災害から4日後も、多くの地域は水に浸かったままだった。慈済ボランティアは北スマトラ州デリ・セルダン県の或るモスクで、食糧が不足していた村人たちに温かい食事と米、飲料水を手渡した。(撮影・朱嘉銘)
食糧供給の休止、道路の寸断、停電が発生し、緊急援助は極めて困難になった。ボランティアは、知恵を絞ってあらゆる交通手段を利用し、世界から孤立した村々に物資を届け、人々の命を支えた!
一般的に、赤道に近いマラッカ海峡では、熱帯低気圧は稀にしか発生しないが、サイクロン・セニャールはその通説を覆すかのように、二〇二五年十一月二十六日、百四十年ぶりにインドネシアに上陸した。そのため、スマトラ島北部では何日も極端な大雨が続いたことで更に大きな脅威がもたらされ、河川の氾濫や土砂災害が発生し、交通量の多い主要幹線道路が泥水で寸断された。
今回のサイクロンはアチェ特別行政区、北スマトラ州、西スマトラ州に甚大な被害をもたらした。インドネシア国家災害管理局(BNPB)の十二月中旬の統計によると、千二百人以上が死亡か行方不明となり、五十一万人が自宅から避難し、三百三十万人が影響を受けた。これは単なる数字ではなく、数百万人の生活が一瞬にして崩壊した現実を物語っている。
スマトラ島は河川と渓谷の多い山岳島だが、森林伐採により水土保全機能が損なわれ、メダン周辺地域は豪雨による泥流で壊滅的な状態である。(撮影・レオ リアント)
スマトラ島の山岳地帯では、橋や道路が寸断され、パダンの慈済ボランティアは、様々な方法でアカン県など山奥の被災地まで出向き、物資を補給した。(撮影・ピピ・スサンティ)
停電した民家で炊き出し
スマトラ島北部最大の都市メダンは、人々がひっきりなしに行き交う商業の中心地だが、一時は町全体が冠水した。市街地は麻痺し、濁った泥水が商店や住宅に流れ込んだ。突然の洪水で、住民の多くは荷物をまとめる間もなく、慌てふためいて臨時の避難所に行ったが、浸水した自宅に留まる人もいた。
災害が発生してからの二十四時間は、停電によって生活が混乱に陥った。この混乱の中、メダン在住の慈済ボランティア、郭春霞(グォ・チュンシャ)さんの家は、二十八日午前九時にボランティアの打ち合わせが終わると、そのまま急遽臨時の公共厨房に変わった。「本当に緊急事態でした」と郭さんは当時の状況を振り返り、緊張した声で言った。「全てのボランティアが直ちに行動を起こし、食材を仕入れて調理しました」。
慈済は、三十数カ所で臨時公共厨房を設置し、数千食のお弁当を作り、ボランティアたちが腰まで泥流に浸かりながら、歩いて温かい食べ物や米、ボトル入りの水を届けた。カンプン・バル村では、六十四歳のヌライニさんが、孫を連れてモスクの片隅に身を寄せ合っていた。彼らはすでに三日間まともに食事をしておらず、近所の人たちが持ち出していたわずかなパンで空腹を満たしていた。ボランティアが温かいお弁当を差し出した時、ヌライニおばあさんは声を震わせ、「本当にありがとうございます。水も電気も止まり、電線もショートし、あらゆる設備が壊れて、家に帰れないのです…」と気丈に答えた。
ボランティアは、サロン(伝統的な腰布)や衣類、清掃用具などの物資をメダンの市街地と、デリ・セルダン県、タンジュン・ムリアなど周辺地域に届けた。デリ・セルダン県のクルンパン・ケボン村では、慈済の物資輸送隊が到着すると、多くの住民が水に浸かりながら列を作り、リレー方式で物資を運んだ。或る若い母親は、温かい食事を受け取った時、瞬時に涙があふれた。「食料が尽きてから私たち一家は二日間、何も食べていません。アッラーに感謝します。やっと誰かが助けに来てくれたのです!」と言った。
雨が止んで、水が引くと、被災地の衛生状態が急速に悪化し、避難所では皮膚病、下痢、風邪などが蔓延し始めた。慈済は直ちに医療支援を開始したが、その道のりは容易ではなかった。南タパヌリ県では、バタン・トルへ続く山道の多くの箇所が土砂崩れで通行止めになり、重機で瓦礫を撤去しないと通行出来ない状態だった。ボランティアは軍隊や警察と協力し、車で列を成して四時間半、泥だらけの山道を揺れながら進み、やっと医薬品や物資を届けることができた。
避難所には三つの村の約六百人の住民が避難していた。避難所の掲示板には、五十六戸の家屋が全壊したと書かれており、悲しいことに、依然として多くの人が行方不明になっていた。
慈済人医会のハリ・ケスムア医師は、高齢者を診察し、下痢や皮膚のかゆみを抑える薬を処方した。「彼らは家を失い、食料と医薬品を切実に必要としています。被害はとても深刻で、彼らの負担を少しでも軽減してくれていることに大変感謝しています」。
荷物の運搬にジップラインと小型ボートを活用
