窪地地形の台南市白河区糞箕湖地区では、多くの平屋建ての家が台風で浸水した。ボランティアは清掃用具を持参して三合院(台湾の伝統的住宅)を訪れ、後片付けを手伝った。(撮影・黄筱哲)
強い台風三号が大きな被害をもたらした。慈済ボランティアは十五日間にわたり、被災した一万世帯余りに愛を届けた。
恵まれない家庭や一人暮らしのお年寄りなど、支援を必要としている人を探し、後片付けの手伝いや修繕、福祉用具の提供、生活支援のためのお見舞金の配付など、慈善活動を行った。
台風3号が台湾を通り過ぎても、7月26日の台南では豪雨が続いた。膝の高さまで冠水した麻豆区ではボランティアが救助艇で被災地に弁当を運んだ。(撮影・陳和昇)
今年最初に台湾を襲った台風三号(ケーミー)は、七月二十五日午前零時に宜蘭県南澳郷に上陸し、四時二十分に桃園市新屋区から海に抜けたが、台風周辺の空気の流れと湿った空気を含む南西の風の影響で、 嘉義以南の地域では驚異的な雨量を記録した。
その間、台湾の気象局は四回強風警報を発令し、ケータイ電話に送信された災害級雷雨警報は二十回を数え、嘉義、台南、高雄、屏東の各地区では七月二十五日の豪雨が深刻な浸水被害を引き起こした。
七月二十五日早朝、嘉義県八掌渓が氾濫し、周辺の家屋は一階の天井まで浸水した。堤防沿いに位置する柳新村の陳皇如(チェン・フワンルー)村長は、台風警報が発令されるたびに臨戦状態に入り、昼夜を問わず水門脇で水位を監視していたが、今回も浸水を免れなかった。
同村美上美地区に住む李さんによると、川が氾濫しそうになったため、役場が設置した避難所に避難するよう、村長や村幹部から住民に呼びかける防災無線のアナウンスがあったという。しかし、一人暮らしで重度身体障害者の李さんは、市内の姉の家に避難するほかなかった。
「二日たって水が引いたので帰ってみたら、家じゅうメチャクチャになっていました。ショックでしたね。それで、どうしたらいいか分からず、村長しか思い浮かばなかったので助けを求めたのですが、慈済ボランティアの皆さんが手伝いに来てくれたので、本当に感謝しています!」。
七月二十八日、百人ほどの慈済ボランティアが水上郷役場に集合した。ほうき、洗面器、バケツ、ホース、スコップ等を手に、グループで地域に分かれて後片付けを手伝った。道路沿いには、水に浸かって使い物にならなくなった家具やごみが山のように積まれ、ゴミ収集車、グラブマシーンやボブキャットなどの重機で作業が進められていた。住民はボランティアを見ると、合掌して感謝した。「わあ!こんなに大勢来ていただいて、本当に有り難いです」。
雨が上がると、訪問ケアチームは直ちに家庭訪問を行った。自力で後片付けができない家もあったため、村長に、後片付けが必要な家庭をリストアップしてもらった。初めは数軒だけだったが、ボランティアが現場に着いてみると、住民たちが次々と支援を求めてきた。皆で泥を洗い流し、大型家具を元の位置に戻したり外に運び出したりして、復旧を加速させた。
陳村長によると、雨後の衛生環境は劣悪で、堪えがたい臭いが漂っていたという。
「慈済は物理的な困難を解決してくれただけはありませんでした。私たちは愛と支持を感じることができたのです。それが励みになって、一日も早く生活を立て直そうと思うようになりました」。
八月三日の午前中だった。防災無線スピーカーから再び陳村長の声が響き渡った。
「今日は慈済の人たちが美上美地区で家庭訪問をします。皆さん、自宅でお待ちください。また、柳安宮で慈済大林病院の医師による施療があります。ご希望の方はどうぞ柳安宮までお越しください」。
大雨の後、台南市白河区のあるナンバンカラスウリ園で作物が腐り、農業被害が深刻であった。
台風休暇中でも食事の準備は止められない
