都市生活の速さの選択 淡水の速度

積み木のように交互に立ち並ぶ高層ビルと豊かな生き物を育むマングローブの森―道路と線路があたかも自然と文明の境界線のように町を二つの世界に分断している。

通勤のための道路をめぐる住民の議論は、淡水という町の将来像への思索でもある。

淡水に新しい道路は必要か―。二十年以上にわたり論争の続くこの問題が最近再浮上し、議論の的となっている。台北都市圏の端に位置する淡水は、歴史や自然資源に恵まれ、多くの観光客が訪れる、台湾北部で最も特色豊かな町の一つである。この淡水の歴史を振り返ると、常に「速度」がその発展の鍵を握ってきたことがわかる。

十七世紀に海上貿易が栄えた頃、最速の交通手段と言えば大型帆船だった。位置的にも地形的にも恵まれた淡水は、アジア植民を進めるヨーロッパ勢力にとって重要な港湾となり、紅毛城など今も残る史跡もこの当時に建てられた。ところが、清朝による台湾統治が始まり、鎖国政策によって鹿耳門以外での貿易が禁止されると、海上貿易の速度という強みを封じられた淡水は没落していった。しかし、やがて清朝も列強から迫られて開国し、加えて台北平原の開墾も進み、当時最も速く便利だった淡水の河川交通が台北市内の主要な川港を結ぶようになった。これにより、淡水は台湾北部最大の港湾へと発展し、滬尾(フーウエイ)街一帯は大いに賑わった。当時の市街地が今の淡水老街である。

旧淡水駅はかつて淡水への主要な玄関口であり、情報交換の中心でもあった(右 撮影・蕭耀華)。

現在ではMRT淡水線、一般道、淡海ライトレールが交通の主力となっている(左)。

その後、世の中は急速に変化していく。産業革命が再び淡水の命運を大きく変えた。日本統治時代には河川に代わり、よりスピードの速い鉄道が交通の動脈を担うようになった。河川に依存する必要がなくなると、淡水は、より海運の条件がよく、より広い後背地を持つ基隆にその地位を明け渡すことになった。高速物流の要としての地位を失った淡水は、時間の流れも緩やかになったかのように昔の風情を残し、台湾北部における主要な観光保養地の一つとなった。この時代を見つめてきたのが鉄道旧北淡線だった。

戦後、台湾は道路の時代を迎える。台北は爆発的な人口増加と経済成長の時代に突入し、淡水と台北は道路で結ばれ、山と川に挟まれた狭い平野地帯を車がひっきりなしに行き交うようになった。かつての淡水河の物流に代わり、川沿いの道路が淡水を出入りする人を運ぶようになった。「通勤」―これが新時代の淡水の速度を表すキーワードとなり、今なお淡水のありようを定義している。

ハイウェイは淡水の交通問題を解決できるか?

「通勤は淡水住民のDNAの一部なのです」。こう話すのは、数十年にわたり淡水を撮影してきた、生粋の淡水っ子の程許忠(ツン・シューツォン)さんである。程さんは若い頃、毎日バイクで竹囲と関渡を経て台北市内に通勤していた。最も忘れられないのは冬の雨の日の、どんな防寒具も役に立たないほど骨身にしみる寒さだったそうだ。通勤の途上には時に危険もあった。「大度路で交通事故に遭ったことがあります。道に穴があったのですが、幸いフルフェースのヘルメットをかぶっていました。さもなければ、私は今ここに座っていなかったでしょう」。

「一九九七年のMRT淡水線の開通が通勤生活の転換点でした」。程さんによると、本数も多く時間も正確なMRTは、鉄道輸送の実用性を向上させ、淡水の住民は便利なMRT網を利用して台北市内の各地域に移動できるようになった。それまでの北淡線は他の乗り物への乗り換えが不便だったが、MRTの開通によって、より便利で快適な通勤の選択肢の一つになったという。

とはいえ、これは通勤速度の変化の始まりにすぎない。分刻みの効率の追求は鉄道だけでなく道路にも及んだ。一九九六年、交通部公路局は「淡水河北側川沿い快速道路(淡北道路)」計画案を発表した。これは、北投から淡水まで直通のハイウェイを建設するというもので、淡水の通勤時の渋滞解消がねらいだった。

