「医療事前指示書」の署名者 無常が来るまでに この瞬間を生きる

朱文姣さんは無常によって苦しみ、無常によって悟った。
家族に次々と先立たれたが、その最後を看取るたびに教えられた。
大切なのは命の長さではなく、今この瞬間をしっかりと生きることなのだと!

雨風の吹きすさぶ夜、鉄柱と木の板で作られた二段ベッドの上段で眠っていた少女は、泣き声と揺れに驚いて目を覚ました。その声は屋外で荒れ狂う風の音や屋根を激しく打ちつける雨の音よりも、いっそう少女の不安を掻き立てた。ベッドの下段で母親が病気の兄に覆いかぶさり泣いていた。兄が他界したのだ。

夜が更けるにつれ、雨風も泣き声も次第に収まっていった。愛する家族が亡くなっても、家が貧しくて葬式を出すこともできない。せめて兄が瞑目し、早く埋葬するために、母親はあちこち奔走してお金を借りようとした。

母親は指輪を質に入れたが、それでも足りない。しかたなく末っ子を養子に出してようやく資金を調えた時は、兄の死から既に二日が経っていた。その間、兄の遺体は取り外したドアの上に横たわっていた。血の気の無い兄を眺める少女の悲しい胸のうちに、命に対する疑問が湧きおこった。

兵役を終えたばかりの異父の兄はまだ二十五歳で、家計を助けるために仕事を探していた矢先のことであった。母親は兄が結婚して子供を産むことを望んでいたが、死が全ての希望を粉々に砕いてしまった。

兄は退役後に尿毒症の診断を受けたが、お金がないため病院で治療を受けることができなかった。「病気が良くなったら、弟や妹たちの世話をしてあげる……」。「お母さん、死にたくないよ!お金を借りてくれたら、医者に診てもらえるよ!」少女は、兄が約束して、母親に懇願し、何としても生き延びようとした様子が思い起こされた。若くて親孝行で、これほど生を望んでいた兄が、果たせない約束を残してこの世を去ってしまった。

「生死とは何か」をまだよく知らない少女にとって、この命の無常と非情さは到底受け入れられるものではなかった。生きることにはどんな意味があるのだろう?少女の心にそんな疑問が湧きおこった。

朱文姣さん
65歳、台北市在住。2019年2月19日、慈済台北病院における「医療事前指示書」の第1号署名者となった。署名前の相談診療には娘と娘婿が付き添い、娘が立会人の1人になり、そして娘婿が医療代理人を務めた。これにより、将来、朱さんが「患者自主権利法」に定める5大臨床条件にあてはまる状況になった場合、本人の意向に基づく治療が行われることになる。

一杯の麺で家族を支える

少女の名は朱文姣(ツゥー・ウェンジァオ)。十人兄弟のいる家は貧しく、長期にわたり借金を抱えていたため、上から三番目の彼女は幼いころから両親の商売を手伝い、幼い弟や妹たちの世話をしなければならなかった。母親の産後の療養に付き添っていたのは、わずか六歳の彼女だった。

中国大陸出身の父親は、没落した家を憂い、故郷に帰れない悲しみから志を失っていた。故郷が忘れられなかった父親はしばしば悲嘆にくれ、酒に酔っては大声で怒鳴った。幼い日の文姣さんの脳裏には、話が通じないにも関わらず、浙江語と閩南語で喧嘩を繰り返す両親の姿が深く刻み込まれた。お腹を空かせた大勢の子供たちを、酒浸りの父親一人で養うことは難しかった。兄の他界は、母親の悲しみを更に深くした。

一人で苦労を背負い込んだ母親を辛い気持ちで眺めていた文姣さんは、母親の負担を減らすために十五歳で学校を中退し、麺料理屋の手伝いに専念することを決意した。生活は苦しかったが、一家を助けてくれる親切な人にも出会った。境遇を知った大家さんがアパートの一階を店舗に改装してくれたお蔭で、文姣さんと母親は家族を養うことができたのだ。

当時まだ若かった文姣さんは、毎日、店で忙しく働いた。陽春麺もビーフンもお手の物。まだ、ガスが普及していなかった時代で、文姣さんが炭火を燃やしながら一杯、また一杯とスープ麺を作ると、お客さんたちが屋台に置かれた小さな筒に二元を入れていった。学校に来なくなった文姣さんを訪ねて、偶にクラスメートが店に顔を出すこともあったが、文姣さんがどうしてこんなに頑張っているのか、友達は知っていたのだろうか?文姣さんにはそんなことを考える余裕もなかった。だが頑張ってお金を稼げば、家族によりよい生活をさせてあげられると信じていた。

