長生きして良い人生を送る

人は何時から老い始めるのか?

一本目の皺や白髪から始まるのではなく、己を諦めた瞬間から始まるのだ。

老いは一種の「心の持ちよう」であり、要は病気しないことではなく、身体機能を維持し、自然の法則に従い、心身共に喜びと健康を保ちながら老化を迎えることである。

車椅子と自転車は両方とも車輪が付いている交通手段です。人生最後の数年間、あなたはどの車輪の上で過ごしたいと思いますか?」

講演の度に私はこの質問をしているが、車椅子の上で余生を過ごしたいと答える人はいない。これは、皆が健康で思いのままに動けることを望んでいることの表れである。

しかし残念なことに、このように思いのままになる晩年は、自分で臨めばできることではない。今から準備してこそ、優雅にゆっくり年を取りながら、健康で思いのままに自転車に乗って走り回れるのである。

それなら、いったい「老い」とは何なのか?人によっては六十五歳だったり、体力が衰えた時であったり、白髪が生えた時だと言う。

私の父は村で一番の力持ちだった。父が歳を取ったと気づいたのは、彼がタオルを充分に絞れなくなった時だった。それが初めて父が歳を取ったと感じた時で、私が老年医学について研究するきっかけとなった。

「私はずっと、人はゆっくり歳を取るものだと思っていましたが、実はそうではなく、一瞬にして歳をとるのです。」と著名な作家の村上春樹氏が言ったことがある。だとすれば、「どの一瞬」から歳を取るのだろうか? 

彰化在住の慈済ボランティアである黄蔡寛(ホワン・ツァイクアン)さんはすでに百三歳であるが、私と一緒に彼女を訪ねた同僚は、体の柔軟性では完全に負けていたと言った。もう一つ私が感服したのは、彼女は九十三歳の時からタブレットや電子書籍を使い始めたことである。

私が難しいですかと彼女に尋ねると、「難しいに決まっているよ!」と彼女は目を大きく見開いて答えた。それでもなぜ学ぶのですか?と聞くと、「人と感想や話を共有したり、人にものを教えたりしたければ、先ず自分が覚えないといけないのよ」と彼女は当然のように答えた。

人は新しいものを学び続ければ、歳を取りにくくなるのである。

ここで、皆さんと一番共有したいのは、老いとは一種の「心の持ちよう」であるということだ。歳を取りたくなければ、新しいことを学び続けるべきである。

私が慈済と證厳法師から学んだのは、役立つ年寄りになるということであった。従って、老いは一種の心の持ちようなのである。もし常に新しい物事に情熱を持ち、学び続ければ、心は永遠に年を取らず、体も老化しにくくなる。

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歳を取っても人に面倒を見てもらうのではなく、他人の面倒を見る

もう二つ例を挙げてみよう。七十六歳の王さんは高血圧と糖尿病、高脂血症などの慢性の持病があり、毎日六種類の薬を飲まなければならないだけでなく、定期的に通院している。しかし、彼女は毎日のように出かけて友達と会ったり、コミュニティーでボランティアをしたりして、充実した楽しい生活を送っている。

もう一人、同じ七十六歳の張さんは骨粗鬆症と圧迫性骨折の治療で、定期的にリハビリをしに通院し、毎日薬を一種類飲んでおり、転倒を恐れて一歩も外へ出ない。そのため毎日地域ボランティアの世話を受けていて、気分がふさぎ込んだ日々を送っている。

比べてみてほしい。どっちの奥さんが健康な高齢者と言えるだろうか?答えは王さんである。王さんは明るいかも知れないが色々な慢性病を抱えているので、どうして彼女の方が健康なのか、と疑問に思う人がいるだろう。

そこが大事なところである。お年寄りが健康か否かの基準は、病気を抱えているか否かではない。あるイタリアの医師がバチカン近くに住む高齢者の生存率について四年間追跡した結果、介護を要しない高齢者の方が長生きすることを発見した。