しかし、スピードの向上には代償がないわけではない。この道路は淡水河沿岸のマングローブ保護区を通るため、生態系や河岸の景観に深刻な影響を与える懸念があった。一九九八年、文化人や環境保護活動家からなる「淡水河を守る行動聯盟」が一枚のポスターを作成した。「淡水河を失えば、私たちに何が残る?」という大きなタイトルと、淡水河や観音山の景色が高い壁によって遮られたコラージュを組み合わせたこのポスターは大きな話題を呼び、最終的にこの計画案は環境アセスメントを通過できなかった。

淡水のマングローブ保護区は、休日になると多くの家族連れでにぎわう。台北では貴重な自然に親しめる川辺の空間だ。淡北道路を巡る議論は、町と自然の関係を考えることでもある。

しかしながら、これで淡北道路の命運が尽きたわけではなかった。。一度不合格となり再提出された淡北道路計画は二○二○年にアセスを通過した。従来の計画にあった高架やマングローブの森を通過する案は撤回されたものの、依然として道路とマングローブの森との間の緩衝地帯の幅が不十分だとの問題が指摘され、アセスメントの決定の是非を巡り、現在裁判で争われている。緑色公民行動聯盟の事務局長で淡水住民でもある崔愫欣(ツゥェイ・スウシン)さんは「道路は自転車道に沿って建設されるため、完成すると道路沿いをサイクリングすることになります」と話し、川の自然と親しめる空間が失われると指摘している。

他方、この淡北道路が自動車通勤の時間短縮につながるかどうかについても、未だ疑問が持たれている。「新しい道路ができれば車に乗る人が増え、交通量が増える」と指摘するのは、環境法律人協会の張誉尹(ツァン・ユーイン)理事長である。「新北市政府でさえも新しい道路の建設によって交通量が増えると予測しています。車が増えれば当然渋滞につながります。ですから、交通問題の専門家の多くも道路の渋滞解消効果に関しては疑問符を付けています」。台北市政府は既にこの計画を承認しているが、北投や士林では淡北道路の建設によって市内で渋滞が起こるのではないかという反対意見も根強く、淡水でもこの計画の影響や効果に疑問を持つ人が多いことから、交通部は予算を保留し、台北・新北両市政府に対し、引き続き住民と意見交換するよう求めている。

「淡水の渋滞は確かに解決の必要があるが、淡北道路はその解決にはならない」と張氏は言う。淡海ニュータウンを起点とし、淡水地区と八里地区を結ぶ淡江大橋が建設中であり、先ずはその交通分散化効果をよく見極める必要がある。また、政府も台湾省道2号線の拡張等の代替案を示している。二十年にわたり論争してきたこの問題はなお慎重に議論する必要があると彼は考えている。

淡海ニュータウンは、新北市で住宅の増加が最も著しいエリアの一つであり、徐々に高層マンションの建築が進んでいる(上図)。ニュータウンを通過するライトレールは淡水の新しい顔になっている(下・右図)。不動産価格が比較的安いことと自然環境が豊富なことが、芸術家の蔡坤霖さんがここを選んだ理由だ(下・左図)。

建設中のニュータウン

二○一一年は淡海ニュータウン計画のターニングポイントだった。中央政府は淡海ニュータウン計画を再び支援することを決定し、ニュータウンの開発を後押しすべく、長年温めてきた大規模交通プロジェクトを全力で推進し始めた。それは淡江大橋及びニュータウンを一周しMRTに接続する淡海ライトレールである。この二大交通事業はどちらも二○一四年に工事が始まり、淡水は「スピードアップ」の時代に入ったと言える。

この十年、淡海ニュータウンの変化は空前の速さで進んでいる。台北市や新北市の他の地域と比べて不動産価格の安い淡海は、通勤に時間をかけても住居費を抑えたい多くの人たちの住宅需要に応えてきた。新北市政府工務局が最近十年間に交付した建築使用許可の統計によれば、淡水は住宅の新規建設面積が新北市で最も多くなっており、このことは今後、淡水の交通需要がさらに増大することを示唆している。しかし、これは淡水にもっと道路や交通機関が必要だということなのだろうか。

関渡を通過し、北投と淡水を結ぶ大度路。夕方のラッシュ時には台北から帰宅する車で溢れる。通勤時の交通渋滞は淡水が長年抱える問題である。

淡水の将来像はどこに?

