徳仰法師を追悼する─「無言」の良師に敬意を表す

徳仰師父の性格は内向的でもの静か。口数が少ないというよりも無口だった。

こうして修行者として後人に残した風格は、身でもって教えたものである。

静かな午後、机の横に置いてあった携帯電話が静寂を破った–静思精舎の徳仰(ドーヤン)師父(スーフ)がこの世を去り、慈済大学解剖センターに献体されたとのこと。長短様々なメッセージが続けて入って来た。

人生にも長短がある。徳仰師父は享年八十四歳で、長寿の方だった。しかし、證厳法師は、人生の価値は寿命の長さにあるのではなく、生命の広さと厚みにある、と私たちに教えた。

徳仰師父の性格は内向的で、もの静かな人だった。口数が少ないというよりも無口といった方がいい。修行者として後人に残した風格は、身でもって教えてくれたものである。

徳仰師父の後に付いて日常の作業をしている時、技術指導を必要とする以外は、作業場には作業の音しか聞こえず、雑談の声が聞こえてくることは全くない。目の前の仕事がどれだけ煩雑でも、師父は精神を集中させて続けていた。整然と秩序を保ち、忍耐強く、口を開くことなく、手だけを動かしていた。それが師父の禅定と精進だった。

晩年は病に苛まれたが、同門の弟子や居士または雇っていた外国籍介護士の手伝いを問わず、誰に対しても感謝し、自分の意見を言うことはなかった。ある日、私は師父に、自分の考えをはっきり伝えてもいいのではないかと助言したことがあるが、師父は、人には夫々のやり方があり、迷惑を掛けてはいけないと言って、全てを受け入れていた。それが師父の「随縁」と「善意に解釈する」姿だった。

徳融師父(右)、徳恩師父(左)と徳仰師父(中)は1970年一緒に出家し、台北臨済護国禅寺にて具足戒を受けた。(写真の提供・花蓮本会)

好学だが、教えることを倦まない

数年前、《修・行・安・住—證厳法師の五人の長老弟子》という本を書くにあたって、資料収集をする為に何度か精舎に帰った。徳仰師父と私は何年も前から知り合いだったので、師父はジャーナリストという仕事の性質をよく知っていた。師父と「雑談」しようと思って近づこうとすると、笑いながら「何しに来たのですか」と聞くか、直接インタビューを断わるのだった。

精舎の師父たちは、とかく自分たちがしていることは多くないので、文字にして残すほどではないと考えている。出版の締切りが目前に迫っていた時、私が徳仰師父と親しくなかったならば、師父が毎週教えている漢文の《楞厳呪(りょうごんしゅ)》朗誦クラスの学生にはなり得なかったと言えるだろう。

師父が自分から口を開く唯一の機会は講義をする時で、生徒としてお年寄りの側にいれば、何かと観察することができた。

徳仰師父の私塾では、私たちは三人、五人、と円座に座る。いつも先ず師父が二回、続いて私たちが声を合わせて朗誦した。《楞厳呪》というお経(陀羅尼)は梵語をそのまま音読みするので発音が特に難しい。徳仰師父によると、幼少の頃、花蓮の慈善院で《楞厳呪》を勉強していた時、一ページ目でもう止めようと思ったことがあるという。

徳仰師父が当時、「難しい」と感じたのは、初心者である私と同じで、まるで「外国語」だったそうだ。漢字の横に付いている発音記号は全く参考にならなかった。ましてやその漢文の発音は閩南語とは異なっていて、思いも寄らず師父も同じような経験をしていたのだ。しかし、今では流れるように誦経するだけでなく、多くの弟子に教えるようになったのである。

陀羅尼(だらに)はまるで連なったパスコードのようなもので、一つ間違えると、間違った暗号のようになる。師父は私たちの誦経を聞いている時、あたかも耳にふるいが付いているかのように、あらゆる発音やアクセント及び段落の位置を厳しく聞き分けた。少しでも間違えると、師父は直ちに私たちを止め、もう一度読んで聞かせた。また、個別に質問するよう私たちを励ました。

