光復郷仏祖街の保安寺は、災害から一カ月後に元の状態に修復され、再び灯明が灯された。
花蓮県光復郷は、馬太鞍(ファタアン)渓せき止め湖の溢流による泥流で、甚大な被害を被った。かつて栄えた製糖産業の中心地は、再び世の脚光を浴びることになった。
高齢社会が稀な複合災害に遭遇しても、平均年齢七十歳を超える地元の慈済ボランティアや認知症ケアセンターの高齢者たちは、まだまだ元気に自宅や日常生活の再建に頑張っている。
花蓮県光復郷は、日本統治時代には馬太鞍(ファタアン)と呼ばれ、鳳林郡に属していた。その後、人口増加により、日本統治終了後、一九四七年に「光復(失われた主権を取り戻す)」郷と名付けられた。
光復郷一帯には、二十世紀の台湾の史跡が数多く残っている。花蓮観光製糖工場がその中の一例である。さらに、近くの鳳林鎮には有名な林田山森林文化園区がある。しかし、時代の変化、国際市場での激しい競争、政府の政策や法律の変更により、製糖業と林業はそれぞれ終焉を迎えた。産業の衰退と共に光復郷も衰退し、他の郊外の多くの町や村と同様に徐々に周縁化されていった。
今年(二〇二五年)九月二十三日、台風十八号「ラガサ」の周囲を取り巻く気流の影響により豪雨が発生し、馬太鞍渓のせき止め湖が溢流した。洪水となった流れにより馬太鞍渓橋が破壊され、大量の土砂が光復郷の市街地に流入し、畑を覆い、家具や財産に損害を与え人命を奪った。その後、十月二十五日の光復節まで、「光復」という二文字が頻繁にニュースに登場し、注目を集めるようになった。
超高齢社会の縮図
光復郷には現在、認証を授かった慈済ボランティアが五人おり、平均年齢は七十歳を超えている。ベテランボランティアの王秋豆(ワン・チュウドウ)さんは、慈済に投入して二十二年になる。この五人のボランティアの年齢は、光復郷では珍しくないのだ。
国連の定義によると、六十五歳以上の人口が総人口の二十%に達すると、超高齢社会とみなされる。内政部の二〇二五年十月の統計によると、台湾の高齢者の割合は十九・九%で、超高齢社会に突入しようとしている。
二〇二五年十月の花蓮県政府民政処の統計によると、光復郷の六十五歳以上の人口は三千二百五十六人で、総人口の二十八・五%を占めている。即ち、十人に三人弱が高齢者であることを意味しており、台湾全体の高齢者の割合よりも高く、他の周縁化された町や村と同じである。
幸いなことに、光復郷は花蓮県の中心都市である花蓮市から列車で一時間以内の距離にあり、医療資源や雇用機会には恵まれている。
慈済ボランティアの王愛喜(ワン・アイシー)さんの子供と孫たちは皆、光復郷の学校に通っていた。彼女は慈済の仕事で、よく光復郷一帯の学校を訪れている。少子化と学校の衰退は、この年齢の彼女にとっては非常に具体的かつ深刻な問題なのだ。
今年七十歳になった彼女は花蓮県出身で、花蓮県立光復小学校に通っていた頃を振り返ると、千人以上の生徒がいたと言う。しかし今、光復小学校の公式ウェブサイトによると、二〇二五年九月現在、同校には百四人の生徒しかいない。六十年前と後の学校の状況を目の当たりにしてきた愛喜さんは、私たちが十倍の違いを示す数字からの感じとはかけ離れた格差を感じるという。
王秋豆さん(左)は、自宅の裏に慈済リサイクル拠点を立ち上げた。幸いにも汚泥被害に遭うことはなかった。災害後、王愛喜さん(右)と共に様々な支援活動に投入し、現在も整理されていない大量の回収物が置かれてあった。
八十代高齢者の一日
秋豆さんは、過去のことを掘り下げるつもりはないようで軽く語った。十二歳の時に父親が亡くなって、小学校を卒業後、様々な仕事をし、大人になってからも衣料品やタバコ、酒類、雑貨の販売など様々な商売に挑戦した。彼女が思い出す数々の出来事の中で、特に心を揺さぶられた数少ない出来事の一つは、二十四年前、台風八号(トラジー)が光復郷を襲った時のことだった。後に彼女が師と仰ぐ證厳法師が被災状況の視察に光復を訪れ、秋豆さんの家の前を通りかかった時、彼女に声をかけたことがある。
