義足が支えた人生 八百屋家族の幸せ

深夜に野菜を仕入れ、早朝から店を出すアントンさんは、そういう生活を苦労と思わない。 だが、かつて彼は、足を失った事実を受け入れることができず、家族を幸せにする自信がなくなって、妻や子供を何度も実家に帰らせようとしたことがあった。

アントンさんは親しみを込めた笑顔で、買い物に来た客をもてなす。一見すると普通の人と変わらず、誰も彼のズボンの下で彼の体を支えているのが義足だとは気がつかない。
       
インドネシア西ジャワ州チカランのカラン・ラハユ村に住むアントンさんは、毎日深夜十一時から翌朝一時まで、チビトゥンの卸売市場で野菜を仕入れ、朝の六時から八時まで、昔ながらの市場で空心菜やほうれん草、唐辛子、エシャロット、ぺタイ豆、ユウガオの実などの新鮮な野菜を売っている。

三十六歳のアントンさんは、慈済と縁ができた後、医療保険以外の医療費や交通費、義足などの助成金を受けた。 ボランティアの付添いと励ましは彼を元気づけ、小家族に元来の温かさを取り戻すことができた。障害のある人は必ずしも他の人の重荷になる必要はなく、彼は行動でもって、自立できることを証明した。

アントンさんは、義足を作る支援をしてくれた慈済に感謝している。そのおかげで彼の歩行能力は回復した。

レバランの前夜 事故に遭う

二〇一二年の八月十八日、レバラン(断食明け大祭)の前夜は、アントンさんにとって生涯忘れられない日である。「その時は母の使いで、レバランのための食材を買いに行き、道路を横断していました。すると猛スピードで走ってきたミニバスに跳ね飛ばされ、地面に落ちた時、左足を別のオートバイに轢かれたのです」。

アントンさんは命は取り留めたが、左脚の怪我は非常に重く、レバランの休暇中で一部の医療スタッフが帰省していたため、彼は十分な治療を受けることができなかった。「家族は私を家に連れて帰り、民間療法の治療を受けさせようとしました。しかし、ギプスを外してみると、思いも寄らず、脚が既に腐爛していました」と、当時医者に診てもらう苦労を思い出して嘆いた。 そして、残酷にもその事故で彼の行動力は奪われてしまった。

八カ月経っても彼は回復せず、治療を続ける能力もなかったため、炎症を抑えるための抗生物質を服用するしかなかった。二〇一四年になってやっと、彼は知人を通じて慈済に支援を求めた。

ボランティアが訪問して査定した後、彼に医療援助を行うことを決めた。そしてジャカルタにあるチプト・マングンクスモ病院に同行した。幸いに、脚の炎症は体の他の部分には影響を及ぼしていなかった。その後の九カ月間に、彼は四回手術を受けた。完全に回復したわけではないが、びっこを引きながらも歩けるようになった。自立できるようになった彼は市場に戻って野菜を売り、妻となるナピアさんと出会うことになった。

アントンさんは、再び市場に戻って野菜を売って家族を養う、そんな平凡な生活を大切にしている。

妻の寄り添いで自信を取り戻す

一年後の二〇一五年、アントンさんの左脚に小さな傷ができ、それが次第に拡がった。やっと新しいスタートを切った彼は再び打ちのめされた。しばらく経てば治るだろうと簡単に自分で治療して済まそうとしたが、数週間後、思いもよらず左脚の後ろにもっと大きな傷が現れ、急速に悪化した。

傷口が酷く感染し、アントンさんは頻繁に高熱を出すようになり、再び慈済に医療援助を求めた。今回は比較的近くに住むボランティアのチカランさんが同行した。「初めてアントンさんに会ったのですが、何度も電話を受け取り、私はきっととても苦しく、どうしても助けを必要としているのだと思いました。そこでその日の会議を全部キャンセルして、直ぐに見舞いに行きました」と慈済ボランティアの黄国鴻(ホワン・グォホン)さんがその時の様子を語った。

彼がアントンさんの家に着いた時、傷ついて布で包まれた足が目に入った。足の傷口からは膿が流れ、悪臭を放ち、彼は痛みに苦しんでいた。当時のインドネシアには健康保険制度はあったが、全額を負担するわけではなく、彼は医療費や交通費を負担できないため、大病院に行くことができず、無料の保健所で診てもらうしかなかった。医師は脚を切断することで命を繋げることを提案したが、その後は義足に頼る必要があり、義足を作るには三千万ルピア(約二十万円)の費用がかかる、と説明した。それを聞いた瞬間、彼は自分の無力を悲しく思い、自殺したいとまで思い詰めた。

「自分には治療する能力さえないのに、どうやって妻や子供たちを幸せにできるでしょう。その時、妻に実家に帰るよう言いました」とアントンさんが言った。しかし、ナビヤさんは夫から離れたくなかった。「あなたと結婚すると決めた時、私はあなたと一緒に苦楽共にする覚悟ができていました。あなたが病に倒れた時にどうして離れることができるでしょう?」。

ナビヤさんは悲しみと共に、ボランティアにこう言った、「切断手術の後、目を覚ました彼が最初に私に言った言葉は、『僕は君を幸せにすることはできない。だから、やはり子供を連れて実家に帰った方がいい』でした。それを聞いて本当に悲しく思いました」。

慈済は、アントンさんに義足を作る資金を支援した。ナビヤさんも夫と共に歩む決心を新たにし、人生で最も困難な時期を共に過ごした。他人の目を気にせず、彼女はいつもオートバイで彼を載せて病院に通った。「何も恥ずかしいことではありません。夫は行動が不自由ですから、私が彼を助けるのは当然の義務です」。 妻の愛とボランティアの励ましで、アントンさんは徐々に元気を取り戻し、一家を支えるために、以前の生活に戻ることができると自分を信じるようになった。

以前、悲しみに覆われていたアントンさんの顔は今、明るい笑顔に変わった。彼は家族を幸せにし、年老いた母親に孝行することだけを考えている。

賢く選択し、 自分で壁を作らない

義足を使って動くのはそれほど簡単ではないが、通常の生活に戻るのには十分である。「私はバイクでチビトンの市場に行って野菜を仕入れたり、自分で屋台の整理をしています。いつまでも他人に迷惑をかけたくありません」と彼は嬉しそうに言った。それまで悲しみに覆われていた彼の顔は明るい笑顔に変わり、今では毎朝、笑顔を輝かせて屋台に来てくれるお客さんを迎えている。

彼はボランティアに、このことから学んだのは、感謝の気持ちと賢く選択すること、自分にできる最善を尽くすことだ、と語った。「家族を幸せにし、年老いた母親に孝行することが、今の私の生き甲斐です」。

「幸いにも、黄さんが私を励まし続け、治療まで付き添ってくれました。また、慈済が義足を作る支援をしてくれたことで、私は以前のように行動することができるようになりました。とても感謝しています」とアントンさんは、今まで助けてくれたボランティアたちに感謝した。

アントンさんの商売は軌道に乗り、家庭の経済状況も改善した。少しずつ家を修繕するお金もでき、更に分割払いでオートバイを購入した。彼は善行することも忘れてはいない。収入の一部を慈済に寄付して他の貧しい人々を助け、善の循環を作り出している。

アントンさんは普段から他の心身障害者に、ネガティブなことを考えないよう励ましている。よりポジティブな活動をしたり、簡単な仕事を試してみることで、忙しくすれば、心にある障壁を取り除くことができるだけでなく、収入を得ることもできる。彼は、一生懸命働く限り、神様は努力する者を見放すことはないと信じている。


(慈済月刊六四七期より)

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