「ライトレールで通勤する住民はあまりいません」と崔さんは言う。住民はライトレールの開通で通勤の利便性が増すことを期待したが、実際のところ、すでに開通したライトレールの駅の多くは住民にとってアクセスしにくく、速度もそれほど速くないため、バスの方が便利なのだそうだ。乗客数の統計を見ても、平日よりも休日のほうが一貫して利用者が多くなっている。つまり、ライトレールは今のところ、地元住民よりも観光客によく利用されていると言える。

「交通のインフラ建設ばかり考えて、町の将来像が描けていません」。淡水の都市計画の問題点についてこう指摘するのは、長年淡水の町づくりに関わってきた淡江大学建築学科の黄瑞茂(ホヮン・ルィマオ)准教授である。淡水も以前は新北市の多くの地区と同様、昼間は外で働き、夜に帰って寝る「ベッドタウン」だった。しかし、その淡水にも次第に様々な商店ができ、住民の生活も多彩になってきた。黄准教授は「『都市の中の村』のように、如何にして住みやすい町にするか、如何に生活環境を充実させるかが、町の将来を考えるうえで最優先の課題です」と述べ、「交通問題は管理の問題であり、住民の移動の利便性を高めるには、淡水の公共交通機関の設計において、かなり改善の余地があることを、ライトレールの問題は浮き彫りにしています」と指摘している。

しかし、より根本的な問題は、長年にわたり「通勤都市」として発展してきた淡水の位置づけかもしれない。黄准教授はこう話す。淡水の都市計画は、総合的な思考で時代の変化に対応していく必要がある。これから在宅勤務が増加していく流れの中で、淡水と台北の距離は逆に強みになり、狭苦しい都会を離れたい人たちを引きつけるだろう。また、淡水には台湾北部では貴重な広い農地や歴史の跡が残っていると同時に、レジャーや芸術文化といった、現代人が生活の質を追い求める中で高まっているニーズから産業を伸ばすこともできる。このように考えると、従来の不動産や交通インフラの建設を中心として発展させるのではなく、公共施設や環境の質、都市サービスを充実させ、「如何に淡水で生活するか」を軸とした都市計画へと、地域ガバナンスの目標を転換していくべきだろう。

淡水老街の滬尾偕医館は、在りし日の風情を留めている(上)。淡水河岸の広場や遊歩道では、休日になると大道芸人が観光客を魅了する(右)。淡水生まれ淡水育ちの程許忠さんは、この町の暮らしの風景をカメラで記録しながら、その移り変わりを見つめてきた(左図)。

淡水らしい「スローライフ」

如何に淡水で生活するかを考えるには、通勤ラッシュが去った後の別の顔に目を向けるとよいかもしれない。

「通勤ラッシュの時間帯や観光客が押し寄せる週末には出かけません」。

こう話す、淡海ニュータウンに住み、淡水にアトリエを構える芸術家の蔡坤霖(ツァイ・クンリン)さんによると、混雑が収まった後の道路は、海や山に通じる道になる。沙崙海岸や陽明山は蔡さんにとって自宅の裏庭のようなものである。「芸術家は持っている空間が広いほど作品も大きくなることに気づきました」と蔡さんは言う。彼は多種多様な素材を用い、しばしば広範囲の環境や歴史をモチーフにした作品を創作している。創作活動とライフスタイルが密接に結びついている彼にとって、淡水は絶好の場所なのである。

これまで多くの芸術家が淡水を生活や仕事の拠点に選んできた。芸術家が都市周辺の地価の安い地域に集まるのは世界共通の現象だと蔡さんは言う。淡水と台北はそれほど遠くないため、都市の活動と完全に切り離されることもない一方で、それなりに離れてもいるので交際活動が多すぎて振り回されることもなく、自分の空間を保つことができるのだそうだ。