所謂「要介護」というのは、自分で自分の世話をする能力を失ったことである。研究の結果、持病がある人が早く死ぬとは限らず、要介護の人の方が早死にすることが分かった。

従って私は、高齢者は持病を持っているか否かを気にするのではなく、自立した生活をする能力を失わないようにすることを望んでいる。

自分はこんなにも真面目にボランティアしているのに、どうして病気になるのだろう、とあるボランティアが悲しそうに私に言ったことがある。機械は長く使えば壊れるように、人も歳を取ったら病気になる。例えば、車を買う時、十年や十五年経っても買った時と同じ性能を保つことができるか?もちろん不可能だ。体も同じである。

人は年を取ったら多かれ少なかれ病気にかかる。善行し足りなかったとか、もっとボランティア活動に参加すべきだったとか、福徳が浅いから病気になったと考えるのは間違いだ。人間が病気にならないのであれば、どうしてこんなにたくさんの病院があり、こんなに多くの医師を養成する必要はないはずだ。

従って、気持ちを切り変え、歳を取れば病気になることを受け入れ、天を恨んだり、若い人に「下手に生きているより、死んだ方がマシだ」などと嘆いたりしないことである。こういうのは何の足しにもならないばかりか、若い人に精神的な負担を掛けることになり、お互いに楽しくなくなるだけだ。

百歳を超えている田中旨夫医師は慈済人医会のボランティアである。彼は三十八歳の時に結核にかかり、七十歳の時に脳溢血を患い、八十五歳の時にSARSに感染し、九十歳の時に肝臓癌を患った。彼は病気が治ると、沖縄に戻って医業を続け、歩行によってリハビリすることを決意した。周りの人は皆、体への負担が重すぎる、と心配して反対した。しかし彼は、「休んでしまったら、寝たきりになり、二度と起き上がれなくなります」と言った。

それで彼は、いつも海辺で散歩している。彼によると、最初の頃はまるで足に百キロの砂袋をつけて歩いているようだったが、それでも頑張って歩いた。今、彼はボランティア活動ができるまでになった。

「命の要は機能することにあります」。肝心なのは病気をしないのではなく、生命の良能を発揮することにあると言う。従って「優雅に歳をとる」とは、自分の身体機能を維持することなのである。

これら若々しい高齢者に見られるのは、生きるなら動かなければならず、情熱を持ち続けて学習すれば、優雅でゆっくり老いることができる、ということである。

慢性病の管理

高齢者の慢性病管理は一般成人を基準にしてはいけない。新車でもポンコツになる。肝心なのは車を問題なく走り続けさせることである。

一良、二管、三動

優雅に老いるという定義は、「長く生き、楽しく過ごし、大往生を迎える」ことだと思う。長寿と共に生活の質も同時に大事にすることであり、安らかで順調に往生することである。即ち、「老いて安らか、人の役に立つ」ことである。

この境地に達するために、私は仏法の「六波羅蜜」を健康の概念に取り入れた。それは「一に良、二には管、三に動」である。一に良とは良い習慣を身につけることであり、二に管とは慢性病と栄養を上手に管理すること。三に動とは運動、頭を使うこと、人と触れ合うこと、である。

「過去を留めておくことはできず、未来は予測しがたい。今この瞬間を大事にする」という静思語がある。これこそが、「前足を踏み出す時は、後足を離す」ことであり、気に入っても入らなくても、私たちを縛りつけていることに見切りを付けるべきである。

サイレント映画の巨匠だったチャップリンは、公演の時にジョークを言った。初めは皆がひいきにして笑い続けた。しかし、回数を重ねると、誰も笑わなくなった。その時、チャプリンは怖い顔をして、「あなたたちは変な人たちですね。楽しいことを二、三回楽しんだら楽しまなくなります。逆に悲しいことは一生の間、悲しみ続けています」と観衆に言った。

