かつて私は證厳法師に、「道場にはたいてい法師がいらっしゃいます。静思精舎の常住師父にインドネシアへいらしていただけないでしょうか」と聞いたことがある。
法師は、「見かけにこだわらず、真心を込めて尽くせばいいのです。誠実さと人情で慈済の志業を行い、現地のボランティアを迎え入れなさい」と諭された。
一九九二年、劉素美さんはご主人と共にインドネシアに移住し、工場を経営していたが、台湾人実業家の奥さんたちと知り合い、翌年の一九九三年から勇敢に慈済の志業を始め、最初の慈済連絡拠点を自宅に設置した。小さな慈済の種子が、いつしかインドネシア全土に広がって、四大志業が展開され、今では十八都市に支部や連絡所が設立されている。去年の一月二十一日、慈済インドネシア支部は新年のオンライン祝福会を行った。ベテランボランティアの賈文玉(ジャ・ウェンユー)さんは、「海の向こうからの呼びかけ」というテーマで、慈済インドネシア支部の執行長である劉素美(リュウ・スーメイ)さんをインタビューし、慈済の道を歩んできた感想を語ってもらった。
問:同じインドネシアでも、多くの慈済人は素美師姐(スージエ)のことをよく知らず、毎日忙しそうにまめまめしく働いている彼女や足早に歩いて会議ばかり開いている彼女しか知りません。先ずは、素美師姐ご自身が慈済に入ったご縁について、お話を伺いたいと思います。
答:私は台湾でごく普通の家庭に生まれました。両親は苦労に耐え、勤勉で倹約した生活を送っていました。彼らは親切で慈悲深く、たとえ小さな善行でも人のためになることをするよう、幼い頃から私たちに教えてくれました。
一九九○年代、多くのインドネシア人は大変貧しい生活を送っていました。それ故、私はジャカルタの台湾学校で梁瓊(リャン・チュォン)師姐が慈済の話をするのを聞いて、その場で慈済の会員になりました。当時、ジャカルタでは多くの台湾人の奥さんたちが、運転手と共に子どもたちを現地の台湾学校に送り届け、下校するまで待っていたため、ゆっくり待つ場所もありませんでした。ちょうど私の家は学校に近かったので、「うちで待ったらいいわ」と誘い、そのうちにたくさんの人が我が家に集まるようになりました。そして、梁師姐の引率で高齢者施設や児童養護施設へ世話に行くようになり、また我が家で支援物資の梱包もするようになり、我が家が慈済インドネシアの最初の連絡拠点になりました。
問:慈済インドネシアはどのようにして始まったのですか。
答:慈済インドネシアは梁瓊師姐の引率の下に、個別慈善ケアから始まりましたが、その半年後に彼女はご主人の転勤のため帰国しました。また、我が家と慈済の縁で、皆、私が梁師姐の後継者になることを望みました。当時、私たちは證厳法師が花蓮にいることだけは知っていましたが、その他は何も知らなったため、慈済の責務を引き受けるからには、もっと慈済について理解しなければならないと思いました。
一九九三年の夏休みに子どもと台湾に帰った時、私たちインドネシア在住の台湾ビジネスマン夫人六名は、花蓮の静思精舎を訪ねました。当時は訪問するのに事前に申し込みが必要だということも知りませんでした。身だしなみを揃えようと、皆で青いズボンと白いブラウスを身にまとって出かけましたが、ちょうど慈済のユニフォームである「紺のシャツと白いズボン」とは正反対でした。精舎に到着すると、常住師父から「どこから来たのですか」と聞かれたので、「慈済について勉強したいと思ってインドネシアから帰ってきました」と答えました。それは純粋で単純な思いでした。
インドネシアに戻った後、ケア世帯への生活や医療の支援を始めました。言葉が通じない時は誰かに助けてもらったり、分からないことを花蓮の慈済本部に電話で聞いたりしました。何でもいいから自分でやってみると、慈済の原則の重点や「行いながら学び、行いながら悟る」ということの意味がようやく分かるようになり、次第に自分の習気が変わり、「見返りを求めない奉仕」を理解し、感謝の心を持てるようになりました。
