火災発生の翌日、午後になっても建物からはなお断続的に濃い煙が立ち上っていた。この火災は43時間後に完全に鎮火し、2千人以上の消防士が投入された。(撮影・牟晏瑩)
鼻を突く刺激臭と天を衝く炎が住民の心を打ち砕き、消防士の家族に不安を与えた。夜の闇の中で見守る慈済ボランティアは、必ずケアと支援を届けると誓った。
十一月二十六日午後、香港・大埔区にある高層マンション群「宏福苑」の一棟から火災が発生した。火の手は外壁補修工事のための足場を伝って上方へ広がり、強い季節風に煽られて周囲の六棟へ延焼した。発生から三時間のうちに、小規模な火災は最も深刻なレベル5に分類される火災へと拡大した。
暗闇の中、高層階は激しく燃える炎に包まれ、地上では無数の人々が最も焦燥感に駆られた一夜を過ごした。住民の余さんは、住居の扉や窓を固く閉め切っていたため、火災警報の音にまったく気づかなかったそうだ。妻からの電話で避難を知らされ、携帯電話と身分証明書、財布、鍵だけを手に、逃げるのが精一杯だった。一九五一年、余さんが生まれた年にも香港九龍の東頭村で大規模火災が発生し、数千戸を焼き尽くして一万人余りが家を失った。香港史上最も大きな災害である。あれから七十四年後、彼は再び、壊滅的な大火災に遭遇したのだ。
火の勢いが激しさを増す中、フラワーアレジメントが得意な劉松蓮(リュウ・ソンリェン)さんは、たまたま大埔近くへ花の材料を仕入れに行っていた。彼女は住民ではなかったが、気が気でなかった。というのも、息子が二人とも消防士で、長男はすでに火災現場に入っていたからだ。「規定では兄弟が同じ区域で任務に就くことはできません。長男の担当区域は九龍でしたが、すぐに新界・大埔へ応援に回され、次男と同じ区域になったのです。それだけ被害が深刻だったということです。家族のグループチャットがあるのですが、明け方まで無事だという連絡が来ませんでした……」。
火災現場は封鎖線が張られ、多くの避難所や病院では被災者への綿密なケアが行われた。被災地近くに住んでいる慈済のボランティアたちは、現場に近づけるかどうかも分からなかったが、ただ一つ、関心を寄せなければならないことだけは分かっていた。警戒区域の外で待機し、支援できるあらゆる可能性に備えた。「中に入れなくても構いません。住民に必要とあれば、いつでも居ますから」。それがボランティアたちの最初の思いであり、その後二週間にわたって眠る間も惜しんで続けられた支援活動の原点となった。
大樹の下から二つの机まで
宏福苑は築四十二年のマンション群で、三十一階建ての建物八棟から成り、総戸数は千九百八十四戸である。最近、外壁の補修工事が行われていて、施工用の足場が燃え出すと、保護ネットは延焼防止機能を果たすことができなかった。更に、ガラス扉や窓を保護するために覆っていた発泡スチロールはもっと可燃性が高く、窓ガラスが割れて炎が室内へと燃え広がった。火災は翌朝になっても完全には鎮火せず、八棟のうち宏志閣のみが、風向や距離の関係で、そして消防隊による放水活動によって被害を免れた。
十二月二十日時点の集計では、この火災による死者は百六十一人に上り、香港政府は、犠牲者一人につき遺族へ二十万香港ドル(約四百万円)の慰問金を給付した。また、被災世帯に、取り急ぎ一戸あたり一万香港ドル(約二十万円)の緊急支援金を、その後、十万香港ドル(約二百万円)の生活補助金を追加で給付した。さらに香港政府は、千戸余りの住宅を確保し、被災者の一時的な住まいとして提供した。
慈済香港支部執行長の施頌鈴(スー・ソンリン)さんはボランティアチームを緊急招集した。災害発生から二十四時間以内に慰問金の配付を決定したが、関係当局からの具体的な回答はまだ得られなかった。「避難所への立ち入りは許可が出ていませんが、被災者登録用の書類を準備し、飲料水や乾パンを持って、警戒区域の外で被災者の安否を気遣いました」。
