台湾に二年余り滞在した後、やっと故郷のミャンマーに戻った徳運丸の船長は、彼らが困難に陥っていた時、慈済ボランティアが心を寄せてくれたことを忘れはしない。
今度は自分が人助けする番だといって、慈善活動から始めた。
二〇一九年十月、ベリーズ籍の「徳運丸」が台湾の台北港に寄港した。八人の船員は船主から給料の支払いが滞っていたため、船上に残ることにした。それから二年間、給料に関する交渉は引き延ばされ、各国がコロナ禍で制限し始めたこともあって、給料を貰えない上に帰ることもできなくなった。二〇二一年九月、慈済ボランティアは港湾局の要請を受けて四カ月間にわたる寄り添いケアを始めた。毎週水曜日に台北港に行き、中国籍とミャンマー籍の船員たちを見舞った。ミャンマー語に精通しているボランティアの蘇金國(スー・ジングオ)さんは、静思語をミャンマー語に翻訳し、證厳法師のお諭しを一つ一つ話して船員たちの心のわだかまりを解していった。
六人のミャンマー籍の船員は、慈済と政府各省庁の協力の下、今年一月半ばに帰国の途に着いた。私と夫の蔡重吉(ツァイ・ジョンジー)など慈済ヤンゴン支部のボランティアは、六人のいる防疫ホテルのロビーに行き、彼らに果物と我々の気持ちを届けた。
それまで会ったことはなかったが、ロビーで手続きをしていた船員は、私たちが「紺と白」のユニフォーム姿で現れたのを見て、喜びの声を上げた。ミャンマーのコロナ禍は落ち着いてきていた。ホテルのロビーで顔を合わせただけで、それ以上思いやることはできなかったが、彼らの表情から船員たちが台湾のボランティアを思う気持ちが伝わり、とても感動した。そして、身に着けている慈済ボランティアのユニフォームの大切さをあらためて感じた。
十日間の検疫隔離を終えて、船員たちは帰る気持ちがつのり、家族も出迎えに来た。彼らは異なった四つの省の出身で、省と省の間は距離があるため、別れ際、船長のナインナイン・アウンさんは、まるで兄が弟を心配するように、船員と言葉を交わした。二年間船上で一緒に苦を共にした後、別れを惜しむと共に帰郷を喜んだ。
慈済ボランティアがナインナイン・アウン船長(左から2人目)一家を訪れ、彼の母親のドー・マ・マ(左から3人目)さんは慈済ボランティアが心を寄せくれたことに感謝し、ボランティアとサイクロン・ナルギスの災害支援体験を共有した。(撮影・蔡重吉)
人助けの縁が訪れた
船員たちが台湾を離れる前に、慈済ボランティアの陳麗雯(チェン・リーウエン)さんたちが最後の訪問ケアを行った時、彼らにホタルのペンダントを付けてあげると同時に、彼らが将来、どこにいても自分の能力を軽んじてはならず、人助けする人間になるように、と言った。彼らはきっぱりと、絶対に機会を逃さず、人助けすると返事をした。慈済ボランティアの愛が船員たちの心の中で善の種となって蒔かれた。
二月上旬、私たちはナインナイン・アウン船長と船員のカン・チュンさんを訪ね、彼らの生活状況を把握した。そしてヤンゴンの実家に戻った後、人に会う度に慈済の話をして、台湾での慈済との出会いを話した。彼の母親ドー・ママ(Daw Ma Ma)さんは、かねてから人助けに熱心で、二〇〇八年のサイクロン・ナルギス風災の後、彼女は募金をつのって被災地で米などの食糧を支援した。ナインナイン・アウンさんも当時、母親と一緒に重被災地域だったマヤンゴン地区に行って物資の配付を手伝った。今は、慈済ボランティアの実践行為を身に沁みて感じ、人助けの心を固くした。縁が訪れたのである。
二月初め、妹の隣人であるテト・ウィン・トゥンさんが口腔癌を患って、ケアを必要としていることを知った。ナインナイン・アウンさんと妹さんは、その人の病状と家庭環境を理解してから、写真を船員とボランティアが共有するSNSサイトに載せ、皆の支援を期待した。それを受けて、私たちは彼と共にテト・ウィン・トゥン家を訪れた。彼は更に近所に住んでいる主治医を招いて、一緒に相談した。