人々は、泥濘の中でもがきながら生き延びようとする一方、災害の後の厳しい現実にも向き合わざるを得なかった。サイクロン・セニャールによる豪雨は、わずか三日の間に数百ミリの降雨量を記録し、当地の月間平均降水量をはるかに上回り、さらに長年の人為的な開発が洪水と土砂災害のリスクを一層高めていた。
インドネシア最大の環境NGOであるWALHIは、二〇一六年から二〇二五年の間に、スマトラ島北部で約百四十万ヘクタールの森林が伐採され、農園や鉱物採掘のために開発されたというデータを示した。森林という天然のスポンジ層を失ったことで、雨水は土壌に吸収されにくくなり、むき出しの地表を一気に流れ落ち、破壊力の強い土石流を引き起こすのである。このことも、極端な豪雨が降ると、多くの村が急速に土石流にのみ込まれ、道路や通信設備も破壊される理由を説明している。
北タパヌリ県と中タパヌリ県、及びシボルガ市では、複数の地域で道路が通行止めとなり、世界から隔離された「陸の孤島」の様子を呈した。これらのアクセスが困難な甚大被災地では、陸上輸送が機能しなくなったので、慈済は軍と協力して、四千枚のタオル、衣類、ビニールマット及び数百箱の即席麺とミネラルウォーターを梱包し、ヘリコプターで空中投下して被災者に届けた。
アチェ州ビルン県のクタブラン町では、増水した渓流によって橋が流され、対岸の住民は、避難した時から持っていた食糧が底をつき、逃げる時に着ていた服がずぶ濡れで残っているだけだった。ボランティアと救援隊員はジップラインを設置し、食糧と物資を一箱ずつ滑空させながら、対岸で焦りながら待つ人々の手元へ届けた。
アチェ特別自治州では、数十万人の住民が避難所での生活を余儀なくされ、清潔な飲料水や食糧が不足していた。ピディ・ジャヤ県は州都バンダ・アチェ市から約二百二十キロ離れているが、洪水が大量の泥と倒木を巻き込んで民家を襲い、二十人が犠牲になった。物資配付拠点の一つであるコット・ガドン村のモスクは避難民であふれていた。夜は寒く、蚊が大量発生していたので、人々は直ちにボランティアが届けた毛布や衣類で寒さを凌いだ。
更に山奥にあるクアラ・シンパンでは、状況がより深刻だった。食糧が完全に底をつき、清潔な水もなく、住民はSNSを通じて外部に助けを求めるしかなかった。メダンのボランティアたちは、なんとかして緊急援助ができないかと知恵を絞り、陸路が通じないならと水路を選んだ。十二月三日、ボランティアの楊樹清(ヤン・シューチン)さんらがチームを編成し、メダンから車でパンカラン・スス港へ向かい、大型の船に乗り換え、さらに浅瀬まで入れる小舟に乗り継いで、ついに何日も孤立無援だった住民のもとへ、満載した物資を届けることができた。
連日の寄り添い支援で、ボランティアと被災者は互いに感謝し合った。すべての物資は愛のリレーなのである。(写真提供・慈済インドネシア支部)
午前四時に物資を届けた
メダン市とテビン・ティンギ市、パダン市、バンダ・アチェ市のボランティアたちは支援活動を続け、避難所と公共厨房、清潔な飲料水を提供する給水タンクの設置を支援した。十二月中旬になっても、被災地の光景はなお衝撃的だった。アチェ・タミアン県のカラン・バル町では、洪水が引いた後の痕跡が、まるでシュルレアリズムの絵画を思わせる様子を描いていた。流された車が塀に引っかかり、道路は数十センチの泥に覆われ、スキッドステアローダーやブルドーザーが轟音を立てて撤去作業を行っていた。多くの避難所では、水がないため体を洗えず、人々の体にはいまだ泥の跡が残っていた。
先の見えない状況にあっても、人々の間に秩序と助け合いが形成されつつある様子が見られた。支援に参加したボランティアの中には、自身も被災した人が少なくなく、家族の無事を確かめると、自分よりも一層困難な状況にある人々を優先し、奉仕して助けることを選んだ。
パダン市の慈済人は、車で往復二十三時間かけて十二月四日午前四時三十分にアガム県パレンバヤン郡に到着し、山奥に位置するため通信が困難で救援資源が不足していたこの村に、物資を届けた。
住民は自分たちで共同厨房を設置した。また、一世帯ずつ七千インドネシアルピアを拠出し、地域の清掃と道路の復旧作業をする住民に毎日報酬を支給した。食糧と赤ちゃん用おむつ、燃料、衣類に加え、慈済が持ち込んだ発電機は、現地の電力が正常に回復するまで共同厨房で使われる予定である。
災害によって生まれた助け合いと回復力は、インドネシアのこの地で今も維持されている。被災地の交通はまだ復旧しておらず、道路には泥が残っており、清掃が待たれるが、緊急援助が一段落したので、慈済は橋の修復を支援すると共に、政府と協力して安全で住みやすい恒久住宅の建設にも取り組んでいる。災害後復興への道のりはまだ遠いが、島であっても孤立しているわけではない。慈済は、家を再建したいという被災者に寄り添い、支え続けていく。
(慈済月刊七一〇期より)