宏福苑前の公園では、人々が花束を手に、静かな面持ちで園内を巡り、手向けて心から追悼の意を表した。一方で、行方不明となった家族を捜すため、必死に捜索チラシを配る住民の姿もあった。
ベテランボランティアの黄錦秀(フワン・ジンシュウ)さんは、「私たちは一律、慈済の制服を着て、避難所から出て来た被災者を見かけると声をかけ、夜になると冷え込むので、毛布やマフラーを用意して配りました」と言った。或る買い物から帰宅した直後に火災に遭った被災者は、二日経っても、身に着けているのは、逃げた時に着ていた薄手の上着のままだった。
「彼らから被災した経緯を聞き、苦しみの深さと命の無常を痛感しました。厳しい状況にありながらも、彼らは生き延びたことに感謝していました。私たちはその苦しみに耳を傾け、抱きしめたいと思いました。そして、もっと多くのことをすべきだと感じました」。十一月二十八日、香港政府が被災者カードの発行を開始したことを受け、「これ以上待つことはせず、被災者カードに基づいて慰問金の申請登録を始めることを決めました」。
十一月二十九日、ボランティアは慈済の支援内容を公表した。その内容は、「十二月六日と七日に九龍塘にある慈済香港支部において、犠牲者家族には一世帯あたり二万香港ドル(約四十万円)、被災世帯には一世帯あたり五千香港ドル(約十万円)を贈呈すること。また、油麻地・彌敦道にある慈済大愛中医クリニックで、同日から十二月三十一日まで、被災者および最前線で救助に当たった人員に対し、無料で診療を行っている」等々である。
香港政府は、火災現場に最も近い馮梁結記念中学校の校舎を借り、避難者の受け入れや被災者カードの申請、各種給付の手続きを行った。出入りは被災者のみに限られ、ボランティアは校舎の外の木の下に立って、見舞金の受け取りを希望する被災者の登録を受け付けていた。それを見た一人の男性が近づいてきて、「これでは皆さんが大変でしょう」と声をかけてくれた。彼はボランティアを校舎の二階に案内し、受付用に机を二つ用意してくれ、政府のケアチームのボランティアも、被災者を案内して記入を手伝ってくれた。黄さんは、「その後、被災者が次々と訪れ、机も二つから三つ、四つに増やし、支援の動線がようやく円滑に回り始めました」と語った。
チームは屋内外で同時に受付作業を進めた。中には情報の記入をためらう被災者もいたが、ボランティアは慈済の委員証を示しながら丁寧に説明し、少しずつ信頼関係を築いていった。その後、被災者が自主的に隣人に声をかけ、被災登録をするよう知らせる場面もあった。
ボランティアは11月27日午前、再び宏福苑周辺を訪れ、影響を受けた住民を見舞った。(撮影・牟晏瑩)
ボランティアは慰問金配付リストの作成を進めた。緊急の経済支援にとどまらず、被災者が抱える恐怖や喪失感に寄り添っていきたい。(撮影・姚加偉)
助けを求める電話は一本も取りこぼさない
「慈済の支援情報が主要SNSプラットフォームで発信されると、一時間も経たないうちに支部の電話は鳴りやまなくなりました」と、慈済支部の職員で、慈済委員でもある馬子愉(マー・ヅーユウ)さんが言った。第一線で被災者リストを作成し、内部の事務にも対応していたが、人手が足りなかった。被災者が一刻も早い支援を求めていることを感じると同時に、助けを求める電話を一本も取りこぼしたくないとの思いから、同じく慈済委員である母親に助けを求めた。「ベテランボランティアの皆さんはすぐに加わってくださり、一時間以内に静思堂に集まってくれました」。
大埔の現場で記録した内容は、すべてコンピューターに入力して整理する必要があったので、若いボランティアたちは仕事を終えるとすぐに静思堂へ戻り、朝から深夜十二時まで作業を続け、それが何日も続いた。被災者リストの作成が終わると、被災者に通知を出したが、七十件のメッセージを送信した時点で、システムは詐欺の疑いがあると検知し、通信は二十四時間遮断されてしまった。配付日が目前に迫る中、ボランティアたちは必死に解決策を探した。やがて一人のマーケティング会社の企業家と連絡が取れ、さらに通信ソフトウェアの専門家ともつながった。面識はなかったが、二人は即座に協力を申し出てくれたお陰で、一日で二千件のメッセージを送信してくれ、費用をすべて負担してくれた。
