母は、洗濯の仕事で得られる収入では、私を大学に通わせることはできないと言った。しかし、慈済は私の人生を変え、手が届かないと思っていた夢を叶えさせてくれた。
2013年、非常に強い台風30号がフィリピンに大きな被害をもたらした。慈済ボランティアは、甚大被災地レイテ島オルモック市の現地調査を行った。(撮影・博麗妮)
私の名前はマリセル。フィリピンはレイテ島のオルモック市で、六人兄弟の五番目として生まれた。父は私が幼い頃に亡くなり、母が洗濯の仕事で生計を立ててきた。雇い主がよく変わるので、収入は限られ、次のご飯が食べられるのかどうかも分からないのが常だった。
私は、小学四年生の頃からお金を稼ぐために働き始めた。週末に母と一緒に雇い主の家に行って洗濯や草取りをし、学校が休みの日にも毎朝八時から午後五時までサトウキビ畑で働き、給料をすべて母に渡していた。暑い時、その仕事は一層辛さを増したが、私は歯を食いしばって耐え、母の負担を少しでも軽くすると同時に、学校を卒業したいと願った。
二○一三年に強い台風三十号(ハイエン)がオルモック市を襲い、フィリピン近代史上で最も多くの犠牲者が出た災害となった。強風は私の家の竹と漆喰でできた壁を倒して、ヤシの葉とプラスチックの波板でできた屋根を吹き飛ばし、私たち一家四人は、テ―ブルの下で身を寄せ合って風雨を凌いだ。前の晩の食事が鍋に残っていて、雨水に浸かってしまったが、生きていくために食べることにした。
「家がなくなったら、夜はどこで寝ればいいのだろうか」。家の建て替えは、私たちにとって非常に難しい事だ。当時私は十四歳で、元々休学してアルバイトで生計を支えていたのだが、台風の後は仕事がなくなった。地方で仕事をしていた姉も収入が多くなかったので、家計の助けにはならなかった。まさに絶望のどん底にいた時、慈済ボランティアが私たちのコミュニティに来た。まるで家族のように温かく励まし、暗闇に光を照らすように、私たちに生活を立て直す勇気と力を与えてくれた。
二○一五年、慈済の支援建設によるオルモック大愛村が完成し、入居が始まった。自分が安心して住める家を持って、これ以上あちこちに引っ越さなくてもよくなるなど、私はそれまで一度も思ったことはなかった。以前は家族全員が一つの部屋に寝ていたし、夜になると一台の石油ランプの明かりだけが頼りだった。新居に引っ越してからは、自分の部屋があり、初めて家で電気が使えるようになった。夜間に宿題をする時にも照明があるので、目を悪くすることもなくなった。私にとって、その灯りは希望の象徴であり、明るい未来を照らしていて、一生懸命勉強する意欲を高めてくれた。
私にも人助けする力があったのだ
ある日、慈済が大愛村で配付活動を行っていた時、ボランティアが心からの誠意を以て敬意を表し、腰をかがめて食糧を村人に差し出していた光景が深く印象に残った。彼らは与える側でありながら、頭を下げる人でもあるのだ。そのような善良さと謙虛さに私は感動した。
その中には、ユニフォームをきちんと着用した若者たちがいて、整然として規律正しくしていた。彼らの振る舞いは一般の村人とは大きく違い、礼儀正しい上に愛を携えており、週末には大愛村でリサイクル活動をしたり、村の年長者を助けたりしていた。私は初めて、若者がコミュニティで無私の奉仕をしているのを見た。そして、自分も彼らと同じようになりたいと望んだ。これが、私が慈青の道を歩み始めたきっかけだった。
私と慈済青年ボランティアたちは、大愛村での家庭訪問、環境の緑化、リサイクル活動、緊急災害時の配付などをしたり、クリスマス休暇中は招かれて讃美歌を歌ったりもした。また、受け取った寄付金で米と野菜を買い、村で最も助けを必要としていた人に届けたこともある。何回かの奉仕を通じて、私は共感と慈悲を体得し、それまでになかった喜びに心が満たされた。たとえ、貧しい家庭の出身であっても、私には他人に希望を与える力があるのだ。