七月二十三日十一時半、陸上台風警報が発令されると、台湾の十数カ所の県や市にある慈済支部や連絡所では、次々と災害対応センターが立ち上げられ、在庫物資の点検を行い、いつでも自治体の避難所の運営や災害支援のニーズに応えられるよう準備した。台風を警戒する間、南部の自治体は稀に見る三日連続の台風休暇を実施した。だが、洪水で孤立した所であれ、被災後に後片付けしている家々であれ、一食の温かい食事は貴重なものである。ボランティアは二万六千個余りの弁当を届けた。
何年も浸水被害が起きていなかった高雄市岡山区劉厝里と白米里でも、七月二十五日午前に浸水被害が発生し、腰より上まで水位が上がったところもあった。二つの地区の里長たちは慈済に支援を求め、ボランティアは直ちに救援物資と弁当を届けた。翌日の午前中、ボランティアは断続的な暴風雨の中にもかかわらず、八百個余りのパンと六百パックのビスケット、二十五箱のミネラルウォーターを劉厝里宝公宮に送り届けた。里長は、防災無線で住民に取りに来るよう伝えた。
訪問ケアチームから弁当のニーズを聞いた岡山区炊事チームのリーダー欧金葉(オウ・ジンイェ)さんは、直ちに人員を動員して食材の買い付けを行い、調理・盛り付け・箱詰めを急ぎ、白米里公民館に弁当を届けた。わずか数時間で三百七十個の弁当を用意したのである。
一方その頃、高雄中の慈済人も動き出していた。十五チームに分かれて浸水した地区を見舞い、一軒ずつパンを配りながら、昼の弁当が必要かどうか尋ねて回った。三民区湾興里孝順街に住む姚皓哲(ヤオ・ハオヅェ)さんは、パンを受け取ると、感激のあまり、こう言った。
「これは、私にとって今日の最初の食事です」。
七月二十六日朝七時前、高雄静思堂はすでに熱気に包まれていた。地下室ではボランティアたちがマスター・フォン・ベーカリーから届いたパンの数を数え、和敬ホールでは安心祝福セットの包装が行われていたのだ。厨房は野菜を洗ったり、切ったり、大鍋で調理したりするボランティアで溢れ、それぞれ自分の役割を果たしていたが、慌ただしさの中にも秩序があった。
「この二日間は台風休暇中ですが、在庫はあります。ありったけの材料を使いますよ」と話すのは、当日、調理当番だった鳥松区和気チームリーダーの呉秀霞(ウー・シュウシァ)さんだ。呉さんは五十人のメンバーと共に九時半から弁当づくりに取りかかったという。また、合心チーム幹事の顔月桃(イエン・ユェタオ)さんは、「昨夜六時過ぎに任務の知らせを受けてから、知り合いのツテを頼って何とか食材を用意しました。千六百食は作れます!」。十一時前には全部の弁当が完成し、四つのルートに分かれて橋頭区、梓官区などに届けられた。
風雨の中、力を合わせて温かい弁当を届ける
七月二十六日早朝、台風の暴風域は台湾本島から遠ざかったが、雲林県と嘉義県の一部では降水量が千ミリを超え、低地の大林鎮、渓口郷、新港郷は水に浸かり、多くの民家が陸の孤島となったので、出入りすることも炊事もできなくなっていた。台風休暇でビュッフェ食堂は休業、食材の仕入れも困難だったため、役場は慈済に弁当を依頼した。緊急且つ膨大な数だったが、風雨の中、ボランティアにも被災していた人がいたことで、十分な人手を確保できなかった。慈済大林病院人文室の曽雅雯(ヅン・ヤーウェン)さんは、病院の栄養治療科に支援を求めた。電話の向こうからは力強い声が返ってきた。「二十分で準備しましょう!」
曽さんの呼びかけで、百人ものスタッフが次々と厨房に駆けつけ、弁当作りを手伝った。十五分後には最初の焼きそばができあがった。弁当の数は千個から千五百個に増えたため、栄養士は冷蔵庫からありったけの食材を運び出し、同時に業者にも追加発注した。
深刻な水害に苦しむ人々を助けたいと願う厨房の人々の心は、熱かった。外では別のボランティアが、運搬のために車で待機していた。各地域の連絡窓口ボランティアは配付地点に集まり、役場の職員と共に被災地へ弁当を届ける手配を済ませると、受け渡し地点で待機した。まだ浸水している地域へ行くので、軍や警察、消防隊も協力してくれた。
