- 出来事:南半球で産婦人科及び早産児看護における最大医療施設のマターホスピタルは、今年二月、リフォームした「慈済ルーム」を再開した。そして、慈済人の三十四年間にわたる奉仕に深く感謝し、病院が表彰した。
- 背景:慈済が医療機器と研究資金を寄贈し、母子看護を支えた。
- 資金:中華系移民を中心とするボランティアが募金活動を行い、地元に還元している。
「慈済ルーム」が再開された日、ボランティアたちは招待されて見届けた。シスター・アンジェラ(中央)と病院の前で記念写真を撮った。
今年二月二十三日、オーストラリアの慈済ボランティア・呉照峰(ウー・ヅァオフォン)さんは、百歳になるシスター・アンジェラの手を引いて、マターホスピタルを散策した。場所と人物は同じだが、前回から既に三十四年が経っていた。
一九九〇年八月一日、呉さん一家がブリスベンに移民した当時、現地にはまだ慈済人はいなかった。そこで呉さんは、数人の中華系の婦人たちを誘って、一緒に社会奉仕を始めた。十一月十六日、彼女は慈済委員の身分で病院ボランティアを始め、それ以後、婦人たちと共に医療、教育、研究等の方面でコミュニティサービスをするようになった。
当時、マターホスピタルでは、每年約一万二千人の新生児が生まれ、その中の二千人は、重病と早産の新生児だったため、早産児集中治療管理室でケアする必要があった。しかし、オーストラリア景気が後退していたことから、病院は差し迫って必要だった先進医療機器を購入することができないでいた。
来たばかりの時は言葉が通じなかったが、呉さんは何をも恐れない精神で、各地を奔走し、八日間という短い期間に、台湾ドルにして七十万元(約三百万円)を募った。そして一九九二年六月、五年越しの懸案だった超音波スキャナー (Ultra Sound Scanner)を購入して、マターホスピタルに贈呈した。その二カ月後、その機器は大きな役割を果たした。ギネスブックの記録にも認定された、僅か三百七十四グラムの低出生体重児を救ったのだ。このニュースは、当時オーストラリア中で話題になった。
ボランティアの募金活動は、今も変わらず続いている。募ったお金は地元の低所得者世帶支援に使われている。慈済と病院は緊密に連携し、一九九八年にはパプアニューギニアで起きた津波の被災世帶を支援し、二〇〇四年には難民に歯科施療を提供した。去年は鬱病に患った妊婦のケアをする「キャサリンハウス」を支援し、オーストラリアで唯一無二の、統合型家庭メンタルヘルスセンターとなった。
一九〇六年に設立されたカトリック教マターホスピタルは、今では、南半球最大の産婦人科及び早産児看護に特化した病院である。病院側は、一九九四年から每年七月十日を「慈済デー」と定めた。マターホスピタルの前身だった修道院は、永久取り壊し禁止の古跡に指定されていたが、病院側は二〇〇〇年、そこに「慈済ルーム」を開設した。今年二月二十三日、リフォームした部屋を再開し、證厳法師の写真と慈済人の奉仕を記録した諸々が、部屋の壁いっぱいに飾られてある。マターホスピタルを訪れると、慈済ルームは必ず案内されるスポットなのである。
病院で四十年余り勤めて退職した、八十歳の元早産児集中治療室主任のデビッド医師は、この病院が世界でトップクラスに仲間入りした全ての栄誉には、慈済人の足跡が満ちていると強調した。
シドニーのボランティア呂文松(リュー・ウェンソン)さんと李惠芳(リー・フェイファン)さんは、わざわざシスター・アンジェラに会いに行き、何度も目を潤ませた。当初、慈済人は奉仕する心はあっても、社会に溶け込むことができないでいた。その後、シスターが老人ホームと病院での奉仕を紹介してくれたことで、ようやく社会奉仕の道を歩み始めることができたのだ。
一九四七年、故郷のアイルランドを離れてオーストラリアで一生を捧げる決意をしたシスターは、マターホスピタルの院長を二十二年間歴任した。彼女は八回台湾を訪れ、法師にあっている。今、昔なじみに寄せる強い思いを語った。
「私たちは、再び会う機会はないかもしれません。しかし、私は初めて上人と会った時のことを、永遠に忘れません。言葉も宗教も住んでいる国も違うのですが、目と目が合った瞬間、お互いに何でも分かり合えたと思いました」。
(慈済月刊六八九期より)