生涯を通して物質的な豊かさはありませんが、不足に感じるものは何もありません。
謝珍英(シェ・ジェンイン)さんは、自分で栽培した野菜は山海の珍味、残った時間は今まで以上に自分のために生き、最後に息を引き取るまでボランティアを続けたいと言った。
「お婆ちゃん、おはよう!今日は寒いから、暖かくしてね!」ボランティアが白い息を吐きながら親しみを込めて挨拶すると、
朝五時という暗いうちから家の前の街灯の光りを頼りに回収物の整理をしていた謝さんは、
「おはよう!着ているよ。二枚も着ているよ。ほら、このジャケットは暖かいよ」。と、手を休めてボランティアに着ている服を見せました。
「お婆ちゃん、今日は靴を履かないの?」
「大丈夫よ、慣れているから。この方が楽なのよ」。
裸足で三輪車に乗ると、勝手知った道順で資源回収を始めました。
七十一歳の謝珍英さんは彰化県大村郷に住んでいました。小さい時からの倹約した生活は、彼女に天が授けて下さった足は永遠に破れない靴だと教えてくれたそうです。「下駄は一足五元もするし、壊れたらまたお金を使って買わなければならないから」、それで靴を履かない習慣が身についています。
三輪車で自宅を出発して産業道路を走り、城隍街、田洋巷、貢旗二巷、と道すがら走ったり止まったりして一軒一軒で資源回収するうちに、荷台はあっと言う間にいっぱいになり、彼女の背丈よりも高く回収物が重なりました。少し走っただけでも地面に散乱しそうなので、撮影に忙しかった記録ボランティアもそれを見ると慌ててカメラを側に置き、回収物を積み上げて縛る手伝いをしました。
身長百四十センチの謝さんは、痩せて小柄ですが動きは敏捷です。三輪車は回収物を一度に多く載せられないので、家に戻ると直ぐに二回目の回収に出かけます。暗い時間から空が明るくなるまでの二時間に約十三キロ走り、二十軒近くから回収物を集めるのでした。
謝珍英さんは冬にリサイクル活動する時も裸足で出かけることに慣れている。
毎週月、火、木、金は三輪車で回収し、その他の時間は近くの公園で拾い集めるそうです。
「公園で私を見かけると家まで来てくれないかと声をかける人がいて、その戸数が増え続けたので、回収物はどんどん多くなりました」。今では約三十カ所のお宅が彼女の回収を待っています。
彼女は地面にひざまずくと回収物を一つ一つと分別し、整理した鉄缶やアルミ缶、紙類などを手押し車に乗せてそのまま売りに出かけるのですが、ペットボトルだけは残していました。ボランティアは不思議に思って、「お婆ちゃん、これは売らないの?」と聞くと、「ペットボトルはリサイクルステーションに持っていくよ。慈済に国際救済用の毛布を作ってもらうからね」という答えでした。
回収物を売って得たばかりのお金と領収書を大切に握りしめ、家に戻るとビニール袋に仕舞います。月一回の地域の大型回収日に、そのお金を大村リサイクルステーションにいる慈済のボランティアに渡すためです。
足るを知れば、いつも豊かである
謝さんは以前、良妻賢母の生活を送っていましたが、結婚して六年目、ご主人が交通事故に遭ってからは家計の重責が彼女の肩にのし掛かりました。しかし、彼女はそれを苦と思わなかったそうです。家族が皆で平穏無事に過ごせれば幸せでした。
三人の子供が成長するにつれ、額の大きい学費がだんだん負担になりました。村から産業が外部へ流出するにつれて就職の機会も少なくなり、三日働いて四日間休むという状態では収入が支出に追いつかず、家計を支えることが難しくなりました。お金がない時は言い争いが絶えないものです。「娘は『貧乏な夫婦は何かにつけ悲しい』と言いました」。言い争いは暴力的になり、四十四歳の時に彼女は毅然として家を離れました。一人台北で介護の仕事に就いてから既に六年になるそうです。
台北で働いていた時見かけた、大勢の慈済ボランティアが軒下や木の下でリサイクルの仕事をする姿や、九二一大地震の後、南投で救済する姿に心を大きく動かされた謝さんは、二○○五年大村地区でリサイクル活動を始めました。今年で十四年になるそうです。
大村地区リサイクルステーションの責任者である張千豊(ジャン・チエンフォン)さんは、「お英さんは皆の模範です。道で彼女が一人で大きな回収物を三輪車に載せているのを見かけますが、その日が毎月の大回収日だと、いつも、二、三千元をリサイクルステーションに寄付しに来るのです」と言った。
その実、謝さんは経済的に豊かな人ではなく、生活費は月三千元だけですが、だからといって、回収で得たお金をその足しにしようとはしません。「私の山海珍味は自分で栽培した野菜です。食べ物も着るものも人から頂くのでお金を使う必要はありません。ですから生活費を節約して、リサイクルで得たお金は全部寄付したいのです」と言った。
謝珍英さんはこう言います。
「人生は終りに近いので、残りの時間を世の中のためリサイクル活動に費やして、自分の人生を全うしたいのです。最期まで頑張りたいと思っています」。
(慈済月刊六四一期より)