ずっと「脊髄性筋萎縮症」が私にとって最大の障害だと思っていたが、実は全く逆で、失ったものが神様の贈り物であり、困難という枠を飛び出して、夢を追求できたのである。
ある日夕食をとっていると、側にいた祖母が電話に出て、「どうしてそんなことになったの?直ぐに行くから!」と慌てた様子で言った。祖母は荷物を整理しながら、祖父に「早く!一緒に台北に行くのよ」と言った。父が仕事中に怪我をして緊急に手術しなければならず、病院は家族が手術の同意書にサインするのを待っているというのだ。その時、祖父が突然、「維維(ウェイウェイ)はどうするのだ?誰が面倒を見るのだ?」と言った。
それを聞いて、祖母は冷静になった。手術を待っている息子がいる一方で、世話が必要な孫がおり、どっちを選ぶべきか?突然、私は足手纏いで、祖父母を縛り付けているのだと感じた。内心、「早く行って。僕のことは心配しないで。自分の面倒は見られるから!」と言いたかったが、言えなかった。というのも、僕は独りで生きていけないことを知っていたからだ。
その晩、僕の高校の教師だった郭先生が手を差しのべてくれたので、先生の家で面倒を見てもらえることになった。初めて他人の家で過ごしたので、寝つけず、祖母や祖父、父、そして、たくさんの人のことを思い出していた。
陳景維さんと祖母(右から2人目)と慈済基金会のソーシャルワーカーである梁嫣親さん(右)は、今年8月に大愛テレビの「ドリームハートステージ」という番組に招かれ、ホストの劉銘さん(左)と夢の実現を共有した。
生きているのは祖母の愛があるから
僕は一歳になる前に、脊髄性筋萎縮症(SMA)という遺伝性の珍しい病気だと診断された。当時、祖母はこの医学用語が全く理解できなかったが、「これが先天性の病気だとしたら、孫はどれくらい生きられるでしょうか」と医師に尋ねた。医師は率直に、「この病気に対する治療法はなく、平均で十幾つまでしか生きられないでしょう。唯一できるのは、健康に気をつけ、合併症が起こる確率を減らすことです」と答えた。また、「歳を重ねるにつれて、体が一層ゆがむようになり、体内の臓器が圧迫される可能性があるため、その時は呼吸器系統のケアも重要になります」と祖母に説明した。
医師の告知を受けた祖母は、泣き崩れてしまった。でも、祖母はすぐ気持ちを切り替え、医師の言った注意事項を一つ一つメモに取り、全力を尽くして僕のケアをしようと決心した。僕は体の抵抗力が弱いため、頻繁に病院に通い、僕の世話のために祖母は一日に何度も病院と家を往復することがよくあった。さらに、僕の医療費と生活に必要な器具の費用が家計に重くのしかかっていたが、祖母は一度もその問題を口に出したことはなかった。
小学校に入る頃、体が少し歪んできたため、祖母は、脊椎側弯を防ぐ矯正衣服をオーダーした。十数年前、矯正衣服は九千元(約三万六千円)もした。社会福祉サポートの状況をよく知らなかったため、祖父母は苦労してお金を集めて買わなければならなかった。
祖母は楽な生活を犠牲にして、自分のことができない僕の世話をした。毎朝、僕をベッドから抱きかかえて髪を梳かし、着替えさせ、食事を一口ずつ食べさせ、学校まで送り、家に戻ってから家事を済ませていた。午後、僕が学校から帰った後は休まる時間がなく、夜の九時に僕が寝付くと、直ちにカラオケ店へ清掃の仕事に出かけ、帰宅するのはいつも午前の三時を回っていた。
体が曲がって変形するにつれ、夜は呼吸がスムーズになるように、レスピレーターをつけて寝る必要があった。そして、祖母は時折、ぼくの寝返りを手伝わなくてはならないため、夜明けまでぐっすり眠ることができない。祖母がいない生活がどうなるのか、想像すらできなかった。
深夜にドアを開ける音がすると、僕は寝ぼけ眼で、仕事から帰ってきた祖母が暗い部屋に入って来て、優しく僕に布団を掛け、頭をなでてくれるのを見た。祖母の睡眠時間は僅か数時間しかなく、歳月の跡が深く刻まれた彼女の手はしわだらけで、あらゆる細かなシワに辛い汗水を流して僕をここまで育てて来てくれたのである。そのしわだらけの手は、いつまでも僕の心の中で輝き続けており、揺るぎない柱となっている。僕が今まで生きて来られたのは、祖母の愛に包まれていたからだと思う。
宜蘭の慈済ボランティア呉宏泰さん(右)が、オーダーメードのネッククッションを作ってくれたので、陳景維さんは初めて車に乗ったまま、車窓から景色を眺めることができた。(撮影・梁嫣親)
難関に直面した時、必ず恩人が現れる