軍用トラックに乗り、台南市後壁区新嘉里に物資を運ぶボランティア。冠水がひどい場所を避けるため、トラックは迂回しながら進んだ。(撮影・林俊賢)
茂林地区でお見舞金を配付
高雄市全域の百余りの河川で土石流発生の可能性を知らせるレッドアラートが発令され、五つの行政区に大規模土砂災害警報が出された。慈済人は状況を見守りながら、證厳法師の言いつけ通り、安全を確認してから茂林区、六亀区、甲仙区などの山間部を訪れた。
ボランティアの李琇釧(リー・シュウツゥアン)さんは、七月三十一日に茂林セブンスデー・アドベンチスト教会から、現地の八世帯が土石流で深刻な被害を受け、三世帯は一階の天井近くまで浸水しているため、慈済に支援してもらえないかという電話を受けとった。十七人のボランティアがチームを組んで山間部に行くと、山道は曲がりくねった一方通行だった。台風襲来からすでに八日目だったが、山間部では午後になると時々大雨に見舞われ、途中の濁口渓はごうごうと唸っていた。
被災した陳菊美(チェン・ジュメイ)さんは、七月三十日、茂林風景区のコンビニで慈済ボランティアの姿を見かけると、「助け船が来た」という表情で息せき切って窮状を訴えた。彼女と夫、九十九歳の母親が自宅から避難して十分も経たないうちに、土石流が家に流れ込み、壁が壊れてしまったので、今は弟の貸し家に一家で身を寄せているのだという。
その時、山村に大粒の雨が降ってきた。それは、まるで彼女の涙のように思えた。「慈済ボランティアの皆さんに出会ったのは、神様の思し召しでしょう」と彼女は感慨深い顔で言った。ボランティアの蔡慧玲(ツァイ・フエイリン)さんは、「安心してください。今日届けたお見舞金のほかに、後日お母さんに電動ベッドを届けます」と言った。愛の支援は途切れることがない。
八月一日、ボランティアは再び多納(ドナ)里の集落に向かった。元々六本のトラックがあった多納運動場は、一時は冠水してプールのようになったそうで、水が引いた後も一面に泥がこびりついていた。ボランティアは徒歩で被災した人がいないか探した。
ある七十三歳の住民は、台風が来る前に車を高台に移動させ、車中で寝泊まりしたため、土石流に巻き込まれずに済んだ。もう一世帯は今も停電しているため、木を燃やしてお湯を沸かしていた。「災害が起きるたびに、慈済は真っ先に駆けつけてくれます」。集落の長老である劉富郎(リュウ・フーロン)さんが言った。
大樹が折損し、道は土砂で埋まり、電柱は横倒しになっていた。その光景は、大自然の恐ろしさと、人間がいかにちっぽけな存在であるかを痛感させた。今回の活動でボランティアたちが最も感銘を受けたのは、現地住民の温かさと前向きな態度であった。住民の顔には希望が見えていた。
土石流被害の発生が報告された高雄市茂林区多納里の集落。8月1日、ボランティアは泥道を歩いて被災した家を訪ねた。(撮影・李美慧)
障害者や独居高齢者のために後片付け
水が引くと、被災地の家々は後片付け作業に追われた。慈済は各地区でボランティアの人数や年齢を考慮して、後片付け支援の対象を一人暮らしのお年寄りや障害者、被災したボランティアに絞ることにした。八月一日、嘉義のボランティアは水上郷義興村赤蘭渓沿いの地区へ向かった。台風が去って一週間が経っていたが、道路は冠水したままだ。一行は長期支援世帯の張(ヅァン)さんの家を訪れた。床は濡れていて、皆は何度も足を滑らせた。
ボランティアは室内の泥をスコップですくってはバケツで外へ運んだ。泥だらけになって壊れた物も一つ一つ運び出し、清掃車が来るのを待った。家具のほとんどは使い物にならなくなっていた。ボランティアが思わず「一体どこまで浸水したの」と尋ねると、彼女は屋根を指差した。「家全体が水に浸かりました」。
