二十七年間ひたすら心を込めて

(撮影・蕭耀華)

二十七年間、日本語版の月刊誌『慈済ものがたり』は毎月欠かすことなく発行されてきた。裏方の翻訳ボランティアたちが、一筋に行って来た奉仕によるものである。

毎週集まって校正校閲し、互いに日本語力を磨き、慈済の善い行いを日本の読者に紹介している。

ものがたりの始まりは「日本語版の月刊誌を作ってください」。證厳法師が杜張瑤珍(ドゥ・ヅァンヤオヅン)さんにこう指示した時、彼女はただ呆然とするだけだった。「私はただの主婦なのに、出版物の刊行という重責を引き受けられるだろうか」。

杜さんは、花蓮慈済病院の初代院長、杜詩綿(ドゥ・スーミエン)医師の夫人である。皆は敬意を込めて「杜ママ」と呼んでいる。日本と台湾の間を頻繁に行き来していた彼女は、時には日本に見学に行く慈済志業体の人員に同行し、また、静思精舎を訪問する日本人に付き添うこともあった。

当時の慈済日本支部は、東京に設立して間もなかったが、事故に遭ったり病気になったりした台湾人旅行者を支援するだけでなく、定期的に路上生活者のケアも行っていた。杜さんが、ボランティアの活動記録と慈済志業の紹介を日本語に翻訳したことを報告した時、證厳法師は、日本語の刊行物があれば、日本の人々に慈済を紹介するのに便利ではないだろうかと提案した。「日本の人は文庫本に慣れており、ポケットに入れて、いつでもどこでも読んでいます」。すると證厳法師は、「では、どうやって小さいサイズにすればいいかを考えてください」と指示した。杜さんは、その時初めて證厳法師の意図に気付いた。法師は、その役目を自分に引き受けてほしいと言っているのだった。
 
それは一九九六年のことだった。彼女は七十歳で、どこから始めたら良いのか、全く見当がつかなかった。ただ、おぼろげに覚えているのは、それから間もなくして羅美麗(ロー・メイリー)さんと陳靖蜜(チェン・ジンミー)さん、そして三宅教子さんも参加してくれるようになったということだ。「彼女たちがどのようにして現れたのかは覚えていないのですが、その時はとても嬉しかったです。必要な時に、必要な人が来てくれたのです」と彼女は首を傾げながら、微笑んで言った。

「どうやって始めたらよいかと悩んでいたところへ、彼女たちはまるで菩薩のように現れたのです。皆、日本語の基礎がしっかりしていました。特に三宅先生は日本人なので、私たちを指導するには最もふさわしい方でした」。彼女たちを主力として、一九九六年五月十五日、日本語版月刊誌『慈済ものがたり』の創刊号が発行された。

日本語版月刊誌『慈済ものがたり』は、32折り(B6)判、112ページでポケットサイズである。(撮影・陳忠華)

プロとアマチュアが協力し合う

最初の日本語ボランティアチーム(以下、日本語組)の勉強会は、台北市忠孝東路にある旧慈済台北支部の応接間だった。皆、最新号の月刊誌『慈済』と、隔週発行の新聞『慈済道侶』から、最適な記事を選んで翻訳した。その内容は主に證厳法師の開示、慈済の活動内容、ボランティアの体験談などだった。

杜さんは、自分は日本で育ったので、中国語の基礎が弱く、最初の頃、分からない時は娘さんに聞くか、辞書でその意味を調べなければならなかったと語った。幸いなことに、羅さんと陳さんの協力のもとに、三人で互いに原稿を校正し合い、最後に三宅先生に直してもらったそうだ。

羅さんと陳さんは、慈済に出会ってから、自主的に日本語組に参加した。そして、創刊号の少し前から会社の経営者であった陳植英(チェン・ヅーイン)氏が参加するようになり、第二号から正式なメンバーになった。一九九二年に日本語版『静思語』出版の際の協力者だった陳絢暉(チェン・シュエンフェイ)氏は、このプロジェクトに多くの提案をしてくれた。三宅先生が仕事の関係で『慈済ものがたり』の編集に専念できなくなったので、山田智美さんを推薦してくれたのも彼だった。日本大学中国語学科を卒業した山田先生は中国語が堪能で、他の人との交流も全く問題なかった。彼女は原稿の校正と編集職員になった。その後、子供の教育のために日本に帰国した後も、毎月の原稿の校閲作業を続けてくれた。