文姣さんは十八歳になった時、母親の許可を得て服の販売を始めた。彼女は先ず、夜市と麺料理店で女性服と子供服を販売した。数年後、兵役を終えたばかりで三歳年上の黄振栄(ホワン・ジェンロン)さんと仲人を通じて知り合った。振栄さんは背が高くて思いやりがあり、暇さえあれば文姣さんの店を手伝ってくれた。すっかり意気投合した二人は、心の中でお互いを認め合うようになっていった。二十四歳の時、文姣さんは黄家の長男の嫁となった。夫の家には娘がいなかったため、愛情深い夫に加えて、姑も彼女を可愛いがってくれた。

事業での奮闘、素敵な愛情、幸せな結婚。文姣さんは、兄があの時失った全てを手に入れた。だが一切が正しい軌道に乗るであろうと思えたその時、人生の無常に再び直面することになった……。

朱文姣さんの人生は、家族との別れの連続だった。だが彼女はその悲しみに打ち負かされることなく、悲しみを共感に変え、そして他人の痛みに深く耳を傾けることができるようになった。

病床に倒れる前の選択

結婚した翌年、文姣さんの父親が再び脳卒中で入院し、予断を許さない容体になった。医師からは、手術をしなければ助からないこと、そして手術をすれば命は助かるが、父が「植物状態」になってしまうことを告げられた。

当時、家族の男性は全員が兵役中だったため、その重い決断は姉妹たちの手に委ねられることになった。姉妹は家族の情と孝行心から、その時「最も正しい」と思われる決断をしたが、その選択は後に彼女たちを後悔させることになった。

十三年が経ち、彼女は二児の母親になっていた。ある旧正月の元日の夜、家の電話が鳴り響いた。それは義弟の嫁が心筋梗塞で入院したという知らせだった。文姣さんは義弟の二人の幼子の世話を引き受け、振栄さんは急いで病院に駆け付けた。

義弟の嫁はなんとか命を取り留めたが、脳内で酸欠を起こし、かつての父親と同じ「植物状態」に陥ってしまった。全身にチューブを挿入された彼女は、意識のない状態で病床に横たわっていた。

文姣さんは、病床で二週間持ちこたえた父親が他界した時、実はほっとしたのだと正直に語った。完全に動けない人をケアするのはとても大変なうえ、父親をこれほど辛い生き様に追いやったあの決断を後悔もしていたのである。

だが、こともあろうに三十歳を過ぎたばかりの義弟の嫁が、父親と同様の状況に陥ってしまったのだ。またしてものしかかる無常に直面した文姣さんは、生命の意義について再び考えるようになった。

四十五歳になったその年、文姣さんは夫と一緒に慈済に参加し、人文真善美(記録)ボランティアと医療ボランティアとなった。それ以来、仕事をしない時間はいつもボランティアの予定で埋め尽くした。中学二年生で中退した学歴を気にしていた少女が、再びペンを手に取り、パソコンを学び、医療現場の実情を文字で記録していった。

患者のケアに参加するうち、彼女は自分と同じように無常に苦しめられている人の多さに気づき、彼らのために力を尽くしたいと考えるようになった。母親のこのような変化を目の当たりにした子どもたちは、人生の大半を苦労に費やしてきた両親を思いやり、「二人共そろそろ仕事を引退して、自分の好きなことに専念したらいいよ」と言ってくれた。子どもたちの気持ちを知った文姣さんは、長年経営してきた洋服店をたたみ、全ての時間をボランティアにつぎ込むことにした。

仕事を退職してからの日々は、朝にテレビで證厳法師の開示を聞くことから始まり、それから慈済台北病院でボランティアを務め、夕方の帰宅後には他のボランティアたちと読書会を開くというものだった。文姣さんや他のボランティアたちが切に願っていたのは、命を善く用い、よく学び、情熱と時間をボランティア活動に十分に生かすことだった。