1993年、劉素美さん(右から3人目)は5人の台湾ビジネスマン夫人を引率して、初めて花蓮の静思精舎を訪れた。皆、白のブラウスと紺のズボンを身にまとっていたが、慈済のユニフォーム(紺のシャツに白ズボン)とは正反対だった。その時、初めて法師に会ったが、法師は彼女の生涯の導師となった。(写真の提供・劉素美)
問:一九九四年十一月末、ジャワ島のジョグジャカルタ省にあるムラピ山が噴火しました。インドネシアのボランティアは初めての大規模災害支援をどのようにして行ったのですか。
答:当時、五千人以上の住民が避難しました。私たち、台湾人の奥さん連中は言葉が通じないため、何も分からず、危険だということさえ知らず、単純に彼らを助けたいとの一心でした。物資をたくさん調達したのですが、被災地に行く途中で略奪されることを恐れて、四十フィートのコンテナで物資を輸送することにしました。そして、物資の到着時間を見計らって、早めに飛行機でジャワ島に行って待ちました。
ところが、現地に到着したものの、コンテナが来ませんでした。山道をコンテナが通れなかったのです。当時は携帯電話がなかったため、連絡を取ることもできません。そこで、私たちは、コンテナが通った後の折れた木の枝を辿ってやっとコンテナを見つけ、物資を運ぶトラック見つけてきて被災地に運びました。また、現地の病院で見舞金を配付し、マグマや蒸気でやけどした人たちが痛みで泣き叫ぶのを見て、「この世の地獄」とは何かを悟りました。その後、被災地を七回往復し、住民をより安全な場所に移すためには家を建てる必要があることに気づきました。一九九五年、私たちは十二軒の住居の建設費を募金し、ジョグジャカルタ省の社会福祉局に渡しました。それらは慈済のインドネシアにおける最初の「大愛の家」でした。
問:慈善活動に続いて、施療を行うようになったきっかけは何ですか。
答:以前の貧しい田舎には、栄養失調の子どもや肺結核の患者がたくさんいました。そのような人々には長期的な治療と栄養補給が必要でした。一九九五年から、私たちはタンゲラン市とセラン市の保健所と協力して、毎月の定期施療で投薬し、粉ミルクと米の配付も行いました。各プロジェクトは六カ月から九カ月の時間がかかり、当時、三つの村で実施し、治療の成功率は八十五パーセント余りに達しました。
一九九八年、インドネシアで暴動が起き、経済がダメージを受けました。私たちは十万人分を超える米と物資で貧困者を支援しました。翌年には、外科、歯科、眼科、内科を含む大規模な施療活動を行い、三日間で延べ九千五百二十三人を診察し、そのうち六百四人の患者が手術を受けました。
2012年10月、慈済インドネシア支部の静思堂落成式の際、郭再源副執行長(左)と黄栄年副執行長(右)、劉素美さん(中)がステージで感謝の言葉を述べた。(撮影・莊慧貞)
問:その後、慈済に二人の副執行長が加わったことは、まさにインドネシア慈済のターニングポイントだと言えるでしょう。その辺りのことを説明してくださいますか。
答:黄榮年(ホヮン・ロンニェン)師兄(スーシォン)が一九九八年、そして二○○二年に郭再源(グォ・ザイユェン)師兄が慈済に参加したことで、インドネシア慈済が大きく成長しました。それは黄奕聡(ホヮン・イーツォン)おじさんと文玉(ウェンユー)師姐のおかげであり、感謝しています。
一九九八年五月九日、黄おじさんの息子さんである榮年師兄が證厳法師に帰依しました。その数日後の五月十四日に暴動が起き、黄おじさんは榮年師兄に指示して、シナルマス‧グループの職員を連れて慈済と一緒に十万人分の物資を配付しました。当時の私たちの力では、その任務を果たすことは不可能でしたが、帰依したばかりの榮年師兄が勇敢に引き受けてくれたのです。彼は、「やるべきことを実行する人がいなければ、私がやります。誰かが引き受けてくれるならもっとよく、私は全面的に協力し、サポートします」とよく言っていました。