日本語組に参加する人が増えるにつれ、プロ編集者の協力も得られるようになったことで、翻訳の質も量も段々と向上した。公務員を退職した高碧娥(ガオ・ビーオー)さんは、当時、日本語のタイピングができる数少ないボランティアの一人で、全員の手書きの原稿を持ち帰ってタイプしていた。すでに七十歳になっていた杜さんも、娘さんに教えてもらいながら、ワープロの操作と入力を学び始めた。

原稿は山田さんがリモートで校閲をしてくれているとはいえ、毎週火曜日の勉強会での翻訳学習は、誰が主導したら良いのだろうか?日本語組では年長者が一時的にこの重責を引き受け、黒川章子先生が登場するまで交代で教壇に上がって指導した。

杜さんは、「黒川先生は台湾に嫁いだ日本人です。皆に翻訳の指導をしてくださるだけでなく、月刊誌の校正もしてくださいます。彼女は本当に頑張ってくれていて、大変だと思います。感謝を申し上げたいです」と言った。

日本語組の先生役は、三宅さん、山田さん、黒川さん以外にもう一人、日本天理大学の金子昭教授も引き受けてくださったことがある。金子先生は台湾に滞在した三カ月の間、日本語組を指導しただけでなく、慈済の研究にも投入し、さらに『驚異の仏教ボランティア──台湾の社会参画仏教「慈済会」』を著し、彼が理解していた慈済を紹介した。

「金子先生の推薦で、多くの日本の学識者や団体が、慈済を理解しようと台湾に来るようになりました。先生の本は、慈済を理解しようとしていた日本の人にとても大きな影響を与えたと思います」と黒川さんが言った。

日本語版月刊誌『慈済ものがたり』の勉強会は、毎週火曜日に行われ、先輩が後輩を導いて、一字一句吟味しながら校閲した。(撮影・林鳳琪)

翻訳を通して仏教の世界に触れる

創刊当時の頃を振り返り、杜ママは、證厳法師と人文志業の王端正(ワン・ダンヅン)執行長から「日本語月刊誌を引き受けて、ストレスになっていないですか」とよく尋ねられたことを思い出した。その実、ストレスに思ったのは最初だけで、新たなチャレンジに直面しながらも、ボランティアたちは皆、楽しく勉強し、毎月の出版の前は、逆に無私の喜びを感じるようになった。

二〇〇五年には、慈済人文志業センターが関渡に移転し、日本語組勉強会の場所も引っ越した。多くのメンバーにとっては前より少し遠くなったが、それでも互いに切磋琢磨する機会を大切にしている。二、三十年が経過するうちに、髪の色がグレーからシルバーになった人もいれば、若い世代が参入してくれる一方、もちろん、先にこの世を去る人もいた。変わらないのは、謙虚で礼儀正しい気質、翻訳文を議論する熱心さ、そして勤勉でエネルギッシュな活力である。

彼らが一緒に耕してきた成果は、『慈済ものがたり』を定期的に発行してきたことだけでなく、日本からの訪問者の案内、解説などの任務にも現れていた。そして「杜ママ」は、六十八歳から始まって今、九十八歳になっても、常に頑張り続けているのだ。彼女こそが日本語組の生きた歴史であり、精神的なガイドでもある。「この機会を与えてくださった證厳法師にとても感謝しています。そしてパートナーたちのサポートにも、感謝以外に適切な言葉が見つかりません」。

一人の主婦から翻訳者になった彼女はこう語った。

「以前の私は、仏門の外でぼんやり立っているだけでしたが、日本語版月刊誌がその扉を開いてくれました。おかげさまで、一歩一歩仏教の境地に入るに従って、やっと仏様にお会いできた喜びを感じました」。

(慈済月刊六九二期より)

心した翻訳

日本語版月刊誌『慈済ものがたり』の翻訳ボランティア群像

作者:呉惠晶
出版:慈済伝播人文志業基金会
コールセンター:+886-28989000 内線 2145

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