収まらない戦火 故郷を思うウクライナ難民

ロシアとウクライナの戦争が始まって久しい。

今年二月から第二次世界大戦以来ヨーロッパ最大規模の戦争である。

ポーランドは最も多くのウクライナ難民を受け入れているが、そこには密度の高い愛がある。

「ウクライナが世界から消えることはない。……運命の神は再び微笑んでくれる……」。砲弾が炸裂する中、地下室や地下鉄構内に避難したウクライナ人たちは国歌を歌って、困難な中にある同郷の人たちと自国を守ってくれている軍人にエールを送った。

今年二月二十四日にロシア軍がウクライナに侵攻して以来、首都キーウと東部のドンパス地方、ルカンスク地方及び南部の黒海沿岸の町が戦闘地区になった。ウクライナ軍は首都と大部分の国土を死守したものの、多くの都市や町、村が激しい戦火に見舞われた光景は全世界を震撼させた。

何百万というウクライナの人が祖国を追われ、ポーランドやスロバキア、ハンガリー、ルーマニアなどに避難した。国連の統計によると、戦争が勃発してから四月十八日まで既に四百八十万人が国境を超えた。そのうち二百七十万人が隣国のポーランドに到着し、慈済もそこでウクライナ難民に対する第一線でのケアを始めた。

ポーランド東部ルブリン市の赤十字社が設置した収容所で、慈済ボランティアがウクライナ難民にプリペイドカードとエコ毛布を贈った。カードを使って、現地の特約スーパーで必要な物資を買うことができる。

カードによる買い物 避難の旅を身軽に

「地の縁は愛であって良く、政治的な繋がりでなくて良いはずです。私たちは地の縁を通じて、愛を必要としているところに届けます」。慈済基金会宗教処海外慈善部門の呂宗翰(リュー・ゾンハン)さんはこう説明した。イギリス、ドイツ、フランスの慈済人は、ロンドン、パリ、ミュンヘンからあらゆる在庫のエコ毛布とマフラーなどを、ドイツ北部の大都市であるハンブルグに集め、その後ポーランドに輸送して難民に配付した。しかし、ポーランドには慈済の連絡拠点がなく、認証を受けたボランティアもいないため、三月の一回目の配付活動は、台湾からの移住者や留学生及び熱心なポーランド人たちによって行われた。

三月五日、ポーランド中部の都市ポツナンで行われた慈済の初めての配付活動は、かつて大愛テレビ局の記者で、今はポーランド在住の張淑兒(チャン・シューアル)さんとポーランド人の夫のルカス・バラノヴスキーさん、そして中国語に精通したポーランド人ボランティアが協力して行った。困難な中で第一歩を踏み出してから三月末まで、既に四回配付を行った。

「彼らは『希望の家』にまで行って物資を届けました。そこは元々、薬物依存症の治療センターでしたが、今は修道女たちが部屋を難民に開放して自分たちは地下室に移ったとのことで、とても感動しました」と呂さんが言った。

西部の都市シュシェチンでは、イギリス慈済ボランティアが知り合ったポーランド人ボランティアのマルゴザータさんが、シュシェチン大学に設置された難民避難所を視察すると共に、慈済を代表して千二百六十枚の寝袋と日用品を贈った。次は三千人以上の生活物資を配付する予定である。首都ワルシャワでは、現地に住んでいる華僑が他の団体と協力して、各地の避難所と連絡を取ったり、訪れたりして、首都にいるウクライナ難民が必要としている物事を聞き取っている。

それと同時に、東部の大都市ルブリンでは慈済大学を卒業した台湾人留学生のジョーイ・チェンさんが奔走して現地政府や赤十字社、カリタス基金会と積極的に連絡を取り、これからの比較的大規模な配付活動に備えた。四大都市で行われた準備作業で、ウクライナ難民は初めて慈済のケアに接したことから、ボランティアたちに難民の置かれている境遇と何をしてほしいかを知ってもらった。