「おいで、おいで、慈済の志業に参加しましょう!」 秋豆さんは当時の法師の口調を真似て、笑顔で言った。秋豆さんは法師が来るとわかるととても恥ずかしくなり、家の中に逃げ込んで隠れてしまった。当時の彼女はまだ慈済に入っていなかったが、被災地に駆けつけ、慰問してくれた慈済ボランティアたちに深く感動していた。彼らは迅速かつ的確に行動してくれたと感じただけだが、その後、彼女は自主的に、慈済ボランティアたちにトイレを貸したり、荷物を玄関の外に置いてもらったりした。
秋豆さんは車の運転ができないため、夫の何光雄(ホー・グオンシュン)さんの送迎で訪問ケア活動に参加していた。近年はご主人も運転しなくなったため、定期的に活動に参加することはできなくなったが、彼女はあい変わらず個別案件の最初の訪問を手伝っている。
「慈済玉里連絡所での当番を辞めようと決めたのは、今年になってからです。もう八十歳で以前より体力が衰えているからです」と秋豆さんはゆっくりと言った。「まずは私たちの地域を守ることにします」。
秋豆さんは現在、主に花蓮慈済の「楽智教室(高齢者ケア拠点)」と光復郷のリサイクル活動に投入している。以前慈済に参加した後、彼女は自宅にリサイクル拠点を設け、家にいて慈済の仕事ができることを望み、そうやって二十年以上もリサイクルの仕事をしてきた。花蓮楽智教室は、花蓮慈済病院が運営している認知症ケア拠点である。衛生福利部が推進する地域密着型の組織で、認知症の高齢者に寄り添い、認知機能向上活動や昼食の提供をしている。
「午前中は拠点の掃除をして、参加者が授業を受けている時は、私たちも一緒に勉強します」。午後、秋豆さんは資源の回収や分別を行い、自転車でリサイクル品を載せていく。
慈済エコ福祉用具チームは11月上旬、光復郷の慈済楽智教室に電動車椅子を届け、高齢者がいつでも借りられるようにした。
認知症ケア拠点の再開
光復郷中山路二段にある花蓮慈済病院の楽智教室は、毎週月曜日から金曜日までオープンしており、午前と午後に花蓮から講師を招いて授業をし、介護スタッフが学習活動の計画を立てている。昼は弁当を提供し、持ち帰って家で食べてから、午後、また授業を受けに来る高齢者もいる。拠点に残る高齢者は、食後に自分で持ってきた折りたたみ椅子を出したり、壁に寄りかかったりして、目を閉じて休憩する。
教室のスペースは広くなく、授業が受けられるのは十人までで、現在、固定メンバーは八人いる。認知症の高齢者を介護するのは容易ではない。介護スタッフの林宜璇(リン・イーシュエン)さんは、「秋豆おばさんと瑞霞おばさん、そして軽度認知症の高齢者たちが手伝ってくれています」と言った。
林さんは、小児科の看護師として働いていたが、高齢者の看護専門ではない。開始直後はプレッシャーがあったそうだ。しかし、現場のボランティアと認知能力の比較的高い高齢者が、喜んで授業の秩序維持に協力してくれた。一年間仕事してきて、林さんも次第に作業のテンポに慣れ、教室の高齢者たちに溶け込んだ存在となっている。
馬太鞍渓せき止め湖溢流災害の後、拠点内部は深刻なダメージを受けた。ドアや窓が壊れ、高齢者が以前の授業で作った作品は全て流されてしまった。教室は一カ月間の運用停止を余儀なくされたが、林さんはそれまでと同様、毎日家庭訪問や電話訪問を続け、高齢者の状况を把握した。彼女が温かく感じたのは、時折高齢者がいつまた授業を受けられるのかと尋ねることだった。それは、高齢者が拠点を楽しみにしている場所であり、通いたいと思っていることを表している。二○二五年十一月一日、拠点は、慈済修繕チームの努力で再開され、高齢者たちもいつもの場所に戻ってきた。
教室が設立されてから約八年間、講師と高齢者たちは何年も一緒にいるので、既に単なる奉仕する側とされる側の関係ではない。コミュニティ講師の黃秀婷(ホワン・シュウティン)さんは、每週水曜日の午前の授業を担当しているが、彼女の家族は海外に住んでおり、両親のそばに付き添うことができない。そのため彼女は、教室で高齢者と接するたびに償うことができたように感じると言った。
花蓮慈済楽智教室が11月初めに再開されると、高齢者たちは嬉しそうに戻ってきた。電動カートを使ったり、家族に送迎してもらったり、またはコミュニティ巡回バスの送迎で来ている。