彼女は身寄りもなく、病気を患っている。昨年、役所から通報があったので、今は慈済が支援している。彼女の家は周囲より低い場所にあるので、台風が来た時は真っ先に水上郷役場に避難した。去年から訪問ケアにあたってきたボランティアの葉秀栄(イェ・シュウロン)さんによると、水が引き、他の避難者が皆帰宅しても、彼女だけは家に帰らず、三日間役場にとどまったという。
慈済大林病院の林名男(リン・ミンナン)副院長が水上郷公所に施療に訪れた際、彼女は心身のつらさをつぶさに訴えた。
「幸い慈済の方が福慧ベッドや日用品や温かいお弁当などを持って来てくれました。慈済病院の先生にも診てもらえて、本当に助かりました。でも、やっぱり家が心配です。台風で吹き飛ばされたのではないかと思うと…」。
そこで、ボランティアはまず七月三十一日の夕方に彼女の家を下見に行き、次の日に十五人で後片付け作業をすることにしたが、最終的には二十五人ものボランティアが集まった。家の中はひどい悪臭が漂い、堪えきれずに吐いてしまうボランティアもいた。それでも彼らは懸命に清掃し、数時間後には部屋もキッチンも見違えるようにきれいになった。張さんはボランティアの葉さんを抱きしめ、涙を拭いながら言った。
「よかった!これで寝ることができます!」。
台南市塩水区岸内里の家庭を訪問し、お年寄りの訴えに耳を傾け、安心祝福セットと法師のメッセージを手渡すボランティア。(撮影・黄筱哲)
泥だらけになった台南市糞箕湖地区の三合院にて。悲しみを抑えきれないお年寄りの傍らで、ボランティアは静かに耳を傾けて話を聞き、必要な支援について考えた。
家庭訪問で心のケア
ボランティアたちは「安心家庭訪問」活動を展開した。彼らは安心祝福袋を手に、暑い中を、被災地の隅々まで訪ね歩いた。安心祝福袋には穀物粉やお菓子、豆乳粉などに加え、證厳法師のお見舞いのメッセージも入っていた。慈済台南連絡所のソーシャルワーカー葉雅玲(イェ・ヤーリン)さんは、家庭訪問の目的について、「安心祝福袋と法師のメッセージを手渡して、不安を和らげることが第一です。第二に、更なる支援が必要な家庭を見つけることです」と説明した。
田舎には高齢者が多い。台南市麻豆区に住む謝何美梅(シェ・ホーメイメイ)さんは、ドアを開けて慈済ボランティアを見るや否や、満面の笑みを浮かべた。「私たちのことをちゃんと気にかけていてくれる人がいるのだ!」。謝さんは家電修理の人を待っているところで、大きな家具はまだ元の場所に戻さず、扇風機の風で乾かしていた。洪水が襲って来た時、彼女は八十六歳の夫と為す術もなかったという。ちゃんと食事はできているのかと尋ねると、「慈済のお弁当がない時はインスタントラーメンです」と笑った。
麻豆ボランティアの李宏珍(リー・ホンヅン)さんはこう話す。災害後に緊急支援や被災者の世話に駆け回っていたが、ある時ボランティアの一人の家を訪れた。すると、家の中は異臭が漂い、びしょ濡れの寝具が目に入った。「彼女が遠慮して『うちは大丈夫』と言っていたことを思い出して、涙が出ました」。
ボランティアの施宝金(スー・バオジン)さんは災害当初のことをこう振り返った。彼女は支援準備のため、自転車で集合場所に向かっていた。強い雨風にレインコートも役に立たず、全身濡れ鼠になりながら、彼女はひたすら、「私だけボランティアから抜けるわけにはいかない」ということだけを考えた。実は彼女の実家も被災していたのだが、兄嫁が家のことを一手に引き受けてくれたおかげで、彼女は災害支援に全力を注ぐことができたのだという。雨風と強い日差しに耐え、彼女は住民が法師の祝福を受け取った後、安らかな日々を過ごせるようにと祈った。(資料提供・劉淑貞、陳美珠、陳慶瑞、蘇百薇、王慧玲、黄怡慈、林端対、荘玉美、李美慧、張小娟、徐麗華、呉婕盈)
(慈済月刊六九四期より)