ポーランド各地の難民登録所では、難民受け入れセンターが先ず、食糧や安全な医療、避難所の情報などを提供し、その後、臨時の滞在先を紹介する方式を採っていた。しかし、難民がどんどん増えるにつれ、多くの滞在先で物資が不足するようになり、長く留まることができなくなっている。

「難民は荷物を持って東側の国境から入って来るため、十キロや二十キロもの物資を配付すると、歩くこともできません。現地ボランティアが台湾本部の職員と相談した結果、毛布と寝袋、プリペイドカードを提供することにしました」。呂さんによると、このカードは特約店で必要な物資を買うことができ、この支援方式は台湾や多くの国で行われてきて、好評を得ているものだ。

しかし、ポーランドでは、慈済のこのカードの配付準備段階で紆余曲折があった。現地でカード用のプラスチックが酷く不足していたのだ。ボランティアは協力関係を結んだチェーンストアと相談し、先方から一万五千枚のカードを提供してもらうよう依頼した。幸いに最後に当たったメーカーに充分な在庫があり、慈済のロゴを入れた後、難民が使用できるものとして配付できるようになった。

善の縁は四方からやって来て、交流する人や団体が多ければ多いほど、慈済は次第にポーランドでウクライナ難民を支援する際の重点が分かるようになった。台湾では清明節の連休中だった、四月二日と三日に、ボランティアたちはルブリン市で四回、物資とプリペイドカードの配付を行った。前三回はそれぞれルブリン医学大学の模擬センターと難民収容宿舎、赤十字社避難所で行われ、四回目の配付はカリタス基金会と共同で行われた。

ポツナン市にあるカトリック教会の「希望の家」は、精一杯ウクライナ難民を受け入れているが、物資が不足している。張淑兒さん夫婦は現地の自転車メーカーのオーナーや医師たち5人のボランティアと共に、直ちに食糧と日用品を届けた。

言語を超えて、相手の苦痛を我がものと感じる

配付活動を円滑にするため、ドイツボランティアの陳樹微(チェン・シューウェイ)さんと、シリア生まれでオランダの慈済ボランティアのハディさんは、わざわざミュンヘンから車で十二時間かけてルブリンに行き、ジョーイ・チェンさんと共にルブリン医科大学の教師や学生ボランティアを集めて活動を行なった。

国際災害支援経験が豊富で、何度もセルビア共和國に出向いて難民支援をして来た陳さんはこう言った。「戦争は突発的に起きるものですが、ポーランドのNGOの多くは大量の難民に対応した経験がなく、協力相手となった慈済がプリペイドカードを配付すると聞いて、とても驚いていました。彼らは、それは難しいだろうと言い、また、どうやって配付対象者のリストを作るのかが問題だと言いました」。

今だに雪が降りしきるルブリンで、立て続けに市政府との連絡、難民収容所の視察、人手の募集、資料の整理などをこなし、一回目の五百枚のプリペイドカードの試験的な配付を円満に終えるために、陳さんとルブリン医学大学のボランティアたちは睡眠を取る時間もないほど忙しかった。教師と学生たちはとても熱心で、特にウクライナ人の学生の態度が陳さんの心を動かした。

「私は彼らに、慈済は『被災者雇用による復興』方式で皆さんを支援する、と説明したのですが、学生たちは逆に、『支援に来てくれた方からの報酬は受け取れません』と言ったのです。学生たちはまだ正式にお金を稼いでいるわけではなかった上に、非常に遠くから車で来た人もいたので、私はやはり工賃を支払いました」。

経験豊富な慈済人と青年ボランティア、そして協力団体の努力で、やっとカードと毛布の配付が行われることになった。四月二日の配付会場で英語版の「祈り」という曲を流したところ、ウクライナ人のお婆さんが合掌したり、ウクライナの伝統的な手つきで祈ったりする人もいた。多くの母親は涙を流したが、子供たちは何が起きたのか分からず、遊び続けていた。

