私たちは労働者で、お金は全て苦労して稼いだものだが、コロナに罹った時の苦しみを知っている。このお金で人助けができることも、分かっている。
救急外来からコロナ感染者専用通路を通って重症病棟に運ばれた時、私はここから生きて出られるだろうか、お金を寄付することはできるのだろうかと思った。
回復して実現できたことで、心は充実した。間に合って良かった。
コロナ感染者です!道をあけてください!」と数人の防護服に身を包んだ看護師が、ストレッチャーを押しながら叫んだ。私はその上に寝かされ、体はプラスチック製シートで覆われ、救急外来から専用エレベーターで、そのまま重症病棟に入った。私は頭をもたげて、「ICU(集中治療室)重症エリア」と書かれた看板を見て、心の中で「神様、私はここから出られるのでしょうか」と思った。
私は慈済委員だ。慈済病院でボランティアをし、ICU病棟の担当をしたこともあり、中の状況をよく知っていた。患者の体にはモニターや点滴のチューブがいっぱい繋がっているため、病床から降りることはできない。しかし、私は軽い咳だけだ。この病気は何故これほど厳しいのか、と心の中で恐怖を感じ始めた。
毎日ベッドに寝たきりで、睡眠を取って食事をする他は、電話を使うことさえも許されなかった。ただ天井を見つめながら、家族と自分の感染経過を思い返していた。
二〇二一年五月二十九日、同僚の検査結果が陽性と出たので、十四日間の自宅待機をしてくれという電話を、家族が受け取った。丁度感染拡大が深刻になった五月末、私は家族全員にPCR検査を受けるように言った。末っ子が「健保快易通」アプリで調べて、泣きながら、「パパが感染した。どうしよう」と言った。怖がることはないと末っ子を慰めた。先ず、皆が距離を保ち、彼を二階の寝室、パパを一階の寝室に寝かせ、私はいつでも看護ができるように、応接間のソファーに寝ることにした。
その時先ず、主人が自宅待機し、その後はどうするか、保健所の連絡待ちになっていた。彼が通ったり触ったりした所を私は直ぐにアルコールスプレーで消毒し、彼が検疫隔離所に行くまで続けた。彼が家を離れた直後、私も風邪を引いたような倦怠感を感じた。私は自主的に二回目のPCR検査を受けたいと1922番に連絡した。結果は、私も感染していた。六月七日のその日、私は通帳と印鑑を引き出しに入れ、使用するお金の配分をメモに書いた。その翌日、私も強制隔離専用の集中検疫所に連れて行かれた。六月十六日の昼ごろ、私は血中酸素不足のため、亜東病院の重症病室に入った。
何人もの家族が次々と感染し、三人は新店にある台北慈済病院が担当していた集中検疫所に送られ、医療チームの手厚い看護を受けた。栄養士の献立に従った三食の菜食と「ジンスー本草飲」茶を提供された。そして、隔離を終えて自宅に戻った後も、医師が何度もオンラインで具合はどうだろうかと関心を寄せてくれたので、家族皆が「やはり慈済は違うな!」と感じた。
私は病院ボランティアをしたことがあるので、こういう状況でも冷静に対処できたことを嬉しく思った。幸いにして、家族は皆、無症状感染だったため、家庭が壊れずに済んだ。元々仲良く楽しく暮らしていた家族が、コロナでこのように離れ離れになってしまったのだ。思い出すたびに涙ぐむほど辛くなる。
重症病室にいた間、私は医師の指示に従ってうつ伏せの状態になり、胸壁振動装置で排痰し易くなって、血中酸素の濃度が改善した。四日後、医師は、「良好です!普通病棟に移れますよ」と言った。私は生きる望みを感じた。ICUを出た翌日、證厳法師のお見舞いの言葉を静思精舎の徳懷(ドーホワイ)師匠からの電話でもらった。また、宗教処や多くの法縁者から見舞いの電話があり、精舎からもジンスー本草飲茶が届いたので、とても感動した。七月一日、ついに隔離が解除され、家に戻ることができた。
退院した時、私は医療スタッフに深々とお辞儀をした。「おばちゃん、こんなことをしなくてもいいですよ。我々は当たり前のことをしただけです」と看護士が言った。「それでは私の気が済みません。あなたたちは命を惜しまず、感染した私たちの世話をしてくれました。本当にありがとうございました」。
一部の人は、一度感染すると感染を広げる可能性があると思いこみ、感染したことがある人には近づかないようにしている。実際は、全快した人の体内には抗体ができているので、私はむしろ、ワクチン接種をしていない人の方が心配である。
コロナワクチンがこれほど貴重で、手に入れるのも容易でないことを思うと、慈済がBNT社製のワクチンを共同購入して寄付すると知った時、私は主人に「この一年は全く穏やかな年ではなかったのだから、我たちが百万元(約四百万円)を寄付して『栄董』になりましょうよ。結婚したばかりの頃は何もなく、家や車を買うなんて考えられなかった。でも、今は全部持っているわ。上人の理念は生命を救うこと。私たち家族はコロナの感染による苦しみを知っているのだから、このお金をワクチン購入に寄付しましょう。この人の命を救うワクチンは、私たちを含めて誰もが必要としているものなのよ」と私は言った。
私は何度か、その話を持ち出したが、主人は黙ったままだった。何故なら、私たちは労働者で、家計を切り詰めてやっと貯金ができるのだ。主人は若い頃、型枠大工の仕事をしていて、今は警備の仕事に就いているが、全て苦労して稼いだお金である。私は以前、工場の作業員をしていたが、その工場が移転したため、清掃の仕事をするようになった。嫁が二人目の子供を産んだ後は、退職して孫の面倒を見ている。
寄付したいというのは、私が入院していた時からの願いだ。当時はその願いが叶うだろうかと心配していた。その後、主人が同意してくれた。今回、コロナに感染した縁で、私が躊躇することなく寄付できたことに感謝している。この人生経験で家族も変わり、私が家で菜食を作ることにも同意してくれている。
法師は私たちに、生命の価値を評価し直すようにと諭す。私は、自分の生命の価値はどこにあるのかと反省した。私たちには特技もなく、できるのは寄付することだけである。それは一生働いて貯めてきたお金だが、今この時に使わなければ、きっと後悔するだろう。無事に退院して寄付できたことで、心の中は充実感でいっぱいになった。生きて戻って来て、喜びを感じることができた。間に合ってよかった!
(慈済月刊六六二期より)