あたかも水しぶきのように、善のさざ波が起きた。
「心蓮」の数は十輪に始まり、一週間後には六十六輪になり、半月後には百輪に達した。
後山(台湾東部)のおばさんたちは手を携えて感染予防の大任を果たしている。
荘厳な花蓮静思堂では、毎週火曜になると、発心した清掃ボランティアが道場を清潔に保つためにやって来る。彼らは「福田ボランティア」と呼ばれている。
花蓮地区の福田ボランティアは二〇〇六年に始まって今に至る。人数は約七十人で、平均年齢は六十歳を超えており、髪の毛が真っ白な人もいれば、行動の不自由な人や一人暮らしのお年寄りもいる。慈済ボランティアの呉素珠(ウー・スージュー)さんは福田ボランティアの取りまとめ役で、お年寄りたちが持っている良能を発揮させ、皆に参加を呼びかけている。毎週火曜日に集まって福田を耕すのはお年寄りたちにとっては最も楽しい活動なのだ。
福田ボランティアは、慈済がワクチン購入で善意の募金を募っていることを知ると、我先にと二〇二一年の九月にSNSで呼びかけのあった竹筒精神に呼応し、少しずつ愛の貯金を始めた。十月半ばのある清掃日の午後、皆が竹筒を持ち寄り、小銭を全部、大きな甕に入れた。暫くするとそれはいっぱいになり、詳細に勘定してみると、五万元余りに達していた。
また、午後の勉強会で、要請を受けてやって来た陳美羿(チェン・メイイー)師姐(スージエ)は「万輪の心蓮」という話をした。彼女は新莊地区にある楽生療養院と三十数年にわたる縁を結び、そこに暮らすハンセン病患者のことを本に書いたので、そのことについて次のように語った。
一九八六年、楽生療養院の入院患者であった宋金縁(ソン・ジンユエン)さんは、「慈済世界」というラジオ番組で、花蓮慈済病院の落成が間近であることから、司会者が大衆に「福田が天下の善意の人に呼びかけています。万輪の心蓮が慈済世界を造るのです」と呼びかけるのを聞いた。
当時、慈済は既に当療養院の患者をケアして五年になっていたが、失明していた宋さんはふと思いついて、「心蓮を売る」ことを発起した。無形の心蓮で慈済病院のために募金集めするもので、患者たちが募った募金は百万元余りに上った。その快挙は社会で大きな反響を呼び、各地で「心蓮を買う」運動が起きたのだった。
「幸福とは行動によって積み重ねていくものであり、それを使うために行動するのではありません。寄付された善意のお金はまだ、自分のものです。ただ左のポケットから右のポケットに移されただけです」。
「心蓮は一輪で一万元ですが、二人で一輪、または五人、十人で買うこともできます」。
美羿師姐は来場したボランティアに、自分相応の力でワクチン募金に参加しよう、と呼びかけた。
毎週火曜日の午後、福田ボランティアたちは花蓮静思堂の中を行ったり来たりして、道場の環境を清潔に保っている。(撮影・劉鴻榮)
善の競争 力量に大小はない
「万輪の心蓮」の話が終わると、ボランティアたちは士気が上がった。その日の活動が終わろうとしていた頃、突然、人々の前に出て皆に向かってこう言った人がいた。「私は十輪の心蓮を寄付します!」。
民宿を経営していた慈済ボランティアの洪雪玲(ホン・シュエリン)さんは、福田ボランティアの中では比較的若い方だが、この機会に先頭に立ち、「コロナ禍で民宿は政府から五万元の補助をもらった上に、端午の節句と双十節の連休で五万元近い収入があったので、丁度、心蓮を十輪寄付できる」と考えた。
楽生療養院の話を聞き終わった張阿密(ツァン・アミー)さんは、清掃の仕事を終えた後、一緒に運動している友人と落ち合って、心蓮を募る話をした。彼女は一輪募ることに成功し、自分も一輪の寄付をした。
「心蓮を募る」消息は水しぶきのようにさざ波を起こした。一週間足らずで心蓮の数は四十六輪になり、皆を奮い立たせた。
