル脇にあった空き地に建てられた。村人の大部分は花蓮、台東出身のアミ族だったため、「花東新村」と命名された。

家屋は臨時にトタンや板材で建てられ、飲料水は買わなければならなかった。また電気は借りてきた発電機を使い、生活面で多くの不便や困難が伴った。しかしながら意外にも、原住民の文化、考え方に沿った生活環境が作り上げられた。近所の多くは同じ言葉、文化、生活体験を持つアミ族で、原住民が集っているため、重要な風習伝統も伝承することができた。

当時、花東新村ができて間もない頃、慈善団体も目に留めていた。慈済ボランティアは訪問後、村民にプレハブ住宅の再建支援を提案した。しかし、村民たちは将来も住み続けるかどうか、はっきりしていないことや、今の家は困難が伴うものの、せっかく心血を注いで建てたものを取り壊して再建する必要はないと考えた。そこで慈済はプレハブ式の交流施設の支援建設に変更した。

この交流施設は村では新品の建材で建てられた唯一の建物で、村民に良好な公共空間を提供した。「幼児保育をはじめ、大学生による子どもたちへの補習、老人の介護サービスをここで行っています」。花東新村の住民で、アミ族の原住民語教師である陳玉蘭(チェン・ユーラン)さんが、深い感謝の意を表した。

長年台北で暮らしていた陳さんは、現代社会に軸足を置かなければならないと深く理解しており、肉体労働で生計を立てていた多くの原住民の境遇を変えるには、次世代の教育が極めて重要だと考えている。しかし、九二一地震後の状況に、彼女の心配は更につのった。「多くの親は子どもを幼稚園に通わせることができず、小さい子どもを連れて仕事場である工事現場に行くなどとても危険でした。また、多くの子どもは中学校を中退したり、中学を卒業すると直ぐに嫁いで行く女の子までいました…」。

教育の重要性を知っていたため、陳さんは娘を花東新村で初めて大学に行かせただけでなく、五人の甥や姪たちもそれぞれ成功しており、前の世代より良い生活を送っている。

温もりのある家を建てる

二〇一五年、当時の林佳龍(リン・ジヤロン)台中市長は慈済に、台湾がここ十年近くに渡って推進してきた「公営住宅」の精神でもって、両村の再建支援をしてほしいと協力を求めた。

慈済基金会慈善志業発展処の呂芳川(リュー・フォンツワン)主任は、この支援建設方式で村民に住宅の「終身使用権」を与えることができると説明した。村民がもし、その他の住宅を所有していなければ、終身そこに住むことができ、亡くなった後は不動産を持たない直系親族による継承も可能だ。もし後日、不動産が買えるようになったり、或いは亡くなった後、継承する人や継承する資格がある人がいない場合は、政府が住居を回収し、他の入居資格を満たした、社会的に立場の弱い人を住まわせる。この方法は社会的支援の面でより間口を広くできるのである。

二〇一八年十月十九日の起工後、先ず、政府が周辺の公共工事に取り掛かり、水道、電気、通信、消防の四大ライフラインを整備した。二〇一九年九~十月に実質的な建設工事がついに本格的に始まったが、その時、台湾は新型コロナウイルスの感染拡大に見舞われた上、工事は厳しい人手不足に直面していた。

「この一、二年は、台湾全土で建設労働者不足と資材不足が深刻ですが、建設業者はこのとても困難な条件を克服し、品質も良いものに仕上げました」。慈済営建処の林敏朝(リン・ミンツァオ)主任は、ドア枠やタイル、塗装の隅から照明・窓の施工までとても手が込んでいて、とりわけ屋根を構造体とし、上部には洗い出し仕上げの保護層が施されており、「一度の施工できちんと仕上げれば、以後のメンテナンスが要らなくなります」と言った。

当初この建設支援プロジェクトを推進した林前台中市長は、プロジェクトの実現に当たり、「外観が美しく安全な住宅で、中は温もりのある家になっています」と賛辞の声を禁じ得なかった。入居式典の終わりに、行政院原住民族委員会主任委員のイチャン・パロール氏は、政府は両村の原住民に最高の就業サービスと子どもの原住民母語の学習、文化伝承そして高齢者介護を提供すると宣言した。

慈済ボランティアは各世帯に祝福のプレゼントを渡し、新居完成の喜びを分かち合った。

それと同時に、数百人の慈済ボランティアとソーシャルワーカーが、掛け布団、照明スタンド、電気ポット、歯ブラシ、毛布など十二アイテムの入居記念プレゼントを用意し、一軒ずつ村民を祝福した。

困難な歳月を経て来た原住民のお年寄りたちは、若者が原住民の先達や社会の期待を裏切らないよう激励した。陳さんは、「私たちが彼らのために勝ち取った良い環境が、子どもたちの更なる努力を可能にし、集落に良い文化の流れが続くようにしたい」と語った。

(慈済月刊六六五期より)

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