二〇一七年から慈済基金会の奨学金を受給し始め、中学校を修了する頃から高校卒業まで継続した。母から、洗濯の仕事で得られる收入では、私を大学に通わせるのは無理だ、と言われたことがあるので、高校を卒業した時、私は将来に不安を感じていたが、慈済はすべてを変えてくれた。手が届かないと思っていた夢を叶えてくれたのだ。
当時、慈済の李偉嵩(リー・ウェイソン)おじさんが、「證厳法師が、あなたたちに台湾の慈済大学で勉強するチャンスを与えてくださったのです。全額奨学金だけでなく、毎月の生活手当も支給します」と言った。彼はまた、「この世界はとても広く、違う国で新しい文化や言葉を学べば、将来自分が成長するだけでなく、もっと多くの人を助けることができるようになるのです」と言った。あの日、私は家に帰ると泣いてしまった。大学に行く夢が叶うチャンスに出会ったからだ。
私たちは先ずマニラで三カ月間、中国語のレッスンを受けた。二〇一九年に台湾へ来ると、慈済大学中国語センターで一年半、中国語を勉強した後、私はメディア学部に進学した。
2015年、オルモック大愛村が完成し、マリセル一家は水道と電気と自分の部屋がある新居に引っ越し、彼女も慈済青年ボランティアに参加した。(写真提供・マリセル)
机の前に座って涙を流した日々
故郷を離れて大学に進学するのは容易なことではない。というのも、学習する上で言葉の壁が大きく立ちはだかったからだ。あの頃、私は每日よく眠れず、いくら努力しても成績は伸びなかったので、授業が終わって寮に戻ると、机で泣いていたものだ。偉嵩おじさんが忙しいのは知っていたが、ある日我慢できなくなって、おじさんに電話をかけた。「授業の内容が理解できないので、単位を落とすかもしれないのが心配です」。
おじさんは、「もし不合格になったら、先生にあなたの学習状況を説明してあげるよ。もう一度チャンスをくれるよう頼むから、君はただ頑張って勉強を続ければいい。あまり心配しないで!」と答えてくれた。
おじさんの励ましを聞いて、私は学習上の困難に勇敢に立ち向かえるようになった。その時、二○一八年に台湾でグローバル慈青キャンプに参加した時のことを思い出した。私は初めて、たくさんの人の前で、フィリピン・オルモックの青年ボランティアを代表して話をすることになったので、とても緊張して脚は震え、唇は真っ白になっていたら、幸いにも偉嵩おじさんが私と一緒にステージに上がり、静かに後ろに立ってくれた。
偉嵩おじさんはまるで父親のような存在だ。私が困難に直面した時に助けてくれる。「どんな問題に直面しても、決して軽々しく諦めず、勇敢に乗り越えよう!」といつも私を目覚めさせてくれる。
その時から、私は授業に行くのを怖がらなくなった。私は真剣に先生が教えていることに耳を傾け、寮に戻るとその日の授業内容を何度も繰り返し復習した。幸いクラスにはもう一人、インドネシア人のクラスメートがいたので、私たちは互いに励まし合い、一緒に頑張ることができた!
私はずっと、夢を諦めず、時間を無駄にしてはいけない、と自分に言い聞かせてきた。もし諦めて手ぶらで家に帰ったら、證厳法師がくれた貴重なチャンスを無駄にしたことになる。私がスランプに陥って苦しんでいた時は、家族や慈済の法縁者たちが絶えずサポートしてくれた。また、證厳法師の『静思語』が私を大きく啓発してくれたことに感謝している。
慈済は、私を助けてくれただけでなく、いかにして他人を助け、励ますかを教えてくれた。證厳法師と慈済ボランティアの寛容さは、私の運命を変えただけではない。おかげで私は、将来自分の力で社会に恩返しをしたい、と発願することができた。彼らが私を助けてくれたように、見返りを求めず、もっと多くの人を助けたいのだ。今、私はフィリピンに戻り、慈済眼科施療センターに勤めている。私は證厳法師の教えを胸に、もっと多くの人と分かち合い、慈済を知ってもらいたいと思っている!
(慈済月刊七一〇期より)
マリセルは2019年に台湾の慈済大学中国語センターで中国語を学び、一年後、メディア学部に進学した。2025年6月に卒業し、7月にフィリピンに戻ると、慈済フィリピン眼科施療センターで働き始めた。(写真提供・マリセル)