楽智教室の講師の陳宥安さん(右二人目)は高齢者に健康ティーバッグの作り方を教え、介護スタッフの林宜璇さん(左三人目)は傍らで説明を手伝っていた。
生活のギャップは埋め合わせを待つ
光復郷に古くからある保安寺は、百年以上の歴史を持ち、地元の漢民族の信仰の中心地で、人々の記憶に残る場所でもある。王愛喜(ワォン・アイシー)さんは、幼い頃にそこへ歩いて来た時のことを振り返った。以前は亡くなったご主人と一緒にそのお寺でボランティアを担当し、独居高齢者への配食を手伝っていた。秋豆さんは、慈済に参加する前、よく保安寺で様々なボランティアをしていた。「私たちは悩み事があると、仏様に話しかけるのです」と言った。
二○二五年十月二十八日、災害から一カ月後に私たちは保安寺を訪ねた。寺内の汚泥は既に取り除かれ、仏像とお供え物用の机は綺麗になっていたが、まだ清掃中の神像や修繕工事の作業は続いていた。しかし、寺の外は一面まだ灰色の土砂で覆われ、元は青々とした田んぼだったが、今は工事現場のようで、作業車両と砂利がある以外は荒れ果てたままだった。
数多くの住宅も修繕が必要だった。ある家は、電器製品が被害を受け、ドアや窓が壊れていたことと、よく見られる状況として、水道管が詰まっていた。光復郷の多くの古い家は伝統的な淨化槽を使用している。汚泥は家に流れ込むと同時に淨化槽にも流れ込んだ。陳お爺さんの便器は、汚泥が詰まって使用できなくなっていた。慈済修繕ボランティアの陳重光(チェン・ツォングォン)さんとチームメンバーが、全体の状況を判断した後、詰まり具合と今後の排水問題が解決しにくいことを考慮し、新しいトイレを作ってあげることに決めた。
陳お爺さんのように修繕が必要な家は決して少なくない。また一部の人たちはまだ、廃棄処分となった車や機械、電気製品等のローンの債務を抱えている。目に見えないが、このような確実に存在する困難やストレスは、被災後の光復郷の人々が毎日直面している問題である。以前の日常に戻るのはまだ先のようだ。
修繕ボランティアの高惟瑛さん(右)と陳維延さん(左)は修繕した家で湯沸かし器をテストしていた。10日間も経たないうちに、トイレの床タイルから壁までを磨き上げ、浄化槽、シャワー設備を次々と完成させた。
人口は老化しても活力がある
公式資料によると、光復郷の人口は過去四十年間、年々直線的に下がっており、一九八五年の二万人余りから、今では一万一千人余りになっており、ほぼ半減している。
都市への人口集中が進む現代において、光復郷は明らかに高齢化が進んでいる地方だが、活力が失われたことを指しているのではない。なぜなら、そこに住んでいる多くの人たちは、今も毅然として暮らしているからだ。
花蓮慈済楽智教室に参加している高齢者を例に挙げると、認知症の疑いや軽度認知症と診断されていても、相変わらず日々をしっかりと過ごしている。彼らは積極的に授業を受け、新しい事を学び、失敗を恐れず、進んで人々とも付き合い、交流しているのだ。
慈済ソーシャルワーカーとボランティアの緊急配付とその後の訪問ケアという取り組みに同行した私は、仏祖街の民衆が賃貸した家や借りた田んぼ、農機具を失い、今は友人の家に身を寄せているのを目にした。しかし、彼らは生活や孫の世話をするために、今でも他人の田んぼで耕作してお金を稼いでいるのだ。
八十歳の秋豆さんも誠実に、每日慈済の仕事をしている。体が老いているのは分かっているが、まだやりたいことはある、と言う。「上人は、『さあ、一緒に慈済の志業に参加しましょう』と言いました。上人がまだ一歩一歩着実に歩み続けているのに、私はもうついていけないような気がしています」。
「どうすればいいか分かりません。もう歳ですから。上人はよく、『間に合いません、間に合いません』と言われますが、仕方ありません。無理をせず、できることをしています」。
彼女は最後にこう言った。「心を一つに協力すれば、私たちにできなくても、他の人たちがやってくれます。精一杯やればいいのです。次の瞬間に何が起きるかは、誰にも分かりません」。
(慈済月刊七〇九期より)


