代々受け継いでいく福と慧

慈済とは、善と愛が出会うところであり、一代目の慈済人によって、それが形となって現れました。

人間(じんかん)菩薩を多く招き入れるだけでなく、各自の家族でも善と愛と福で以て家伝とし、代々受け継がれていかなければなりません。

毎年二回にわたって行われる、認証授与式は、十一月二日、歳末祝福会と共に、新竹で今年第一回が行われました。時間が経つのは早いもので、もう直ぐ新年を迎えようとしています。一分一秒は知らず知らずのうちに過ぎて行き、もし、一日に八万六千四百秒もあるのだから、一秒なんて大したことではないと思うならば、滑り台のようにあっという間に時間は過ぎ去ってしまい、人生も過ぎて行き、その価値は失ってしまいます。一分一秒を大切にし、日々すべきことを心して行ってください。

台北から新竹、桃園、台中へと行きますが、到着すると、直ちに目で出席者を確かめています。そして、創設当時のベテラン慈済人が黒髪から白髪になっても、その道心が退いていない姿を見ると、これこそが最も貴いものだと感じます。もちろんその場に来ていない人もあり、心残りもしますが、既にこの世に生まれ変わり、菩薩精神を携えて、慈済人の家庭に来ていると信じています。

感慨深いものは多々ありますが、一方、とても慰められることもあります。なぜなら、仏法が受け継がれて、三世代、四世代が一緒に暮らし、家族全員が善行し、慈済に参加し、子供たちが親の活動に賛成するだけでなく、一緒に奉仕しているからです。曽祖父母、祖父母、そして両親が幼い子を連れ、手に重い貯金箱を抱えて寄付に来ました。これこそが智慧のある教育の賜物と言えます。子供は自分の好きなお菓子への欲求を克服し、そのお金で人助けをするのです。そのような愛を育むことができれば、一家は幸福と智慧に満ちるでしょう。

慈済は、善と愛が出会うところであり、私たちの世代で形となって現れました。第一世代の慈済人は、人間(じんかん)菩薩を多く招き入れただけでなく、各自の家庭でも善と愛と福で以て、家伝にしています。

皆さんの分かち合いを聞くたびに、どれも皆さんが一歩一歩着実に歩み、チームを結集して歩んできた道のりだと感じます。そして、人に導かれたり、人を導いたりして得た会得の話は尽きず、善行する方法は、お互いに学び、啓発し合っているのです。「彼にできるなら、もちろん私にもできます」と。やる気があれば、成し遂げられない事などありません。

慈済人は日増しに増え、菩薩が続々と集まり、各国で慈済の因縁を拡大し、慈済の志業が広がっています。歳月は過ぎて行きますが、慈済人が居るところには、必ず善人や善事による奉仕が行われています。このテクノロジーが発達した時代に生き、素晴らしい縁で皆さんと一緒にいられることは、「とても幸せなこと!」と私は毎日、自分に言い聞かせています。

五十余年前、慈済の「竹筒歳月」は、三十人の家庭主婦が日々五十銭を貯めて、花蓮の生鮮野菜市場近くに暮らしていた、助けを必要としていた何人かに奉仕することから始まりました。今ではその数は飛躍的に増加し、この世の衆生のために、世界各地で大勢の菩薩が奉仕しています。慈善の足跡は百三十六の国と地域に到達していますが、この力には、あなたや私、彼の両手がなくてはなりません。そして、もっと手を取り合い、菩薩を迎え入れなければなりません。

どこにいても法を伝えることができ、どこでも衆生を済度することができます。誰もが菩薩であり、修養ができている人は良い模範であり、賞賛に値します。またある人は、私の前に来て懺悔し、かつての迷いや過ちを皆さんに告白し、「漏気求進歩」をすることで、人生を改めました。悪い状態からよい状態に変えるために、勇気を持って改めることは、大衆の教育にもなるのです。

たとえ、過ちを犯す悪癖があっても、人は皆、仏性を持っており、正道に回帰し、菩薩になることができます。これら過去の物語がなければ、人々に言い聞かせるこの世の法は存在しないでしょう。それを善用することで、「法薬」にもなりましょう。一滴の法水は甘露のようなもので、喉が渇いた人には、この一滴の水が必要なのです。

慈済の法髄は『法華経』であり、それを拠り所にして菩薩道を切り開いて来ました。『無量義経』は『法華経』の精髄であり、宇宙空間から現代生活に至るまで、分かりやすい道理で、社会の運営や家庭教育の方法を全て示されており、日常生活中で実践することができます。皆さんが自分の一生で仏法を活用するだけでなく、大衆にも使うようになって欲しいのです。そして、すべての家庭や地域で、誰もが仏陀の教えを理解し、仏陀の教育を広めることを理解して、法髄を各家庭に取り入れ、この敬虔な思いを人間(じんかん)に広めるのです。

今回の行脚は、前回よりも体力が落ちています。生命は滑り台から滑り降りるように過ぎるので、一層、時間を無駄にせず、慧命を伸ばさなければいけないと感じ、気力を絞って頑張っています。過去にも説いて来て、今も説いていますが、将来は皆さんが私の教えを受け継いで伝え、慈済の法が人間(じんかん)に根付いていくことを願っています。生老病死は自然の摂理で、世の中は常々集まりや別れがあり、無常の人生の中で、私は何も求めず、今日だけを大切にしています。毎日、目が覚めると、手足が動き、ベッドから下りられるなら、今日すべきことをしっかりしなければなりません。

私の心願は「仏教の為、衆生の為」です。今はこの因縁に恵まれて、共に仏法の中にあり、引き続き歩みやすいように道を切り開き、衆生を済度しなければなりません。菩薩道という軌道があれば、永遠に道に迷うことはなく、より多くの人々を導いて、広い大道を歩んでください。皆さんが心して精進することを願っています。

(慈済月刊六九七期より)

㊟台湾語の言葉で、自分の前非を他人に告白し、悔い改めるという意味。

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