肉食を断ち、菜食で健康を守る

(絵・陳九熹)

疫病は人類の力では止められないため、引き続き警戒を強めなければなりません。 肉食を断つのは菜食から。「病は口から」という食物連鎖を断ち切ることです。敬虔に斎戒し、人々の心の力を結集して平安を祈りましょう。

年末年始に際して、心から皆さんを祝福し、これまでの平穏な年に感謝すると同時に、未来に対して発心立願しなければなりません。毎日、世の中の平穏無事を祈っておりますが、「とても心配です」という言葉を去年の初めから今日まで言い続けてきました。まもなく年が変わるこの時に、私の心を塞ぐ憂いは言葉に言い表せないほどです。この一年来、新型コロナウイルスは世界に拡散し、未だに鎮まっていません。

今回のコロナ禍で、多くの国が都市閉鎖を実施し、どこにも行けない状態ですが、慈済の救済活動は中断することなく、充分な予防対策をした上で苦難の所に出向き、慈悲と勇気でもって奉仕しています。あらゆる情報や資料は本部にフィードバックされ、私は応接室に座って報告を聞いています。、ここは広くないですが、視野を精一杯広げています。私の目となり両手両足となって、私の行きたい場所に赴き、人々に寄り添って奉仕をしている皆さんに感謝します。皆さんはあらゆる困難を乗り越え、一途に衆生が安らかな喜びを得るられよう、苦労を厭わず彼らに関心を寄せています。それが慈済人に共通する信念なのです。

見える、聞こえる、行きつける所なら慈済人は直ちに駆け付けて奉仕しますが、手が届かない所もあります。例えば、インドの貧困地区の住民たちはコロナ禍で一層苦しんでおり、神職者たちが長期に亘って寄り添っていますが、彼らは私たちからの物資と食糧支援を機に、そして、私たちは彼らの人力を頼って貧困者への配付を行いました。人を助けることができるということに、絶えず感謝しなければなりません。

疫病は人の力で防げるものではなく、常に警戒心を持ち、人々が敬虔に心を合わせ、斎戒して菜食し、愛の心を凝集させて人々を幸せにすることが必要です。また、それは口先だけの愛ではなく、完全な愛でなければなりません。菜食を始めることで肉食を断ち、悪業を造らないことです。国連食糧農業機関の二〇一九年の統計によると、一年間に八百億を超える動物が人類の食用として屠殺され、一日に二億余りの生命が消失しています。衆生は平等であり、動物は殺される時、私たちと同じように恐怖と痛みから怨恨を抱きます。人類の欲望には際限がなく、呑み込んだ動物によって病は口から入ります。

動物の持つウイルスが人に伝染する経路を断ち切って、健康を護るべきです。菜食する人が多ければ、飼育する動物の数は少なくなり、呼吸や排泄による大気汚染が避けられ、大地と水資源を含めて地球環境の負担が軽くなります。「菜食すること」と「それを広めること」は不可欠であり、慈済人が身をもって始めなくてはなりません。仏陀の教えは、天下の衆生は皆、仏性が備わっている故、衆生を救い愛護するように、とあります。

五穀雑糧は人体に栄養を与えて、根菜類の味は人を満足させ、衆生に対して悔いることがないため、身も心も軽やかになります。更に、過剰な食べ残しの浪費は控えるべきです。苦難の人たちは白いご飯を見ることさえ困難です。私たちはそのご飯を食べることができ、農民の苦労に感謝し、大地の養育の恩を知って幸せを大切にしなければなりません。

毎年、私の同じような願は、いつどんな時でも変わることはありません。世の中が平安で社会が穏やかになり、人々が良い心、良い願、良い行いをすれば、それが誠意のある大愛となり、天下の衆生を護ってくれることを心から祈っているのです。何時も慈済人が両手を胸の前に合わせているのを見ると、それが私の心であり、弟子の心でもあると同時に、師弟の心が合わさって仏心になるのだと思っています。「竹筒歳月」の五十銭から始まった、僅かな積み重ねは止まったことがなく、その情をさらに伸ばして大愛を広げており、人道援助は既に百カ国以上に歩みを進めています。

慈済の慈善は一時の支援だけに止まらず、縁を大切にした長期に亘るもので、苦難の人に心の安らぎを与え、彼らが落ち着いた暮らしをして自力更生できるまで続けられています。そして彼らが共に他人を幸福に導いて、人生が変るようになるまで導いています。助ける側の人が様々な困難を克服して、凡夫から菩薩になってこそ、真にこの世の浄化と言えるのです。

五十数年前、私は家を離れて花蓮で独り修行を始め、普明寺裏の木小屋で写経や読経をし、経典を拝んでいた時、半升のお米を一カ月間に食べ終えることができませんでした。その時は一人きりで孤独でしたが、縁によってこれほど大勢の人たちに巡り合い、共に慈済志業を成就させ、人々が歩む菩薩道を切り開いて来ることができました。これは私たちに共通する使命感であり、その感動と感謝は言い尽くせません。

『普賢菩薩警策文』の言葉に「是日已過;命亦随減;如少水魚;斯有何楽?(一日が過ぎると、命もまた少なくなる。水が少なくなったら、魚は何が楽しかろう?)」とあります。人生の無常に警戒心を高め、秒刻みに一日が過ぎれば、この人生もまた一日少なくなるのです。時は止まってくれません。時を追いかけて生命の歴史を書くのです。新たな一年を迎えるに当って、更に一分一秒を大切にして発願するのです。常に奉仕すること、人の役に立つ人間になること、そして絶えず世に幸福をもたらし、智慧を増やすのです。皆さんの精進を願っています。


(慈済月刊六五一期より)

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