長年喫煙していたテト・ウィン・トゥンさんは、昨年五月の検査で顔部の病巣が見つかった。ステージⅡとⅢの中間だった。主治医はこれ以上引き伸ばしてはいけないと判断し、三日後に入院して腫瘍の摘出手術の段取りをした。
テト・ウィン・トゥンさんの唇は既に断裂し、顔は腫れて爛れていた。半年間何度もキモセラピーを受けたため、夫婦の蓄えは底をついていたが、病状はいっこうに改善しなかった。手術費のために、奥さんは親戚や友人から金の延べ棒を借りた。ミャンマーは政治情勢が不安定なため、インフレが酷い。二月の時点では時価五百万チャット(約三十五万円)で借りた金の延べ棒は、将来、現物で返さなければならない。船員たちにも数十万チャットを募り、皆で力を合わせて貧困と病の苦境に陥っている夫婦を助けようとした。
私たちは先ずテト・ウィン・トゥンさんに緊急支援金を届けると共に、主治医に慈済の慈善金が各方面から募った愛であることを紹介した。主治医はボランティアから竹筒貯金箱を受け取る一方、テ・ウィン・トゥンさんに「今こそ貴方も良いことをすると誓えば、自ずと善い因縁に恵まれます」と言った。
テト・ウィン・トゥンさん (右)は手術を待っている間、ナインナイン・アウンさん(左)が付き添った。(撮影・MA Zar Ni Khaing)
ホタルが光を放った
船長の妹の家に戻ってから、私たちはどうやってテト・ウィン・トゥンさん一家に寄り添ったらいいかを相談した。ナインナイング・オングさんとその家族が竹筒貯金箱にお金を入れることを薦めた。毎日良いことを発願すると共に、愛の心で奉仕するよう他の人を導き、「苦境に直面した時は、先ず自分で努力すれば、慈済も支援を査定してくれます」と教えた。
隣人同士の助け合いの下、船長の妹とその家族、友人たちは募金を集めて、テト・ウィン・トゥンさん一家の生計を助けた。テト・ウィン・トゥンさんは手術を受ける前、彼と同じ血液型の船長夫人も病院に来て献血し、輸血に備えた。私たちは米、食用油、卵などの食料をテト・ウィン・トゥンさん家に届けた。彼の母親は隣に住んでいるので、幼い二人の娘は彼女に預けた。
ナイン・ナイン・アウンさんは、テト・ウィン・トゥンさんの手術が終わるまで手術室の外で深夜まで待っていた。慈済ミャンマーの同僚も病院に来て彼のケースを立案し、長期支援体制を整えた。私たちはテト・ウィン・トゥンさんが療養期間中に流動食が取れるように、とミキサーを持って行った。彼が体を養って、三周間後の皮膚移植に備えるためである。
入院費は一日三万チャット(約二千円)で、テト・ウィン・トゥンさんの奥さんは入院費が払えないことを心配した。ナイン・ナイン・アウンさんが主治医と交渉した結果、病院側のはからいで、六日目からの入院費は一日二万チャットで済むようになった。
慈済もテト・ウィン・トゥンさんの手術費の一部と毎月の生活費そして二人の子供の教育費を補助した。まるで恵みの雨が到来したかのように、夫妻は心中の重荷を下ろすことができ、ナイン・ナイン・アウンさんは慈済の支援に感謝した。
長い間、奔走したナイン・ナイン・アウンさんの喜びようを見て、私は彼が自分で立ち上がった後に人助けしたことを褒め称えた。隣近所で助けを必要としている時、先ず訪問して状況を把握してから心と愛を募り、手術の前後には当事者家族が必要とする援助の経緯を記録してきたため、大きな効果を発揮できたのである。
「あなたは『無緣大慈、同體大悲』(見知らぬ人に慈しみをかけ、相手の悲しみを我が身として感じる)精神をもって、この家庭の重荷を自ら背負いました。台湾の慈済ボランティアが船員たちに寄り添ったのと同じです。とても感動しました」。ナイン・ナイン・アウンさんは、「我は證厳法師のお教えに従い、一匹のホタルになって、助けを必要としていた人を助けました。とても嬉しく思います」と謙虚に答えた。
(慈済月刊六六五期より)