台湾の民衆は、宜蘭県に在住するディドーネ・ジュゼッペ神父のイタリア援助の呼びかけに熱烈に応えた。神父は、慈済がインドのコロナ禍に誠意をもって関心を寄せていることを感じ、所属している修道会の協力の下に愛の連絡網を立ち上げた。
インドの聖ヴィンセンシオの宣教会は、慈済の国連チームを通じて直属の病院、診療所、修道女会、教会に対する支援を求めた。慈済はインド佛教ABM組織に緊急支援プロジェクトを行動に移すよう、依頼した。そして修道女会の女性ボランティアたちが協力して物資の梱包を行い、分院とカトリック教会病院に届けた。
人口十三億を擁するインドでは、昨年十一月十日時点で、既に感染者数が八百万人に達し、世界で二番目に多くなった。防疫の為に全国で使われた社会資本は計算することすら難しく、都市封鎖、工場の稼働停止、店の営業停止などによって億単位の人が失業して生活が困窮し、外部からの緊急支援を必要としている。台湾や世界各地の慈済ボランティアは、防疫規制で現地に行くことができないため、カミロ修道会や神の愛の宣教者会及び二カ所のチベット仏教寺院など異なる組織と協力して、四月から十月末までに十万世帯余りに支援物資を配付した。
その中で、カミロ修道会との縁とは、二〇二〇年四月、台湾で半世紀以上奉仕してきたディドーネ・ジュゼッペ神父が、新型コロナウイルスの感染深刻な祖国イタリアを支援するために、台湾の人々に防疫物資を購買する募金を呼びかけたところ、熱烈な反響を得た。その間、慈済は中国現地のボランティアと連絡を取り、世界中で防疫物資が不足していた状況下で、買い付けに協力した。慈済基金会の顔博文執行長は自ら、カミロ修道会に属する羅東聖母病院を訪ねて関連事項を協議した。
慈済がインドに拠点も対応窓口もなく、支援活動が困難をきたしていたことを知って、カミロ修道会はインドの宗教界、医療関係者及びボランティアと連絡を取る手助けをしたほか、大部分の貨物の受け取りから発送、配付活動を請け負った。
インドカミロ修道会は、慈済の支援食糧を首都ニューデリー、東部のアッサム州、偉人マハトマガンジー及び現任総理モディ首相の故郷グジャラート州を含む同国十三の州に配送した。修道会以外にも、ノーベル平和賞を獲得した故マザーテレサが創設した神の愛の宣教者会もコルカタで、現地まで行けない慈済ボランティアの代わりに支援食糧の配付を行った。
カミロ修道会は信者及び警察署等多くの組織や団体に要請して、防疫規定及び現地の宗教規範の下に配付活動を終えた。
生命の難関を乗り越えて
もう一つの重要な協力パートナーは、インド仏教ABM組織である。構成員のプラヴィン・バレセインさんは二〇一四年の「インド国際仏教セミナー」に参加した時に慈済と出会い、翌年三月に母親と台湾に来て證厳法師を訪ねた。四月にネパールで大地震が発生した時、プラヴィンさんは災害支援団に加わって被災地に行き、その後、慈済のインドでの連絡員になっている。今年、彼の呼びかけでABM構成員たちは、任務を果たすためインド西部の都市ムンバイ(Mumbai)とプネ(Pune)に赴き、慈済ボランティアの代わりに二千世帯の貧困者に白米を配付した。
「五月末にボランティアは名簿作成に取り掛かりましたが、貧民地区が分散しているので容易な事ではありませんでした。各地区には手伝いを買って出る人はいるのですが、パソコンがないので、手書きするしかありませんでした」。インドの貧困救済事務を担当している、慈済基金会職員の陳尚薇(チェン・シャンウエイ)さんは、手書き名簿の写真を見せてくれた。
五月下旬、インドは非常に強いサイクロン・アンファンに襲われた。コロナ禍に天災が加わって、物資による救済の必要性がさらに切迫したが、政府は防疫のため、六月半ばに外出制限令を発令し、七月にムンバイ市とプネ市でもっと厳しい都市封鎖令が出た。初めボランティアは通行証を申請して訪問ケアに出ることができたが、これによって名簿作成は暫時停止するしかなく、支払い業務を行なっていた銀行でも行員が感染して、業務を停止させられた。