配付当日、受付担当のボランティアは当初、この業務は比較的単純だと考えていた。ところが、五組のスタッフが交代で持ち場を離れて涙を流すほどの状況となった。梁曉霖(リャン・シャオリン)さんは、「被災者が入って来た時の表情には疲労と不安が現れていて、ご家族は無事ですかと声をかけると、多くの方がその場で涙を流していました。家を失い、家族を亡くし、ペットも亡くした方もいて、私たちは向き合いながら良いこともつらいことも直接受け止め、そのたびに一緒に涙を流しました。皆さんは複数の慈善団体を回り、亡くなった家族の葬儀や諸手続きに追われていて、気持ちを吐き出す時間などほとんどなく、体調を崩しても病院に行く余裕すらない状況だったそうです。静思堂に来ると、少しゆっくりすることができたようです。会場では慈済人医会の医師による診療と心のケアも行っていました」と語った。
ボランティアの余嘉進(ユー・ジャージン)さんは専門のソーシャルワーカーである。政府や社会福祉団体はすでに支援体制を立ち上げているものの、被災者数があまりにも多いため、各種補助を申請するのに何度も列に並び、書類を記入しなければならず、被災者は心身ともに疲弊している様子を見て取った。
「皆さんはすでに疲れ切っていたので、私たちは、彼らの負担を少しでも減らすことはできないだろうかと考えました」。その後、慈済の第二段階の支援計画では、政府の「一世帯に一人のソーシャルワーカー」制度と連携し、担当ソーシャルワーカーと直接協力することで、被災者が何度も行き来する必要のない支援体制を整えた。
ボランティアは、フリップボードで被災者に慈済の支援内容を分かりやすく伝えた。(撮影・姚加偉)
ボランティアは被災者の利便性を考えて、多くのNGOが集まった場所に登録受付を設置した。(撮影・呂美慧)
生存者の幸運と心の傷
記憶を再びあの最も長かった一夜へと戻そう。慈済委員の劉さんは、ボランティアチームと共に火災現場の外で待機していた。「鼻を突く刺激臭と天を焦がすような炎に、強い衝撃を受けると共に、息子のことがとても気がかりでした。ですが、泣いているわけにはいきません。責任を引き受け、慈済人としてやるべきことをやろうと思いました」。
帰路の途中、炎の勢いがさらに激しさを増しているのを目にして、彼女は耐えがたい思いに苛まれた。「家に帰ってからは一晩中眠れませんでした。翌日、次男には用心を怠らないようにと伝えました。彼も火災現場で捜索活動に当たっていたのです。幸い、私は慈済に参加していて、事が起きてからずっと忙しくしていたおかげで、不安な気持ちを祈りに変えることができました」。
数日後、劉さんの長男が帰ってきた。「息子は、私が心配するから、滅多に仕事のことを話しません。その日、息子は三回火災現場に入ったそうです。それが彼の使命であり、仕事ですから、とても勇敢に立ち向かいました。息子は、『私たちの励ましこそが、何よりの支えだった』と話してくれました」。
高齢の被災者の余さんは、数日後に静思堂を訪れて、慰問金を受け取った。彼はボランティアに、「生き延びることができたのは、本当に奇跡です。幸運だったと感じる一方で、犠牲になった人たちのことを思うと、悲しくなります」と言った。
被害の影響を受けた千九百世帯のうち、慈済の支援は九割以上に及んだ。これは、香港支部が設立されてから三十二年間で、最大規模の災害支援となった。執行長の施さんは、「現金での支援は、あくまで緊急の措置です。心理的な傷が回復するまでには、まだ長い時間がかかります。縁があって、彼らに寄り添いながら、この困難な時期を共に乗り越えていきたいと願っています」と語った。
(慈済月刊七一〇期より)