命の喜びと悲しみ、出会いと離別を経験した黄振栄さんと朱文姣さん夫妻は、ボランティアになって互いに支え合い、日々をしっかりと歩んで、一瞬一瞬を大切にしている。

老人の切なる願い

そのような日々が十年余り続き、文姣さんが五十八歳を迎えた二〇一四年、高雄でガス爆発事故が発生した。夫妻はボランティアチームと共に南部へ支援に向かい、その後、花蓮でのボランティア活動に赴いた。ようやく家に帰ろうとした矢先、義弟からの電話で姑の様子がおかしいと聞かされた。夫妻は自宅に戻った途端、すぐに尿の臭いが鼻についた。年老いた姑は、自立した日常生活を送ることができなくなっていた。

医師の診断によると、姑は軽い認知症に加えてC型肝炎を患っていた。この突然の知らせは姑本人だけでなく、介護を担う家族の生活をもすっかり変えてしまった。病院に通うことが日常になり、姑は徐々に身体機能が衰え、食欲不振や昼夜逆転などの症状が現れたり、すぐに何かを忘れて家族に腹を立てたりすることが増えた。

ある日、文姣さんが姑をトイレまで支えていこうとした時、姑が突然失禁して糞尿が流れ出た。二人は足を滑らせて糞尿のなかに転倒し、泣いた。他の家族は家にいなかったため、文姣さんはこの惨状に一人で対応しなければならず、身も心も疲れ切った。姑は自分を責め、思い通りにならない身体に直面して、とても悲しそうにしていた。このような日々は二年ほど続き、姑の永眠によって終わりを告げた。

文姣さんは、姑が亡くなる直前に突然、夜市の屋台料理が食べたいと言い出したことを思い出した。すぐに買って準備したが、姑はもう何も食べることができない身体であり、喉を通った食べ物は消化することも、排泄することもできなかった。

どんなに美味しい食事も、姑の身体には負担でしかなかった。文姣さんは誰よりもよく分かっていた。経鼻経管を抜いて欲しいという姑の願いに対しても、少しも迷うことはなかった。そして姑のために食べやすいものを用意した。一口、二口しか食べられないことは分っていたが、残されたわずかな時間に、常人にはささやかでしかないこの味覚を味わってほしかった。

姑はもう、死から目を背けようとはしなかった。ある日、文姣さんが「ホスピス緩和・生命維持医療の事前選択意向書」について誰かに紹介しているところを見て、姑はそれについて尋ね、末期医療における蘇生措置を放棄するための意向書であることを知った。

若くして亡くなった義弟の嫁の姿を思い浮かべた姑は、もう命の長さだけを求めることはしなかった。姑は文姣さんに署名したいとせがみ、文字が書けないので「拇印で!拇印で署名します!」と子どものように泣き叫んだ。

家族の励ましとサポートの下、朱文姣さん(前列左から3人目)はフルタイムの医療ボランティアとして自分のやりたいことに全身全霊で打ち込んだ。若い頃に身に付けた調理の腕前で、医療スタッフに愛と思いやりを届けている。

こんな風に別れを告げたい

「おばあちゃん、絵本を読んであげるね!」姑の葬儀が終わったある日、孫娘が『おばあちゃんに会いたい』と言う絵本を文姣さんに読んでくれた。それは、亡くなったおばあちゃんを思う女の子の気持ちを描いた絵本だった。朗読する孫娘の明るい声を聞いて、文姣さんは尋ねた。「もしいつか、おばあちゃんがこの世にいなくなったら、おばあちゃんのお葬式はどんな風にしたらいいと思う?」

「分からない……」と孫娘は答えた。
「お母さんにちゃんと伝えてね。おばあちゃんは、医学生のために遺体先生になるんだよ。それからおばあちゃんを燃やして、大地に撒いて欲しいの。そこから生えた樹の木陰で、みんなが涼めるように……」

六十五歳を迎え、すでに法律上の「高齢者」となった文姣さんは、「命に関する大事なこと」について子供たちと折に触れ話し合うことにしている。「買ってきた花はとてもきれいでしょう。花は美しく咲き誇った後、しだいに枯れていくの。花が咲くのも枯れるのも、どちらも自然なことなのよ!」

文姣さんは自身の人生を振り返り、多くの家族に先立たれたが、彼らの最期を看取るうちに多くのことを感じ、悟ったという。別れは痛みを伴ったが、同時に命について考えさせてくれたことに感謝した。

文姣さんは自分の過去を振り返りながら、自身の生命観について言葉を続けた。「命とは、長引かせればいいというものではありません。命とは、あなたが大切にしてきたことの全てであり、生きている瞬間を心から味わうことなのです」。


(慈済月刊六五〇期より)

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