心が通じ合えば、世に幸せがもたらされます

(絵・陳九熹)

衣食足りた生活と雨風をしのぐことができる家があることは、なんと幸せなのでしょう。
このような幸せも人心が通じ合うからこそです。
人同士がお互いに和気藹々として愛を携えていて初めて、この世が幸せになるのです。

物が豊富にあって、気候にも恵まれ、生活が安定すれば、一般の人は楽しい人生だと感じますが、世の中には苦難にある人がたくさんいます。様々な苦難があるのですが、それは人心の不調和から来ており、「貪、嗔、癡」が人災を引き起こしています。士農工商のどれに従事していても、全てを投げ出して逃げるしかなく、直ちに落ち着く先がなくなってしまいます。また、生態系が破壊されて、四大元素の調和が取れず、風が吹けば家が壊れ、洪水になれば良田を覆い尽くします。或る地方は一本の草も生えないような旱魃で、酷い飢饉が起きています。更に想像し難いほどの貧困によって子供たちはお腹いっぱい食べることができず、栄養不良に陥っています。人々は休むテントがあるだけで、寒さを凌ぐことはできず、暑い時は灼熱の太陽の下、耐え難い状態になります。

この世の苦しみも衆生の共業(ぐうごう)によるものです。凡夫は良い話を忘れがちなのに、人から受けた中傷は忘れられず、それが心に残って、繰り返し複製されてしまいます。偏見があると、相手を見ただけ受け入れることができず、歓迎しなくなってしまいます。たとえ相手が良い言葉を掛けてくれても、それを曲解し、それら全てが無明の煩悩を増長させるのです。相手の過ちを気にし続けていると、恨みつらみになってしまい、その悪縁が何世にもわたって影響を及ぼすので、安らかになることができないのです。

無明の中で攪乱されてはいけません。見返りを求めない誠意で以て良縁を結べば、その分悪縁が減ります。自分の心田を耕して愛を啓発し、福田を広げて善の種を蒔いて菩提の林を作り、人間(じんかん)の日陰になりましょう。

ウクライナとロシアの戦争が続く中、国家も社会も安寧できません。どんなに堅固な家屋も瞬時に倒壊し、無辜の人民は住まいを追われ、また多くの子供たちは親を亡くしています。難民は連綿と国境に押し寄せ、それを越えれば、平安が待っていますが、何時になったら家に帰ることができるのでしょう?また若い母親たちは子供を親戚や友人に託してから、国を守るために戻っています。後ろ髪を引かれる思いで離別し、生死の別れのように、何時再会できるか分からないような悲惨さを思うと、心が痛みます。

隣国のポーランドで愛の力が示されました。見ず知らずの難民を家に住まわせたり、道路沿いに温かい食事を提供したりしています。ドイツ、イギリス、フランスの慈済人が集まって、ポーランドにいる数人の若いボランティアが毛布と、現金同様で、商店で生活用品を買うことができる、プリペイドカードを配付する手伝いをしました。故郷が爆撃に遭い、命からがらポーランドに逃れた人たちは一文無しです。何処へ行ったらよいのか分からない中、遠方から来た人たちの見ず知らずの愛に触れ、彼らは落ち着きを取り戻し、笑顔を返すその目は潤んでいました。

このような画面を見るととても感動しますが、感慨深いものがあります。天下は元々一家族なのに、睦まじさを壊し、こんなに多くの人が苦しむことになっているのです。私たちは彼らの形容し難い苦しみを代わって形容することはできませんが、「人傷つけば我痛み、人苦しめば我悲しむ」という気持ちを持って、因縁を逃さず、ぬくもりを与えなければなりません。物資の配付だけでなく、温かい情もなければならず、彼らの身に厚い衣服をかけ、優しく寄り添うのです。これこそが長く続く情であり、一時の寒さを解決するだけではなく、心に残る温かい情でなければならないのです。何時の日か、その情で以って助けを必要としている人を気遣うことができれば、世界は変わり、邪気を和やかな雰囲気に変えることができるでしょう。

衣食足りた生活、風雨を凌ぐことができる建て物は、なんと満ち足りた人間(じんかん)の浄土なのでしょう。このような幸せは心が通じ合い、小は人と人との間、大は国と国の関係に至り、お互いに和して愛し合ってこそ、人間(じんかん)は幸福だと言えるのです。

国家が平安でなくなれば、社会は不安定になります。これは正に「大いなる教育」だと言えます。世の中の平和を望むなら、人心に愛があって初めて、「通じ合う」ことができるのです。誰もが和して助け合うことこそが、人生における大きな幸せなのです。「好天時に雨に備えて糧を貯える」と言われるように、今日の平安は昨日に造った福ですから、福を知って、福を大切にし、更に福を造らなければなりません。誰もが良い心がけをし、良い言葉を口にし、良いことを行なって、衆生は「共に幸せ」を造らなければなりません。

若し自分の考えに固執するなら、目に見えるのはわずかな範囲にしか過ぎません。心の世界をもっともっと広げなくてはなりません。今は科学技術が発達しており、私たちは遠く何百、何千キロも離れた場所にいる彼らが今、どういう生活をしているのかを見ることができます。人々の泣き叫ぶ声を聞けば、相手の身になって思いやり、自分がどうやって「苦を見て福を知る」ことができるかを考えなければなりません。自分だけがやるのではなく、「大我」を動かして、大愛を奉仕するのです。

人は皆、仏と同等の心を持っていますが、それが慈悲を掛けて憐れみ、衆生の大愛の心を護ることなのです。自分に元から備わっている仏性に気づきさえすれば、善行するのは困難なことではなくなります。人心が浄化されさえすれば、誰もが安心した暮らしをすることができるのです。言うは易く行うは難しと言われますが、一匹の小さな蟻でも願力を尽くせば、その命に代えてでも須彌山に登ることができるのです。この世にこんなに多くの人が苦難にあるのを見れば、私たちは僅かな力であっても、それを寄せ集めれば、無数の苦難の人々を助けることができます。皆さん、心して精進してください。

(慈済月刊六六六期より)

    キーワード :