僕は幼い時から病気の関係で、奇異な目を向けられていたため、次第に自信をなくし、心から疲れ果て、治らないものだと思っていた。幸運にも、僕は学校でとても多くの良い先生たちに出会った。中でも、高校時代の郭先生は僕の人生で最高の恩師だと思っている。
先生は僕に付き添って、絶えず不可能に挑戦させてくれた。手が動かない僕が人生で初めてお菓子を作り、初めて電動車椅子を「運転」して町へ買物に行く体験をした。先生は、僕に教室の外での可能性を見つける機会を与えてくれた。また、日常生活で困った時は、例えば、爪を切ってくれたり、散髪してくれる人を見つけてきたりしてくれた。そして、僕は夢を持っているけれど、実現させる勇気がないことを知っていたので、それを実現するよう励ましてくれたし、僕が総統教育賞に応募するよう強く勧めてくれたのも先生だった。落選して自信を失った時も、先生は僕の手をとり、慰めてくれた。郭先生の生徒になれたことは、とても幸運だったと思う。
高校卒業後、周りの先生や友達は皆、僕が通信制大学に進むよう勧めてくれた。家で勉強しながら学位を取得することができ、一石二鳥以上の効果がある。それは僕にも分かっていたが、やはり安易な環境から外に飛び出すことを望んだ。というのも、通信制大学で勉強することを選択したら、将来、社会に溶け込めないのではないか?人から異様な目で見られるのを気にし出すのではないか?人と距離を取ってしまうのではないか?と考えてしまったからだ。
僕は、第一志望だった蘭陽技術学院のデジタルマーケティング学部に受かり、車で通学ができるようになった。祖母は感激のあまり涙ぐんで僕を抱きしめ、「おめでとう!あなたは我が家で初めての大学生よ」と言った。
大学に合格はしたが、高額な学費はどこから工面すればいいのか?毎月の費用をまとめた「大学の夢を実現させる予算リスト」を作成し、毎月かかる経費を書き出してみた。
僕が住んでいる冬山郷の家から蘭陽技術学院への道のりは、片道で四十キロ以上もある。宜蘭県リハビリバスは医療目的が優先なので、バリアフリータクシーを利用するしかなく、一日往復すれば、千六百元(約六千四百円)かかる。
また、日常生活でも移動する時は常に他人に頼らなければならず、学期中もサポーターを頼んで補助してもらいながら授業を受ける。その費用は一時間あたり百五十元(約六百円)として、授業の時間割を合わせて計算すると、毎月五万元(約二十万円)近くになる。家計にとって重い負担となることを考えると、これ以上夢に向かって邁進するのは無理ではないだろうか、と思った。
僕は積極的に援助を提供してくれる機構を探した。政府機関や大規模な基金会、大企業スポンサーなど手当たり次第に電話した。電話を切るたびに、熱くなっている頭を冷やし、まるでサウナ風呂に入ったようだった。ようやく、ある企業家が、僕が大学を卒業するまで支援してくれることになった。その人は優しそうなおばさんで、初対面の時、軽く僕の頭をなでて「偉い!学費のことは心配しないで、勉強を頑張ってね」と言ってくれた。僕を理解してくれたことに感動し、声がつまった。「おばさんは、僕の恩人です」と感謝した。祖母は「恩人への最大の恩返しは、勉強に励むことですよ」と言った。
祖母(右2人目)は手に「総統教育賞」の賞状を持って、景維の努力を讃えた。家の前での集合写真。ボランティアは風雨の中でもいつも青空の下にいるようにと付き添い、愛でもって彼らが難病と闘う人生を温かく抱きしめてくれた。
翔べ!慈済は僕の翼
二○一九年十一月末、慈済の人が初めて我が家を訪れた時、僅か一時間だったが、僕が十年以上使ってきた電動車椅子のクッションやタイヤが使えない状態にあったのを見て、修理が必要だと言った。そして、メーカーに交換の予約をしてくれた。さらに、大学キャンパスのバリアフリー設備を実地に調査し、人や壁にぶつからないよう電動車椅子にバックセンサーをつけてくれた。
その日から、師姑(スーグー、女性のベテランボランティア)たちは時々家に来て僕に関心を寄せてくれるようになった。ある日、家の玄関口に設置したスロープ板が白蟻に侵食されて朽ち、出入りが困難になっていたことに気づいた。師伯(スーボー、男性のベテランボランティア)に頼むと、電動車椅子が支障なく出入りできるよう、安全な住環境に改善してくれた。