徳仰師父は決して厳しい先生ではなかったが、うんざりした表情を見せることは一度もなかった。何時でも私たちからの「もう一回読んで欲しい」というリクエストに応えてくれた。師父は学生の向学心を喜ぶが、唯一不機嫌になるのは、学生が貪欲で早く成就したがる時だった。学生が手順を踏んで、真面目に学べば、師父はいつも無限の忍耐と包容力でもって受け入れてくれた。

徳仰師父は幼少期から漢文を学び、出家後はその漢文で誦経することに秀でていた。(左写真の撮影・蕭耀華)

法師を慕い、共に責務を担う

一昨年十一月、證厳法師の一番弟子である徳慈師父のご遺体が慈済大学の模擬手術授業で起用された。丁度その時、徳仰師父は花蓮慈済病院に入院していた。見舞いに行った時、師父の一刻も早く退院したい気持ちを知って、私は不用意に、せっかく入院しているのだから、体をしっかり治してから精舎に戻るよう勧めた。そうすると師父は厳しい顔付きで私に、他の出家人は皆、仕事がとても忙しいのに、自分一人だけ入院して何もしない訳にはいかない、と言った。ましてや同門の弟子たちに看病してもらうなんて…。

徳仰師父の思いは、私に師父の言葉を思い起こさせた。初期の頃、畑仕事で慢性的な睡眠と栄養不足に陥り、熱中症で倒れそうになったので厨房に駆け込んで水を飲むこともあったという。そういう時、疲労でいくら休憩したいと思っても、きつい日差しの下で作業している同門の弟子のことを思うと、一人だけ楽をする気にはなれなかった。

一番弟子と同様、徳仰師父は同門の弟子を思い、早く精舎に戻って仕事を手伝いたかった。その強靭な精神力は、病院のリハビリ・プログラムに対し、積極的に協力する姿勢に表れていた。ある日、徳侔(ドームー)師父が特別に、精舎の裁縫工房から何本かの細長い布を持って来た。元々裁縫をしていた徳仰師父によると、早期の出家人の服はほとんど師父の手作りだったそうだ。徳侔師父は、その「語りかける生地」に親しんでいる五番弟子の徳仰師父に、布を編むことが手のリハビリになると考えた。

案の定、徳仰師父は布を手にすると、直ぐ縄を編み始めた。徳仰師父の元気な様子を見て、私は小さな経本を開き、徳仰師父に《楞厳呪》を再度指導してもらった。自分が誦経する声はまるで子供が自転車に乗るのを学ぶようなもので、道は真っ直ぐなのに、車体は左右に蛇行し、今にも倒れそうになる。徳仰師父が頭を下げて、私と一緒に経本を読んだ。耳元に響いた声は、私が間違いなく誦経できるよう、願いを込めていたことが感じ取れた。

徳仰師父は長年裁縫と手作りの仕事に従事し、頭を低くしたまま作業していたため、頸部に大きな負担がかかり、顔を上げるのが一苦労だった。晩年は脳梗塞と癌で、四肢のリハビリだけでなく、呑み込む練習までしなければならなかった。それほど健康を害していても、同門の弟子の生活を思い、仕事を分担していた。

晩年は脳梗塞を患ったが、徳仰師父は毎日仕事ができるよう望み、体力が許す限り、厚いサチャインチナッツの皮剥きを手伝った。(撮影・黄筱哲)

最後の一刻まで奉仕する

暫くして、言語療法士が病室にやってきた。療法士は、口数が少ない徳仰師父がお経を朗誦しているのを聞いて、これは最も良いリハビリだと言って、続けて徳仰師父に音階の練習を指導した。まるで音楽クラスにいるように、徳仰師父は言語療法士の手の動きに沿って、顔を上げたり下げたりして、真面目に発声練習をして筋肉を鍛えていた。

私は横で観察していたが、徳仰師父は学生であっても教師である時でも、いつも真面目で厳粛に臨んでいた。円満に一生の修行を終えた後、徳仰師父は未解決の医学問題を医師たちに託した。大学解剖学科の「無言の良師」についてたくさん書いてきたが、徳仰師父は生前から「無言」の良師だったと言える。

この文章でもって、将来徳仰師父のご遺体から学ぶ医師たちが謹んで学習することを祝福し、これが徳仰師父の切実な望みでもあるのだと信じている。

(慈済月刊六七八期より)

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