煩悩の「気」に遮られて足を止めるのも、
あらぬ考えから人生に障害を作るのもよくありません。
草花と語り合う
北部の紀静暘(ジー・ジンヤン)さん、林智慧(リン・ジーフイ)さん、林雅美(リン・ヤーメイ)さん、陳美月(チェン・メイユエ)さんたちと座談した時、上人は言いました。
「皆さんは自分たちのことを『おばさん』と冗談のように言いますが、いたって平凡な主婦なのです。しかし、慈済の志業は、主婦たちの一日五十銭から始まったのです。早期の慈済委員は民衆から募金しましたが、五元や十元という僅かな善意であっても、それは全て愛の心です。少しずつ蓄積されていき、今では世界中に志業を広めるまでになりました」。
「私は毎日、医者の言うことを聞いて、書斎の外の廊下を散歩しています。花壇の側まで来ると、草花に語りかけています」。「花一輪、草一本にも気と質があり、目に見える質はその形を成し、目に見えない気が流れています。昨日芽を吹いたと思ったら、今日は葉を広げているのです。明日また見に行くと、黄色みがかった赤から緑色に変わっていて、目に見えない繊細な変化が絶えず続いているのです。この世は無常で定まることを知らず、人生の本質も同じようなもので、憂慮に値します。道心を永遠に堅持するのは容易なことではありません。私はベテラン委員に会うと、心から労りたくなります。私を見捨てることなく側にいてくれる、その師弟の情は貴いものです。それを手放してはなりません」。
「人生は無常でも、因と縁は永遠です。私たちの因はずっと以前に結ばれており、絶えず縁を長く続けることです。天地が続くように、どこに居ようとも、この慈済の情を手放さなければ、方向が逸れることはありません。もし慈済を離れたなら、僅かな差で千里を失ってしまいます。今生で慈済の情がきちんと結ばれていれば、来世での菩薩道は同じように正しいものになります」。
「この数十年間、私たちは台湾や世界で、どれだけ災害支援をしてきたか、数え切れません。できる限り過去に遡って、あらゆる出来事を整理するしかありませんが、あなたたちも覚えている分だけ話してください。先ほどの話はとても素晴らしく、興味深いものです。当時は大変な苦労でしたが、今思い返すと興味深いものを感じます。苦労は既に過去のものとなり、心に残っているのは喜びだけです」。また、上人は、ベテラン慈済人が過去を振り返って、「甘んじてやり遂げた苦労話」をすれば、脳が活性化されると共に慈済のためにもなり、自分の人生を歴史に残すことになる、と言いました。
「私は毎日自分の行為を振り返り、この人生は価値のあるものだった、といつも自分に言い聞かせています。私は間違ったことをしたことはなく、たとえ望み通りにはならなくても、誰一人傷つけたことはありません。もし、私に対して不満があっても、私は最善を尽くしているのですから、何ら恥じるところはありません。あなたたちは止まるところを知らず、志業を行ってきました。実は『宝は近い』と言われるように、菩薩道を歩む時には止まってはいけないのです。その道中では『化城』で足を休め、体力が回復すれば、再び出発し、『宝城』に向かって進み続けるのです」。
「自分のあらぬ考えで自ら障壁を作ってはいけません。その実、人生の障壁の多くは自分が作ったものなのです。時間は人を待たず、道を歩いても石につまずいて不用意に怪我し、屈んで『痛い』と叫んでも、治るまでには時間が掛かります。もし痛みを我慢して進めば、そのうちに足の痛みは忘れてしまいます。そこに止まって治るのを待っていると、却って益々痛くなるのです。以前にも『痛、快』について話したことがありますが、痛みを早くやり過ごすのは進歩している証拠です。人と摩擦が起き、一度傷つくと、立ち止まって癒えるのを待ちますが、その間に後ろの人が追い越し、いつまで経っても人後に落ちてしまうのです。歩み出そうとする時、既に前の人とはかなりの距離が開き、その『気』に遮られてしまいます。ですから、人生では煩悩の『気』に遮られないようにすべきです。さもなければ、意地になって足を止めることは自分の慧命の成長を止めることに他なりません。慧命は前進し続けなければならないのです」。
「進むか止まるか、または後戻りするにしても、時間は同じように過ぎて行きます。自分でどれを選択するかです。今の行いが正しければ、その方向が逸れないようにすることであり、毎日正しい観念を持って正しい方向に進むのです。『八正道』を守り、精進して『六度』を行われなければなりません」と上人は言いました。
「皆さんはまだ元気なのですから、縁を逃してはいけません。私も皆さんの歳に近いのです。発心立願し、時間を無駄にせず、慈済の志業をたくさん伝えてください。そして、若い人に付き添い、過去の経験を話してあげれば、それが説法になるのです。六根の功能を発揮するには、眼 (げん) ・耳 (に) ・鼻・舌・身・意がはっきりしていなくてはならず、慈済という道を進む過程で、人を導いて付き添うには、心とその方向がしっかりと正しくなければいけません」。
(慈済月刊六七八期より)