八月になって政府は制限を緩和したものの、コロナ禍が治まってきたからではなく、これ以上封鎖を続ければ、民生生活に影響を及ぼすからだった。ABM構成員はそれを機会に、慈済の支援物資を配付した。民衆が集まって感染するのを避けるために、今までの一度に千人や二千人が集まる大規模な配付に代わって、村単位の小規模な配付を行った。ボランティアはトラック後ろについて村から村へと出向き、一度の配付は数十世帯にとどめた。皆マスクと手袋を着けて感染予防に努めたが、受け取りに来た住民は、警戒心は持っていてもマスクを買う余裕がないため、インド伝統衣裳の「サリー」で口や鼻を覆って飛沫防止に努めていた。しかし、その精一杯の防疫行動を見て心配を禁じえなかった。
「私は毎回、彼らと連絡を取る時は何時も、注意しなさい、注意するのよと言っています。彼らが出掛ける時やメールが送られてきた時は必ず、心配でこう聞きます、『予防対策を充分に取っていますか?』」と。陳尚薇さんが今でも覚えているのは、配付活動が始まった後、プラヴィンさんが初めて彼女とオンライン視聴会議で言った言葉は「師姐(スージェ)、私はまだ生きていますよ!」だった。
コロナ禍の下で、外出して物資を配付する時、自分は絶対に大丈夫だと保証できる人はおらず、気をつけるしかない。配付する時、もしも場所的に許すなら、ボランティアは仏陀の法像と著名仏教政治家のアンべードカル博士の肖像を掲げる。大多数がカースト制度の低層階級の人たちにとって、仏陀の衆生平等、慈悲済世の教義やアンベードカル博士が唱える仏教の復興は、カースト制度廃止や不可触民の解放を呼びかけるものとして、希望の象徴となっている。
インド北部のブッダガヤ及びワラナシの3千5百世帯の貧困者及び弱者家庭が寺院に慈済の支援物資を受け取りに来た。
ABMボランティアは同時に慈済の祝福を伝え、横断幕に中国語と英語、ヒンディー語で「慈済は人生の難関を乗り越えるために寄り添います」と書かれてあり、慈済ボランティア及び世の善意の人々の支持と祝福を伝えた。ボランティアは英語と現地の言葉であるマラティ語で證厳法師の慰問文を読みあげ、文盲の村人にも理解してもらった。法師の祝福にABMボランティアは深く感動した。
「慈済の創立者である證厳法師の祝福を、現地の言葉で話したことを光栄に思っています。それを百回以上も読み返しました。これは地球上で生きている人類が覚悟すべきことを反映しています」。ABM創設者兼主席のシィタラム・ガイクワド氏によると、自分はインド教カースト制度の下層階級の出身で、六十四年前、母親と村で物乞いをしていた時、突然、ある人が「あなたは不可触民ではない、仏教徒になったからには物乞いをしてはいけない」と母親に告げたそうだ。
仏教に帰依した後、ガイクワド氏は自力更生することを学び、自分は不可触民ではないと心に決め、奮起してカースト制度の束縛から脱け出して、社会で人望のある人になるよう努力した。彼は一九八四年にABMを創設した。メンバーたちは彼に追従し、アンベドカール博士の理念を発揚して、五ルピー(約七円)でも善行することができるというスローガンの下に、社会から善のエネルギーを集め、女性や子供、社会的弱者を支援する文教慈善を推し進めている。
「慈済は私たちにより大きな変革をもたらし、他人に物乞いをしていた人が転じて何千、何万もの貧困家庭を助けて、生計を維持できるようにしているのです」。ガイクワド氏の感想は、「他人が自分を度する」そして「自分で自分を度する」、それから「他人を度する」までの過程を表している。
(慈済月刊六四九期より)