当時は慈済が急成長し、人手が必要な時も彼は、会社の上級管理職を含めた職員を慈済の活動に参加させて、大いに支援してくれました。大企業はたいてい募金には応じてくれますが、重要な管理職を出してくれるのは非常に難しいのです。榮年師兄はこのように、證厳法師と慈済を愛しているのです。
次は郭再源師兄についてお話しましょう。彼は「問題ない(常套句)師兄」と呼ばれていますが、忠誠と約束の履行を重んじ、何事も明確かつ果断としています。二○○二年のジャカルタ水害の時、黄おじさんは彼に、榮年師兄と私と一緒に慈済の災害支援をするように言うと、彼は直ちに応じました。彼が慈済に参加してから、数多くの実業家を慈済に迎え入れるようになりました。同年、深刻な被害を受けたアンケ河のほとりの住民のために、二つの慈済大愛村が建設されました。二○○四年はインド洋大津波被害支援で、アチェ州に三つの大愛村を建設しました。また、二○○三年から二○○五年にかけて、現地の華僑系企業と共に米を配付し、二百五十万世帯が恩恵を受けました。さらに、インドネシア全土に十五の支部や連絡所を次々と開設し、二○○五年には大愛ラジオ局が開設されました。二○○八年には四大志業として、慈済パークに静思堂と慈済国際学校が建設され、今年(二○二一年)は慈済病院が開業する予定です。これらは全て、インドネシアの人種と宗教の和解を促進し、仏教がインドネシアで尊重され、受け入れられることに役立っています。
私は、再源師兄と榮年師兄が「人脈を善の脈絡に変え、商いを善道にした」ことに、とても感謝しています。
インドネシア支部の静思堂(左)に隣接するインドネシア慈済病院(右)は試験的な運用中。慈済志業は大きな一歩を踏み出した。。(写真の提供・インドネシア支部)
問:素美師姐は慈済で二十八年の経歴をお持ちですが、證厳法師との師弟の情について聞かせてください。
答:慈済志業を行うのはとても大変でしたが、以前は法師も余裕がおありだったので、精舎に帰った時に時間をとっていただき、直接アドバイスを求めることができたのはとても幸せでした。
ある時、法師は、「印順導師から『仏教の為、衆生の為』という言葉を頂き、慈済を創設した」ことと、法師が一生、「忍辱と不争」という二つのことを守り続けていることを話してくれました。
貧困救済にしろ、病院建設や国際災害支援などにしろ、一般の人から賛同を得られなかったり、誤解を招かれたり、新聞で間違った報道をされたりした時でも、法師はそれに反論せず、耐えながら事実で以って証明しています。
今年(二○二一年)の旧正月四日に、オンラインで法師に新年のあいさつをした時、法師は、「皆さん体に気をつけてください。健康な体があってこそ、慈済の奉仕活動ができるのです」と私たちに念を押しました。法師自身、病痛に耐えながら、弟子たちのことを心にかけておられました。師弟の間で交わす言葉の数よりも、心のつながりが大事だと私は思います。
問:素美師姐は二○二○年、インドネシアの金融雑誌「インフォバンク」(Infobank)と「アジアン‧ポスト」(The Asian Post)の「トップテン傑出人物賞」に選ばれました。初めての外国人受賞者として、どう思いますか。
答:私は慈済の代わりに受賞しただけです。この賞は證厳法師に贈られるべきであり、インドネシアの慈済家族全員の名誉でもあります。法師が慈済を創設し、私たちを導いてくださったことに、とても感謝しています。そして、この二十八年間インドネシアの慈済人が共に努力してくれたおかげで、私は社会に貢献する機会が与えられているのです。
(慈済月刊六五八期より)