陳さんと台湾留学生は臨時に覚えたウクライナ語で挨拶していたが、支援を受けた人たちは彼らに同胞のような親しみを感じ、皆で記念写真を撮った。中には居住している区域に陳さんを招いて、彼女には分からないウクライナ語で、心の悩みを打ち明ける人もいた。

「彼らは皆、子供を連れた女性や高齢の男性たちで、精神面で彼らを気遣うことがとても必要だと感じました」。

ヨーロッパの慈済ボランティアは、ポーランドの第一線で人々の力を結集してケア活動を展開した。また、ポーランドやウクライナから八千キロも離れた台湾でも、「苦を見て福を知った」慈済ボランティアたちが、政府外交部で「民間から愛の物資を募り、ウクライナ難民を支援する」活動を支援し、愛を携えた台湾の大衆のために奉仕した。

ドイツとオランダの慈済ボランティアがルブリン市にやって来た。現地の台湾やウクライナからの留学生、現地ボランティアと合流し、協力し合って慈済がポーランドで初めて行ったプリペイドカードの配付活動を順調にやり遂げた。(写真提供・張淑兒)

蓄積された経験で台湾の愛を梱包する

「その時は三月九日の午後で、外交部で物資を募って二日経っていましたが、予期した以上に数量が多かったため、慈済に支援を求めてきました。それは慈済ボランティアの豊富な国際災害支援での物資の梱包経験を活かして協力してくれることに期待したのです」。台湾での連絡責任者である北部のボランティア呉英美(ウー・インメイ)さんが、今回の大変な任務に携わったきっかけを説明してくれた。

広い外交部の地下駐車場は人の声が湧きたち、あちこちで箱を開封したり、テープを貼ったりしていた。「避難途中で風邪をひいたり、怪我をして感染したり、胃腸を悪くした時は抗生物質が必要です」と北部慈済人医会の薬剤師ボランティアである蘇芳霈(スー・ファンペイ)さんが、薬の数量をチェックしながら、説明してくれた。

外交部が募った物資は二十種類に上り、医薬品だけで十四種類もあった。大衆は積極的に寄付したが、箱の中には様々な品目のものが入っているため、一つずつ確認する必要があった。ボランティアチームは毎日、梱包を手伝い、少なくても千箱余り、多い時は三千箱余りに上ったため、煩雑な重労働で高齢のボランティアは手足の痛みを訴えたが、翌日には同じように精一杯努力し続けた。新北市三峽区に住んでいる曾秋香(ゾン・チウシアン)さんは、三日続けてバスと地下鉄(台北MRT)を乗り継いで通った。ボランティアたちは歳に負けない奉仕を続け、大衆からの絶えない愛がお祖母さん世代の彼女を励ました。

「ある日、地下鉄台湾大学病院前駅の一番出口で、一人の妊婦が買い物キャリーを引っ張りながら私に、外交部の地下駐車場はどこかと尋ねました。彼女は寄付するために発熱インナーを選んで買ってきたそうで、私はそれを聞いてとても感動しました」と、曾さんがその人を賞賛した。

祖国と肉親が気にかかっていたウクライナ人の鄭サーシャさんは、焦りと悲しみの中で、慈済ボランティアの友人に付き添われて梱包作業をしていた。活動が終わった後、彼女は静思精舎を訪れ、慈済人に感謝した。「私は四カ国語ができるのですが、『余りあるほど感謝しています』という言葉を的確に表現する言葉が見つかりません」と言った。

慈済ボランティアが三月十一日に始めた外交部での物資の整理作業は三月二十日に終わった。延べ二千百四十八人が投入し、二万四百箱余りを梱包し、総重量は二百トンに達した。台湾人の思いやりは、迅速に、それを必要としているウクライナ人に届けられた。

戦況は依然として見通しが立たない中、海外会務の責任者である慈済基金会の熊士民副執行長は、慈済は国連児童基金会(UNICEF)と契約を交わし、共同で女性や子供の多いウクライナ難民に多様な支援を提供していくことにしたと語った。

(慈済月刊六六六期より)

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