この話は身近に感じるのではないだろうか?多くの人はこういう傾向を持っており、自分を虐待し続けているのだ。

ある学生は私に向かって、「先生!私は三世をかけても彼を許しません!」と怒って言った。その時、最初に頭に浮かんで、「わぁ!君は太っ腹だね。どうして彼と三世もかけて絡むのだ?三秒で早く離れるべきだと思うけど」と言った。何事も拘り過ぎて離れないのではなく、良い習慣を身につけて、今をしっかり生きるべきである。

もう一つ物語がある。ある修道院のシスターたちは、医学関係の解剖用に献体した。解剖した結果、大変なことが分かった。医学的に判断すると、このシスターたちの脳は認知症の症状を見せていた。しかし、彼女たちは生前、認知症を示唆するような行動を取ったことはなく、認知症による生活上の問題も発生していなかった。

解剖した医師は驚いた以外にもう二つ発見した。一つ目はシスターの生活は規律正しくて多忙だった。二つ目は彼女たちが一生、修道女となってから、自伝を書いたが、自伝が完璧であればあるほど認知症の度合いが軽かったことを発見したのである。

この二つが示しているのは、人生で経験が多ければ多いほど、正念が蓄積されて、脳が強くなり、歳をとっても認知症になりにくくなるという現象だ。学ベば学ぶほど、新しい物事に出会うため、認知症になりにくくなるのである。

医学研究によれば、認知症になる平均年齢は七十二歳である。もし、二種類の言語が使えるなら、認知症になる年齢を五歳遅らせることができる。もし三つ目の言葉を学べば、更に遅らせることができるのだ。

これは語学を学ぶ場合に限った数字だが、新しい物事ならほかのことでも同じだそうだ。前述した黄さんは九十三歳になってから電子書籍の使い方を学び始め、困難はあったものの、前向きな姿勢で、規律正しい生活をした。新しい事を学んでこそ、老化を遅らせることができるのだ。

「類は友を呼ぶ」という諺のように、我々の脳細胞も然りで、一緒に働いて、一緒に放電する脳細胞は連結し、益々厚みを持つようになり、伝達速度も益々速くなる。

もし、善念をより多く起こすなら、多くの状況下で直ぐに善念が起きる。もし、より楽観的になるように練習すれば、様々なことに対して、益々楽観的な態度を取るようになる。

逆に、もし毎日、不平不満を抱えていたら、何事に対しても不満に思うようになり、それが「習慣」になってしまうのである。私たちの神経細胞も含めて慣れてしまうため、物事に対処する時、楽観的になるのか不満を持つのかは、考え方や正念を如何に鍛えるかによる。良い方に願をかければ、きっともっと健康になり、認知症になり難くなるだろう。

老人は若者のようにはいかない

例えば糖尿病のような慢性病の管理については、高齢者と若者の基準は異なる。若者の場合は血糖値が68mg/dLに下がると、眩暈を起こし、更に60mg/dLを下回れば、倒れて意識をなくしてしまう。しかし、高齢者、特に七十歳以上の人は低血糖に対する反応が鈍く、54mg/dLで眩暈を起こし、50mg/dLに下がって初めて意識をなくす。これは低血糖ショックという状態で、症状が重いと、植物人間になって死に至ることもある。

高齢者の体は安全許容範囲が狭いため、高齢者の慢性病管理基準は一般成人のそれをそのまま当てはめることはできない。

多くの子どもが病気になった親に付き添って診察室にやってくると、親にあれこれ食べてはいけないことを、私から注意するよう求めてくる。一般的な若い人の飲食基準で、年寄りを制限するのは不公平で、逆に年寄りの健康に有害になることもある。

そして、血圧を例に取ってみよう。ある程度血圧が上がってこそ、心臓から充分な血液が脳に送られ、大脳に栄養分と酸素をもたらしてくれるのである。しかし、高齢者の場合、血圧を必要以上に「標準」に抑えてしまうと、確かに心臓血管には負担をかけないが、血液が脳に届かなくなり、逆に認知症になるリスクを大きくしてしまう。