僕が電動車椅子の方向を転換したり、ブレーキをかけたりすると、頭が瞬時にして太ももに当たってしまうほどぐらつき、体も反対側に傾いてしまう。そこで安全のために、僕は仰向けやうつ伏せの状態のまま、シートベルトで体を固定し、体と車椅子の隙間にクッションを入れるようにしていた。宏泰(ホンタイ)師伯が、僕の頭を安定して支えるのに適したクッションを作ってくれることになり、話し合って設計図を描いた。何カ月も数え切れないほど行き来して調整したり、様々な素材や固定方法などを試した後、ようやく最も適した二つのU字型クッションが出来上がった。バリアフリータクシーに乗って、師伯がデザインしてくれた首用クッションを初めて使った時、車窓の外の景色が流れていくのを見て、あたかも全身の細胞が楽しくて飛び跳ねているようだった。
二○二○年、僕が総統教育賞を受賞した時、審査員は僕に、夢をさらに大きく持つよう励ましてくれた。僕は自分のライフストーリーを記録した本を書き、国際舞台のTDEで講演してこれまでの自分の歩みを紹介し、他の人に力を与え、世界の隅々にまで温かさを伝えたいと思うようになった。
それから積極的に多くの出版社にメールを送って自分のことや考えを紹介したが、何の返事もなかった。慈済の人は、僕の生活を支援してくれるだけでなく、僕の念願を心に留め、夢を実現させるプロジェクトを立ててくれた。僕の夢—本を出版し、話をすること—が動き出した。
夢を実現させる第一歩となったのは、二○二○年宜蘭での「慈済新芽奨学金授与式」だった。僕に自分のことを分かち合う機会をくれたのだ。さらに、同年十一月の「慈済」月刊誌の表紙を飾り、多くの読者の反響を呼んで、ポジティブな影響力が徐々に広がっていった。
訪問ケアに来るたびに、慈済の師姑とソーシャルワーカーのお姉さんは證厳法師と慈済の話を聞かせてくれた。一日五十銭で人助けした慈済の由来を聞いて、僕も毎日竹筒貯金を始めた。初めていっぱいになった竹筒を寄付した時の喜びは何とも言えなかった。僕も人助けができるのだ!それだけでなく、師姑たちは、普段は仕事があり、休日を利用してボランティアとして奉仕し、自費で立場の弱い人を支援していることを、後になって知った。
今年の三月、ようやく思い焦がれていた静思精舎を訪ねる機会に恵まれたので、スピーチも用意した。夜は常住師父たちが休息を取る時間で、聞きに来る人も少ないのではないかと心配したが、時間になると、大勢の師父が僕に声をかけ、瞬く間に会場を埋め尽くしてしまった。スピーチを終えた時、ソーシャルワーカーが「維維さん、外を見てご覧」と会場に入りきれずに廊下に立っていた師父たちを指した。皆の愛が一瞬にして僕の心に注がれた。
2021年3月、陳景維さんと祖母さんは花蓮の静思精舎を訪ね、最も行きたかったオーシャンパークに行った。ボランティアとソーシャルワーカーが心を尽くして計画をたて、交通、宿泊、補助器具、食事を手配した。(撮影・李世清)
今回は、證厳法師にお目にかかるはずだったが、その日は法師が点滴を受けていたため、僕は師父に頼んでカードを渡してもらい、マイクを通して祝福の言葉を読み上げることにした。「親愛なる上人様……」と言った時、何と、法師が点滴をしながら私に近づいて、私の頭に触れ、「これからは、辛いと言うのではなく、幸せですと言えば、自ずと幸せになれるのですよ」とおっしゃてくれた。
法師から頂いたこの祝福は、今でも私に深い影響を与えた。慈済の人は「辛い」とは言わず、「幸せだ」と言う。法師は、奉仕するほど幸せになれることを教えている。奉仕できる人は、能力や愛があることを意味しており、体も健康であることを示している。
僕は、ずっと「脊髄性筋萎縮症」が自分の人生における最大の障害だと思っていたが、実はその逆で、健康を失ったことが神様の贈り物であり、僕が困難という枠を飛び出して、夢を叶える始まりだったのである。そこで、自信を持って「上人様、大丈夫です。一緒に頑張りましょう」と答えた。
祖母と家族、そして僕に手を差し伸べてくれた全ての恩人に感謝したい。僕は周りの人々の支えと励まし、温かい見守りの下で成長してきた。静思精舎を訪ねた時、慈済の人にオーシャンパークを案内してもらい、観覧車に乗って、太平洋の広大な景色を見た。彼らの愛は海のように広く、見返りを求めず、僕のために時間を費やし、ただ、僕の達成できない夢を実現させようとしてくれた。改めて僕の夢に実現を手助けしてくれた慈済基金会と、今この本を読んでいるあなたに感謝したい。僕のストーリーがあなたの人生のモチベーションを見つけるのに役立ってくれることを願っている。(『小さな僕が世界を変えたい』より)
(慈済月刊六六〇期より)