食糧危機には農業で自力更生

食糧を輸入に頼っているモザンビークにとって、コロナ鎖国は耐えられない打撃と言えよう。中部のメトシェラと南部のマプトにある二カ所の大愛農場では、収穫した農作物を地元の貧困者と分かち合っている。コロナ禍が発生して以来、物価が高騰した間も、農作物で人助けができることを、貧しい農業ボランティアは誇りに思っている。「私たちは力と愛を持っています!」。

二〇二〇年七月、モザンビーク中部のメトシェラ(Metu-chira)大愛農場では、慈済ボランティアたちは手が回らないほど忙しく、一部のボランティアは籠に入った収穫したばかりのトマトを整理し、もう一方、他のボランティアたちは野菜が入った竹籠を頭に載せて列を作り、リーダーのパウロさんの後について、ケア世帯の家に向かった。この大愛農場で既に二回目を迎える収穫は、このように大豊作だった。

モザンビーク中部ソファラ州メトシェラ町は、二〇一九年の時にサイクロン・イダイ風災で被災した。この一年間、慈済の再建計画は途切れることなく続けられ、それまで以上に多くの地元住民が大愛の列に参加するようになった。パウロさんはメトシェラ町の慈済の一粒目の種子である。

彼の話では、サイクロン・イダイ風災後、最初にやって来た慈善グループが慈済だった。彼は慈済がボランティアを募集しているのを見て参加した。慈済委員の蔡岱霖(ツァイ・ダイリン)さんが話した證厳法師の物語を聞いて、深く感動した。特に海外の慈済人が「自力更生し、現地で発展させる」考え方が彼を大いに啓発した。それによって、彼は自主的に慈済のためにメトシェラで二ヘクタールほどの農地を見つけて来て、大愛農場にした。更に農場を耕すために、昨年の三月からメトシェラ町で千人を超す人を集めた。僅か三カ月の間に、ボランティアたちは愛を込めて心して耕した結果、メトシェラ町で最大の農園となった。

メトシェラ大愛農場のボランティアは無給だが、千3百人が交替で農耕している。物価が高騰し、貧しい人は物が買えない。しかし、農業はいつまでも人々を助けることができ、ボランティアたちに無限の希望を与えている。

お金のためではなく、愛のため

「以前の私は友人を必要とせず、他人のことには構わず、近所の人に会っても笑顔を見せませんでした。心を開いて慈済を受け入れてから、私は楽しくなり、笑顔を浮かべ、善意でより多くの人を助けるようになりました」。以前は無口で滅多に笑顔を見せることもなかった、この背の高くない痩せぎすで恥ずかしがりやの男性は、既に二十七歳で、二児の父親でもある。

パウロさんは十七歳の時、両親が亡くなって、長男として、三人の幼い弟や妹の面倒を見なければならなくなったが、一番下の弟は僅か七歳だった。パウロさんは彼らのために勉学を続けることができず、臨時雇いで生計を立て、辛い生活をしてきた。そのような貧しい生活で、ボロボロの茅葺の家に住んでいたら、楽しいわけがないのは容易に想像でき、他人の生活に関心を寄せるはずはなかった。しかし、「證厳法師の教えで私の人生は変わりました。以前、年配の方が苦しんでいるのを目にしてもまったく無関心でした。今の私は、人を助け、近所の人に寄り添って、積極的に彼らの問題を解決してあげています」と言った。

パウロさんは毎日一時間ほど歩いて農園に行くが、どんな天気でも休んだことはない。彼は、町の各集落に行って慈済の話を人々と分かち合い、住民たちに善行するよう呼びかけている。二十五人以上の集まりを制限する政府の感染予防策に従って、パウロさんは千人余りのボランティアのシフトを組むことを手伝っている。二十五人ずつ、午前中のチームは草取り、午後のチームは水やり作業をして、全ての人に奉仕するチャンスがあるようにした。すると、僅か数カ月の間に、ボランティアとして農園の手伝いをした人の数は延べ五千人を超えた。

パウロさんに、無給なのになぜそんなに熱心に農場の仕事に取り組むのかと聞くと、「お金のためではなく、愛のためですよ」といつものように、恥ずかしそうな笑顔を浮かべて答えた。