従って、六十五歳以上の高齢者の場合、あまり自分に対して厳しすぎないことだ。もし、家に高齢者の親がいるなら、あまり厳し過ぎる基準を年配者に当てはめないこと。そうすると、家族の仲が悪くなるだけでなく、お年寄りの為になるとは限らないのだ。

専門家の研究によると、高齢者の血糖値を厳格にコントロールすると、確かに数値的には「綺麗」に見えるが、その綺麗な数値は寿命を縮めてしまうかもしれないのである。血圧もコントロールし過ぎると、お年寄りが眩暈を起こし易くなり、転倒することにつながる。

もう一つの例を挙げてみよう。一般の青年から壮年にかけてのBMI値(ボディマス指数)が十八・五から二十四の間であるとすれば、死亡率は最も低くなる。我々のチームは高齢者のBMI値について研究したことがある。BMI値が二十七から三十三の間、言い換えれば多少太っている高齢者の方が最も長生きすることを発見した。例えば、身長百七十センチの高齢者の場合、体重が七十八キロから九十五キロの間は全て許容範囲なのである。

高齢者の慢性病管理は若者の数値を当てはめるべきではない。二十何年も使った中古車の性能は絶対に新車と比較してはいけないように、厳しい数値基準に捉われないことである。大切なのは車が何事もなく、長く走り続けられることこそが重要なのである。

栄養管理

三食必ずタンパク質を摂取すること。一日に摂取するタンパク質の量は、体重十キロ対して、掌いっぱい分の大豆や卵などである。

三食ともタンパク質を摂ること

飲食面の管理に関して、衛生福利部国民健康署はこう訴えている、「五種類の野菜と果物で健康になり、病気が遠去かる」。しかし、賢い台湾人は簡単な方を選んで実行する。果物の方が食べ易くて美味しい一方、野菜は調理に手間がかかるため、大半の人は野菜を少な目に摂り、果物を多目に食べている。五種類のものを十分に食べればいいと思っているが、そういう食べ方をしていると、逆に糖尿病になってしまう。

正しくは野菜を果物より多く食べ、三食毎に食べる果物はゲンコツ一つ分で十分なのだ。

昔の人は貧しかったため、「ご飯と野菜」でお腹を満たしていた。今、高齢者に「野菜を食べるためのご飯」を勧めている。一つは植物繊維を多目に摂取し、澱粉の摂取量も控えることができる。特に糖尿病の高齢者はもっとこういう食事をすべきである。

台湾人の体内で最も不足になりがちなのが、ビタミンⅮ、B12、カルシウム等の微量元素である。B12はベジタリアンにとって不足し易い栄養素だが、補い易いものでもある。ビタミンⅮは台湾全土で一般的に不足しており、九十八パーセントの国民がビタミンⅮ不足になっているため、多目に日に当たることである。

三大栄養素(炭水化物、タンパク質、脂肪)の中で、タンパク質も台湾人が不足しがちな栄養素であり、特に高齢者はその傾向がある。

一般的に、「現代人は肉や魚をよく食べるので、タンパク質不足にはなり得ない」と言う声が聞かれる。

実は、肉や魚が即ちタンパク質ではないのだ。体重十キロ当たり毎日掌よりも多めの量の良質なタンパク質を必要とするため、六十キロの成人なら一日にその六倍の良質なタンパク質を摂る必要があるが、ほとんどの人は実際には摂取量が不足している。もし、あなたが牛乳や卵を摂ることができる菜食者ならば、牛乳や卵を多目に摂取するといい。それらを摂らない人は豆乳を多目に飲んでタンパク質を補うとよい。筋肉を成長させるには十分なタンパク質が必要で、骨格がしっかりしていても、筋肉に支えられてこそ、敏捷に体を動かせ、退化を防ぐことができるのである。従ってタンパク質をきちんと補充することは必要なのである。

タンパク質に関して、他にも幾つか重要なポイントがある。一つは、三食共それぞれタンパク質を食べること。二つ目は、運動の後、三十分以内に良質のタンパク質を補充すること。高齢者が一日に摂取すべきタンパク質の量は、体重十キロ当たり掌ほどの量が必要である。