平日の午前、淡水河畔を訪れてみた。にぎやかな観光客はおらず、時折のんびりと散歩する人を見かけるばかりだ。サイクリングに来た中年の人たちが、ガジュマル堤防横のスターバックスで休憩がてらおしゃべりに興じていた。

「こんなスターバックス、台北のどこにもないでしょう?」と程さんは胸を張る。全面ガラス張りの外に目をやると、観音山を背にした淡水河の風景が広がっている。観光客のいないこの時間、淡水の住民だけが独占できる財産である。

ガジュマルの堤防では、多くの人が淡水河と観音山の風景を眺めつつ、のんびりした午後を楽しんでいる。百年来、旅人を魅了してきたこの風景は、開発によって次第に姿を変えつつある。

「ほら、川辺でおしゃべりしているあの二人、まるで映画みたいですね」。

写真家の嗅覚なのだろう。程さんはインタビューの途中でも、背後のウッドデッキの様子に敏感に気が付いた。しかし、このようにゆったりした川辺の生活にも影が差している。新北市政府が川沿いにライトレール「藍海線」の建設を計画しているからだ。ライトレールは私たちのいるスターバックスの上を通り、河岸遊歩道も縮小される計画である。観光客にとっては速くて便利な施設だが、その代わりに心地よい景観環境が犠牲になるのだ。

実はMRTの開通は既に淡水老街に大きな変化をもたらした。観光客による収益増加を見越して老街の賃借料が暴騰している。程さんによれば、市外のチェーン店に店舗を貸し出した老舗も多く、その結果、本来の老街の姿が失われただけでなく、同じ老街で商売を営む近隣同士のネットワークも失われてしまったという。「五十歳以下の世代はお互い顔もほとんど知りません」と程さんはため息をついた。

「私の作品が鍵となって、それを見た人に町の環境と歴史の関係を伝え、台湾について本当に知ってもらえたら、と思うのです」と蔡さんは言う。そのために、蔡さんはしばしば同じ場所でも異なる時間帯のストーリーを一つの作品の中に描き込んでいる。歴史と環境の複雑な様相を表現したいと考えているのだ。

沙崙海水浴場の夕陽の下、結婚写真を撮影する新婚カップル。背後の新築マンションは、この世代の住まいと家庭への夢を表している。

歴史を残し未来を考える

淡水の景観そのものが蔡さんの作品のように複層的である。紅毛城、清仏戦争の古戦場、老街、歴史ある教会や寺廟、近代的な大学や住宅といった異なる時代の建築物がこの淡水に共存しており、それを私たちは自由に探求できるのだ。しかし、限られた空間の中で、速さを追求するために進められてきた交通整備は必然的に破壊を伴った。何が残り、何が消えたのだろうか。それはこの町の価値観と生活スタイルを反映している。

淡水河のほとりから河口を見渡すと、工事中の淡江大橋が両岸から伸び、徐々に完成に向かっているのがわかる。有名な淡水の夕陽も、将来は橋の下に沈むことになる。程さんはこう言う。

「でも、私はそれほど気にはしていません。なにせ六十年も見てきたのですから。でも、将来、我慢できなくなった人が橋を壊そうと提案するかもしれませんね」。

程さんの予測は全くありえないとも言えない。パンデミックと気候変動は、世界の各都市が新時代の都市主義について改めて考えるきっかけを与えている。自家用車の削減、旧市街地における人中心の道づくり、自然と共生する都市空間デザイン、さらには通信テクノロジーや新エネルギーを利用したリモートワークと自給自足の実現――。淡水のように豊富な文化と自然資源を持つ多くの町が、今、このような町づくりを目指している。

淡水はこれまで幾度となく進路や速さによって変化を経験してきたが、この世界が再び転機に立つ今、淡水の経験と選択は、台湾の他の都市にとっても自己の将来像を描くための貴重な事例となるかもしれない。

(経典雑誌二八一期より)

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