新型コロナウイルスの感染が拡大し、モザンビークの大統領は四月に六カ月間の非常事態宣言を発令した。そのような対策は感染拡大を阻止するためではあるが、多くの会社を倒産と人員削減に追いやることにもなった。その中で最も影響を受けたのは、臨時雇いで生活している貧しい人たちだった。いくつかの家庭は健康と生計を考慮して、庭師や女性の労働者を辞めさせた。コロナ禍で、農業の日雇いの仕事を失って、収入が途絶え、節約して暮らすしかない、と地域ボランティアも言っている。ある地域のケア世帯によると、感染が拡大し始めてからは朝食を食べなくなったそうだ。

農園に来る千人余りのボランティアは皆地元の人で、貧困者が何処に住んでいるのかよく知っている。収穫が終わると、ボランティアたちはトマトと野菜を竹籠に詰めて、メトシェラ町の貧しい家庭を訪問し、一軒一軒それを届けている。昨年の十月末までに延べ三千六百世帯が恩恵を受けた。

ボランティアたちは奉仕する中で、證厳法師が常に教えている「施しをする人は受ける人よりも幸せだ」という喜びを体得した。「慈済に感謝しています。たとえお金がなくても、力と愛さえあれば、人助けができることを理解しました」とツリンナーさんが言った。今年三月にサイクロン・イダイ風災一周年の祈りの会で、ボランティアが演出した「七種類のお金がかからない奉仕」と言う劇を見た後、人助けが金持ちの特権ではないことを悟った。そこで、パウロさんがボランティアを募集していた時、ツリンナーさんは直ちに承諾し、積極的に参与するようになった。

近年のモザンビークは干ばつが酷く、偏境の農民たちはもっと厳しい食糧問題に直面し、メトシェラ大愛農園も大きな試練に遭っていた。冬季の降雨量が少なかったため、元来大愛農園脇を流れていた小川も五月に干上がってしまった。ボランティアは農園の近くにある井戸から灌漑したため、数カ月後には豊作となった。

愛の農園を続けるため、ボランティアたちは自主的に水源が確保されている別の農地を見付け、自分たちが行なっている話をして農場主を感動させたため、皆が耕作できるように、と無償で提供してくれた。ボランティアは自分たちの家から種を持って来て、この新しい農地に撒き、将来の収穫でもっと多くのメトシェラ町の貧しい人々を助けられるよう願った。

メトシェラ大愛村の建設予定地に住んでいるマリアおばあちゃんは、パウロさんとボランティアが、いつも新鮮な野菜を持って来て、長期にわたって寄り添ってくれることに感謝した。

見返りを求めない奉仕 豊作を祝う

「親愛なる證厳法師様、私たちが撒いた種が芽を出しました。皆で力を合わせて耕した農園の成果をご覧ください」と、メトシェラ町から千二百五十キロメートル離れた南の首都のマプト(Maputo)市で、多くのボランティアは大愛農園の野菜の豊作を祝って喜びと共に歌を歌った。

感染が爆発的に拡大した当初、モザンビークは物価が高騰した。マプトの慈済ボランティアは農園の面積を拡大するために荒地を開墾し、雨季の終わりまでに種を撒いた。今、目にしている一株一株の緑色の野菜は、自給自足できるばかりでなく、貧困者にも分けることができる。愛を込めて灌漑したボランティアたちは大喜びである。

大愛農園の物語は十分に宗教の力を具現している。心の愛が啓発されると、そのエネルギーは尽きることがない。モザンビークの人は純粋で善良だが、如何せん数百年の殖民地と数十年の内戦を経歴した後、人々は冷淡になってしまった。しかし今、慈済が彼らの生命に入り、心の底に沈んで久しい善念を徐々に呼び覚ましている。

南部のマプトでも中部のメトシェラ農園でも、ボランティアはこれまでと同じ生活を続けている。どちらも豊かではないが、心は満ち足りている。心を入れ替えてから、彼らを待っていたのは、農業で自力更生するという斬新な人生であった。


(慈済月刊六四九期より)

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