頭を使う

筋肉が「使えば発達し、止めれば萎縮する」のと同じことで、新しい技能を学ぶことが脳に与える影響は、既得の技能を繰り返すよりも大きく、脳細胞を活性化させることができる。

運動、活動、人と多く触れ合う

三つ目は運動についてであるが、何らかの理由で、人類はより多く運動して初めて、体が正常に機能できる動物に進化した。

「生きるには動かなければならない」。一日に三十分の運動を週五回。毎回の程度は心拍数が毎分百三十回に達するもの。もし幾つもの複雑な運動ができれば尚更良い。例えば、体と頭を同時に使ったりするものでは、ダンスはとても良い運動である。

もし本当に運動できない場合は、その代わりに「労働」や「活動」に参加すること。これを非運動性熱産生(NEAT)と称する。例えば、片足を挙げながら料理する。

多くの高齢者が週に五回ジムに通うことは不可能なので、何時、何処でもやりやすい形で運動することで、所謂運動の日常化にするのである。例えば、慈済のリサイクルステーションはとても良いジムなのである。

リサイクルステーションでは手足を動かすだけでなく、資源の仕分けに頭を使うと同時に、人との触れ合いもある。その為、リサイクル活動を基盤に結合しているリハビリ形式の運動を地域ケア拠点に導入し、高齢者の身体活動機能の影響を研究した結果、リサイクルステーションに来ている高齢者は、握力の増加や「立ったり座ったり」を五回繰り返す時間の短縮、柔軟性が増したこと、スタート・ダッシュが速くなったこと、歩くスピードが速くなったこと、などが実証された。

科学的に、握力と歩行速度は寿命と相関性をもっていることが証明されている。従って、リサイクル活動はとても良い運動だと言える。

以前、科学的に筋肉と体力ばかりを比較的強調していて、認知の訓練にあまり触れることがなかった。しかし、中華系の人はそれに同調せず、体と心は一体であり、脳の栄養は体が与えているため、体と心は一緒に老化すると考えてきた。

證厳法師はこう諭す。「体を動かせば、脳は毎日、活性化されます」。従って、良い食事をして運動するだけではまだ足りず、頭も使わなければならない。すなわち「神経可塑性」が大きく関与しているのだ。頭は使えば発達し、止めれば萎縮するという理屈だ。だから、頭は使えば使うほどよくなるのだ。

最後に触れ合いについて話したい。孤独は人を死に導く。イギリスは二〇一八年一月に世界で初めて、孤独問題担当大臣職を設置し、孤独から抜け出す衛生教育を進めている。人間関係のネットワークを作り、孤独によるハイリスクな人たちを割り出して、孤独な人をなくすことを期待している。従って、我々は家に口喧嘩の相手がいることを大切にすべきである。

もう一つの重要な点は、「仕事を長く続ける」ことである。研究結果によると、仕事を一年延長すると、認知症になる確率は五パーセント減る。後は人を褒めることだ。常に人を褒めれば、身の周りにポジティブなエネルギーが満ちるようになる。我々、中華系の人は実を言うと、褒め言葉を聞くのが好きだ。しかしおかしなことに、他人に褒め言葉を言うのには慣れていない。

従って、人は一瞬にして歳を取るが、それはどの瞬間なのか?初めての皺や白髪から始まるのではなく、己に対して諦めた瞬間から始まるのである。

如何にして優雅にゆっくり老いるか、というのは、決して自分で老いていないと言うことではなく、老化を止めることであろう。むしろ、如何に自然法則に順じて、心身が楽しく健康の中で老化を迎えるか、ということなのである。

皆さんが互いに学びあい、自転車をこぎ続けられるよう、願っている。プラス思考と健康な体で老年の時を迎え、役に立ち、尊厳のある年寄りになろう。(出典:『優活慢老』)


(慈済月刊六五二期より)

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