「元来は五十輪が目標でしたが、この短い期間に達成できたので、このような効果を百輪という目標に向かって進めるべきです」と洪さんが嬉しそうに言った。
美羿師姐はその話を耳にして不思議に思うと同時に、とても感動した。縁があって、それを中国の四川から来た慈済ボランティアの寧蓉(ニン・ロン)さんに話したところ、彼女は二十輪を寄付すると言った。僅か一週間で六十六輪に達した。
七十人近い福田ボランティアは、殆どは固定収入のないお年寄りたちで、中には貧困世帯の人もいる。しかし、彼らは愛に満ち、ワクチン募金のためなら、その実践は人後に落ちない。
八十二歳の林金春(リン・ジンチュン)さんは早くにご主人を亡くし、一人で幾つもの仕事を掛け持ちして三人の子供を育ててきた。長い年月をかけてやっと、子供たちは成長し、家庭の経済状況も次第に改善され、野菜市場で商売をしながら、家を所有し、貯金できるまでになった。
しかし、台湾全土で宝くじが流行った時、彼女は友人の誘いでそれにのめり込み、やっと手に入れた家も貯金も無くしてしまい、子供たちも母親の行為を咎めた。彼女は二〇一三年に慈済に参加してから、きっぱり賭け事をやめた。
子供たちは皆、各自家庭を持ち、一人ひとりと別の地方に移り、彼女は独り花蓮で暮らしている。長男は時折、生活費を送って来るが、余り多くはない。母親がまた、賭け事に手を出すのを心配してのことである。そのため普段、彼女は臨時雇いの仕事や飯炊きのお手伝い、清掃婦として生計を立てている。
倹約した生活をしている林さんは、やっと貯金できた五千元で半輪の心蓮を寄付することができると考えた。彼女は北部に住む姪を訪問する機会に、心蓮の話をし、互いに半輪寄付することで一輪の心蓮を寄付しようと誘った。
姪は、「叔母さんは苦労して貯金したのだから、その五千元は使わないで、私一人で一輪の心蓮を寄付するから」と言った。
それだけでなく、姪は二人の娘からも二輪の心蓮を募った。友人はそれを聞いてとても感動し、二輪を寄付したので、全部で五輪が集まった。林さんは花蓮に戻ると、嬉しそうに五万元を洪さんに渡した。
「林さん、ありがとう!」洪さんは思わず林さんを抱きしめ、経済的に苦しい彼女が発心して募金集めをしてくれたことに感謝した。
髪の毛が真っ白な彭冉妹(ポン・ランメイ)さんは慢性疾患を抱えていて、娘は遠くに嫁ぎ、一緒に暮らしていた息子を三十六歳で亡くし、今は独りで花蓮に住んでいる。七十四歳の彭さんは、政府から中低所得者の補助を受け、毎月七千二百元の補助金で生活をしているが、医療費の支出があると、殆ど何も残らない。時にはお金が足りなくなるが、孝行者の娘が偶に仕送りして来るお金で家計の足しにしている。
彭さんが心を尽したいと思っているのを聞くと、皆は彼女の経済状況を理解していたので彼女の生活を心配して、気持ちだけで充分だと諭した。
彭さんは、「私よりももっとこのお金を必要としている人がいます。私の人生は辛いものですが、来世は今よりもましな生活を望んでいます」と言った。彼女は「振興五倍券」(コロナ禍で政府が配付している経済振興券)をもらった時、娘が援助した五千元と合わせて、心蓮を一輪寄付したことで、ワクチン募金に寄付する願いが叶った。
愛は共振する 皆が願を達成した
「万輪の心蓮」活動が終了すると、続いてそれに対する反響が沸き起こった。数件の大型寄付以外は全て小銭からの貯金である。寄付金登録係のボランティアは寄付金毎に封筒に記して明確に分かるようにした。
「百輪の心蓮募金を達成しました!」十一月二日の夜八時三十七分、ボランティアは嬉しそうに皆に知らせた。
花蓮の福田ボランティアが募った百輪の心蓮は、ワクチンのための心と愛をを象徴していると言える。その善の効果は今でも続いており、万輪の心蓮が花咲くことを願っている。
(慈済月刊六六二期より)